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.第12章 親と子
327 親族会議(4)
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私は二階のベッドに横たえられた。
栄太兄はしばらく、私の頭を撫でたり、頬を撫でたりしてくれていたけれど、私が落ち着いたと分かると「少し下に行ってるな」と立ち上がろうとした。
私が慌ててその手を握ると、栄太兄は戸惑ったように動きを止める。
「……水でも飲むか?」
枕元には、健人兄が持ってきてくれた水があった。問われて、こくこくと頷く。
栄太兄はコップに水を注いで差し出してくれた。私は手に取りかけて、まず身体を起こすべきだと気づく。肘をついて頭を持ち上げようとしたけど、頭痛がして眉を寄せた。
栄太兄はちらっとドアを見て、「嫌やったら言ってな」と囁くと、コップを口にした。
どうするつもりかと思えば、汗で額に張り付いた髪をかきわけた栄太兄の手が、頭の後ろを支える。
顔が近づいてきたと思ったら唇が重なって、少しだけ栄太兄の口の中で温められた水が、口にじわりと注がれた。
それは乾いた口の中を濡らしただけて、喉を濡らすほどの量はなかった。私はぼんやりした視界のまま、じっと栄太兄を見つめる。栄太兄が困ったように、「まだいるか?」と聞いたので、こくりと頷き返した。
――こんな水なら、いくらでも欲しい。
心の中ではそう答えて、じっと次の一口を待つ。
栄太兄はまたコップを傾けて、自分の口に含むと、私の口に注いだ。それは多分、こぼさないようにしようとゆっくりなのだろうけど、私にはまるで神聖な儀式みたいに感じられた。
喉の渇きだけじゃなく、干上がっていた心がどんどん満たされていく。
手を伸ばして、ベッドの横に突いた栄太兄の手に触れた。握ると、自分の胸元まで引き寄せる。
両手でその手を包み込むと、少し硬いその温もりにほっと息をついた。
栄太兄も苦笑する。
「――もう、大丈夫そうやな。よかった」
呟くと、栄太兄は「はぁー」と腹の底からため息をついた。かと思うや、私の手に手を添えて、ぐったりとベッドに上体を預ける。
「……ほんま、びっくりしたわ……お前、過呼吸とかやったことあったっけ?」
ううん、と言おうとしたけど、まだ喉が痛くて声が出ない。代わりにふるふると首を横に振ると、栄太兄は「そうか」と情けない顔で私を見つめた。
「健人が、がんばりすぎなんやないか、言うてたで。どんだけ予定入れてんねん」
「だって――」
声はまた、ほとんど息だけのようにかすれて、口をつぐんだ。
だって。
栄太兄に並んでも、恥ずかしくないようにって。
お母さんから、文句言われないようにって。
もっと色んなことを経験して、色んなものを見て、知って、もっともっともっと、大人になって――
そしたら、誰も、文句なんて、言わないだろうって――
言いたいことはたくさんあったけど、それよりも先に、目じりから熱が溢れ出た。
それが涙だと分かるのに、数秒、かかって。
「礼奈……」
びっくりするくらい熱いその涙を、栄太兄はそっと、指で拭ってくれた。
ぴん、と張りつめていた緊張が、ふっつりと途切れたように、ほろほろ、ほろほろ、涙が溢れてくる。
栄太兄はそれを、黙って手で拭ってくれた。
栄太兄に、会いたかった。声を聴きたかった。触れたかった。触れてほしかった。
それでも、インターンの間は、春休みの間は、仕事が決まるまでは、栄太兄と並んで胸を張れるまでは、我慢しなくちゃって、もっと、もっと、もっと、大人みたいに振る舞わなくちゃって――子どもだと思われないようにしなくちゃって――
思ってたのに。
みんなと同じように、しっかりしなくちゃって。自立しなくちゃって。思ってた、はずなのに――
「……ごめんね」
震える声は、囁くような音量でしか出なくて、それがまた情けなくて、両手で目を覆った。
どんなに、がんばっても、私はやっぱり、末っ子のままだ。みんなには全然追いつかない。いつまでもいつまでも、颯爽と前を歩くみんなの背中を追いかけている。小さいときから、必死でそれを追いかけている。
今までは、それでもみんなが振り向いて、手を差し伸べてくれた。それ以上離れないように、立ち止まって待っていてくれた。けど、もうそんなこともなくなっていく。それぞれ違う道を歩き始めたから。みんなはみんなの道を行く。私は私で、自分の道を見つけなきゃいけない。
胸の中には、ただひたすら、焦りばかりが募っていく。
どうやったら、私は、みんなと同じ場所に立てるんだろう。こんなに甘えたままじゃ、駄目なのに。駄目だって分かってるのに。
自分で歩いてきたつもりでも、全部全部、周りに助けられてきていた。それに気づいたのすら最近で、それこそ未熟さの表れだ。思い通りにならないことばかりで、気が滅入る。
私に、栄太兄の近くにいる、資格はあるんだろうか。
「何に謝ってんねん」
微笑んで、栄太兄は私の額を撫でる。
その手の心地よさに、私は目を閉じた。
いつでも、私を慈しんでくれる人の手。
「……栄太兄……」
栄太兄には、私よりも、朝子ちゃんの方が。
お似合いかもしれない。対等に、支え合っていけそうな気がする。
私みたいに、守ってもらうばっかりじゃなくて。
朝子ちゃんなら、もっと栄太兄も、甘えられるんじゃないか。朝子ちゃんの方が、もっと、栄太兄を幸せにできるんじゃないかーー
そう思ったのに、
「何や?」
甘くも感じる優しいその声に、よぎった想いを飲み込む。
この声を、この手を、この笑顔を、この目をーー
誰にも、渡したくない。
これが、私のわがままだとしてもーー
「……だいすき」
言葉と共に、目尻から涙が溢れる。
栄太兄は驚いた顔をしてから、苦笑した。
「俺もやで。……少し、ゆっくり休み。また少ししたら来るから」
「……うん……」
頷いたけど、その手の温もりを離したくなくて、しばらく握った手をじっと見つめる。栄太兄は少しの間私が動くのを待っていたけど、ふ、と笑って私の頬を撫で、額に口づけてやんわりと手を解いた。
「体調崩すと人恋しくなるねんな。気持ちは分かるけど、ちょっと待っとけ。みんなとの話、終わったら戻って来るから」
「……うん……」
「いい子やな」
また、唇が額に触れる。目を閉じてその温もりと息遣いを身体に焼き付けて、私はゆっくり手を離した。
栄太兄を、困らせたら、悪いから……
そう思って背中を見送った後、何だかどっと疲れたような気がして、私は目を閉じた。
栄太兄はしばらく、私の頭を撫でたり、頬を撫でたりしてくれていたけれど、私が落ち着いたと分かると「少し下に行ってるな」と立ち上がろうとした。
私が慌ててその手を握ると、栄太兄は戸惑ったように動きを止める。
「……水でも飲むか?」
枕元には、健人兄が持ってきてくれた水があった。問われて、こくこくと頷く。
栄太兄はコップに水を注いで差し出してくれた。私は手に取りかけて、まず身体を起こすべきだと気づく。肘をついて頭を持ち上げようとしたけど、頭痛がして眉を寄せた。
栄太兄はちらっとドアを見て、「嫌やったら言ってな」と囁くと、コップを口にした。
どうするつもりかと思えば、汗で額に張り付いた髪をかきわけた栄太兄の手が、頭の後ろを支える。
顔が近づいてきたと思ったら唇が重なって、少しだけ栄太兄の口の中で温められた水が、口にじわりと注がれた。
それは乾いた口の中を濡らしただけて、喉を濡らすほどの量はなかった。私はぼんやりした視界のまま、じっと栄太兄を見つめる。栄太兄が困ったように、「まだいるか?」と聞いたので、こくりと頷き返した。
――こんな水なら、いくらでも欲しい。
心の中ではそう答えて、じっと次の一口を待つ。
栄太兄はまたコップを傾けて、自分の口に含むと、私の口に注いだ。それは多分、こぼさないようにしようとゆっくりなのだろうけど、私にはまるで神聖な儀式みたいに感じられた。
喉の渇きだけじゃなく、干上がっていた心がどんどん満たされていく。
手を伸ばして、ベッドの横に突いた栄太兄の手に触れた。握ると、自分の胸元まで引き寄せる。
両手でその手を包み込むと、少し硬いその温もりにほっと息をついた。
栄太兄も苦笑する。
「――もう、大丈夫そうやな。よかった」
呟くと、栄太兄は「はぁー」と腹の底からため息をついた。かと思うや、私の手に手を添えて、ぐったりとベッドに上体を預ける。
「……ほんま、びっくりしたわ……お前、過呼吸とかやったことあったっけ?」
ううん、と言おうとしたけど、まだ喉が痛くて声が出ない。代わりにふるふると首を横に振ると、栄太兄は「そうか」と情けない顔で私を見つめた。
「健人が、がんばりすぎなんやないか、言うてたで。どんだけ予定入れてんねん」
「だって――」
声はまた、ほとんど息だけのようにかすれて、口をつぐんだ。
だって。
栄太兄に並んでも、恥ずかしくないようにって。
お母さんから、文句言われないようにって。
もっと色んなことを経験して、色んなものを見て、知って、もっともっともっと、大人になって――
そしたら、誰も、文句なんて、言わないだろうって――
言いたいことはたくさんあったけど、それよりも先に、目じりから熱が溢れ出た。
それが涙だと分かるのに、数秒、かかって。
「礼奈……」
びっくりするくらい熱いその涙を、栄太兄はそっと、指で拭ってくれた。
ぴん、と張りつめていた緊張が、ふっつりと途切れたように、ほろほろ、ほろほろ、涙が溢れてくる。
栄太兄はそれを、黙って手で拭ってくれた。
栄太兄に、会いたかった。声を聴きたかった。触れたかった。触れてほしかった。
それでも、インターンの間は、春休みの間は、仕事が決まるまでは、栄太兄と並んで胸を張れるまでは、我慢しなくちゃって、もっと、もっと、もっと、大人みたいに振る舞わなくちゃって――子どもだと思われないようにしなくちゃって――
思ってたのに。
みんなと同じように、しっかりしなくちゃって。自立しなくちゃって。思ってた、はずなのに――
「……ごめんね」
震える声は、囁くような音量でしか出なくて、それがまた情けなくて、両手で目を覆った。
どんなに、がんばっても、私はやっぱり、末っ子のままだ。みんなには全然追いつかない。いつまでもいつまでも、颯爽と前を歩くみんなの背中を追いかけている。小さいときから、必死でそれを追いかけている。
今までは、それでもみんなが振り向いて、手を差し伸べてくれた。それ以上離れないように、立ち止まって待っていてくれた。けど、もうそんなこともなくなっていく。それぞれ違う道を歩き始めたから。みんなはみんなの道を行く。私は私で、自分の道を見つけなきゃいけない。
胸の中には、ただひたすら、焦りばかりが募っていく。
どうやったら、私は、みんなと同じ場所に立てるんだろう。こんなに甘えたままじゃ、駄目なのに。駄目だって分かってるのに。
自分で歩いてきたつもりでも、全部全部、周りに助けられてきていた。それに気づいたのすら最近で、それこそ未熟さの表れだ。思い通りにならないことばかりで、気が滅入る。
私に、栄太兄の近くにいる、資格はあるんだろうか。
「何に謝ってんねん」
微笑んで、栄太兄は私の額を撫でる。
その手の心地よさに、私は目を閉じた。
いつでも、私を慈しんでくれる人の手。
「……栄太兄……」
栄太兄には、私よりも、朝子ちゃんの方が。
お似合いかもしれない。対等に、支え合っていけそうな気がする。
私みたいに、守ってもらうばっかりじゃなくて。
朝子ちゃんなら、もっと栄太兄も、甘えられるんじゃないか。朝子ちゃんの方が、もっと、栄太兄を幸せにできるんじゃないかーー
そう思ったのに、
「何や?」
甘くも感じる優しいその声に、よぎった想いを飲み込む。
この声を、この手を、この笑顔を、この目をーー
誰にも、渡したくない。
これが、私のわがままだとしてもーー
「……だいすき」
言葉と共に、目尻から涙が溢れる。
栄太兄は驚いた顔をしてから、苦笑した。
「俺もやで。……少し、ゆっくり休み。また少ししたら来るから」
「……うん……」
頷いたけど、その手の温もりを離したくなくて、しばらく握った手をじっと見つめる。栄太兄は少しの間私が動くのを待っていたけど、ふ、と笑って私の頬を撫で、額に口づけてやんわりと手を解いた。
「体調崩すと人恋しくなるねんな。気持ちは分かるけど、ちょっと待っとけ。みんなとの話、終わったら戻って来るから」
「……うん……」
「いい子やな」
また、唇が額に触れる。目を閉じてその温もりと息遣いを身体に焼き付けて、私はゆっくり手を離した。
栄太兄を、困らせたら、悪いから……
そう思って背中を見送った後、何だかどっと疲れたような気がして、私は目を閉じた。
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