五月病の処方箋

松丹子

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 飲み始めて二時間半ほどした頃、克己が時計を見て呟いた。
「九時半か」
「どうしたの?」
「いや、ううん」
 克己は笑う。
「九時っていうと、子供は寝る時間だったなと思って」
 ーー子供。
 玲子の脳裏を、様々な可能性が過ぎった。
「九月が予定日で」
 克己は言って、またビールを一口口にした。
 玲子は咄嗟に動きを止めた。
(こういうとき、何て言うもんだっけ)
 一瞬、脳内に言葉を探す。
「ーーおめでとう」
 見つかった言葉を口にしながら、また小さく胸を刺す痛みを感じた。
(結婚してるんだから、当然でしょうに)
 玲子には、まだ分からない。その痛みが克己への想いによるものなのか、それとも玲子を置いて先に行く同窓生への焦燥なのか。
 克己は玲子の内心には気付かない。表面上の笑顔を見て取って、照れ臭そうに微笑んだ。
「うん。ーーありがとう」
 玲子はひと呼吸置いてから、はは、と笑った。
「やだぁ。克己もパパになるんだぁ」
「そうなんだよね。まだ自覚ないけど」
「もう、動いたりするもん?」
「妻にはわかるらしいけどね。俺にはまだわかんない」
「そっかぁ」
 始終胎児と一緒にいる母親と克己は当然実感も違うだろう。
「ーーそっかぁ」
 玲子はしみじみ呟いて、ビールの後追加したサングリアを喉に流し込んだ。
「早く帰らなくていいの?」
「今日は実家に泊まるって言ってた。疲れやすいらしくて」
「そうなんだ。奥さん、仕事は?」
 確か、ビジネスファッション系のアパレル会社で働いていたはずだ。
「妊娠分かって、辞めたよ。つわり辛そうだったから、俺も心配だったし」
「そう」
(心配、ね)
 不意に、椿希に自分が口にした言葉を思い出した。
 ーー家の中にこもりきり、っていうのは性に合わないようにも思うから、パートでもアルバイトでも、外には出るんだろうけど。
(違うわ)
 玲子は気づいて苦笑すると、グラスに残った最後の一口を飲み干した。
 克己のビールももう残り一口だ。
「出ようか」
 言いながら鞄を持ち、財布を出した。
「お祝いに、奢るよ」
 にこり、と笑う。お祝い、と言いながら、その実、お礼も兼ねている。
 ーーサシ飲みでの成果としては悪くない。
「いいよ、そんな」
「酔い覚ましにコーヒーでも飲みたいな。そっちは奢って」
 玲子の言葉に、克己は笑った。
「そういう男前なとこも、相変わらず」
 玲子はひらりと手を挙げて、身支度を整える克己を余所にレジに向かった。
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