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.第12章 親と子

330 甘い薬(3)

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 栄太兄の準備してくれたおかゆは、ダシが効いていて薄味でも美味しかった。そう言うと、向き合って座った栄太兄は、「朝食の味噌汁で使ったダシ、少し残しといたんや」と嬉しそうな笑顔を見せる。
 何気ない一言で顔をほころばせてくれることが嬉しくて、私も自然と笑顔になった。

「しっかし、びっくりしたわ。急に口ぱくぱくしだして、息が変になりはったから……どうしたもんかと心配したわ」

 大ごとにならなくてよかった、と栄太兄が吐息をつく。
 私は申し訳なさに肩をすくめた。

「ごめんね、ほんとに……私もびっくりした」
「そうやろな」

 弱気な声で言うと、栄太兄も困ったように笑う。今まで、意外とタフだと言われ続けてから、自分もそう思っていた節がある。あんな風になるだなんて初めてだった。

「……よかった、栄太兄がいるときで」
「俺? 何もできへんよ。悠人の方が動けそうやん」

 私は笑って首を横に振った。

「そうだけど、違うの」
「違う?」

 栄太兄がきょとんとした顔をする。等身大のその表情と飾らない声音が、私の心を解していく。
 すべての世界が色を失くしたとき、耳に届くのががさついた音だけになったとき、栄太兄の顔だけは、声だけは、はっきりと分かったから。

 こうなってみて、初めて気づいた。母に学生結婚を反対されてから、私はずっと緊張状態だったのだ。
 今まで何があっても私の味方だった人と、対立したことなんてなかったから。
 その対立が、私を想ってのことだというのもよく分かっている。けれど、私には私の想いがある。そして、互いに妥協して間を取ることはできない。
 そのことが呪いのように私の身体と心を蝕んでいた。

「……身体のことは、悠人兄の方が対応できるかもしれないけど……私に必要だったのは、そうじゃなかったから」

 栄太兄は「ふぅん」と分かったような分からないような顔で首を傾げた。たぶん、分かっていないんだろう。その様子が同世代の男子とあまり変わらないように思えて、また笑う。栄太兄は次いで嬉しそうに目を細めた。

「まあ、ええわ。今日はよう笑うな。――昨日はなんや顔がこわばっとったから、どうしたんやろーと思てたけど……今日はいつもの礼奈の顔してはる」

 その声が心底嬉しそうで、思わず気恥ずかしくなる。「うん」と口の中でもごもご答えると、栄太兄は笑って私の頭を撫でた。あたたかい手。大きい手。私を守ってくれる人の手。
 その心地よさに身体を任せて目を閉じたけれど、栄太兄はすぐに手を下ろそうとした。私は慌てて左手を伸ばし、その手をつかむ。栄太兄が驚いたような顔をして私を見つめた。

「ど、どうしたんや? 食べにくいやろ」

 机の上でぎゅうと手をつかむ私に、栄太兄が困惑顔をする。私はその目と繋いだ手を見比べて、「……いいの」と小さく答えると、右手でおかゆを口に運んだ。

「――熱ッ」
「ああ、ほら。ちゃんと冷まして食えよ」

 水持ってくる、と立ち上がろうとした栄太兄は、まだ力を緩めない私の手に気づいて動きを止める。「礼奈」と呼ばれたけれど、私は黙って握る手に力を込めた。
 だって、ひと時だって、離れたくない。
 むっと唇を尖らせてれんげを口に運ぶ私に、栄太兄は少しの間何か言おうとして、苦笑した。ため息をついてもとの席に腰掛けると、握った私の手からするりと手を滑らせる。

「あっ」
 
 やだ。
 そう言おうと思ったら、手を繋ぐ形を変えただけだった。正面から互い違いに指を絡めて繋いだその形のまま、栄太兄の親指が私の親指の外側を撫でる。
 ただそれだけの優しい動きに、私の身体がそわそわしてくる。

「こうしててやるから。ゆっくり食べり」
「……うん」

 頷いた顔が熱を持っているのが分かった。発熱のせいじゃない、栄太兄が産み出した熱だ。私の左手を、栄太兄の指がときどき撫でる。右手でれんげを口に運びながら、もういいからやめて、と言いたいのをぐっと堪える。そわそわして、落ち着かない。けど、やめてほしいわけじゃなかった。栄太兄のその指の動きが、「好き」という言葉以上に、私に愛情を伝えてくれているから。
 机に頬杖をついていた栄太兄が、ふ、と笑って片手を伸ばす。何だろうと目を上げたら、頬を掬うように撫でられた。

「おべんとついとる」

 笑って、指に取ったおかゆを口に入れる。長い指が唇に吸い込まれて行く先に、わずかに栄太兄の舌が見えた。
 あの唇に、あの舌に、口の中を愛されたんだ、と思い出して、慌ててうつむく。
 とたんにまた、心臓がどきどきしてきた。

「……礼奈、どうした? また熱上がってきたか?」
「ち、違……大丈夫……」
「お前の大丈夫は全然参考にならんねん。過呼吸なるし。倒れるし。――熱出すし」

 優しく笑った栄太兄の手が、額に伸びてくる。少しだけ私の体温よりも低いてのひらが、柔らかく髪を掻き上げた。手が近づいて閉じた目を、ゆっくり開く。目を閉じても開いても、そこに栄太兄の笑顔がある。
 ぎゅっと胸が締め付けられる。幸せすぎて、苦しいくらいだ。

「今日、落ち着いたら政人が迎えに来るて言うてたで。インターン、明日までなんやろ。面倒かも知れへんけど、心配やし政人たちんとこから行けて――」
「ううん」

 額に柔らかなてのひらを感じたまま、私はふるふると首を振った。栄太兄が不思議そうに見てくる。私は苦笑を返した。

「さっき、インターン先へは連絡した。……そんなことなら、明日も来なくていいって。体調管理できないで、社会人になんてなれないぞ、って」

 言ってから、後半は要らない話だったと気づく。けれど、胸に突き刺された棘をどこかに出してしまいたかった。
 栄太兄は驚いたような顔をしてから眉を寄せる。

「何やそれ。そんなん言う会社、こっちからお断りやろ。――人の身体、なんやと思うてんねん」

 栄太兄がそう怒ってくれて、私はほっと息をつく。
 けど、それと同時に、心中では小さな罪悪感と戦っていた。
 だって、インターン先のその一言は、昨日も急に休んだからこそだろう。イベント会社のインターンで、イベント当日にドタキャンなんて、許されたものじゃないのは私にも分かっている。
 けど、栄太兄はそれを知らないまま、私のために怒ってくれている。
 ああ、嫌だな、と胸の中で呟いた。
 やっぱり、嘘はつかないで済むような生き方をしよう。
 私の嘘を知らないまま、栄太兄が嫌な気持ちになるのは、私も嫌だから。
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