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.第6章 大学1年、前期

137 新入生歓迎会(2)

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「ひゅーひゅー、何だ何だ?」
「え、なに、カップル成立?」

 周りの賑やかさが遠くに聞こえる。
 唖然としたままの私の眼前から、慶次郎が離れて行く。

 ……え?
 ………ええぇ?
 今……今……。

「--これで証明になりました?」

 慶次郎が静かに言うと、溝口さんは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
 私はただ、慶次郎の横顔をぽかんと見つめていた。
 やや垂れがちな目は、今は溝口さんを睨むように見ている。
 質の硬い黒髪。高い鼻梁。薄い唇。
 --あの唇が、今ーー

「……そういうことなら、仕方ないな」

 ため息をついて、溝口さんが離れて行く。今までの人のよさそうな笑顔は何だったんだろうってほど冷たい表情で、「マジ興ざめだわ」と周りに毒づいていく。
 呆然としたままの私に、慶次郎がまた舌打ちをした。

「……おい、こら。お前、自分がどういう状況だったか分かってーー」

 言いかけた慶次郎がはっとする。私の視界は、涙で歪んでいた。

「ちょ、ちょっと待て橘。た、立てるか? 少し外に行こう」
「う、うう、うぅぅ……」

 慶次郎に支えられて、私はぐずぐず鼻を鳴らしながら部屋の外へ出た。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、足もふわふわしていた。
 ほろ、と涙が目からこぼれたら、もう次から次にあふれて来る。

 なに、これ。泣きだしたら止まんない。なに、これ。

「た、橘。おい……大丈夫か?」

 うっく、ひっく、と嗚咽する私の肩を、慶次郎が困りながらさすっている。
 周りから「なんだ、どーした」とわやわや声があがったけど、慶次郎が背中で私を隠すようにしてくれた。

「っく、う、ふ、うぅっ……」
「くそ、ハンカチねぇや。おい、橘……」

 慶次郎が自分の袖で私の涙を拭ってくれる。
 私はぼろぼろ泣きながら、なされるがままだ。

「だ、だって、だって、だって……」

 分かってる。慶次郎が助けてくれたことも、あのままじゃきっといいように触られていたことも、私が拒否しきれなかったであろうことも。
 分かってる。
 分かってるんだけどーー

「は、初めてだったのにぃぃ……」

 押し付けられた唇。嫌じゃなかったけど、嬉しくもなかった。
 ドキドキすることも、何も、何もーー

「慶次郎のばかぁあああ」

 私は慶次郎の胸を叩き、そのまま慶次郎のシャツで涙を拭う。
 慶次郎が慌てたように手を出して、私の肩に触れるか触れないか、ぎりぎりのところで止めていた。

「ごーーごめんーーでも」
「うぇえええん分かってるよ馬鹿ぁあああ」

 そうだ、そうなの。分かってる。馬鹿なのは私だ。
 美穂ちゃんのーー新しくできた友達の誘いとはいえ、のこのこ来て、飲むつもりもなかったお酒まで飲まされて、慶次郎に助けられてーーほんと情けない。自分の身一つ守れずに、何がオトナにならなくちゃ、だろう。
 今までさんざん、いろんな人に助けてもらってきたんだ。知らない内に、守ってもらってたんだ。
 そう痛感して、自分の幼稚さが悔しくて、でもやっぱり……

「初めてだったのにぃいぃい」

 悔しい。悔しすぎる。
 こんなことなら、あの日、無理やりにでも栄太兄にキスしとくんだった。ドライブに行ったあの日、栄太兄はうろたえてたから、強引に近づけばきっとできただろう。
 手を繋いだくらいで浮足立っていた私が恨めしい。
 こんな、こんな、こんなーー
 こんなファーストキスなんて、想像してなかった。

「たちば……」

 慶次郎が私を呼びかけ、ためらったように止めた。
 胸の中で泣く私を、ぎゅうと抱きしめる。
 後ろでまた歓声みたいな声が聞こえた。
 慶次郎の心臓が、どきどき言ってるのが聞こえる。何でそんな、どきどき言ってるの。ちょっと、ていうか、あーちゃんどうしたのよ。私にキスなんかして、抱きしめて、そんでーー

「礼奈」

 低い声で、慶次郎が私を呼ぶ。その瞬間、何かがぱしんと繋がったような感じがして、涙が引っ込んだ。

「け、いじろ」
「ごめん。--悪かった」

 腕の中に抱え込まれて、慶次郎の顔が見えない。でも、慶次郎が私のことを必死で守ろうとしてくれているのは分かった。私は身体の力を抜く。慶次郎の腕の中は、思った以上にあたたかくて、居心地がよかった。

「……落ち着いたか?」
「落ち……着いた」
「……帰る、か?」
「うん……」

 かえる、と頷いたら、慶次郎がほっとしたように腕を離した。
 私を見下ろす垂れ目が、見たこともないくらい優しく細められている。
 ……あーちゃんには、こういう顔を見せるんだろうか。
 不意によぎった後輩の笑顔に、ちくんと胸が痛む。

「すみません。俺たち、帰ります。-ーお代、必要なら」
「え? あー、いいよいいよ。なんかあれでしょ、溝口がやりすぎたんでしょ。いいよ、帰んな。逆にさっといなくなってくれた方が嬉しい。みんなテンション下がるし」

 責任者らしい先輩がそう言って、ひらひらと手を振った。私の席に置いてきたままの鞄を、慶次郎が取りに行ってくれた。
 トイレに行こうとスリッパに足をつっかけた美穂ちゃんが、ちら、と私を見る。

「礼奈ちゃんさ、どういうつもり? マジ、無いよね。紹介したうちの顔も潰す気? 大学の新歓っつったらこういう感じだって、普通分かんじゃん。ガキじゃあるまいし」
「ごめ……」
「行くぞ」

 美穂ちゃんの後ろから現れた慶次郎がそう言って、私に鞄を渡した。美穂ちゃんは舌打ちしてトイレへ向かう。私はその背中を見て、ため息をついた。

「荷物、これだけか? 他にはある?」
「ううん……ない。大丈夫」

 慶次郎は頷いて、「じゃあ、お先です」と声をかけて歩き出した。私もうつむいたまま、頭を下げてそれについていく。
 店を出ると、もう外は真っ暗だった。ワイワイと酔っぱらった人たちの声がするのを聞きながら、とぼとぼと歩いて行く。
 ぽん、と頭に大きな手が乗った。

「気にすんな。あと、あんな女と友達になんのはやめとけ」
「うん……そうする」

 うつむいたまま歩いていたら、またほろりと涙が溢れてくる。慶次郎が困った顔で手を伸ばしかけ、ポケットに突っ込む。
 私はゆっくり、息を吐き出した。
 びっくりした。情けなかった。
 急に世界が広がって、見たこともない人と出会って。たった数時間の出来事なのに、痛感させられた。
 私は今まで、どれだけぬくぬくとした温室で育ってきたのか、ってことを。
 かばんからハンカチを出して顔に押し当てながら、私は慶次郎の袖に手を伸ばす。
 服をつまむと、慶次郎がびくりと肩を震わせた。

「慶次郎……ごめん……ありがと」

 慶次郎は何か言いたげな目をしたけれど、「ああ」と頷いたきり、黙っていた。
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