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.第8章 終わりと始まり
209 もう離さない
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栄太兄とは、少し周辺を散歩することにした。
大学生の頃、しょっちゅううちに来てはご飯を食べたり子守をしていたから、栄太兄も我が家近辺は懐かしい場所らしい。辺りを見回して、懐かしそうな目をしていた。
さすがに部屋着では外に出られないと、私も着替えを済ませてきた。スーツ姿の栄太兄と並んで歩いてもおかしくない恰好は……と考えて、結局、同窓会のときにも来たワンピースだ。
ものすごく今さらだけど、化粧もして、髪も簡単にセットして。
「おまたせ」と声をかけたら、栄太兄は私を見て、照れたように微笑んだ。
「ほんま、すっかりお姉さんやなぁ」なんて、まだ子ども扱いしているようなことを言うものだから、唇を尖らせたりもしたけれど、少し歩いたとき、「寒いな」と呟いた栄太兄が、すっと手を差し出してきた。
「――手、繋ごうか」
戸惑いながら見上げた先に、栄太兄の柔らかい微笑みを見つけて頷く。
「……うん」
差し出された手に、自分の手をそろりと重ねる。指と指を絡めて繋いだ。
どきん、どきん、と心臓の鼓動が聞こえている。
いつの間にか、栄太兄の手はあったかくなっていて、冷えた自分の指先がじんわりとあたたまっていくのが分かる。
少し触れるだけで、喜びに顔が赤く染まる。
そんな顔を見せたくなくて、「駅の方、行ってみよう!」とぐいぐい手を引っ張った。
「この辺も少し変わったな」
「うん。家とか建て替わったりした」
「こっち行くと公園あったんやなかったか?」
「うん、あるよ。行ってみる?」
確かに風は冷たいけど、日差しはぽかぽかしたいい天気だった。この気候なら、両親もデートを楽しんでいるだろう。
そう思いながら、なんとなく駅に向かって歩いていたら、近くの児童公園の近くまで来た。
栄太兄が公園を見やって懐かしそうに眺める。
「なっつかしいなぁ。しょっちゅうブランコで健人が靴飛ばし過ぎて、よう取りに行かされたわ」
「あー、そうだったそうだった。またか! って、よく走ってたね」
「明日の天気、それで占おうって言いはるのに、結局木に引っかかって訳分からんことなんねん」
「あはは、お兄ちゃん、占いのときは全力で飛ばすんだもん。そうじゃないと神様が教えてくれないんだって」
「そんなん体のいい言い訳やな」
「だと思う」
手を繋いでいてもいなくても、栄太兄との会話はテンポよく流れて行く。
ここで、慶次郎に抱きしめられた夜のことを思い出した。
栄太兄は楽しげに公園を見回す。
そんな姿に、私の頬は自然と緩んだ。
慶次郎と一緒にいたときは、もっと恋人らしくした方が、なんて気になったことも、結局、栄太兄とだと気にならない。
そんな一つ一つのことが、なんだか不思議に思える。
「あ、そうだ!」
私は思い立って、栄太兄ともども駅前にあるリビング用品店へと足を向けた。
手にしたのはシンプルな白い花瓶だ。
私が自分で買おうとしたけど、栄太兄にそっと手を押さえられて甘えることにした。
栄太兄は首をかしげて、「花瓶なんて渋いチョイスやな」と不思議そうにしていたけれど、「うん。さっきのバラの花束、これに生けて、部屋に飾ろうと思って」と言うと、ちょっと驚いた顔をした後で、照れ臭そうに笑った。
「おおきに」
その笑顔に、ふわっとまた、心が温かくなる。
それは、ずっとずっと焦がれていた、私の大好きな笑顔だ。
嬉しくて、嬉しすぎて、ぎゅっと胸が苦しくなる。
つい、昨日までーーそれどころか、今日の午前中まで、こうして隣にいられるだなんて思いもしなかった人なのに。
もう、手放すことなんて、考えられないくらいに、栄太兄は私の中に入ってくる。
駅ビルを抜けて、また私の家の方向へと向かった。午後からバイトだと言ったのを、栄太兄はちゃんと覚えていてくれて、慌てなくてもいい時間に帰路についた。
手を繋いで、二人で歩いていく。
駅から家へのその道は、慶次郎とも、何度も歩いた道だった。そんなことを考えていたら、向こうから一人の長身が見えて歩調を緩める。
「――礼奈?」
栄太兄が不思議そうに声をかけた。
私はちらりと栄太兄を見上げて、また前を向く。
歩いてきたのは、慶次郎だった。
イヤホンで音楽を聴いていた慶次郎は、そこでようやく私に気づいたらしい。
顔を上げると、驚いたような顔をして、栄太兄と私を見比べた。
私は一瞬、栄太兄と握った手を解こうか迷って、やめた。
あえてそんなことをしなくてもいいだろう――慶次郎の前では。
栄太兄がまばたきをして、慶次郎を見やる。慶次郎もイヤホンを外した。
「あれ、君、いつだか鎌倉で……」
「その節はお世話になりました」
言いながら立ち止まると、栄太兄に軽く頭を下げた。
――そっか、花火大会のとき、コンビニで絡まれてたところを栄太兄が助けてくれたんだった。
たった二年半前の出来事が、ずいぶん昔のことに思える。
あの頃には想像もしてなかった、怒濤の二年半だった。
慶次郎は視線を、栄太兄から、私と栄太兄が繋いだ手に移した。
「そ、か」
短く言って、私を見て、微笑む。
「……よかったな」
私はその顔から少し視線を落として、こくりと頷く。
「……ありがと……慶次郎」
ぽつりと言うと、慶次郎はああ、と頷いた。
「俺、これからバイトだから」
「うん、行ってらっしゃい」
手を挙げて、去る背中を見送る。
数歩行ってから、慶次郎が「あの」と振り向いた。
戸惑ったようにまばたきする栄太兄に、慶次郎はまっすぐな目ではっきり言った。
「そいつのこと、泣かせたら、殴りに行きますから。ーー二度と、手ェ離したりしないでくださいね」
それじゃあ、と、一方的に言い捨てて去っていく。
私は思わず、慶次郎の背中と栄太兄の顔を見比べた。
ほぅ、と息をついた栄太兄が、私を見下ろす。
「礼奈……もしかして彼が」
言いかけた栄太兄に、私ははっきり答えず、肩をすくめて苦笑する。
栄太兄も苦笑気味の微笑みを浮かべて、私の手を握り直した。
私もそれに応えるように、握る手に少し力を込めた。
離さないよ、慶次郎。
心の中で、私は答える。
私は、ずっと、ずっと、この手を握って歩いていく。
これから先、何があっても――
来るときにはまだ昇りきっていなかった太陽は、もう空高く昇って、街をあたたかく照らし出していた。
大学生の頃、しょっちゅううちに来てはご飯を食べたり子守をしていたから、栄太兄も我が家近辺は懐かしい場所らしい。辺りを見回して、懐かしそうな目をしていた。
さすがに部屋着では外に出られないと、私も着替えを済ませてきた。スーツ姿の栄太兄と並んで歩いてもおかしくない恰好は……と考えて、結局、同窓会のときにも来たワンピースだ。
ものすごく今さらだけど、化粧もして、髪も簡単にセットして。
「おまたせ」と声をかけたら、栄太兄は私を見て、照れたように微笑んだ。
「ほんま、すっかりお姉さんやなぁ」なんて、まだ子ども扱いしているようなことを言うものだから、唇を尖らせたりもしたけれど、少し歩いたとき、「寒いな」と呟いた栄太兄が、すっと手を差し出してきた。
「――手、繋ごうか」
戸惑いながら見上げた先に、栄太兄の柔らかい微笑みを見つけて頷く。
「……うん」
差し出された手に、自分の手をそろりと重ねる。指と指を絡めて繋いだ。
どきん、どきん、と心臓の鼓動が聞こえている。
いつの間にか、栄太兄の手はあったかくなっていて、冷えた自分の指先がじんわりとあたたまっていくのが分かる。
少し触れるだけで、喜びに顔が赤く染まる。
そんな顔を見せたくなくて、「駅の方、行ってみよう!」とぐいぐい手を引っ張った。
「この辺も少し変わったな」
「うん。家とか建て替わったりした」
「こっち行くと公園あったんやなかったか?」
「うん、あるよ。行ってみる?」
確かに風は冷たいけど、日差しはぽかぽかしたいい天気だった。この気候なら、両親もデートを楽しんでいるだろう。
そう思いながら、なんとなく駅に向かって歩いていたら、近くの児童公園の近くまで来た。
栄太兄が公園を見やって懐かしそうに眺める。
「なっつかしいなぁ。しょっちゅうブランコで健人が靴飛ばし過ぎて、よう取りに行かされたわ」
「あー、そうだったそうだった。またか! って、よく走ってたね」
「明日の天気、それで占おうって言いはるのに、結局木に引っかかって訳分からんことなんねん」
「あはは、お兄ちゃん、占いのときは全力で飛ばすんだもん。そうじゃないと神様が教えてくれないんだって」
「そんなん体のいい言い訳やな」
「だと思う」
手を繋いでいてもいなくても、栄太兄との会話はテンポよく流れて行く。
ここで、慶次郎に抱きしめられた夜のことを思い出した。
栄太兄は楽しげに公園を見回す。
そんな姿に、私の頬は自然と緩んだ。
慶次郎と一緒にいたときは、もっと恋人らしくした方が、なんて気になったことも、結局、栄太兄とだと気にならない。
そんな一つ一つのことが、なんだか不思議に思える。
「あ、そうだ!」
私は思い立って、栄太兄ともども駅前にあるリビング用品店へと足を向けた。
手にしたのはシンプルな白い花瓶だ。
私が自分で買おうとしたけど、栄太兄にそっと手を押さえられて甘えることにした。
栄太兄は首をかしげて、「花瓶なんて渋いチョイスやな」と不思議そうにしていたけれど、「うん。さっきのバラの花束、これに生けて、部屋に飾ろうと思って」と言うと、ちょっと驚いた顔をした後で、照れ臭そうに笑った。
「おおきに」
その笑顔に、ふわっとまた、心が温かくなる。
それは、ずっとずっと焦がれていた、私の大好きな笑顔だ。
嬉しくて、嬉しすぎて、ぎゅっと胸が苦しくなる。
つい、昨日までーーそれどころか、今日の午前中まで、こうして隣にいられるだなんて思いもしなかった人なのに。
もう、手放すことなんて、考えられないくらいに、栄太兄は私の中に入ってくる。
駅ビルを抜けて、また私の家の方向へと向かった。午後からバイトだと言ったのを、栄太兄はちゃんと覚えていてくれて、慌てなくてもいい時間に帰路についた。
手を繋いで、二人で歩いていく。
駅から家へのその道は、慶次郎とも、何度も歩いた道だった。そんなことを考えていたら、向こうから一人の長身が見えて歩調を緩める。
「――礼奈?」
栄太兄が不思議そうに声をかけた。
私はちらりと栄太兄を見上げて、また前を向く。
歩いてきたのは、慶次郎だった。
イヤホンで音楽を聴いていた慶次郎は、そこでようやく私に気づいたらしい。
顔を上げると、驚いたような顔をして、栄太兄と私を見比べた。
私は一瞬、栄太兄と握った手を解こうか迷って、やめた。
あえてそんなことをしなくてもいいだろう――慶次郎の前では。
栄太兄がまばたきをして、慶次郎を見やる。慶次郎もイヤホンを外した。
「あれ、君、いつだか鎌倉で……」
「その節はお世話になりました」
言いながら立ち止まると、栄太兄に軽く頭を下げた。
――そっか、花火大会のとき、コンビニで絡まれてたところを栄太兄が助けてくれたんだった。
たった二年半前の出来事が、ずいぶん昔のことに思える。
あの頃には想像もしてなかった、怒濤の二年半だった。
慶次郎は視線を、栄太兄から、私と栄太兄が繋いだ手に移した。
「そ、か」
短く言って、私を見て、微笑む。
「……よかったな」
私はその顔から少し視線を落として、こくりと頷く。
「……ありがと……慶次郎」
ぽつりと言うと、慶次郎はああ、と頷いた。
「俺、これからバイトだから」
「うん、行ってらっしゃい」
手を挙げて、去る背中を見送る。
数歩行ってから、慶次郎が「あの」と振り向いた。
戸惑ったようにまばたきする栄太兄に、慶次郎はまっすぐな目ではっきり言った。
「そいつのこと、泣かせたら、殴りに行きますから。ーー二度と、手ェ離したりしないでくださいね」
それじゃあ、と、一方的に言い捨てて去っていく。
私は思わず、慶次郎の背中と栄太兄の顔を見比べた。
ほぅ、と息をついた栄太兄が、私を見下ろす。
「礼奈……もしかして彼が」
言いかけた栄太兄に、私ははっきり答えず、肩をすくめて苦笑する。
栄太兄も苦笑気味の微笑みを浮かべて、私の手を握り直した。
私もそれに応えるように、握る手に少し力を込めた。
離さないよ、慶次郎。
心の中で、私は答える。
私は、ずっと、ずっと、この手を握って歩いていく。
これから先、何があっても――
来るときにはまだ昇りきっていなかった太陽は、もう空高く昇って、街をあたたかく照らし出していた。
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