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第四章 死が二人を分かつまで
01 急報
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プロポーズしたのは、彼女の46歳の誕生日だった。
俺、がっちがちに緊張してさ。指輪の箱逆さまに差し出したりして、確か台詞も噛んじゃって。
俺にとっては結構、賭けみたいなもんだったんだよね。
つまり、一蹴されるか、そうじゃないかの。
彼女にとっては想定外だったみたい。
一瞬、ぽかんとしてた。
結婚なんて諦めてた彼女だったから、戸惑ってた。
子どもはできないとか、俺にメリットはあるのかとか色々聞いてきたけど、俺が一緒にいたいんだって言うと、それなら、って受けてくれた。
あんなに緊張したのって、後にも先にもあのときくらいだ。
結婚って、契約でしょう。
相手を縛る契約。
俺はヨーコさんを縛って、ヨーコさんは俺を縛るわけだよね。
それがそんなに嬉しいだなんて、思いもしなかった。
一生をあなたに縛られたいとか、なんかそんなこと、言った気がする。
* * *
結婚して8年の一月。
ヨーコさんと会社から帰宅した俺に、次兄から電話があった。
次兄は千葉の実家に母と同居している。
電話は母の急死を伝えるもので、兄の言葉を聞くや、俺は思わず、スマホを取り落とした。
「お義兄さん。すみません、ヨーコです」
落ちたスマホを拾い上げ、ヨーコさんがメモを取る。
「はい……明日の18時……はい。ええ。……分かりました、二人で向かいます。お手伝いできることがあるなら、言ってください」
一通りのことを聞き取り、ヨーコさんは通話を切った。
「……ジョー」
呆然としたままの俺の頬を、気遣わしげにヨーコさんが撫でる。
「……だ、って……こないだ……元気で……」
俺の実家には、俺とヨーコさん、二人で年末年始に顔を出した。母も含めて賑やかに酒を酌み交わしたばかりだ。
兄の電話では、今朝方、なかなか起きて来ない母を見に行ったら、もう息をしていなかったそうだ。
家での死去なので、警察の聴取などもあり、各種手続きをしていて連絡が遅れたと言ったが、中途半端な時間に俺に連絡をすれば動揺させると思ったのだろう。そういう気遣いのできる兄だと、俺も知っている。
俺はきょうだいの中で一番年下で、ずっと子ども扱いされていて、甘やかされて、心配されていた。母にも「あんたはいつまでも子どもねぇ」とあきれられて、「葉子さんを苦労させちゃ駄目よ」と何度言われたことか。
そして同時に、事あるごとに言っていた。
「葉子さんはあなたにはもったいない人よ。大切にしなさいね」
ヨーコさんが黙って俺を抱きしめる。俺もゆっくりと抱きしめ返した。
母は79、俺は39歳。
それでもまだ甘えていたのかもしれない。
改めて気づいて、自分にあきれた。
「……ヨーコさん」
「うん」
「……なんで、ヨーコさんが泣いてるの」
ぐずぐずと俺のスーツに顔を押し付けている愛妻に、先手を越されて泣けなくなる。
「だ、だって……お義母さん……今年は、京都に一緒に行こうて……言うてたんで」
元気な母だった。明るい母だった。
いつでも穏やかに笑っていて、葉子さんのことも本当の娘のように可愛がっていた。
「……うち、案内するて、約束して……」
震える声が、嗚咽を噛み殺す。
俺はその髪を撫でた。
相変わらず短い髪は、昔より少し、柔らかく細くなった。
ヨーコさんが涙に濡れた顔を上げる。潤んだ瞳は、出会った頃よりも初々しく、彼女の心を宿している。
いつ見ても、今の彼女が一番綺麗だ、と思う。
俺は微笑んだ。少なくとも、微笑んだつもりだった。
「ありがとう」
言葉を呟くと共に、涙が溢れた。
ヨーコさんの瞳からも、またぼろぼろと涙が溢れる。
実母との関係が円滑とは言えなかった彼女は、実の親以上に俺の母を慕っていた。
お義母さんが本当のお母さんやったらよかったのに、と、俺に呟いたのは一度や二度ではない。
ときに嬉しそうに頬を染めて母と笑って話す姿に、ヤキモチすら妬いた。
母はそんな余裕のない俺を見て笑った。
そうして二人が並ぶ姿も、もう二度と見られない。
ぽっかりと空いた穴には現実味がなくて、でもこれが嘘だなどという可能性もなくて、二人で落ち着くまで互いにしがみついて、どちらからともなく唇を合わせた。
愛している者が目の前にいることを確認するように。
その身体に血が通い、呼吸を繰り返していることを確認するように。
触れるだけの口づけを、唇から頬に、伝い落ちる涙に重ねていくうち、ようやく落ち着いてきた俺たちは、額と額を重ねてじっと目を見つめた。
「……落ち着いた?」
「……落ち着いた」
俺の問い掛けに頷いて、ヨーコさんが照れたように苦笑する。
「……堪忍な」
「なにが?」
「……先に泣いてもうて」
俺が泣く機会を逸しかけたのに気づいているのだろう。そう言いながらまた目元の涙を手で拭う姿に、俺は微笑む。
「いや、むしろ……おかげで、俺も泣けました」
ヨーコさんは首を傾げた。
「そうなん?」
「多分」
「ふぅん」
言って、俯く。
しばらくの沈黙。
俺がその耳を撫でると、ヨーコさんがちらりと目を上げた。
「ジョー」
「何ですか」
「……お願い、してもええか」
言う頬が少し赤い。
こういうときは、相当に可愛いことを言うとき。
動揺しないよう、心中身構える。
ヨーコさんは俺のスーツの裾を申し訳程度につまみ、戸惑ったような、かき消えそうな声で言った。
「……今日、二人で、裸で眠ってもええ?」
俺は息を止めた。
ヨーコさんは取り繕うように口を開く。
「不謹慎な話してるんやないで、あの、ジョーが生きてるのを感じて眠りたいだけで、そのーー」
一所懸命に弁解しようとする彼女の頬にキスをすると、ヨーコさんは目を上げた。
俺はその身体を抱きしめる。
「うんーーうん。俺もそうしたい」
彼女の首元に鼻を寄せ、昔から変わらない優しく甘い匂いを嗅ぐ。
「俺も、ヨーコさんが生きてるのを感じながら寝たい」
ヨーコさんはほっとしたように、身体の力を抜いた。
そしてまた、どちらからともなく唇を合わせた。
俺、がっちがちに緊張してさ。指輪の箱逆さまに差し出したりして、確か台詞も噛んじゃって。
俺にとっては結構、賭けみたいなもんだったんだよね。
つまり、一蹴されるか、そうじゃないかの。
彼女にとっては想定外だったみたい。
一瞬、ぽかんとしてた。
結婚なんて諦めてた彼女だったから、戸惑ってた。
子どもはできないとか、俺にメリットはあるのかとか色々聞いてきたけど、俺が一緒にいたいんだって言うと、それなら、って受けてくれた。
あんなに緊張したのって、後にも先にもあのときくらいだ。
結婚って、契約でしょう。
相手を縛る契約。
俺はヨーコさんを縛って、ヨーコさんは俺を縛るわけだよね。
それがそんなに嬉しいだなんて、思いもしなかった。
一生をあなたに縛られたいとか、なんかそんなこと、言った気がする。
* * *
結婚して8年の一月。
ヨーコさんと会社から帰宅した俺に、次兄から電話があった。
次兄は千葉の実家に母と同居している。
電話は母の急死を伝えるもので、兄の言葉を聞くや、俺は思わず、スマホを取り落とした。
「お義兄さん。すみません、ヨーコです」
落ちたスマホを拾い上げ、ヨーコさんがメモを取る。
「はい……明日の18時……はい。ええ。……分かりました、二人で向かいます。お手伝いできることがあるなら、言ってください」
一通りのことを聞き取り、ヨーコさんは通話を切った。
「……ジョー」
呆然としたままの俺の頬を、気遣わしげにヨーコさんが撫でる。
「……だ、って……こないだ……元気で……」
俺の実家には、俺とヨーコさん、二人で年末年始に顔を出した。母も含めて賑やかに酒を酌み交わしたばかりだ。
兄の電話では、今朝方、なかなか起きて来ない母を見に行ったら、もう息をしていなかったそうだ。
家での死去なので、警察の聴取などもあり、各種手続きをしていて連絡が遅れたと言ったが、中途半端な時間に俺に連絡をすれば動揺させると思ったのだろう。そういう気遣いのできる兄だと、俺も知っている。
俺はきょうだいの中で一番年下で、ずっと子ども扱いされていて、甘やかされて、心配されていた。母にも「あんたはいつまでも子どもねぇ」とあきれられて、「葉子さんを苦労させちゃ駄目よ」と何度言われたことか。
そして同時に、事あるごとに言っていた。
「葉子さんはあなたにはもったいない人よ。大切にしなさいね」
ヨーコさんが黙って俺を抱きしめる。俺もゆっくりと抱きしめ返した。
母は79、俺は39歳。
それでもまだ甘えていたのかもしれない。
改めて気づいて、自分にあきれた。
「……ヨーコさん」
「うん」
「……なんで、ヨーコさんが泣いてるの」
ぐずぐずと俺のスーツに顔を押し付けている愛妻に、先手を越されて泣けなくなる。
「だ、だって……お義母さん……今年は、京都に一緒に行こうて……言うてたんで」
元気な母だった。明るい母だった。
いつでも穏やかに笑っていて、葉子さんのことも本当の娘のように可愛がっていた。
「……うち、案内するて、約束して……」
震える声が、嗚咽を噛み殺す。
俺はその髪を撫でた。
相変わらず短い髪は、昔より少し、柔らかく細くなった。
ヨーコさんが涙に濡れた顔を上げる。潤んだ瞳は、出会った頃よりも初々しく、彼女の心を宿している。
いつ見ても、今の彼女が一番綺麗だ、と思う。
俺は微笑んだ。少なくとも、微笑んだつもりだった。
「ありがとう」
言葉を呟くと共に、涙が溢れた。
ヨーコさんの瞳からも、またぼろぼろと涙が溢れる。
実母との関係が円滑とは言えなかった彼女は、実の親以上に俺の母を慕っていた。
お義母さんが本当のお母さんやったらよかったのに、と、俺に呟いたのは一度や二度ではない。
ときに嬉しそうに頬を染めて母と笑って話す姿に、ヤキモチすら妬いた。
母はそんな余裕のない俺を見て笑った。
そうして二人が並ぶ姿も、もう二度と見られない。
ぽっかりと空いた穴には現実味がなくて、でもこれが嘘だなどという可能性もなくて、二人で落ち着くまで互いにしがみついて、どちらからともなく唇を合わせた。
愛している者が目の前にいることを確認するように。
その身体に血が通い、呼吸を繰り返していることを確認するように。
触れるだけの口づけを、唇から頬に、伝い落ちる涙に重ねていくうち、ようやく落ち着いてきた俺たちは、額と額を重ねてじっと目を見つめた。
「……落ち着いた?」
「……落ち着いた」
俺の問い掛けに頷いて、ヨーコさんが照れたように苦笑する。
「……堪忍な」
「なにが?」
「……先に泣いてもうて」
俺が泣く機会を逸しかけたのに気づいているのだろう。そう言いながらまた目元の涙を手で拭う姿に、俺は微笑む。
「いや、むしろ……おかげで、俺も泣けました」
ヨーコさんは首を傾げた。
「そうなん?」
「多分」
「ふぅん」
言って、俯く。
しばらくの沈黙。
俺がその耳を撫でると、ヨーコさんがちらりと目を上げた。
「ジョー」
「何ですか」
「……お願い、してもええか」
言う頬が少し赤い。
こういうときは、相当に可愛いことを言うとき。
動揺しないよう、心中身構える。
ヨーコさんは俺のスーツの裾を申し訳程度につまみ、戸惑ったような、かき消えそうな声で言った。
「……今日、二人で、裸で眠ってもええ?」
俺は息を止めた。
ヨーコさんは取り繕うように口を開く。
「不謹慎な話してるんやないで、あの、ジョーが生きてるのを感じて眠りたいだけで、そのーー」
一所懸命に弁解しようとする彼女の頬にキスをすると、ヨーコさんは目を上げた。
俺はその身体を抱きしめる。
「うんーーうん。俺もそうしたい」
彼女の首元に鼻を寄せ、昔から変わらない優しく甘い匂いを嗅ぐ。
「俺も、ヨーコさんが生きてるのを感じながら寝たい」
ヨーコさんはほっとしたように、身体の力を抜いた。
そしてまた、どちらからともなく唇を合わせた。
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