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.第7章 大学1年、後期
179 訣別の予感
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安田夫婦と一緒に夕飯を食べ終えたのは、午後八時を過ぎた頃だった。
ジョーさんのテンポよい話にあいづちを打っていたら、あっという間にその時間になってしまったのだ。
ふと時計を見たヨーコさんが「そろそろ帰さへんと、マーシーに怒られるで」とやんわり言って、二人で駅まで送ってくれた。
ヨーコさんと手を繋ぎながら歩いた東京の夜道は、空気がつんと突き刺さるようで、コツコツと鳴るヨーコさんのブーツの音も、ジョーさんの革靴の音も、一緒にいるのに、まるで映画の中みたいだった。
私の右手を取ったヨーコさんだったけれど、ジョーさんがすかさずその右後ろに立ったのは、たぶんヨーコさんを守るためだ。ジョーさんの一つ一つの振る舞いがすべて、ヨーコさんのためなのだと言っていたのは、父だったか、それとも健人兄だっただろうか。
そんなことを思いながら、ヨーコさんの手を握る手に力をこめる。
ヨーコさんが気遣わしげに私を見た。
「礼奈ちゃん。彼とのこと、あんまり、気にしすぎん方がええで。大丈夫、礼奈ちゃんが誰かを傷つけるなんてことない」
「そんなこと……」
私は言いかけて、うつむく。
知らずにはいられないのだ。自分の優柔不断さが、誰かを傷つけることがあること。私は私を守るために、時にそうやって、誰かを犠牲にしている。
ヨーコさんはそれでも、微笑んだ。
「文句を言う人は何でも文句言うねん。礼奈ちゃんが可愛くて、大事にされてるのを僻む子もおるやろ。けど、ずぅっと傍にいようとしてはる子ぉは、覚悟してるはずやで。近くにおって、いつでもフラットな関係で居られることなんて、まず無いんやから」
ヨーコさんの言葉は私には難しく感じた。思わず眉を寄せる。
「……夫婦でも?」
「もちろん、夫婦でもや」
ヨーコさんは笑った。
「さっき、言ったやろ。うちがなーんにもできへんようにして、どうするつもりやろって。なぁ、ジョー」
ヨーコさんは斜め後ろを歩くジョーさんを見上げる。ジョーさんは笑った。
「そうですねぇ。なーんにもできないようになったら、俺ナシじゃ生きられないようになって、俺ばっかりに執着してもらったら、最高ですね。食事の世話から下の世話までしたいくらい」
「ほらな。ただの変態やろ」
ヨーコさんは言って、私の耳に口を近づける。
「でも、ジョーがこんなだから救われてんねん。――うちも大概やな」
囁く声が耳にくすぐったくて、まるで愛の囁きを聞いたようで、暗闇の中、私は顔がほてるのを感じた。
***
家の最寄り駅に着く直前、ふと時計を見ると九時だった。
――もしかしたら、ちょうど慶次郎のバイトが終わる頃かも。
そう思って、ためらいながらスマホを取り出す。
【お疲れさま。バイト、終わった?】
送信ボタンを押して、速度を落とす電車から窓の外を見つめる。暗い夜に煌々と浮き上がる駅のホームは、さすがに人気もまばらだった。
返事はすぐ返って来て、【今終わったとこ】と書いてある。ホームに降りると、電話に切り替えた。
数度コール音がして、慶次郎が出る。『もしもし』と言う声はスピーカー越しだと聞きなれなくて、なんだかくすぐったかった。
「私、今帰って来たとこで……」
『あ、そうなの? じゃ、送ってこうか?』
自然とそう言われて、一瞬たじろぐ。
いつもならまず断って、慶次郎が「気にすんな」と言うところだ。
けれど、こくりと頷いた。
「……うん。ありがとう」
慶次郎はちょっと驚いたようで、一瞬の間の後に『ああ』と声がした。
『じゃあ、改札の前で』
「うん」
私は頷いて、電話を切る。
ほ、と息をつくと、白くたなびいたモヤが暗闇に消えていった。
不意に感じた気恥ずかしさをごまかすように、階段を駆け上がる。
少し乱れた呼吸のまま、改札の外を見ると、ちょうど慶次郎が来たところだった。
兄や父と同じくらいの長身は、遠くから見てもすぐに分かる。バイトの後だからかちょっと疲れているように見えたのに、私を見つけるとすぐに笑顔になった。
軽く手を挙げられ、私も手を振り返す。
ほわ、と心があたたかくなるのを感じた。
「ごめんね、急に」
「いや、別に」
言いながら、自然と私の家へ向かって歩き出す。
その距離は、恋人と言うにはちょっと遠くて、友達と言うには少し近い。
まるで私たちの今の関係を示しているように。
「楽しかったんだな」
「え?」
断定的に言われて、私は戸惑いながら見上げる。
慶次郎は微笑んで私を見下ろした。
「嬉しそうだから。その、親の会社の同僚? って人のとこ、楽しかったんだろ」
私はふにゃりと顔が歪むのを感じた。
慶次郎が「何だよ」と戸惑う。
首を横に振ると、慶次郎の肘を掴んだ。
「何でもない。――でも、なんか悔しい」
「何が?」
「私ばっかり、慶次郎に見破られて、なんか悔しい」
私の台詞を聞くや、慶次郎が笑う。
「だからお前が分かり易すぎるんだっての」
言いながら、慶次郎はいつも通り私の頭を混ぜるように撫でた。
「やめてよ、髪ぐしゃぐしゃになる」
文句を言いながら、私は笑う。慶次郎も楽しそうに笑った。
やっぱり、私は好きなんだと思う。
慶次郎と一緒にいるのも、慶次郎とじゃれ合うのも。
認めたら、少し、楽になった。それに、嬉しくなった。
頭に乗った慶次郎の手を取って、「うりゃ」と手のひらをくすぐる。慶次郎が「何すんだよ」と笑った隙に、するりと指を絡めて繋いだ。
慶次郎はちょっと驚いた顔をした後、私の手を握り返す。
「寒いねぇ」
私は照れ隠しで、そっぽを向いてそう言った。白い息がまた、後ろへと流れて行く。
「そうだな」
慶次郎も短くあいづちを打った。親指で、少しだけ、握った手を撫でられる。その瞬間、またくすぐったさがこみ上げて、慶次郎の手をくすぐり返した。
「こら、何すんだよ」
「慶次郎が先にくすぐったんじゃん」
「くすぐってねーよ」
笑って、文句を言い合って。
それでも、頭のどこかで、気になっている。
今日、父が栄太兄と会っていること。
でも、それでもいいんだ――そう、初めて思えた。
「慶次郎」
「何」
「ホワイトデーさ」
私は言った。
「観覧車、乗りに行こうよ。横浜の」
慶次郎は不思議そうな顔をした後、「おう」と頷く。
私は頷き返して、前を見た。
その夜、私は父が帰って来る前に眠って、翌日は父が出勤してから目を覚ました。
栄太兄の様子が気になってはいたけど、どうしても聞きたいとも思わない。
それでいいんだろうと思う。
少しずつ、少しずつ、栄太兄から離れて行く――そうして、私は、大人になっていくんだろう。
それが、喜ばしいことなのか、それとも悲しいことなのか、今の私にはまだ、分からない。
ジョーさんのテンポよい話にあいづちを打っていたら、あっという間にその時間になってしまったのだ。
ふと時計を見たヨーコさんが「そろそろ帰さへんと、マーシーに怒られるで」とやんわり言って、二人で駅まで送ってくれた。
ヨーコさんと手を繋ぎながら歩いた東京の夜道は、空気がつんと突き刺さるようで、コツコツと鳴るヨーコさんのブーツの音も、ジョーさんの革靴の音も、一緒にいるのに、まるで映画の中みたいだった。
私の右手を取ったヨーコさんだったけれど、ジョーさんがすかさずその右後ろに立ったのは、たぶんヨーコさんを守るためだ。ジョーさんの一つ一つの振る舞いがすべて、ヨーコさんのためなのだと言っていたのは、父だったか、それとも健人兄だっただろうか。
そんなことを思いながら、ヨーコさんの手を握る手に力をこめる。
ヨーコさんが気遣わしげに私を見た。
「礼奈ちゃん。彼とのこと、あんまり、気にしすぎん方がええで。大丈夫、礼奈ちゃんが誰かを傷つけるなんてことない」
「そんなこと……」
私は言いかけて、うつむく。
知らずにはいられないのだ。自分の優柔不断さが、誰かを傷つけることがあること。私は私を守るために、時にそうやって、誰かを犠牲にしている。
ヨーコさんはそれでも、微笑んだ。
「文句を言う人は何でも文句言うねん。礼奈ちゃんが可愛くて、大事にされてるのを僻む子もおるやろ。けど、ずぅっと傍にいようとしてはる子ぉは、覚悟してるはずやで。近くにおって、いつでもフラットな関係で居られることなんて、まず無いんやから」
ヨーコさんの言葉は私には難しく感じた。思わず眉を寄せる。
「……夫婦でも?」
「もちろん、夫婦でもや」
ヨーコさんは笑った。
「さっき、言ったやろ。うちがなーんにもできへんようにして、どうするつもりやろって。なぁ、ジョー」
ヨーコさんは斜め後ろを歩くジョーさんを見上げる。ジョーさんは笑った。
「そうですねぇ。なーんにもできないようになったら、俺ナシじゃ生きられないようになって、俺ばっかりに執着してもらったら、最高ですね。食事の世話から下の世話までしたいくらい」
「ほらな。ただの変態やろ」
ヨーコさんは言って、私の耳に口を近づける。
「でも、ジョーがこんなだから救われてんねん。――うちも大概やな」
囁く声が耳にくすぐったくて、まるで愛の囁きを聞いたようで、暗闇の中、私は顔がほてるのを感じた。
***
家の最寄り駅に着く直前、ふと時計を見ると九時だった。
――もしかしたら、ちょうど慶次郎のバイトが終わる頃かも。
そう思って、ためらいながらスマホを取り出す。
【お疲れさま。バイト、終わった?】
送信ボタンを押して、速度を落とす電車から窓の外を見つめる。暗い夜に煌々と浮き上がる駅のホームは、さすがに人気もまばらだった。
返事はすぐ返って来て、【今終わったとこ】と書いてある。ホームに降りると、電話に切り替えた。
数度コール音がして、慶次郎が出る。『もしもし』と言う声はスピーカー越しだと聞きなれなくて、なんだかくすぐったかった。
「私、今帰って来たとこで……」
『あ、そうなの? じゃ、送ってこうか?』
自然とそう言われて、一瞬たじろぐ。
いつもならまず断って、慶次郎が「気にすんな」と言うところだ。
けれど、こくりと頷いた。
「……うん。ありがとう」
慶次郎はちょっと驚いたようで、一瞬の間の後に『ああ』と声がした。
『じゃあ、改札の前で』
「うん」
私は頷いて、電話を切る。
ほ、と息をつくと、白くたなびいたモヤが暗闇に消えていった。
不意に感じた気恥ずかしさをごまかすように、階段を駆け上がる。
少し乱れた呼吸のまま、改札の外を見ると、ちょうど慶次郎が来たところだった。
兄や父と同じくらいの長身は、遠くから見てもすぐに分かる。バイトの後だからかちょっと疲れているように見えたのに、私を見つけるとすぐに笑顔になった。
軽く手を挙げられ、私も手を振り返す。
ほわ、と心があたたかくなるのを感じた。
「ごめんね、急に」
「いや、別に」
言いながら、自然と私の家へ向かって歩き出す。
その距離は、恋人と言うにはちょっと遠くて、友達と言うには少し近い。
まるで私たちの今の関係を示しているように。
「楽しかったんだな」
「え?」
断定的に言われて、私は戸惑いながら見上げる。
慶次郎は微笑んで私を見下ろした。
「嬉しそうだから。その、親の会社の同僚? って人のとこ、楽しかったんだろ」
私はふにゃりと顔が歪むのを感じた。
慶次郎が「何だよ」と戸惑う。
首を横に振ると、慶次郎の肘を掴んだ。
「何でもない。――でも、なんか悔しい」
「何が?」
「私ばっかり、慶次郎に見破られて、なんか悔しい」
私の台詞を聞くや、慶次郎が笑う。
「だからお前が分かり易すぎるんだっての」
言いながら、慶次郎はいつも通り私の頭を混ぜるように撫でた。
「やめてよ、髪ぐしゃぐしゃになる」
文句を言いながら、私は笑う。慶次郎も楽しそうに笑った。
やっぱり、私は好きなんだと思う。
慶次郎と一緒にいるのも、慶次郎とじゃれ合うのも。
認めたら、少し、楽になった。それに、嬉しくなった。
頭に乗った慶次郎の手を取って、「うりゃ」と手のひらをくすぐる。慶次郎が「何すんだよ」と笑った隙に、するりと指を絡めて繋いだ。
慶次郎はちょっと驚いた顔をした後、私の手を握り返す。
「寒いねぇ」
私は照れ隠しで、そっぽを向いてそう言った。白い息がまた、後ろへと流れて行く。
「そうだな」
慶次郎も短くあいづちを打った。親指で、少しだけ、握った手を撫でられる。その瞬間、またくすぐったさがこみ上げて、慶次郎の手をくすぐり返した。
「こら、何すんだよ」
「慶次郎が先にくすぐったんじゃん」
「くすぐってねーよ」
笑って、文句を言い合って。
それでも、頭のどこかで、気になっている。
今日、父が栄太兄と会っていること。
でも、それでもいいんだ――そう、初めて思えた。
「慶次郎」
「何」
「ホワイトデーさ」
私は言った。
「観覧車、乗りに行こうよ。横浜の」
慶次郎は不思議そうな顔をした後、「おう」と頷く。
私は頷き返して、前を見た。
その夜、私は父が帰って来る前に眠って、翌日は父が出勤してから目を覚ました。
栄太兄の様子が気になってはいたけど、どうしても聞きたいとも思わない。
それでいいんだろうと思う。
少しずつ、少しずつ、栄太兄から離れて行く――そうして、私は、大人になっていくんだろう。
それが、喜ばしいことなのか、それとも悲しいことなのか、今の私にはまだ、分からない。
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