夢幻燈

まみはらまさゆき

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(5)さみしい野原

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由夫は学校の帰りに、駅前の書店に寄った。

入口近くのマンガや雑誌の置いてあるコーナーを通り過ぎ、ハードカバーの本が並んでいる辺りをウロウロして、心理学のコーナーで足を止めた。
そこには軽い読み物から大学のテキストにでも使うような専門書まで、心理とか精神関係の本が集められていた。

その中から、夢判断の本を探して抜き出し、ページをめくり始めた。

夢の意味を分析する事から、深層意識で何を求めているか分かるという。
由夫が見た夢が、本当に深層意識から湧き出してきたものなのか、夢幻燈の作用によるものか、それは分からなかったが、せめてもの気休めくらいにはなるだろう、と思っていた。

その本を、つまみ食いするみたいに斜め読みするうちに、ある個所で目が止まった。

「離別した人や死別した人が夢に出てくる場合は・・・その人の事を忘れて、新たな人生に向かって歩み出す心の準備ができたという事です」

だいたい、そんな内容が書かれていたのだった。

それはその著者のひとつの説に過ぎないのかもしれないが、思わず由夫は、そこの部分を何度も読み返した。

かずねえと別れてから、彼女の夢を見る事はなかった。
かずねえの事を考えながら眠りに落ちても、夢には彼女の気配さえ感じる事はできなかった。

それは、由夫自身は、かずねえから心が離れていっているからではないかと、ひそかに恐れていた。
かずねえは、由夫にとって忘れる事のできない、そして忘れてはならない存在であるはずだった。

それなのに、彼女の夢を見ない。

たまたま立ち読みしているこの本の内容を信じるならば、実のところは、彼女を忘れられず、いつまでもこだわりつづけているという事になる。
いまだに心に整理が付いていないという事にもなる。

そうだ、夢といえば・・・両親から逃げようとした一昨日の夢は、どうなるのだろう。
その夢のなかで、両親の姿は見ていない。

しかし、彼を呼ぶ声はどこまでも追ってきた。
親としての義務を果たさず、彼を捨てたに等しい、怨みの対象にしかならない両親の声を振り払うのに精一杯の夢だった。

両親に対しては罵倒しボコボコにしてやる程度では済まされない、殺意に似た思いさえ抱いていた。
父親は1年前に自死してしまい、復讐することすらできなくなってしまったけれども。

これでは、心の整理ができているとは決して言えないのではないか・・・?

そこまで考えた時、不意に両膝を後ろから前に押された。
予告なしの膝カックンでのけぞりそうになり、はっと振り返って見ると琴美だった。

「何読んでるの?」

彼女はいたずらっぽく笑いながら、聞いてきた。

・・・

つい先日にも、同じような事があった。

定期試験の始まる数日前、由夫は図書室で本を読んでいた。
と言っても、閲覧室は自習する生徒で席はふさがっていたから、書庫の書架と書架の間で、かび臭くほこりっぽい古い本を立ち読みしていた。

その彼のわき腹のくすぐったいツボを、突ついてくる指があった。
琴美だった。

彼女は、まるで素行不良の生徒を見つけた補導員のような口調で、けれどもやはりいたずらっぽく笑いながら言った。

「テスト前に勉強せんで、いいの? 成績落ちても知らんよ~。・・・ひょっとしたら、今度のテストは山下君ひとりでクラスの平均を下げたりなんかして」

それだけ言うと、琴美はずんずんと書庫から出て行った。

その時ばかりは、イヤなだ! と心底思った。
書店でも同じような事をされて、図書室での一件が一瞬頭を過ぎったが、しかし今回の琴美はバカにしたようなそぶりはなかった。

彼女は、由夫が手にしている本の背表紙を指先で起こして、表紙を見た。

「夢判断?」

由夫は、どう説明したらいいか、言葉に詰まった。

「あはは~、山下君らしくない」

琴美は、由夫の目を見ながら、しかしおどけて言った。
けれども、由夫はさらに言葉が見付からず、その代わりに彼女に尋ねた。

「昨夜さ、砂漠の夢を見た?」
「え? ……砂漠?」

 こんどは、琴美がきょとんとした。

「この本に、砂漠の夢がどうとか書いてあるの?」

彼女は、由夫の手から本を取り上げようとした。
彼はあわててそれを取り返し、少々乱暴にもとの場所に収めると、彼女から逃げるように出口に向かった。

彼は、突然の混乱に襲われていた。

琴美は、なんで彼にお節介やちょっかいを出すのだろうか。
やはりバカにしているのだろうか。

だとしたら、彼は気を悪くしてそれが当然だ。
なのに、彼自身がたった今琴美に取った態度については、しまった! と後悔していた。

琴美は、イヤな娘だと思う。
けれども、いい娘だとも思う。

暗い街路に出た由夫に、琴美は追い付いた。

「ごめん、ごめん! 気を悪くした? ・・・ごめんって!」

もう、からかうような口調はなく、本当に謝っているようだった。

彼は、歩みを緩めた。
心は沈んだ。

謝られては、余計困ると思った。
それだけ、琴美を傷付けたような気になるからだった。

信号待ちで、二人は並んだ。
琴美は、ボソッと言った。

「山下君、おかしいよ、昨日から・・・昨日の朝、妙に晴れ晴れとしてるな、珍しいな、って思っていたのに、そのうちだんだん、魂を抜かれたみたいにぼんやりしてきたでしょう」

由夫は、ハッとした。

夢幻燈で夢を見てから、気持ちが明るくなったと思っていた。
それが今では、出口の見えないところに迷い込んでしまっていた。

「今日も数学の時間中に、教科書、違うページを開いたりして。・・・さっきだって、夢の本を、棚にさかさまに突っ込んでたじゃない」

歩行者信号が青になった。
二人は歩き出した。

琴美は、まだまだ言い足りない、いま言わなきゃいつ言うんだとばかりに、彼に小言を続けた。
それは駅まで来ても、まだ続いていた。

ひとりの会社帰りらしい若いサラリーマンが、いくらか興味の眼差しで二人を横目で見ながら、通り過ぎた。
由夫は、それを感じて思わずカッとなった。

(どうしてこんなに僕の事に構うんだ。ほっといてくれ!)

彼は心の中で叫んだ。

いや、「ほっといてくれ」は思わず口を突いて出た。
琴美は押し黙った。

黙ったまま、彼をじっと見つめていた。
街の明かりにほのかに照らされた顔が、泣き出しそうに歪みはじめた。

しまったと思ったが、遅かった。
琴美は、「ごめん、言いすぎた」と、それだけ言うと、改札に向かって駆け出した。

由夫もまた、琴美を今度こそ本当に傷付けた事を知り、悲しさがとめどなく湧いてくるのを感じていた。

・・・

食事は、のどを通らなかった。
いつまでも、琴美の泣きそうな顔が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えていた。

いくら咀嚼しても、味は感じられなかった。
飲み込むのがきつかった。

その夕食の後、両親が居住まいを改めて言った。

「今度、おまえのお父さんの一周忌だが、どうするか」

由夫は、行くとも行かないとも返事できなかった。
俯いて黙ったままだった。

昨年、仕事も何もかもうまくいかず失意のうちに孤独なまま、突然に自ら命を絶った父。

葬儀に、由夫の実母の姿はなかった。
わずかにひっそりと集まった親戚の者が由夫の両親について悪い噂話をしていたが、彼がそこに近付くと目を伏せて話題を打ち切った。

その代わり、あんたは憐れだ、あんな親の元に生まれて、可哀想だ、などと口々に慰めた。

「でも辰郎さん(養父)のところに貰われて、本当によかった」

そんな事を言う者さえいた。

由夫は、実の両親を憎んではいたが、それらの言葉には怒りが湧いてきた。
確かにひどい両親で彼自身も嫌っていたのだったが、親族とはいえ彼以外の他人が悪口を言うのはどうしても許せなかった。

それから一年・・・。
葬儀の時と違って、一周忌にはほとんど誰も出向かないらしかった。

由夫は、新たな悲しさを感じた。
皆から疎まれ嫌われ、その死を悼まれる事なく、そして死後にも偲ばれる事のない人物が確かにいたのだと思うと、ただただ憐れで、虚しかった。

そして、その人物の血を継ぐ者が自分自身であるという事実への怖れと慄き。
彼はしばらく迷い、言った。

「たぶん、行けないと思う。試験の成績が悪かったから、勉強するよ」

養父母は言った。

「そうだな。僕もその日は中国からの見学者を迎えないとならない」
「私も、手芸展の準備があるから、行けませんよ」

心に迷いを残したまま彼は、自室に戻った。
父親の事、琴美の事、かずねえの事が代わる代わるに、あるいはまとめて一度に襲ってきて、彼の心を乱した。

宿題が手につかず、マンガや本を読んでも内容を追えなかった。
机に向かい、悩み通していた。

その夜も、彼は夢幻燈をセットした。
その木箱の装置だけが、彼を救ってくれそうな気がした。

カートリッジは「野原」にした。

目の前のスクリーンには、広い原野の映像が映っていた。
秋の日を浴びて銀色に輝くススキ野原、人の背丈ほどもある草むらの中に続く道、青空の中に浮かぶ雲をくっきりと映した湿地、葦原、飛ぶ鳥。

しかし心の乱れは収まらず、昂ぶったままだった。
スクリーンの映像は、一定時間ごとに変わっていったが、用意されている映像がひととおり映されると最初に戻る、エンドレスだった。

何十分も、何時間も、同じ風景の繰り返しだった。

何時ごろだったのかは分からない。
ようやく彼は眠りに就いたが、夢の中では、曇り空の下、冷たい風が枯草色の草原を波打たせながら吹きぬける野原の中を、どこまでも彷徨い歩いていた。

草原の中の小径は、どこへ続くかも分からず延びていた。
水無し川を渡る木橋は、朽ちかけていた。

湿地の水面は、鉛色の空を映しながら波立っていた。
どこまで歩いても、誰とも出会わなかった。

いつまで歩いても、人の気配さえなかった。
からすの群れが、不気味に鳴きたてた。

目が覚めるまで、延々と歩いていた。
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