上 下
183 / 368
.第7章 大学1年、後期

179 訣別の予感

しおりを挟む
 安田夫婦と一緒に夕飯を食べ終えたのは、午後八時を過ぎた頃だった。
 ジョーさんのテンポよい話にあいづちを打っていたら、あっという間にその時間になってしまったのだ。
 ふと時計を見たヨーコさんが「そろそろ帰さへんと、マーシーに怒られるで」とやんわり言って、二人で駅まで送ってくれた。
 ヨーコさんと手を繋ぎながら歩いた東京の夜道は、空気がつんと突き刺さるようで、コツコツと鳴るヨーコさんのブーツの音も、ジョーさんの革靴の音も、一緒にいるのに、まるで映画の中みたいだった。
 私の右手を取ったヨーコさんだったけれど、ジョーさんがすかさずその右後ろに立ったのは、たぶんヨーコさんを守るためだ。ジョーさんの一つ一つの振る舞いがすべて、ヨーコさんのためなのだと言っていたのは、父だったか、それとも健人兄だっただろうか。
 そんなことを思いながら、ヨーコさんの手を握る手に力をこめる。
 ヨーコさんが気遣わしげに私を見た。

「礼奈ちゃん。彼とのこと、あんまり、気にしすぎん方がええで。大丈夫、礼奈ちゃんが誰かを傷つけるなんてことない」
「そんなこと……」

 私は言いかけて、うつむく。
 知らずにはいられないのだ。自分の優柔不断さが、誰かを傷つけることがあること。私は私を守るために、時にそうやって、誰かを犠牲にしている。
 ヨーコさんはそれでも、微笑んだ。

「文句を言う人は何でも文句言うねん。礼奈ちゃんが可愛くて、大事にされてるのを僻む子もおるやろ。けど、ずぅっと傍にいようとしてはる子ぉは、覚悟してるはずやで。近くにおって、いつでもフラットな関係で居られることなんて、まず無いんやから」

 ヨーコさんの言葉は私には難しく感じた。思わず眉を寄せる。

「……夫婦でも?」
「もちろん、夫婦でもや」

 ヨーコさんは笑った。

「さっき、言ったやろ。うちがなーんにもできへんようにして、どうするつもりやろって。なぁ、ジョー」

 ヨーコさんは斜め後ろを歩くジョーさんを見上げる。ジョーさんは笑った。

「そうですねぇ。なーんにもできないようになったら、俺ナシじゃ生きられないようになって、俺ばっかりに執着してもらったら、最高ですね。食事の世話から下の世話までしたいくらい」
「ほらな。ただの変態やろ」

 ヨーコさんは言って、私の耳に口を近づける。

「でも、ジョーがこんなだから救われてんねん。――うちも大概やな」

 囁く声が耳にくすぐったくて、まるで愛の囁きを聞いたようで、暗闇の中、私は顔がほてるのを感じた。

 ***

 家の最寄り駅に着く直前、ふと時計を見ると九時だった。
 ――もしかしたら、ちょうど慶次郎のバイトが終わる頃かも。
 そう思って、ためらいながらスマホを取り出す。

【お疲れさま。バイト、終わった?】

 送信ボタンを押して、速度を落とす電車から窓の外を見つめる。暗い夜に煌々と浮き上がる駅のホームは、さすがに人気もまばらだった。
 返事はすぐ返って来て、【今終わったとこ】と書いてある。ホームに降りると、電話に切り替えた。
 数度コール音がして、慶次郎が出る。『もしもし』と言う声はスピーカー越しだと聞きなれなくて、なんだかくすぐったかった。

「私、今帰って来たとこで……」
『あ、そうなの? じゃ、送ってこうか?』

 自然とそう言われて、一瞬たじろぐ。
 いつもならまず断って、慶次郎が「気にすんな」と言うところだ。
 けれど、こくりと頷いた。

「……うん。ありがとう」

 慶次郎はちょっと驚いたようで、一瞬の間の後に『ああ』と声がした。

『じゃあ、改札の前で』
「うん」

 私は頷いて、電話を切る。
 ほ、と息をつくと、白くたなびいたモヤが暗闇に消えていった。
 不意に感じた気恥ずかしさをごまかすように、階段を駆け上がる。
 少し乱れた呼吸のまま、改札の外を見ると、ちょうど慶次郎が来たところだった。
 兄や父と同じくらいの長身は、遠くから見てもすぐに分かる。バイトの後だからかちょっと疲れているように見えたのに、私を見つけるとすぐに笑顔になった。
 軽く手を挙げられ、私も手を振り返す。
 ほわ、と心があたたかくなるのを感じた。

「ごめんね、急に」
「いや、別に」

 言いながら、自然と私の家へ向かって歩き出す。
 その距離は、恋人と言うにはちょっと遠くて、友達と言うには少し近い。
 まるで私たちの今の関係を示しているように。

「楽しかったんだな」
「え?」

 断定的に言われて、私は戸惑いながら見上げる。
 慶次郎は微笑んで私を見下ろした。

「嬉しそうだから。その、親の会社の同僚? って人のとこ、楽しかったんだろ」

 私はふにゃりと顔が歪むのを感じた。
 慶次郎が「何だよ」と戸惑う。
 首を横に振ると、慶次郎の肘を掴んだ。

「何でもない。――でも、なんか悔しい」
「何が?」
「私ばっかり、慶次郎に見破られて、なんか悔しい」

 私の台詞を聞くや、慶次郎が笑う。

「だからお前が分かり易すぎるんだっての」

 言いながら、慶次郎はいつも通り私の頭を混ぜるように撫でた。

「やめてよ、髪ぐしゃぐしゃになる」

 文句を言いながら、私は笑う。慶次郎も楽しそうに笑った。
 やっぱり、私は好きなんだと思う。
 慶次郎と一緒にいるのも、慶次郎とじゃれ合うのも。
 認めたら、少し、楽になった。それに、嬉しくなった。
 頭に乗った慶次郎の手を取って、「うりゃ」と手のひらをくすぐる。慶次郎が「何すんだよ」と笑った隙に、するりと指を絡めて繋いだ。
 慶次郎はちょっと驚いた顔をした後、私の手を握り返す。

「寒いねぇ」

 私は照れ隠しで、そっぽを向いてそう言った。白い息がまた、後ろへと流れて行く。

「そうだな」

 慶次郎も短くあいづちを打った。親指で、少しだけ、握った手を撫でられる。その瞬間、またくすぐったさがこみ上げて、慶次郎の手をくすぐり返した。

「こら、何すんだよ」
「慶次郎が先にくすぐったんじゃん」
「くすぐってねーよ」

 笑って、文句を言い合って。
 それでも、頭のどこかで、気になっている。
 今日、父が栄太兄と会っていること。
 でも、それでもいいんだ――そう、初めて思えた。

「慶次郎」
「何」
「ホワイトデーさ」

 私は言った。

「観覧車、乗りに行こうよ。横浜の」

 慶次郎は不思議そうな顔をした後、「おう」と頷く。
 私は頷き返して、前を見た。

 その夜、私は父が帰って来る前に眠って、翌日は父が出勤してから目を覚ました。
 栄太兄の様子が気になってはいたけど、どうしても聞きたいとも思わない。
 それでいいんだろうと思う。
 少しずつ、少しずつ、栄太兄から離れて行く――そうして、私は、大人になっていくんだろう。
 それが、喜ばしいことなのか、それとも悲しいことなのか、今の私にはまだ、分からない。
しおりを挟む

処理中です...