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.最終章 グッバイ、ハロー

362 グッバイ、ハロー(1)

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 かたことと、音がしていたと思ったら、がちゃりとドアが開いて栄太兄が顔を覗かせた。

「――礼奈。気分はどうや? まだ寝とくか?」
「ううん……起きる……」

 まどろみの中から身体を引きはがすようにして、ベッドの縁から足を下ろす。ふぅ、と息をつく私の頭を、栄太兄は心配そうに撫でた。

「食欲は? ご飯、いつも通りフレンチトーストでええか?」
「うん、ありがと。食べる」

 ほにゃりと笑うと、栄太兄も優しく笑い返してくれる。その笑顔は、最近また少し変わってきた――ような気がする。
 のろのろと、パジャマから服に着替える。それでも、選ぶのは楽な服だ。しばらく連休だから、それでいい。
 部屋から廊下に出て、くんくんと匂いを嗅ぐ。バターと卵の匂いがして、ぐぅ、とお腹が鳴った。
 リビングのドアを開けると、食卓のランチョンマットの上に、フレンチトーストが乗ったお皿が置いてある。

「美味しそう。いただきます」

 私が椅子に座って手を合わせると、栄太兄が「召し上がれ」と微笑んで、私の正面の椅子を引いた。

「うん、美味しい。ありがとう」
「よかった。まだ要るなら焼くで」
「ううん、一枚で充分。こないだ、食べ過ぎて後から気持ち悪くなった」
「ははは」

 栄太兄が笑う、揺れる髪に朝の光が反射している。
 窓の外を見やると、庭にはひらひらと舞う蝶が見えた。

「いい天気でよかったね」
「せやな」

 栄太兄は答えて、申し訳なさそうに肩をすくめる。

「でも、すまんな、こんなときに宿まりがけで出かけるなんて」
「いいの。ゆっくりしておいでよ、和歌子さんたちのとこも」
「ああ……」

 栄太兄は今日から2泊3日で京都と奈良に行く。出張と、金田家への帰省だ。
 頷いた栄太兄は、ちらりと私を伺い見た。

「……あの、伝えてもええか?」

 私が目を上げると、栄太兄がもごもごと言う。

「母さんに、その……子どものこと」

 私はふふっと笑った。

「うん。もちろん、いいよ」

 頷いて、フレンチトーストをまた一切れ、口に運ぶ。

「でも、まだ初期だから……どうなるか分かんない、って言っといて」

 ほのかな甘みのするそれを飲み込むと、フォークを持っていない手でお腹を撫でた。
 まだ膨らみすらないそこには、小さな小さな生命が宿っている。私は一日に何度も、それを思い返しては不思議な気分になっている。
 栄太兄はほっとしたように微笑んだ。
 
「ああ、それは分かっとるやろ。――どんな反応するやろな」

 その嬉しそうな顔に、私も微笑む。
 栄太兄に、妊娠を伝えたときのことを思い返していた。

 ***

 就職後、半年が経つ頃、祖母が自宅近くの老人ホームに入ることになった。
 親戚で色々話し合った結果、私たちが望むなら、祖父母の家は私たちが使っていいと言われて、古い家をリフォームして住み始めたのがその半年後。
 母は「2年は仕事に集中しなさい」とか何とか言っていたけど、私はそろそろいいだろう、と勝手に判断してピルを飲むのを止めた。
 そうは言っても、すぐ妊娠できるかどうかも分からないし、栄太兄に変なプレッシャーをかけるのも……と、伝えるのはやめておいた。
 というのも、実は栄太兄、彼女はいたことあるけど今まで身体の関係はなかったらしい。
 和歌子さんの性教育の賜物――本人は呪いと言っているけれど――で、私とも、最初はなかなかうまく行かずにいたのだ。
 栄太兄に避妊をお願いすると、ふと冷静になってしまって和歌子さんの顔が脳裏をよぎるらしい。
 そう分かってからは、私がピルを飲むことにしていた。
 そんなわけで、私がエコーの写真を差し出すと、栄太兄はぽかんとした顔をしたのだ。

「……? 何や、この黒いの……」
「胎嚢」

 言う私も、正直ドキドキしていた。新婚らしい生活をし始めたのなんて、ほとんど就職してからだし、そろそろ子どもを、なんて言わずに、勝手にピルを飲むのをやめていたから。

「赤ちゃん、できたって」

 私が言うと、栄太兄は息を飲み、唖然としたように吐き出した。

「――ほんまか?」

 一言めはそれで、次いで、わたわたと無意味に手を動かした。

「ほんまに? え、でも何で? だってピル――」
「ごめん、鎌倉に越して来てから飲んでない」
「……そ、そやったん?」

 うろたえた栄太兄は、私の言葉にますますうろたえた。

「ご、ごめん。そんなことも気づかんで」
「ううん。私が隠してたから」

 普通、そこは私が謝るところだよな、と笑いそうになったけれど、栄太兄は避妊が私任せだったことも気になっていたらしい。しゅんとしていた顔をはっとこわばらせて、次いで呟いたのは、

「……彩乃さんに怒られるやろか」

 だった。
 ころころ変わる表情が可笑しくて、私は笑いを堪えて首を横に振った。

「怒んないよ。怒ったら、私が欲しかったからって言いきる」
「そ、そうか……いや、でも……」
「大丈夫だって」

 心配しないで、と肩を叩くと、栄太兄は慌てて立ったままの私を座らせた。

「あの、つわりとか、平気なんか。彩乃さん、えらいひどかったて聞いたけど」
「うん、今のところは平気。ちょっと眠いな、ってくらい。――個人差すごいっていうから」
「そうか」

 何度も頷いて、そこでようやく、実感が湧いてきたらしい。
 私の顔を見て、お腹を見て、「……そうか」とまた呟いて、くしゃりと破顔した。

「……そうか。俺たちの子どもか」

 「触ってもええ?」と訊かれて、頷く。私のお腹に恐る恐る触れる手がくすぐったくて、「まだ全然、豆粒くらいだもん、触っても分かんないよ」と笑った。
 栄太兄は「うん」と頷いて、目を潤ませて、私を抱きしめた。

「――あかん、嬉しくて死にそうや」
「やだ、死なないでよ。――死んじゃったら困るよ」
「死なへん、死なへん。言葉のアヤっちゅうやつや。――そうか。俺がお父さんになって、礼奈がお母さんになるんやな。すごいな。すごいわ」

 こんなに喜んでくれる人がいるんだなっていうくらい、栄太兄は喜んでくれた。それから、職場にも伝えて、家事は栄太兄が率先して引き受けてくれて、まだいるんだかいないんだかも分からないお腹の子を大事にしてくれている。
 だから、この子もきっと、幸せになるだろうな、なんて、私はもうそんな気が早いことを思っている。
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