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.第7章 大学1年、後期
163 健人の留学
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「本当に送らなくていいのか?」
「いいよ、一人で行けるから」
健人兄の発つ前日の夜、私たちは家族五人揃って、家で夕飯を食べることにした。
父が健人兄にリクエストを聞いて用意したのは、和食ばかりだ。
あじの開き、雑穀米入りのご飯、ホウレンソウの白和え、煮物、あさりのお吸い物、箸休めのキュウリの浅漬け。
珍しいなと言った父に、健人兄は「だって、こういう和食食べられるとこなかなかないでしょ」と笑った。寿司の類はたぶん向こうでもあるだろうと言って、父も「まぁな」と苦笑する。
母が横から言った。
「とりあえず、イギリス行ったら中華かイタリアンよ」
かく言う母も、ジョーさんのだいぶ前に、ロンドン勤務を経験しているらしい。
私は思わず苦笑した。
「……イギリス料理がおいしくないって、ほんとなの?」
「フィッシュアンドチップスはイケるわ」
「他は?」
悠人兄の重ねた問いに、母は何も言わず微妙な表情を浮かべている。
健人兄はそれを見て笑った。
「ま、失敗も含めて楽しんで来るよ」
「その気持ちがあれば大丈夫だろ」
父も頷いた。
「色んな人がいるから、多少高くても日本食もあるだろうし」
「あるある。醤油とかも売ってる。高いけど」
「あとは、住人と相性がよければいいな。ホストペアレンツ、慣れた人たちなんだろ」
「うん。各国からの留学生、いつも2、3人受け入れてるらしい」
「仲良くなれるといいな」
「大丈夫でしょ、健人なら」
父と母と健人兄が交わす会話を、悠人兄と二人で黙って聞く。
なんだか今になってようやく、実感が湧いてきた。
それは私だけじゃなくて、悠人兄も同じだったらしい。はー、と息を吐き出すと、「そっかぁ、健人、行っちゃうのかぁ」と箸を片手にぽつりとつぶやいた。
健人兄が笑う。
「何、今さら寂しくなっちゃった?」
「うーん、というか、なんだろう。現実味が湧いてきて」
私が悠人兄の言葉にうんうんと頷いていると、健人兄が「お前もか」と呆れた顔で苦笑する。
悠人兄は、何か考えるようにビールを口に運んでいたけれど、不意に覚悟を決めたように健人兄を見つめた。
「健人」
「んー? 何?」
健人兄はといえば、明日までお酒が残っても何だからと、ほどほどのところでジンジャーエールに切り替えている。悠人兄は真剣な目で、健人兄に言った。
「礼奈はちゃんと、俺が守るからね」
思わぬ発言に、私はぽかんと言葉を失う。
「は? な、何言ってんの?」
戸惑っている私を差し置いて、健人兄が笑い始めた。
「あはははは、俺、兄さんのことも心配してんのよ。変な女にひっかかんないかな、とか」
「大丈夫だよ。……たぶん」
「心配だなぁ」
健人兄が言いながら、缶ビールを手にして悠人兄の方に差し出す。悠人兄は中身が減っていることに気づいて、黙って差し出した。
「サンキュ」
「ん。――父さんも」
「ああ」
父もグラスを開けて健人兄に差し出す。母がそれを、ちょっと寂しそうな目で見ていた。
***
ご飯を食べた後、私は先にお風呂に入った。
男三人は、お酒を片手に雑談を続けている。
私がお風呂から上がったとき、ちょうど男子会は終わったらしい。後片付けをする悠人兄と健人兄が笑いながら話しているのをぼんやりと見ていたら、悠人兄が私に気づいた。
「健人も入って来いよ」
「え、いいの?」
「俺は少し酒が抜けてからにする」
「ん、了解」
じゃあお願い、と残りを悠人兄に任せて、健人兄がこちらに来る。
私も二階の部屋に戻ろうと思っていたから、パジャマを取りに部屋へ向かう健人兄の後ろを追う形になった。
階段を登り切ると、私が右手側の部屋、健人兄は左手側の部屋だ。兄がドアノブに手をかけたのが見えて、手を伸ばしたのは無意識だった。
急にシャツの裾を掴まれて、健人兄が驚いたように振り向く。
私も思わず、動きを止めた。
どうして、こんなことしてしまったんだろう。
兄の服の裾を掴んだまま、自分でも困惑する。
「……一緒に寝る?」
不意に言われて、私は思わず眉を寄せた。
「……は?」
「いや、昔、怖い夢見たーとかって、ときどき俺の布団に来てたじゃん」
「……そうだっけ」
そう言ったけど、ほんとは言われて思い出した。そうだった。そういうとき、悠人兄だと揺らしても起きてくれなくて、健人兄はちゃんと、私が寝るまでトントンしてくれたのだ。翌朝になると馬鹿にしてきたけど、そのときは何も言わず、私に添い寝してくれた。
私は忘れていたけど、健人兄は覚えていたんだろう。
そう思うと気恥ずかしくなった。私が健人兄に今までしてもらってきたことを、私は忘れていても、健人兄は覚えているのかもしれない。
顔を上げられずうつむいていたら、健人兄が笑った。
「日頃は『健人兄嫌い!』って泣かれてばっかりだからさ。あのときは、ちょっと嬉しかった」
初めて聞く本音に、思わず顔を上げる。健人兄は微笑んでいた。
「オニイチャンなんて、俺はなれないなーと思ってたから。悠人兄みたいに優しくなんてなれないし、どうやって礼奈を可愛がったらいいか分かんなくてさ。でも、あのときは、俺もちょっとオニイチャンらしくなれてる気がしてた。今はもう、悠人兄は悠人兄、俺は俺だって思えるけどね」
兄の声はびっくりするほど優しくて、照れ臭そうで、胸がぎゅっと締め付けられた。
憎まれ口ばっかり叩き合っていたはずなのに、健人兄はこんなにも、私を想っていてくれたんだ。
「……健人兄」
「なに?」
「ヨーコさんたちのことは、私に任せてね」
健人兄はきょとんとして、それから噴き出した。
「それ、兄さんの真似? はは、まあ、そうな。ときどき、様子見に行って、近況報告でもちょうだいよ」
兄の言葉に、私も笑って頷いた。
そして、それぞれの部屋に入って行く。
翌日、健人兄は留学先へと向かった。
「ときどきは連絡するよ」と言ってたけど、どうだろう。あんまり期待しないでおこうと思っている。
だけど、私はちゃんと、お願いを果たすつもりだ。
ときどき、ヨーコさんたちの顔を見に行って、健人兄に報告する。
一つ、兄の役目を任されたような気になって、ちょっとだけ気分がよかった。
***
月末、結果待ちだった悠人兄の採用試験の通知が来た。
結果は合格。
春から消防士になる兄は、ほっとした様子で卒業に向けて準備を進め始めた。
「気を抜いて卒業できなくなったら本末転倒だぞ」
と笑う父は、内定祝いに外食を提案した。
家族が4人なんて、普通に考えれば別に珍しくも何ともない。
けど、5人に慣れた私には、健人兄のいない食事は、ゆったりしすぎていて、逆に落ち着かなかった。
いてもいなくても関係ないと思っていたはずなのに、家の中は、健人兄がいなくなると途端にがらんとして感じる。
ひとりいなくなっただけでこんなにがらんとするのなら、私たちがみんな巣立ってしまったら、両親はどうするんだろう。
寂しがるのは、意外と父の方かもしれない。
それも、いずれ慣れるんだろうか。
考えていたら、ふと気づいた。
鎌倉の祖父母も、子ども三人を育て上げたのだということ。
家の中で、二人きりになったとき、祖父母はどういう気持ちだったんだろう。
「いいよ、一人で行けるから」
健人兄の発つ前日の夜、私たちは家族五人揃って、家で夕飯を食べることにした。
父が健人兄にリクエストを聞いて用意したのは、和食ばかりだ。
あじの開き、雑穀米入りのご飯、ホウレンソウの白和え、煮物、あさりのお吸い物、箸休めのキュウリの浅漬け。
珍しいなと言った父に、健人兄は「だって、こういう和食食べられるとこなかなかないでしょ」と笑った。寿司の類はたぶん向こうでもあるだろうと言って、父も「まぁな」と苦笑する。
母が横から言った。
「とりあえず、イギリス行ったら中華かイタリアンよ」
かく言う母も、ジョーさんのだいぶ前に、ロンドン勤務を経験しているらしい。
私は思わず苦笑した。
「……イギリス料理がおいしくないって、ほんとなの?」
「フィッシュアンドチップスはイケるわ」
「他は?」
悠人兄の重ねた問いに、母は何も言わず微妙な表情を浮かべている。
健人兄はそれを見て笑った。
「ま、失敗も含めて楽しんで来るよ」
「その気持ちがあれば大丈夫だろ」
父も頷いた。
「色んな人がいるから、多少高くても日本食もあるだろうし」
「あるある。醤油とかも売ってる。高いけど」
「あとは、住人と相性がよければいいな。ホストペアレンツ、慣れた人たちなんだろ」
「うん。各国からの留学生、いつも2、3人受け入れてるらしい」
「仲良くなれるといいな」
「大丈夫でしょ、健人なら」
父と母と健人兄が交わす会話を、悠人兄と二人で黙って聞く。
なんだか今になってようやく、実感が湧いてきた。
それは私だけじゃなくて、悠人兄も同じだったらしい。はー、と息を吐き出すと、「そっかぁ、健人、行っちゃうのかぁ」と箸を片手にぽつりとつぶやいた。
健人兄が笑う。
「何、今さら寂しくなっちゃった?」
「うーん、というか、なんだろう。現実味が湧いてきて」
私が悠人兄の言葉にうんうんと頷いていると、健人兄が「お前もか」と呆れた顔で苦笑する。
悠人兄は、何か考えるようにビールを口に運んでいたけれど、不意に覚悟を決めたように健人兄を見つめた。
「健人」
「んー? 何?」
健人兄はといえば、明日までお酒が残っても何だからと、ほどほどのところでジンジャーエールに切り替えている。悠人兄は真剣な目で、健人兄に言った。
「礼奈はちゃんと、俺が守るからね」
思わぬ発言に、私はぽかんと言葉を失う。
「は? な、何言ってんの?」
戸惑っている私を差し置いて、健人兄が笑い始めた。
「あはははは、俺、兄さんのことも心配してんのよ。変な女にひっかかんないかな、とか」
「大丈夫だよ。……たぶん」
「心配だなぁ」
健人兄が言いながら、缶ビールを手にして悠人兄の方に差し出す。悠人兄は中身が減っていることに気づいて、黙って差し出した。
「サンキュ」
「ん。――父さんも」
「ああ」
父もグラスを開けて健人兄に差し出す。母がそれを、ちょっと寂しそうな目で見ていた。
***
ご飯を食べた後、私は先にお風呂に入った。
男三人は、お酒を片手に雑談を続けている。
私がお風呂から上がったとき、ちょうど男子会は終わったらしい。後片付けをする悠人兄と健人兄が笑いながら話しているのをぼんやりと見ていたら、悠人兄が私に気づいた。
「健人も入って来いよ」
「え、いいの?」
「俺は少し酒が抜けてからにする」
「ん、了解」
じゃあお願い、と残りを悠人兄に任せて、健人兄がこちらに来る。
私も二階の部屋に戻ろうと思っていたから、パジャマを取りに部屋へ向かう健人兄の後ろを追う形になった。
階段を登り切ると、私が右手側の部屋、健人兄は左手側の部屋だ。兄がドアノブに手をかけたのが見えて、手を伸ばしたのは無意識だった。
急にシャツの裾を掴まれて、健人兄が驚いたように振り向く。
私も思わず、動きを止めた。
どうして、こんなことしてしまったんだろう。
兄の服の裾を掴んだまま、自分でも困惑する。
「……一緒に寝る?」
不意に言われて、私は思わず眉を寄せた。
「……は?」
「いや、昔、怖い夢見たーとかって、ときどき俺の布団に来てたじゃん」
「……そうだっけ」
そう言ったけど、ほんとは言われて思い出した。そうだった。そういうとき、悠人兄だと揺らしても起きてくれなくて、健人兄はちゃんと、私が寝るまでトントンしてくれたのだ。翌朝になると馬鹿にしてきたけど、そのときは何も言わず、私に添い寝してくれた。
私は忘れていたけど、健人兄は覚えていたんだろう。
そう思うと気恥ずかしくなった。私が健人兄に今までしてもらってきたことを、私は忘れていても、健人兄は覚えているのかもしれない。
顔を上げられずうつむいていたら、健人兄が笑った。
「日頃は『健人兄嫌い!』って泣かれてばっかりだからさ。あのときは、ちょっと嬉しかった」
初めて聞く本音に、思わず顔を上げる。健人兄は微笑んでいた。
「オニイチャンなんて、俺はなれないなーと思ってたから。悠人兄みたいに優しくなんてなれないし、どうやって礼奈を可愛がったらいいか分かんなくてさ。でも、あのときは、俺もちょっとオニイチャンらしくなれてる気がしてた。今はもう、悠人兄は悠人兄、俺は俺だって思えるけどね」
兄の声はびっくりするほど優しくて、照れ臭そうで、胸がぎゅっと締め付けられた。
憎まれ口ばっかり叩き合っていたはずなのに、健人兄はこんなにも、私を想っていてくれたんだ。
「……健人兄」
「なに?」
「ヨーコさんたちのことは、私に任せてね」
健人兄はきょとんとして、それから噴き出した。
「それ、兄さんの真似? はは、まあ、そうな。ときどき、様子見に行って、近況報告でもちょうだいよ」
兄の言葉に、私も笑って頷いた。
そして、それぞれの部屋に入って行く。
翌日、健人兄は留学先へと向かった。
「ときどきは連絡するよ」と言ってたけど、どうだろう。あんまり期待しないでおこうと思っている。
だけど、私はちゃんと、お願いを果たすつもりだ。
ときどき、ヨーコさんたちの顔を見に行って、健人兄に報告する。
一つ、兄の役目を任されたような気になって、ちょっとだけ気分がよかった。
***
月末、結果待ちだった悠人兄の採用試験の通知が来た。
結果は合格。
春から消防士になる兄は、ほっとした様子で卒業に向けて準備を進め始めた。
「気を抜いて卒業できなくなったら本末転倒だぞ」
と笑う父は、内定祝いに外食を提案した。
家族が4人なんて、普通に考えれば別に珍しくも何ともない。
けど、5人に慣れた私には、健人兄のいない食事は、ゆったりしすぎていて、逆に落ち着かなかった。
いてもいなくても関係ないと思っていたはずなのに、家の中は、健人兄がいなくなると途端にがらんとして感じる。
ひとりいなくなっただけでこんなにがらんとするのなら、私たちがみんな巣立ってしまったら、両親はどうするんだろう。
寂しがるのは、意外と父の方かもしれない。
それも、いずれ慣れるんだろうか。
考えていたら、ふと気づいた。
鎌倉の祖父母も、子ども三人を育て上げたのだということ。
家の中で、二人きりになったとき、祖父母はどういう気持ちだったんだろう。
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