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多田野は丁寧にも、玲子を自宅前まで送って行った。玲子はふわふわした意識の中で、とにかく何か確かな物をつかみたくて、多田野の背を見送った後でスマホを両手に転がした。
右手へ、左手へと転がしたとき、椿希から着信があった。
一瞬の躊躇いの後、通話に出る。
「もしもし?」
『あ、もしもし? 玲子さん?』
椿希の声の後ろで、賑やかな声がする。ふと腕時計を見やると、まだ十時にもならないと気づいた。既に出来上がってしまっている自分が、時間に取り残されたような、裏切られたような、不思議な感覚に襲われる。
『ちゃんと家に帰りました? 多田野さんにどっか連れて行かれたりしてない?』
まるで娘を心配する父親のようだ。
玲子は笑いそうになった。
「一緒に、ご飯、食べたよ」
舌足らずな口調は、聞いただけでも酔っていると分かるだろう。
『……玲子さん?』
椿希が疑わしげな声になる。
「キス、しちゃった」
できるだけ平坦に、玲子は言った。
言いながら、泣きそうになった。椿希は押し黙ったが、それが怒りを示すのか、困惑を示すのかも分からない。
(まるで人の感情を嗅ぎ取るセンサーが壊れたみたい)
思って、玲子はあはは、と声を出して笑った。
椿希は何も言わない。だから玲子が先に口を開いた。
「家、送ってもらっちゃった。そっちも楽しそうだね。私、もう寝るから。おやすみ」
椿希のいるどこかから、男女数人の笑い声が聞こえる。玲子は言うだけ言って、一方的に通話を切った。
途端にしん、と沈黙が耳に響いた。どく、どく、と心臓の音を大きく感じるのは、きっと酔っているからだ。
暗闇の中、目を閉じて、脈打つ自分のリズムに耳を澄ませる。
もう何も考える気にはならなかった。電話口で玲子を呼んだ椿希の声だけが、ぐわんぐわんとリフレインする。
(寝よ)
今はとにかく眠かった。玲子はスーツを脱ぎ捨てて、そのままベッドに横たわった。
夢の中でも、玲子は酔っていた。ふわふわして気持ちがいい。こんなに気分がいい酒は、だいたい克己が隣にいるときだ。
(ああ、ほら、やっぱり)
くすくす笑う玲子の前で、克己がおどけて笑って見せる。二人とももう何が面白いのかもわからない。ただ浮き立つ気持ちに任せて笑っていた。
「せっかく記念すべき二十歳の誕生日なのにさ」
克己は穏やかな相貌を無理矢理しかめて見せた。
「彼女もいないで過ごす俺、かわいそうじゃない?」
玲子は笑う。
「恋人がいない二十歳なんていくらでもいるでしょ」
「だってついこないだまでいたのにさ」
「自分が振ったくせに」
玲子が笑うと、克己はふてくされた。
「だって、毎日会えないとやだなんて言うからさ。毎日一時間電話してたのによ? どういうこと?」
「そのわがままをかわいいと思えないなら、小林くんこそその程度ってことでしょ」
「言うよなぁ、狩野ちゃん」
(あの頃はまだ、苗字で呼んでたんだっけ)
いつから名前で呼び合うようになったのだろう。克己と親しくなる過程は、あまりに自然すぎて節目節目を覚えていない。
「でもさぁ、二十歳よ? 節目じゃない?」
克己は不満げに言った。
「なんか特別なこと、一つくらいあってもいいと思うんだけどなぁ」
ずいぶん自分勝手な言いぶりだと笑ってから、玲子はちゃかすような視線を送って見せた。
「何がご所望なの?」
克己は少しだけ驚き、目を見開く。
「いいよ。私で叶えられるなら叶えてあげる。二十歳の誕生日プレゼント」
何がいい? と問うと、克己は目を泳がせた後、おずおずと玲子を見つめた。
「……じゃあさ」
克己は照れ隠しに強がりながら言った。
「キスしてよ。俺、女の子からされたことない」
「そんなこと」
玲子は聞き流そうとして、克己の瞳の奥に怯えの色があることに気づく。
それを見てしまっては、断れなかった。
「……いいよ」
玲子は克己の唇に、自分のそれを重ねた。
「誕生日、おめでとう」
微笑むと、克己の目が揺らいだ。
喉の乾きに目を開くと、そこには暗闇が広がっていた。深く眠ったのか、ずいぶん長く眠ったような気がしたが、気のせいらしい。
(克己とのキス……)
あのとき玲子には、何の感動もなかった。嫌でもなく、嬉しくもないーー
多田野と交わしたそれと同じように。
(どうしてだろう)
椿希とのキスは、身体中が反応した。鳥肌が立つように。毛穴が開くように。
それがただ、触れ合うだけのキスでも。
玲子は乾いた唇に手を当てた。
(したいな。ーーキス)
椿希と。
玲子はしばらく、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。
右手へ、左手へと転がしたとき、椿希から着信があった。
一瞬の躊躇いの後、通話に出る。
「もしもし?」
『あ、もしもし? 玲子さん?』
椿希の声の後ろで、賑やかな声がする。ふと腕時計を見やると、まだ十時にもならないと気づいた。既に出来上がってしまっている自分が、時間に取り残されたような、裏切られたような、不思議な感覚に襲われる。
『ちゃんと家に帰りました? 多田野さんにどっか連れて行かれたりしてない?』
まるで娘を心配する父親のようだ。
玲子は笑いそうになった。
「一緒に、ご飯、食べたよ」
舌足らずな口調は、聞いただけでも酔っていると分かるだろう。
『……玲子さん?』
椿希が疑わしげな声になる。
「キス、しちゃった」
できるだけ平坦に、玲子は言った。
言いながら、泣きそうになった。椿希は押し黙ったが、それが怒りを示すのか、困惑を示すのかも分からない。
(まるで人の感情を嗅ぎ取るセンサーが壊れたみたい)
思って、玲子はあはは、と声を出して笑った。
椿希は何も言わない。だから玲子が先に口を開いた。
「家、送ってもらっちゃった。そっちも楽しそうだね。私、もう寝るから。おやすみ」
椿希のいるどこかから、男女数人の笑い声が聞こえる。玲子は言うだけ言って、一方的に通話を切った。
途端にしん、と沈黙が耳に響いた。どく、どく、と心臓の音を大きく感じるのは、きっと酔っているからだ。
暗闇の中、目を閉じて、脈打つ自分のリズムに耳を澄ませる。
もう何も考える気にはならなかった。電話口で玲子を呼んだ椿希の声だけが、ぐわんぐわんとリフレインする。
(寝よ)
今はとにかく眠かった。玲子はスーツを脱ぎ捨てて、そのままベッドに横たわった。
夢の中でも、玲子は酔っていた。ふわふわして気持ちがいい。こんなに気分がいい酒は、だいたい克己が隣にいるときだ。
(ああ、ほら、やっぱり)
くすくす笑う玲子の前で、克己がおどけて笑って見せる。二人とももう何が面白いのかもわからない。ただ浮き立つ気持ちに任せて笑っていた。
「せっかく記念すべき二十歳の誕生日なのにさ」
克己は穏やかな相貌を無理矢理しかめて見せた。
「彼女もいないで過ごす俺、かわいそうじゃない?」
玲子は笑う。
「恋人がいない二十歳なんていくらでもいるでしょ」
「だってついこないだまでいたのにさ」
「自分が振ったくせに」
玲子が笑うと、克己はふてくされた。
「だって、毎日会えないとやだなんて言うからさ。毎日一時間電話してたのによ? どういうこと?」
「そのわがままをかわいいと思えないなら、小林くんこそその程度ってことでしょ」
「言うよなぁ、狩野ちゃん」
(あの頃はまだ、苗字で呼んでたんだっけ)
いつから名前で呼び合うようになったのだろう。克己と親しくなる過程は、あまりに自然すぎて節目節目を覚えていない。
「でもさぁ、二十歳よ? 節目じゃない?」
克己は不満げに言った。
「なんか特別なこと、一つくらいあってもいいと思うんだけどなぁ」
ずいぶん自分勝手な言いぶりだと笑ってから、玲子はちゃかすような視線を送って見せた。
「何がご所望なの?」
克己は少しだけ驚き、目を見開く。
「いいよ。私で叶えられるなら叶えてあげる。二十歳の誕生日プレゼント」
何がいい? と問うと、克己は目を泳がせた後、おずおずと玲子を見つめた。
「……じゃあさ」
克己は照れ隠しに強がりながら言った。
「キスしてよ。俺、女の子からされたことない」
「そんなこと」
玲子は聞き流そうとして、克己の瞳の奥に怯えの色があることに気づく。
それを見てしまっては、断れなかった。
「……いいよ」
玲子は克己の唇に、自分のそれを重ねた。
「誕生日、おめでとう」
微笑むと、克己の目が揺らいだ。
喉の乾きに目を開くと、そこには暗闇が広がっていた。深く眠ったのか、ずいぶん長く眠ったような気がしたが、気のせいらしい。
(克己とのキス……)
あのとき玲子には、何の感動もなかった。嫌でもなく、嬉しくもないーー
多田野と交わしたそれと同じように。
(どうしてだろう)
椿希とのキスは、身体中が反応した。鳥肌が立つように。毛穴が開くように。
それがただ、触れ合うだけのキスでも。
玲子は乾いた唇に手を当てた。
(したいな。ーーキス)
椿希と。
玲子はしばらく、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。
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