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.第7章 大学1年、後期

168 後期の始まり(1)

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 9月末。夏休みは明けて、後期の講義が始まった。
 最初の一週間は登録期間だから、興味のある講義に出席するのだけど、英語は一年を通して必修科目になっているので、クラスも継続だ。
 久々にハルちゃんに会えるなぁ、なんて歩いていたら、後ろから声をかけられた。
 振り向くと、慶次郎が小走りに近づいてくる。

「おはよ」
「おはよ。もしかして、電車一緒だった?」
「うん」

 頷かれて苦笑する。慶次郎とは乗った駅も一緒のはずだ。小説を読んでいたから、気づかなかった。

「声かけてくれればよかったのに」
「うん。なんか集中してたから、悪いかなと思って」

 慶次郎はそう微笑んだ。
 あれ、なんか前までと違う。自然体っていうか、力んでないっていうか。
 でもそれは、嫌な感じじゃなかった。
 じっと見上げていたら、慶次郎はちょっと戸惑ったようにまばたきをして、一瞬目を泳がせた。

「……何?」
「ううん、何でもない」

 ふるふる首を振ると、くくった自分髪が左右に揺れた。頬に当たる髪に、ふと自分で毛先をつまんだ。

「伸びたな」
「うん。そろそろ切ろうかなぁ」
「何で? 似合ってんじゃん、ポニーテール」

 当然のように降って来た言葉に驚いて顔を上げる。慶次郎が気まずそうに目を逸らした。

「……そんな驚かなくてもよくね?」
「だって」

 髪を伸ばし始めた頃、確か慶次郎に何か言われたような気がしたのだ。いくら色気づいても、チビバナはチビバナだ、みたいなことを。

「……悪かったよ」

 慶次郎が呟くように言って、私は黙ってその横顔を見上げた。

「だってお前……全然、俺に……いや、同級生とか、興味なさそうだったし……一人だけ意識してんの、すげぇ悔しくて……」

 尖らせた唇から、ぽつりぽつりと本音が零れる。私は思わず噴き出した。

「慶次郎ってば、そんなこと思ってたの?」
「う、うるせーな。仕方ねーだろ」

 私に言い返す慶次郎は、動揺を隠すように不満げな表情をしているけれど、よくよく見れば顔が赤い。私は笑いながらその腕を叩いた。

「やぁだ、かぁわいぃー、慶ちゃんってば」
「なっ、んだよそれ、くそっ」
「ちょっ、やめてよ、髪がぐしゃぐしゃんなる!」
「してんだよ! ったく、ひとりでスカしやがって……!」

 ぐしゃぐしゃ頭を混ぜられて、私がその手をつかて睨み上げると、慶次郎はさも楽し気に笑う。
 私も唇を尖らせたけど、それでも自然と笑顔が浮かんだ。

「もー!」
「いい気味」

 慶次郎が笑う。私がちょっと強めにその背を叩くと、「痛っ。暴力女」とまた文句が降って来る。
 キャンパスの敷地に足を踏み入れたとき、後ろから声がした。

「おはよー!」
「あっ、ハルちゃん。おはよ」

 振り向くとハルちゃんがいて、私はぱっと顔を輝かせる。慶次郎が私とハルちゃんを見比べ、「俺、先行くな。また後で」と手を挙げた。私は頷いて、去ろうとした慶次郎に声をかける。

「そだ、慶次郎。今日、ご飯買った?」
「いや? まだだけど」

 これから大学生協で買おうと思った、と言う慶次郎に、私は笑う。

「今日、私持って来たから。来週は慶次郎ね」

 慶次郎は驚いたような顔をしてから破顔した。

「それマジだったの。冷食詰めるだけでもいい?」
「いいけど……ちょっとくらいがんばってみようとか思わないの?」
「黒焦げのからあげよりマシだろ」

 慶次郎はそう去りかけてふと歩調を緩め、振り向かずに一言、

「……まあ、黒焦げでも何でも、俺は食うけど」

 ぽつりと言って、大股で去って行った。

「……私、焦がしたりしないもん」

 その背中を見送りながら、私は呟く。
 どっちかっていうと、生焼けの方があり得そう、だけど。
 ――私が何を作っても、食べるってことなんだろうな。
 不器用なりに素直な慶次郎の言葉にひとり照れていると、ちょんちょん、と肩をつつかれた。
 振り向くと、追いついたハルちゃんが、いつものようにひざ下丈のワンピース姿で立っている。
 その顔がにやけているように見えて、思わずうろたえた。

「なんや、少し距離が縮んだ感じやね? こないだまでは友達~って感じやったけど、すっかりカップルやわ」
「そ、そんなこと……」

 ない、と言いかけて、慶次郎が去った方へ目をやる。
 その背中は、もう見えなくなっていた。

「……そうかも」

 ぽつりと答えると、ハルちゃんが嬉しそうに笑う。

「ふふ、ええなぁ。青春やわぁ」

 詳しく聞かせてや、と言うハルちゃんに手を引かれて、私は困りながら教室へと向かった。
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