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.第7章 大学1年、後期

170 後期の始まり(3)

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 教養科目はだいたい100人規模の講義になるので、使う教室も広い。座席は後ろに行くほど高くなる構造で、私は数段上がった通路側に腰掛け、ノートを広げた。
 今日はこの後2コマ取るつもりだ。ハルちゃんには明日の昼休みに授業の様子を聞かせてあげるつもりでいる。
 私の伝聞で様子が分かれば、それで満足かもしれないし。
 スマホでシラバスを見ながら、明日以降のスケジュールを考えていると、横に人が立つ気配がした。

「隣、開いてる?」
「え、あ、はい――」

 顔を上げて、動きを止める。
 そこに立っていたのは、サークルの新歓で会った溝口さんだった。

「えっ、あの、えっと?」
「あははは、礼奈ちゃんてば驚きすぎ。――で、隣、いい?」

 溝口さんは笑いながらあごで私の隣を示す。
 六人分の椅子と机が一続きになっているから、手前の人が立たないと奥の席には座れないのだ。
 私は戸惑って周囲を見渡す。
 他にも空いてるのに――と、思っているのに気づいたんだろう。溝口さんは笑った。

「え、駄目? もう俺の代の奴いないからさー、知り合いいなくって」

 サークルの後輩もいるだろうに、見え見えの嘘がまた怪しい。
 思わず微妙な表情のまま躊躇っていると、溝口さんが視線を上げて「あ」と声をあげた。
 戸惑いながら見やれば、歩いてきたのは美穂ちゃんだ。
 溝口さんが軽やかに手を振った。

「美穂ちゃーん。ここ、空いてるよ」

 えっ? ちょ、ちょっと。
 うろたえる私に構わず、溝口さんが美穂ちゃんに手招きをする。美穂ちゃんは私と溝口さんの顔を見比べて、戸惑い顔のままゆっくり近づいてきた。
 ここまできたら、断るのも変だろう。仕方なく腰を上げると、溝口さんがにっこりした。

「で、俺ちょっと途中で抜けないといけないんだよね。悪いけど端、譲ってくれない?」
「……」
「あ、その反応ー。いいダシにされた、と思ってる? ひどいなぁ」

 私の白けた視線に、溝口さんがそう笑う。私は黙って、奥の席に詰めた。そのとき、戸惑った顔の美穂ちゃんが近づいてきた。

「どーぞ」

 溝口さんが美穂ちゃんに私の隣の席を示す。美穂ちゃんが私の顔を見た。

「久しぶり。……少し焼けた?」

 私がぎこちなく微笑むと、美穂ちゃんもぎこちなく頷いた。

「うん。……海、行ったし」
「キャンプとか行った? 夏の定番だよねー」

 ほらほらと、美穂ちゃんを押し込むようにして溝口さんが端の席に座る。
 端から、溝口さん、美穂ちゃん、私の順に座ると、美穂ちゃんは溝口さんと私を見比べて、複雑な顔をしていた。

「俺、夏休み中に単位確認したら、教養科目一つ足りなくてさー。大慌てしちゃったよ。このコマだけしか空いてなかったからこれ取ることにしたんだ。午後は向こうのキャンパスで講義あるからちょっと早めに抜けるけど気にせずにね。いやー、知り合いいると心強いね」
「もしかして、代返頼む気満々ですか?」
「あはは、バレた? そうしてくれると助かるなー。俺も就活始まっちゃうし」

 軽い調子で話す溝口さんに、美穂ちゃんが愛想よくあいづちを打っている。
 二人はそのまま、サークルの話を始めた。先輩とジェットスキーに行ったこと、スキューバダイビングに誘われたこと――
 私と美穂ちゃんの気まずさに気づいてるはずなのに――いや、だからこそなんだろうか。溝口さんは全然気にせずマイペースに振る舞っていた。

「いいねぇ。いろいろ楽しむといいよ。あ、でも俺みたいなポカしないようにね。1、2年のうちに取る単位は取っといた方がいいよ」
「気をつけます」
「礼奈ちゃんもね」

 急に話を振られて、私は慌てて頷く。溝口さんが笑ったとき、講師が入って来た。
 講義が始まり、話をやめてそれぞれ前を向く。
 講師は外部から来た若手の研究者で、話はそれなりに面白かった。
 マイク越しの声が教室に響く。もっと大きな教室だと、部屋の間に中継の画面がつくこともあるけど、この講義はそこまでじゃない。遠目に講師の姿を見ながら、レジュメにペンを走らせる。
 残り十分そこそこのところで、「じゃあ」と囁く声がして、溝口さんが席を立った。美穂ちゃんが会釈した頭が見えて、私も顔を上げる。溝口さんは眼鏡越しにぱちんとウィンクした。

「じゃね」

 小さなその声が、何となく私を後押ししているように思えた。
 私が頷き返すと、溝口さんはにこりと笑って手を振り、後ろのドアから部屋を出て行った。
 チャイムが鳴る少し前に、「切りがいいところまで話したので」と講師は講義を終えた。生徒達が身支度を始め、ざわざわという雑音が教室を包む。
 美穂ちゃんが手早く鞄に荷物を詰め始めたのに気づいて、私は顔を上げた。

「……あの、美穂ちゃん――」
「ごめん」

 顔を見ることもなく言われて、私は戸惑う。
 聞き間違えかと思ったとき、立ち上がった美穂ちゃんが私を見下ろした。

「……ごめん。うち、フツーにはしゃぎすぎたかもって思って。ちょっとやりすぎたっていうか……」

 目を逸らした美穂ちゃんは唇を尖らせて、くるくるに巻いた茶色の髪に指を滑らせる。私はそれを見上げて、笑った。

「うん。私もごめん。ありがとう」

 美穂ちゃんがまばたきをする。

「あ、えと。また、話してくれて嬉しい。ありがとう」

 美穂ちゃんは私を見て、困ったように笑った。

「ほんっと、お人よしすぎ。礼ちゃんマジウケるんだけど」

 そう笑ったのは、たぶん照れ隠しだ。そう分かって、私は「そうかな」と首を傾げた。
 それから、美穂ちゃんとは講義の話をした。まだぎこちなかったけど、それも少しずつ、元に戻っていくんだろう、と思えた。
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