いま、きみの色の光を

星月暁

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静かなるアンフォルメル

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 ――改札口を出ると、知らない景色だった。
 緑が多くて、店は少なくて。
 詩乃の住む場所では考えられないほど静かで。
 ほんの少しだけこの駅で降りたことを後悔したし、逆に清々しくもあった。
 
 何をしようか、どう楽しむべきか。
 この気分は、まるで――。
 
 まるで、新しいキャンパスに描き始めるような。
 
 慌てて頭を振って、思考を消した。何を考えているんだ、自分は。
 
 とにかく、家に帰る気にもなれなかった。
 絵画教室での知り合いに会うのも面倒くさい。そう考えると、この場所はすごくありがたかった。どこを見ても人はいないし、あるのは店と自然だけだ。
 少し歩いていると、気分が上がっていくのを感じる。
 右、左と交互に景色を見て、冒険心で胸がいっぱいになった。
 
(そんなに重く考えなくても、優秀賞も十分すごいよね。才能ってあるよ、わたしがそれにちょっと追いつけないだけ)
 
 ――ふと、シャッターに貼られているいくつものポスターが目に入った。そのうちのひとつに、『何か』が書かれている。
 
 自分が避けていた、あの文字。
 
『ひまわり町絵画コンテスト結果!』
『最優秀賞 高校一年 白鳥 雫さん』
 その最優秀賞の作品が、でかでかとポスター全体に貼ってある。
 見ていると、ふわっと心が軽くなるようだった。これは、描いた人の通っている学校を描いたのだろうか。
 陽だまりのような、安心感を感じる。
 日の光のような、真っ直ぐさを感じる。
 技術は自分の方が上だ。
 
 でも、それ以外の心に響く何かが、ここにもある。
 ぎゅっと、感情が揺れた。
 私にはない、何かが、ある。
 
 一瞬で、心に棘が刺さるようだった。触れられるだけで痛いものが、心に巻き付いて離れなくて。
 じっと、作品を見つめていた。
 ずっとずっと、そうしていた。
 
(私には、もう無理だ)
 
 絵画なんて、描いていて何になる?
 何にもならない。
 ならなかったじゃないか。
 少なくとも私には、生涯こんな絵は描けないだろう。
 
(もう、諦めてしまえばいい)
 
「お嬢さん」
 
 はっとした。
 冷や汗が背中に伝わる。
 60歳くらいの、人の良さそうなお爺さんだった。
 優しく微笑んでいた。
「はい?」
 声を、出せた。
「その絵、好きなのかい?」
 お爺さんが、なんでもないことのように聞いた。
 
 好き?
 すき?
 この絵が?
 
「は、い。そうです、すき、だなと思ってみていて」
「この絵はねぇ、雫ちゃんの絵なんだよ」
「はい、あぁ、確かに書いてありますね、白鳥、雫、さん、ですか?」
 
 言葉が震えないように、慎重に話した。
 
「そう、あそこに八百屋があるでしょう? そこの娘さんなんだよ! すごいよねぇ、おじさんびっくり」
「へぇ……」
「この絵、好きなんでしょう? サイン欲しかったらもらっておいでよ! 雫ちゃん喜ぶぞ~っ」
 
 それはつまり、会えるということだろうか。何かを持っている、その人に。
 いつか、自分で最優秀賞の誰かを探そうとしたことがある。誰も知らないか、ほんの少しだけ知っている人がいるか。詩乃の頼りは近所の狭いコミュニティだけだった。
 だから、チャンスだ。
 少し微笑んで答えた。
 
「そうですね、もらってきます」


 
「ごめんください、ええと、雫さん? に会いたくて」
 例の八百屋に、小走りでやってきた。
 何かの正体がわかるかもしれないと思うと、居ても立っても居られなかった。
 
「えっと、私、ですか?」
 少し高い声がした。
 エプロンをして、大根を片手にもっている。
 ポニーテールの、落ち着いた雰囲気の女の子。
 
 そして、自分が探し求めている何かを持っているひと。
 
「はい、あなたのサインが欲しいのと――絵画を描くコツを、聞きたくて」
 
 未来が、少しだけ煌めいて見えた。
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