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.第12章 親と子
314 祖父との電話
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――彩乃には、自分で言いなさい。
眠りにつく前、父は私にそう言った。二人で話したいなら時間を作る。自分に立ち会ってほしいなら立ち会う。それは私が選んでいい、とまで言ってくれて。
栄太兄と一緒に開けたスパークリングワインと、お風呂上りに飲んだ一杯の赤ワインは、ベッドに入った私の思考を少しだけ融かしてくれたけれど、頭の片隅には母のことがちらついていた。
母に言ったら、どういう反応をするだろう――
それは、半分予想できることだった。驚くだろうし、もし、婚約に頷いたとしても、続けてこう言うだろう。
――でも、結婚は卒業後でしょう?
表情は柔らかさを装いながら、声音に本音を隠せない母を想像して、私は息を吐き出した。顔を手で覆って目をつぶる。――やめよう。今日、考えるのはやめておこう。
父はこうも言っていた。「できるだけ早く伝えた方が、お前自身が楽だと思うぞ」――そう言いながらも、明日すぐに伝えるようにとまでは言われなかった。
栄太兄と、もう一度話してからにしよう。婚約のこと。結婚のこと。――でも、今までのやりとりで、聞かずとも分かるような気はしていた。
栄太兄は、道を提示してくれたんだ。
私が後悔しないように。
――祖父に、晴れ姿を見せてあげられるように――
***
翌朝、私が起きたときには両親はまだ家を出ていなかったけれど、母と顔を合わす気になれずにベッドの中でごろごろしていた。しばらくすると、コンコンとドアをノックする音がして、「礼奈? 私たち行くわね」と母の声がしたので、「いってらっしゃぁい」とさも寝ているかのような間延びした声で答えて息をひそめる。
身支度を整えた両親が、家を出て行く音がした。
目をつぶって、がちゃんと鍵が締まる音を聞き、ゆっくりと息を吐き出す。
ときどき、母が忘れ物をして帰ってくることがあるから、少しの間そのままじっとしていたけれど、もう戻ってくる気配はなかった。
ほっとしてもぞもぞ起き出す。
壁には、昨日の食事に着て行ったワンピースがかかっていた。ベッドに座ったままぼんやりそれを見上げて、机の引き出しにしまった輝くリングを思い出し、膝を抱える。
本当なら、もっともっと、幸せに浸っていてもいいのだろうに、そうできないことが少し寂しかった。
時計を見ると、栄太兄もそろそろ出勤の時間だった。電話をする時間はないだろうから、また夜にかけよう、とひとりで納得する。そこには少なからず、嫌な話題を避けようとする本音があるのを自覚したけれど、目をつぶることにした。
とりあえず、何か言われないうちに、ワンピースはクリーニングに出してしまおう。近所のクリーニング屋で、なおかつ母が使わないところを思い浮かべて、大きなトートバッグに軽く畳んだワンピースを入れた。
その日の講義は午前2コマ、午後2コマだ。その後はバイト。多分、夜には悠人兄が迎えに来てくれるだろう。
帰宅は九時を過ぎるから、栄太兄とゆっくり話す時間はないかもしれない。そう気づいて眉を寄せる。早い方がいい、という父の言葉が頭を回っている。
それは、分かっている。けど……ぐちゃぐちゃ考えるうちに面倒くさくなって、ため息でごまかした。
もう、いいや。それはまた、夜に考えよう。
気持ちを切り替えて着替えを済ませ、1階に降りて朝食を済ませる。学校に行くまではまだ時間があると気づいて、何気なくスマホを手にした。
――そういえば、その後、祖父は大丈夫だろうか。
そう気になると、途端に気になって仕方なくなる。ためらった後、たまには電話もいいかとスマホをタップした。
コール音が、1、2、3……しばらくなり続けて、若干不安になったとき、がちゃっと受話器を上げる音がする。『はい』と聞こえた祖母の声は、電話用の少し高いトーンだった。
ひとまず元気そうな声音にほっとする。
「おばあちゃん? 礼奈だよ」
『あら、礼奈。――どうしたの? 珍しいわね』
中高生のときは、部活で会えなかったから、電話をしていたこともあるけど、最近はそんなこともなかった。栄太兄と鎌倉を訪れるようになってからはなおさらのことだ。
祖父の徘徊が心配で、とも言えず、何を理由にしたものかと一瞬迷った。
「最近、またぐんと冷え込んでるから――元気かなと思って」
『あら、ありがとう。元気よ。おじいちゃんも』
「ほんと?」
『電話、換わろうか? 声聞いたら喜ぶわよ。――お父さん、礼奈から電話』
後半は、祖父に対しての呼びかけだった。私は黙って二人の様子に耳を澄ませる。
祖母が何度か声をかけて、祖父はようやく私からの電話だと理解したらしい。ああ、とどこかぶっきらぼうな声で言うと、『もしもし』と大きな声がして思わずスマホから耳を離した。
「お――おはよ、おじいちゃん」
『礼奈かー?』
「うん――」
『もしもしー?』
ああ、全然聞こえてないみたい。私は息を吸って、「礼奈だよ!」と大声で呼びかけた。祖父が電話の向こうで『あー、そうか。大学はどうした』と言う。とりあえず元気らしいということは分かったけれど、意思疎通が難しい。
「そろそろ、出発するところ」
『今日は休みか?』
「今から授業!」
『そうか、大変だな』
ゆっくり、はっきり、大きく言わないと、全然聞こえないみたい。
通じたり通じなかったりするやりとりを数度繰り返して、「じゃあ、そろそろ切るね!」と声をかけた。
『また、おいで。栄太郎と一緒に』
祖父ががらがらの声でそう言う。
『栄太郎は、お前といると、幸せそうだ』
その言葉に、私は思わず、唇を引き結んだ。
そうしなければ、また、泣いてしまいそうで――
「――うん。行くよ。――また行く」
私は大きな声でそう言って、電話を切った。
眠りにつく前、父は私にそう言った。二人で話したいなら時間を作る。自分に立ち会ってほしいなら立ち会う。それは私が選んでいい、とまで言ってくれて。
栄太兄と一緒に開けたスパークリングワインと、お風呂上りに飲んだ一杯の赤ワインは、ベッドに入った私の思考を少しだけ融かしてくれたけれど、頭の片隅には母のことがちらついていた。
母に言ったら、どういう反応をするだろう――
それは、半分予想できることだった。驚くだろうし、もし、婚約に頷いたとしても、続けてこう言うだろう。
――でも、結婚は卒業後でしょう?
表情は柔らかさを装いながら、声音に本音を隠せない母を想像して、私は息を吐き出した。顔を手で覆って目をつぶる。――やめよう。今日、考えるのはやめておこう。
父はこうも言っていた。「できるだけ早く伝えた方が、お前自身が楽だと思うぞ」――そう言いながらも、明日すぐに伝えるようにとまでは言われなかった。
栄太兄と、もう一度話してからにしよう。婚約のこと。結婚のこと。――でも、今までのやりとりで、聞かずとも分かるような気はしていた。
栄太兄は、道を提示してくれたんだ。
私が後悔しないように。
――祖父に、晴れ姿を見せてあげられるように――
***
翌朝、私が起きたときには両親はまだ家を出ていなかったけれど、母と顔を合わす気になれずにベッドの中でごろごろしていた。しばらくすると、コンコンとドアをノックする音がして、「礼奈? 私たち行くわね」と母の声がしたので、「いってらっしゃぁい」とさも寝ているかのような間延びした声で答えて息をひそめる。
身支度を整えた両親が、家を出て行く音がした。
目をつぶって、がちゃんと鍵が締まる音を聞き、ゆっくりと息を吐き出す。
ときどき、母が忘れ物をして帰ってくることがあるから、少しの間そのままじっとしていたけれど、もう戻ってくる気配はなかった。
ほっとしてもぞもぞ起き出す。
壁には、昨日の食事に着て行ったワンピースがかかっていた。ベッドに座ったままぼんやりそれを見上げて、机の引き出しにしまった輝くリングを思い出し、膝を抱える。
本当なら、もっともっと、幸せに浸っていてもいいのだろうに、そうできないことが少し寂しかった。
時計を見ると、栄太兄もそろそろ出勤の時間だった。電話をする時間はないだろうから、また夜にかけよう、とひとりで納得する。そこには少なからず、嫌な話題を避けようとする本音があるのを自覚したけれど、目をつぶることにした。
とりあえず、何か言われないうちに、ワンピースはクリーニングに出してしまおう。近所のクリーニング屋で、なおかつ母が使わないところを思い浮かべて、大きなトートバッグに軽く畳んだワンピースを入れた。
その日の講義は午前2コマ、午後2コマだ。その後はバイト。多分、夜には悠人兄が迎えに来てくれるだろう。
帰宅は九時を過ぎるから、栄太兄とゆっくり話す時間はないかもしれない。そう気づいて眉を寄せる。早い方がいい、という父の言葉が頭を回っている。
それは、分かっている。けど……ぐちゃぐちゃ考えるうちに面倒くさくなって、ため息でごまかした。
もう、いいや。それはまた、夜に考えよう。
気持ちを切り替えて着替えを済ませ、1階に降りて朝食を済ませる。学校に行くまではまだ時間があると気づいて、何気なくスマホを手にした。
――そういえば、その後、祖父は大丈夫だろうか。
そう気になると、途端に気になって仕方なくなる。ためらった後、たまには電話もいいかとスマホをタップした。
コール音が、1、2、3……しばらくなり続けて、若干不安になったとき、がちゃっと受話器を上げる音がする。『はい』と聞こえた祖母の声は、電話用の少し高いトーンだった。
ひとまず元気そうな声音にほっとする。
「おばあちゃん? 礼奈だよ」
『あら、礼奈。――どうしたの? 珍しいわね』
中高生のときは、部活で会えなかったから、電話をしていたこともあるけど、最近はそんなこともなかった。栄太兄と鎌倉を訪れるようになってからはなおさらのことだ。
祖父の徘徊が心配で、とも言えず、何を理由にしたものかと一瞬迷った。
「最近、またぐんと冷え込んでるから――元気かなと思って」
『あら、ありがとう。元気よ。おじいちゃんも』
「ほんと?」
『電話、換わろうか? 声聞いたら喜ぶわよ。――お父さん、礼奈から電話』
後半は、祖父に対しての呼びかけだった。私は黙って二人の様子に耳を澄ませる。
祖母が何度か声をかけて、祖父はようやく私からの電話だと理解したらしい。ああ、とどこかぶっきらぼうな声で言うと、『もしもし』と大きな声がして思わずスマホから耳を離した。
「お――おはよ、おじいちゃん」
『礼奈かー?』
「うん――」
『もしもしー?』
ああ、全然聞こえてないみたい。私は息を吸って、「礼奈だよ!」と大声で呼びかけた。祖父が電話の向こうで『あー、そうか。大学はどうした』と言う。とりあえず元気らしいということは分かったけれど、意思疎通が難しい。
「そろそろ、出発するところ」
『今日は休みか?』
「今から授業!」
『そうか、大変だな』
ゆっくり、はっきり、大きく言わないと、全然聞こえないみたい。
通じたり通じなかったりするやりとりを数度繰り返して、「じゃあ、そろそろ切るね!」と声をかけた。
『また、おいで。栄太郎と一緒に』
祖父ががらがらの声でそう言う。
『栄太郎は、お前といると、幸せそうだ』
その言葉に、私は思わず、唇を引き結んだ。
そうしなければ、また、泣いてしまいそうで――
「――うん。行くよ。――また行く」
私は大きな声でそう言って、電話を切った。
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