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その後のできごとで一番鮮明に覚えているのは、僕が三年になった六月の文化祭だ。
進学校を自認している母校は、三年になると原則出し物がない。
だから、ほとんどの生徒が、出席だけ取って近所の図書館やカフェで自習する。
僕もどうしようかと思っていたけれど、せっかくだから校内を見て回ることにした。
部活の後輩たちに声をかけられ、適当に答えながら歩いていると、廊下に橘くんを見かけた。
白いワイシャツに黒いベスト。首元には黒い蝶ネクタイ、胸元には白いハンカチーフ。正装然とした姿はよく似合っていて、かっちりと膨らんだシャツは肩と胸の厚みを思わせた。
「あ、こんにちは」
「こ……んにちは」
素知らぬ顔で廊下を進んでいた僕は、挨拶されてびっくりした。
たいして話したこともないから、声をかけられるとは思わなかったのだ。
「喫茶店なんで、もしよければいらしてください」
橘くんが示した看板には、執事・メイド喫茶と書いてあった。
「……メイドさん、やるの?」
「あはは、残念ながら執事役です。先輩がご希望なら特別にやりましょうか」
何か気の利いたセリフをと思って口にすれば、橘くんの笑いと共に返ってきた。とりあえずユーモアとして受け取ってもらえたらしい。そのことにほっとして立ち去った僕が、廊下の端まで来たとき、後ろから走り寄って来る音がした。
背中を叩かれ振り向くと、肩に触れそうな距離に橘くんの胸があってどきりとした。橘くんは僕らの身体に隠れるようにしながら、小さな緑色の券を差し出した。
「――先輩、これ」
囁くような低い声が、周りにバレてはいけないと僕に知らしめる。慌てて受け取るとそれは、コーヒーの引換券らしい。
「俺が淹れるんで。飲みに来てください」
僕だけに向けられた目は優しく細められていて、それも今まで以上に近かった。僕がこくこくうなずいたのを確認して、橘くんは僕の肩を叩いて教室へ戻る。
去って行く広い背中をしばらく眺めて、もう一度手にした券に目を戻した。
知らないうちに、手に力が入っていたらしい。券は妙な形に歪んでいて、僕は慌てて、両手で券のしわを伸ばした。
そう言われたはいいものの、なかなか足を運ぶ勇気は持てない。
いつ頃行けばいいだろう。邪魔にならない時間に……と図書館で時間を潰すべく自習しているうちに、もう三時になろうとしていることに気づいた。
三時半には片付け開始だ。僕は時計と、机の上で何度もシワを伸ばしていた券を見比べて、慌てて立ち上がった。
急いで二年生の教室へ向かえば、食べ物を提供していたクラスは、軒並み売り切れて閉店していた。
結果、客は喫茶店に集中していて、橘くんがいるクラスも当然、混み合っているようだ。
その盛況ぶりにたじろいだ僕だったけれど、ちょうど列が途切れたのを目にして、思い切って入ることにしてみた。
普通は金券と引き換えに食券をもらい、中に案内してもらうのだけど、すでに食券を手にしている僕を見て受付の生徒はまばたきした。
「あ、あの……午前中、買うだけ買ってて……あとから来ようかなって……」
取り繕うと、それで納得してくれたらしい。そうですか、と微笑まれて、続く言葉にうろたえた。
「執事とメイド、どちらがよろしいですか?」
男なら、普通、メイドだろう。
と、瞬時に頭にそうよぎった。
けど、僕を誘ってくれたのは橘くんで。
橘くんは、メイド役じゃなくて。
混乱したまま、思わず聞いてしまった。
「……橘くんは……今日は女装、してないんですよね?」
受付はきょとんとしてから、噴き出した。
「そうですね、今日はしてないです。……橘くんの女装、みんな見たかったみたいですね。色んな方に言われてます」
「あ、そ、そうですか……」
僕はほっとしたような、困ったような気分で愛想笑いを浮かべた。
「橘くんのお知り合いですか?」
「えっと……いや……まあ……」
うなずいていいものか。そう思っていたら、ドアの前に人影が立った。
「おかえりなさいませ、お坊ちゃま」
背筋を伸ばして微笑む姿の、なんと端正なことか。
見惚れているのは僕だけじゃない。その場にいた全員だった。見慣れているはずの受付の子すら、ほうっとした顔で橘くんを見上げている。
すっかり場の空気を持って行ってしまった橘くんは、当然のように僕を中へ促した。
「こちらへどうぞ」
そこはただの教室のはずなのに、橘くんに促されると、本当にどこかの邸宅のような気がしてくる。僕はドキドキしながらその背に従って、窓際の一席に案内された。
「なかなかお帰りにならないので心配しておりました。ただいまコーヒーをお持ちします。お待ちくださいませ」
今まで聞いたこともない丁寧な敬語が、不思議なほど自然と降りてくる。白いテーブルクロスをかけただけの学習机と味気ない椅子には不釣り合いな丁寧さなのに、ここが特別な場所に思えて緊張にうつむいた。
目を合わせないままこくこくうなずくと、その様子を見下ろしていた橘くんの方から、ふっと、微笑むような気配がする。
顔を上げて、後悔した。慌てて顔を下ろし、膝上で両手を握る。橘くんは奥へと去った。覆いの向こうでコーヒーの準備をするのだろう。その背を視界の端に見ながら、僕は自分の感情を持て余していた。
――一瞬だけ見てしまった、慈愛に満ちた微笑みに、心臓がひしゃげたみたいに苦しかった。
進学校を自認している母校は、三年になると原則出し物がない。
だから、ほとんどの生徒が、出席だけ取って近所の図書館やカフェで自習する。
僕もどうしようかと思っていたけれど、せっかくだから校内を見て回ることにした。
部活の後輩たちに声をかけられ、適当に答えながら歩いていると、廊下に橘くんを見かけた。
白いワイシャツに黒いベスト。首元には黒い蝶ネクタイ、胸元には白いハンカチーフ。正装然とした姿はよく似合っていて、かっちりと膨らんだシャツは肩と胸の厚みを思わせた。
「あ、こんにちは」
「こ……んにちは」
素知らぬ顔で廊下を進んでいた僕は、挨拶されてびっくりした。
たいして話したこともないから、声をかけられるとは思わなかったのだ。
「喫茶店なんで、もしよければいらしてください」
橘くんが示した看板には、執事・メイド喫茶と書いてあった。
「……メイドさん、やるの?」
「あはは、残念ながら執事役です。先輩がご希望なら特別にやりましょうか」
何か気の利いたセリフをと思って口にすれば、橘くんの笑いと共に返ってきた。とりあえずユーモアとして受け取ってもらえたらしい。そのことにほっとして立ち去った僕が、廊下の端まで来たとき、後ろから走り寄って来る音がした。
背中を叩かれ振り向くと、肩に触れそうな距離に橘くんの胸があってどきりとした。橘くんは僕らの身体に隠れるようにしながら、小さな緑色の券を差し出した。
「――先輩、これ」
囁くような低い声が、周りにバレてはいけないと僕に知らしめる。慌てて受け取るとそれは、コーヒーの引換券らしい。
「俺が淹れるんで。飲みに来てください」
僕だけに向けられた目は優しく細められていて、それも今まで以上に近かった。僕がこくこくうなずいたのを確認して、橘くんは僕の肩を叩いて教室へ戻る。
去って行く広い背中をしばらく眺めて、もう一度手にした券に目を戻した。
知らないうちに、手に力が入っていたらしい。券は妙な形に歪んでいて、僕は慌てて、両手で券のしわを伸ばした。
そう言われたはいいものの、なかなか足を運ぶ勇気は持てない。
いつ頃行けばいいだろう。邪魔にならない時間に……と図書館で時間を潰すべく自習しているうちに、もう三時になろうとしていることに気づいた。
三時半には片付け開始だ。僕は時計と、机の上で何度もシワを伸ばしていた券を見比べて、慌てて立ち上がった。
急いで二年生の教室へ向かえば、食べ物を提供していたクラスは、軒並み売り切れて閉店していた。
結果、客は喫茶店に集中していて、橘くんがいるクラスも当然、混み合っているようだ。
その盛況ぶりにたじろいだ僕だったけれど、ちょうど列が途切れたのを目にして、思い切って入ることにしてみた。
普通は金券と引き換えに食券をもらい、中に案内してもらうのだけど、すでに食券を手にしている僕を見て受付の生徒はまばたきした。
「あ、あの……午前中、買うだけ買ってて……あとから来ようかなって……」
取り繕うと、それで納得してくれたらしい。そうですか、と微笑まれて、続く言葉にうろたえた。
「執事とメイド、どちらがよろしいですか?」
男なら、普通、メイドだろう。
と、瞬時に頭にそうよぎった。
けど、僕を誘ってくれたのは橘くんで。
橘くんは、メイド役じゃなくて。
混乱したまま、思わず聞いてしまった。
「……橘くんは……今日は女装、してないんですよね?」
受付はきょとんとしてから、噴き出した。
「そうですね、今日はしてないです。……橘くんの女装、みんな見たかったみたいですね。色んな方に言われてます」
「あ、そ、そうですか……」
僕はほっとしたような、困ったような気分で愛想笑いを浮かべた。
「橘くんのお知り合いですか?」
「えっと……いや……まあ……」
うなずいていいものか。そう思っていたら、ドアの前に人影が立った。
「おかえりなさいませ、お坊ちゃま」
背筋を伸ばして微笑む姿の、なんと端正なことか。
見惚れているのは僕だけじゃない。その場にいた全員だった。見慣れているはずの受付の子すら、ほうっとした顔で橘くんを見上げている。
すっかり場の空気を持って行ってしまった橘くんは、当然のように僕を中へ促した。
「こちらへどうぞ」
そこはただの教室のはずなのに、橘くんに促されると、本当にどこかの邸宅のような気がしてくる。僕はドキドキしながらその背に従って、窓際の一席に案内された。
「なかなかお帰りにならないので心配しておりました。ただいまコーヒーをお持ちします。お待ちくださいませ」
今まで聞いたこともない丁寧な敬語が、不思議なほど自然と降りてくる。白いテーブルクロスをかけただけの学習机と味気ない椅子には不釣り合いな丁寧さなのに、ここが特別な場所に思えて緊張にうつむいた。
目を合わせないままこくこくうなずくと、その様子を見下ろしていた橘くんの方から、ふっと、微笑むような気配がする。
顔を上げて、後悔した。慌てて顔を下ろし、膝上で両手を握る。橘くんは奥へと去った。覆いの向こうでコーヒーの準備をするのだろう。その背を視界の端に見ながら、僕は自分の感情を持て余していた。
――一瞬だけ見てしまった、慈愛に満ちた微笑みに、心臓がひしゃげたみたいに苦しかった。
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