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1巻
1-2
近づいてきた黒狼はアンリの額に視線を向けると、痛々しそうに表情をゆがめた。まるでアンリの怪我に心を痛めているかのように。
それから黒狼はテオフィルのほうへ視線を移し、口を開いた。
「ならば、この子をオレの養子にしよう。この子をオレの跡継ぎとして育てる」
「ふぇ……」
驚いたような声は、テオフィルのものだ。
どういう話の流れかはわからないが、黒狼はテオフィルを引き取るつもりのようだ。この男のもとでなら、今よりはマシな境遇になるだろうか。
出会ったばかりだというのに、アンリはテオフィルの行く末を本気で心配し、幸福を願うようになっていた。やっと会えた、あの光が見えるたった一人の同胞だ。せめてこの子は、幸せな人生を歩んでほしい。
「それは……跡継ぎにしていただけるなら願ってもないことですが、なぜこの子なのです? この子の兄のほうが……」
「このテオフィルがいいのだ」
黒狼は、決然と言い放った。
なにを考えているのかはわからないが、黒狼は跡継ぎとして強くテオフィルを求めている。ならば、無下に扱われることはないだろう。
自分は、こんな風に誰かに強く求められたことなどないけれど――そんな思いが胸をかすめた。
「か、かしこまりました。それにしても、養子を跡継ぎにすることは、簡単には認められないと思いますが……」
王国の貴族は、血統第一主義だ。
理由もなしに養子を跡継ぎにすることは、基本的に認められない。
「ああ。だが、この王国では慣例的に、当主が同性婚を行う場合には、分家から養子を迎えて跡継ぎとして教育を行うことになっている」
黒狼は、滔々と理由を口にした。
同性婚は、数少ない例外の一つだ。同性同士では子を成せないのだから、養子を取るしかない。
子を成せないことは愛し合う二人を引き裂く理由にはならない……というのは建前で、性別を選ばず結婚できたほうが政略結婚に都合がいい。そういうことで、王国では同性婚が全面的に認められている。分家から養子を選ぶのだから血統が途絶えるわけではない、という理屈もこねられる。
「なんと、ついにご婚約ですか。お相手は同性の方なのですね。まるで存じませんでした。そうとおっしゃっていただければ、よろしかったのに。お相手は一体、どこのどなたなのですか?」
「相手は……」
黒狼は、床にしゃがみこんだままのアンリを一瞥した。なぜそこで自分を見るのだろう。
「この方だ。この方がオレの将来の伴侶だ」
黒狼は、ぽんと肩に手を置いた。アンリの肩にだ。
「は?」
思わず声が出た。
頭部と同じく漆黒の毛に覆われた手が、額の傷にガーゼを当てる。
鋭い爪の生えた手でありながら、白い肌を傷つけることなく器用に包帯を巻いていく。
黒い毛に覆われてはいるが、五本の細長い指と肉球のない手の平を見ると、彼が人間と同じ構造の肉体を持っていることがよくわかる。
アンリは長椅子に座った状態で、黒狼に怪我の手当を受けていた。
彼はアンリを伴侶にしてテオフィルを養子にする、と驚きの宣言をした後、「早く婚約者の手当をしてやりたいから、二人きりにしてくれ」と頼んだのだ。
婚約者。婚約者だと。
頭の中で反芻するたび、胃が躍り出しそうだった。
「これで完了だ」
黒い手が、最後にきゅっと包帯を結んだ。きつくないのに、ゆるみそうな気配もない。こなれた手当だ。
見上げるほど大柄で、にこりとも微笑まない彼が、こんなにも細やかな手当をしてくれるとは意外だった。
「戦場では、自ら包帯を巻かなければならないこともあるのでな」
アンリの視線を問いかけに感じたのか、黒狼は答えた。
戦場ではさぞ有能な指揮官なのだろう、と切れ長の怜悧な金の瞳から連想した。
「それよりも、聞きたいことがあるのだが……」
フィアンセやら伴侶やら養子やらの話だ。どういうつもりであんな嘘を口にしたのか、聞かせてもらわなければならない。アンリはキトンブルーの瞳で黒狼を鋭く睨みつけた。
「ああ……」
黒狼は、向かいの長椅子に腰かけた。
金の双眼が、アンリの視線をしっかり受け止める。
「あの子を養子に取りたいと思ったのだが、適当な口実が思いつかず……やむを得ず、貴殿を婚約者だと偽ってしまった。申し訳ない」
アンリは目を瞬かせた。
申し訳なさそうな顔色をしているのかどうか、アンリに獣人の表情は判別がつかない。
あんなに落ち着き払っていたように見えたのに、婚約者だなんだと言い出したのは口からでまかせにすぎなかったというのか。
「養子に取りたいと思ったのは、一体なぜ?」
「……あの子をこのままこの家に置いておいたら、どうなるかわからないからだ」
このまま虐待が深刻化すれば、テオフィルの身体と心が無事でいられる保証はない。アンリが感じたのと同じことを、彼もまた感じていたのだ。そして、咄嗟に嘘を吐いてでも助けようとした。
この男なら、信用してもいいのではないか。そんな考えが去来する。
「しかし、実際には私は貴方の婚約者ではない。よって、テオフィルを養子にすることはできない。どうするつもりだ?」
咄嗟の嘘が真実になることはない。テオフィルを救いたいという気持ちは痛いほど理解できるが、どうするのか。
――咄嗟の嘘が真実になることはない? それは本当に?
アンリの頭の中で考えが閃くのと、黒狼が口を開いたのは同時だった。
「そのことだが……本当に、オレと結婚してもらえないだろうか」
思わず、ぱちぱちと瞬いた。彼の言葉が理解できなかったからではない。自分が思いついた考えと、まったく同じだったからだ。
その通りだ。テオフィルを救うには、本当に結婚してしまうしかない!
「ほんの数年間でいい。あの子がオレの後継者だと、名実ともに認められるまで。そうすれば、あの子がこの家に連れ戻されることはないだろう。貴殿の時間を浪費させる提案だと理解している。結婚から数年で離婚すれば、貴殿の名誉が傷つくことも。だが、オレにはあの子を引き取る手段がそれしかない。金なら積む。だから、どうかオレと結婚してくれないか」
黒狼は腰を折って、深々と頭を下げた。
アンリは、黒狼の姿をしばし見つめる。王族相手といえど、辺境伯ともあろう人間が頭を下げるとは。相当な覚悟の表れだ。
「……金と引き換えの契約婚ということか」
黒狼の提案を、アンリは一言にまとめた。
政略結婚とは別に、金品などと引き換えに婚姻を結ぶ契約婚という概念は、しばしば耳にする。明確な目的があって、結婚の期限が定められていることが多い。
黒狼の提案は、いわゆる契約婚に該当すると判断した。
それにしても代価として金しか提示できないなんて、彼は実直すぎる人間のようだ。辺境伯なら、いくらでもやりようはあるだろうに。生き馬の目を抜く社交界では、さぞ苦労してきたことだろう。あくどいやり方はいろいろあるのだと、兄のコンスタンを見ていればわかる。
そもそも王族相手に、金を積むという提案が効果的だろうか。そこまで考えたところで、アンリはふと気がついた。
まさかこの男、契約婚を持ちかけた相手が、誰だかわかっていないわけではあるまいなと。こちらが第二王子であることに、気づいていないのではないだろうか。
いやいやまさか、そんな間抜けなことがあるわけがない。降って湧いた考えを、一旦横に置いておく。
「そう、金と引き換えの契約婚だ。あの子を救うために、どうか受けてもらえないだろうか……?」
黒狼の表情がわずかに動き、眉間に皺が寄った。懇願するように。
ほんの少し会話を交わしただけの、銀色のふわふわなあの子。自分と同じく光たちが目に見えるのだとわかっただけで、アンリはもうあの子のために全てをなげうってもいいとまで思っていた。それこそ、この黒狼と契約婚してもいいくらいに。
「わかった、貴方と契約を交わそう」
鋭い視線のまま返答すると、黒狼の肩からすっと力が抜けるのが見て取れた。
「ただし、契約に際して一つ条件がある」
「なんなりと聞こう」
「貴方がテオフィルの親にふさわしくないと判断した場合には、彼を連れて家を出ていかせてもらう」
アンリは厳しく言い放った。
辺境伯の家を出ても、王城に居場所はない。だが光たちの助けを借りれば、たとえ野山でも生きていけるだろう。
この男のところよりも野山で暮らすほうがマシだと判断することがあれば、テオフィルを連れて逐電するつもりだ。
「当然の条件だ。心しておく」
黒狼は重々しく頷いた。
こうして、二人の契約は成立した。一人の子を救うための、共犯関係だ。
「ところで、曲がりなりにも伴侶となる御身の名を聞きたいのだが」
アンリは尋ねた。
「む、まだ名乗っていなかったか。これは大変な失礼をした。オレはグウェナエル・ドゥ・デルヴァンクール。デルヴァンクール辺境伯領を治めている」
やはり辺境伯だったか。
予想が裏切られなかったことに、内心でそっと安堵する。
「よろしければ、貴殿の名も聞かせていただけないだろうか」
グウェナエルに名を請われ、アンリは口を開いた。
「この身は現国王が第二子、アンリ・ドゥ・シャノワーヌという名を持つ者だ」
「アンリ……ドゥ、シャノワーヌ……殿下……」
アンリが名乗っても、グウェナエルの表情は変わらなかった。
正確には、表情だけは変わらなかったと言うべきか。
黒く毛並みのいい尾は、アンリの名前を聞くなり爆発したかのように膨らみ、毛の一本一本を逆立たせていた。よくよく見ると、三角形の耳もピンと立っている。獣人に詳しくないアンリにすら、これが「驚愕」という感情を表していることはよくわかった。
――この男、本当に相手が誰かもわからないまま、契約婚を持ちかけたのか。
その事実は、テオフィルをなんとしても保護したいという彼の思いの必死さを伝えてきた。
だが、それ以上に。
なんというか……この男、思っていたよりもずっと、天然なのではないか?
まさか正体を知ったからといって契約を反故にしようと言い出しはしないだろうな、と言わんばかりに睨みつけたからか、あるいはグウェナエルの意志が硬かったからか。契約婚の話が取り消しになることはなかった。
引き取ると決めた以上、こんな家にテオフィルを一日でも置いておくわけにはいかない。
今すぐ引き取ろうということで、グウェナエルとアンリの意見は一致した。
事情を説明するために、部屋にテオフィルを呼んでもらった。
少しして使用人に連れてこられたテオフィルは、不安そうにグウェナエルとアンリとを見つめた。銀色の瞳は、緊張と恐れでいっぱいのように見開かれている。
アンリは微笑みを浮かべ、テオフィルの前に膝をついて目線を合わせた。彼のためなら、膝をつくことなどなんでもなかった。
「初めまして。さっきは挨拶をする暇もなかったね。私の名前は、アンリ・ドゥ・シャノワーヌ」
「こ、こんにちは。テオフィルです、五さいです。よろしくおねがいします」
少しつっかえたものの、テオフィルは物怖じせずに挨拶ができた。なんていい子なのだろう。
「よろしくね。これから大事な話をするよ。いいかな」
テオフィルは、ちっちゃい頭を動かして、こくんと頷いた。
どこもかしこもふわふわで、動くぬいぐるみのような子だ。彼の一挙手一投足が愛らしくて、自然と笑みが零れた。こんな風に優しい表情になれたのは、いつぶりだろうか。
アンリはグウェナエルを振り返った。ここから先は、責任者が説明すべきだろうと。
グウェナエルは頷き、口を開いた。
「先ほども聞いただろうが、オレはアンリ殿下と結婚するつもりだ。だが男同士では子を成せず、後継者ができない。そういう時は、分家から養子を取ることになっている。オレは、テオフィル、君なら後継者にふさわしいと思った。君さえよければ、これからオレの家に君を引き取ろうと思う。君の意見は、どうかな?」
彼がどう説明するかも、テオフィルにふさわしい親かどうかの判断材料の一つだ。彼が落第点を取り次第、すぐさまテオフィルの手を取って逃げ出すつもりだ。
アンリは、彼の言動を見定める。
子供に対するものとしては、口調が硬い。それに一気にたくさん説明しすぎだ。あれでは、五歳の子には理解が難しいだろう。目線の高さも合わせていない。別にアンリも慣れているわけではないが、グウェナエルはそれ以上に子供の相手が苦手なようだ。
だが、「後継者にふさわしいから」と前向きな理由を口にしている。テオフィルの意志も、きちんと確認している。子供相手が不慣れなだけで、テオフィルという個人を尊重するつもりはしっかりあるようだ。
グウェナエルと自分が契約婚で、いずれ別れることになることは、テオフィルには秘密にしておくつもりだ。そんなことを話しても、混乱させるだけだろう。グウェナエルは契約婚のことを、おくびにも出さなかった。それも評価できる。
ひとまず彼を信じてよさそうだ。
「おとうさまは、いいからうなずきなさいって……」
――あのマルクとかいう父親は。
アンリは、心の中で悪態を吐いた。
絶対に自分たちが引き取ってやらなければという思いが、さらに強くなる。
「テオフィル、君自身の気持ちが聞きたいのだ」
目線の高さこそ合わせていないものの、グウェナエルの瞳の色は優しい。穏やかな口調で、テオフィルの意見を促した。
「ようしになるって、へんきょーはくかっかと、あ、アンリさま……? が、おとうさまとおかあさまになるってこと?」
「その通りだ。我々は君の両親にふさわしき存在だろうか?」
「えっと……」
テオフィルは、迷ったように視線をさまよわせる。
その時、複数の光が前に出た。
光たちは、グウェナエルとアンリの周りを踊るようにくるくる回る。まるで、この二人なら大丈夫だと太鼓判を押してくれているかのようだ。
光たちの踊りを眺めていたテオフィルは、うつむいて床を見つめる。
心の中で本来の父母と、自分たちとを比べているのだろうか。どんなにひどい親だろうと、彼にとっては血の繋がった本当の親だ。簡単には愛を捨てられないだろう。アンリ自身が未だに父への愛慕や、いつの日か愛される期待を捨てきれないのと同じように。
もしかするとテオフィルは、この家に留まることを選ぶかもしれない。そうしたら、無理強いはできない。自分たちにできることはなにもない。
祈るような気持ちで銀毛に覆われた後頭部を見つめていると、意を決したかのようにテオフィルは顔を上げた。
「あ、あのね……おかあさまはね、おにいさまにはやさしいおかあさまなの。いつもえがおなの。でもね、テオにはおこってばっかり」
彼の語る内容に、心臓がぎゅっと締めつけられる。覚えのある胸の痛みだった。父に愛されているのは、兄だけ。どうして自分は愛されないのかと、思い悩んだ夜がどれほどあったことか。
「テオがこのおうちにいないほうが、おかあさまはいつもえがおでいられるのかも」
絞り出すような震えた声を聞くと、力の限り抱きしめたくなった。そんなことはないと言ってあげたかった。こんなに可愛らしい子がいて、笑顔でいられないなんてことがあるものか。
だが、現実は残酷なものだ。
本人が感じている通り、テオフィルはこの家にいないほうがお互いにいいだろう。
「だから、テオ……へんきょーはくかっかのおうちにいく」
テオフィルは、はっきり意志を口にした。
「よく、決断してくれたね」
これがテオフィルにとって、どれだけ苦しい決断だったことか。我が事のように感じ取ったアンリは、彼の小さな身体に両腕を回して抱きしめた。
「今度のおうちは、居心地のいいおうちにしてあげるからね」
アンリの声もまた、わずかに震えを帯びていた。
突如としてできたこの継子を、なんとしても幸せにしてやらなければ。
アンリは深く深く、胸に誓ったのだった。
テオフィルを連れ、グウェナエルとアンリは王城へ向かった。
結婚の許しを得るためだ。結婚とは親が許可するもので、アンリの場合は国王たる父の許可が下りなければ、結婚することは叶わない。
辺境伯家の馬車に乗り、揺られることわずか。王城に着いた二人は国王への謁見を申し出た。
それから、どれほど待たされただろうか。
テオフィルが退屈して、アンリに身体を預けて寝息を立てていた頃、ようやく一行は国王の間に通されることとなった。
国王の間に足を踏み入れると、部屋の中央を貫く絨毯の先に玉座があり、国王が厳めしい視線を一行へ向けていた。白髪の交じった茶髪に、同じ色の顎髭。疲労を感じさせる深い皺が、国王の視線を鋭いながらも無関心そうなものに見せている。 周囲には何人かの大臣が侍り、その中に兄のコンスタンもいた。兄は王太子として、国王の公務の手伝いをしている。この場にいるのは、なんら不思議なことではない。
一体なんの用だと言わんばかりに、兄は訝しげな視線を送ってきた。
大臣の中には、ブルレックの姿もある。
「あれはデルヴァンクール辺境伯か」
大臣の誰かが呟いた。
「デルヴァンクールというと、残虐だという、あの?」
誰かがそう言葉を継ぐ。
――残虐? 誰が? 隣の男が?
アンリの脳裏に浮かぶのは、アンリが王子だと知って尻尾を膨らませていたグウェナエルの姿ばかりだ。残虐なんて、およそ似つかわしくない言葉だ。
だが、誰かの呟きについて深く考えている時間はない。
グウェナエルとアンリは国王の前に跪き、テオフィルもまた小さな身体で真似をした。
「デルヴァンクール辺境伯と、結婚したいのだとか?」
国王たる父は、出し抜けに口を開いた。
謁見の目的は事前に大まかに伝えるが、実際に謁見したら改めて一から説明するのが正しい形式だ。それを省くのは手っ取り早く、一見鷹揚にも思えるが、その実この謁見をさっさと終わらせたいのだ。
跪いてうつむいたままのアンリは、唇を噛み締めた。
「結婚?」
どよめきが起こった。いきなり結婚かと、大臣らが囁き合っているようだ。「誑かした」だの「獣人と?」だのと聞こえてくる。
好きに言えばいい。テオフィルを救うためなら、今さらどんな噂が立ったところで気にしない。
「うむ、よかろう。めでたいことだ。アンリはそなたにくれてやる」
父はあっけなく、ぞんざいに婚姻の許可を下した。
ほんの少しの躊躇もなかった。本当に、自分は父にとってどうでもいい存在なのだ。
テオフィルという大事な存在を得た今なら、わかる。少しでもアンリを大事に思っているなら、その男が相手でいいのかどうか確かめようと思うはずだ。いきなり結婚だなんて、なにが起こったと聞きたくなるはずだ。
「なんなら、今ここで結婚の契りを済ませてしまうがいい。ほれ、誰でもいいから神官を呼べ」
「は?」
ぱんぱんと手を叩く父に対して声が上がったのは、隣からであった。
面を上げる許可も出ていないのに、驚愕のあまりつい顔を上げてしまったグウェナエルの姿が隣にあった。口をあんぐり開けている。
いくらなんでも、国王の間に神官を呼んで婚姻の契りを交わすなんて、聞いたことがない。どれだけ自分の存在をぞんざいに思っていれば、そんな発想が出てくるのだろうか。
いや、いくらアンリのことをぞんざいに思っていようと、婚姻の相手は辺境伯だ。これでは、グウェナエルのことまでぞんざいに扱っていることになる。国王といえども、辺境伯は軽々しく扱ってはならない存在のはずだ。
父はグウェナエルをも、ぞんざいに扱っているのだ。
不意に気がついた。兄コンスタンの獣人蔑視は、どこから来ているのか。兄より幾分か狡猾だから口に出さないだけで、父もまた獣人を見下しているのだ。
辺境伯領は国境に接する要衝の地でありながら、王都から離れているために、国王に睨まれた者が左遷される地としても有名だ。
獣人であるため武力に優れ、なおかつ気にくわない異種族を遠方の地に追いやれる。一石二鳥というわけだ。
自分のみならず、グウェナエルまで粗末に扱われている。気がつくと同時に、怒りが胃の腑を焦がした。こんなに激しい怒りを感じるとは、自分でも意外だった。
もう、父に期待するのはやめた。
いつか愛してもらえるかも、なんて望みは捨てよう。これからは、父とは関係のないところで生きていくのだ。契約婚が終わった後も、決して王城には戻らないと心に決めた。
見ると、グウェナエルの手もまた怒りを覚えているかのように震えていた。彼は同じ気持ちでいてくれる。単なる契約婚の相手だが、同じ気持ちを抱いてくれる人が伴侶でよかった。
ほどなくして、走ってきたのか真っ赤な顔の神官がやってきた。
グウェナエルとアンリの二人は跪いた姿勢から立ち上がり、神官の前に立った。
「えー、それではグウェナエル・ドゥ・デルヴァンクールとアンリ・ドゥ・シャノワーヌに問います」
このような略式での誓いの儀は初めてなのだろう、神官は言葉運びに困惑を滲ませながら問う。
「汝、互いを伴侶とすることを誓いますか?」
月のような金の双眼で神官をまっすぐに見据え、まずグウェナエルが口を開く。
「春が過ぎ、夏の暑さに晒されようと、秋になり葉が落ちて、冬の雪に包まれようと、アンリ・ドゥ・シャノワーヌを生涯伴侶とし、守り続けることを誓う」
彼は朗々と誓いの言葉を口にした。
誓いの言葉に、決まり文句はない。自分で考えるのがならわしだ。
いきなりで考える時間などなかったはずなのに、彼は意外なほど詩的な誓いの言葉を口にした。
もしかしたら父は恥を掻かせるつもりだったのかもしれないが、その目論見は打ち砕かれた。
ならば、自分もそれに続かねば。
「鋼鉄よりも固く揺るぎなき意思を持って、グウェナエル・ドゥ・デルヴァンクールの伴侶として添い遂げることを誓う」
アンリは淀みなく誓った。
実際には期限の定められた契約婚だが、テオフィルの保護者としての意思は鋼よりも固いつもりだ。
「然れば、誓いの口づけを」
神官に促され、二人は向き合う。
普通の結婚式なら、客人たちに祝福されながら、あるいは羨望の溜息を聞きながら口づけする場面だろう。
だが、今ここにあるのは好奇の視線だけだ。このような場所で誓いの口づけをさせられることが、どれほど屈辱的なことか。
恥辱で首筋まで顔が熱くなるのを感じていると、グウェナエルの口が動いた。
『オレだけを見ろ』
そう言っているように見えた。
月のような双眼に、視線が吸い寄せられる。金の海の中に、自分の姿が映っていた。金の猫毛に、キトンブルーの瞳。毎朝鏡に映る姿を呪っているのに、月面に映る自分はなぜだか心穏やかに見られた。
互いの瞳に、お互いの姿しか映らない。
まるで世界に二人しかいないみたいだ。
グウェナエルの細長い鼻筋が近づいて……唇のすぐ横に口づけが落とされた。父たちからは、唇に口づけたようにしか見えないだろう。
彼の気遣いに、胸のうちが温かくなる。
「おめでとーっ!」
下のほうから、可愛らしい祝福の声がした。テオフィルだ。
笑顔で尻尾を振っている。彼にとっては、これは純粋に喜ばしい出来事なのだ。略式でも結婚式をしてよかったと、少しだけ思えた。
その時。
あちらこちらから、大量の光が集まってくるのが目に入った。いつもアンリを助けてくれる、あの光たちだ。今まで見たこともないほど、たくさんの光が集まってくる。
寄り集まった光は少しずつ形をなし――巨大な女神となった。
「わあー……!」
現れた女神の姿に、テオフィルは歓声を上げた。
否、声を上げたのはテオフィルだけではなかった。気がつくと、騒めきが周囲を満たしていた。女神に指をさす者もいる。みんな、この女神が見えているのだ。
グウェナエルとアンリの頭上に現れた女神は、二人の上に光を降らせた。
七色に煌めく光を浴びると、不思議と心地よさを覚えた。全身に力がみなぎり、勇気が湧いてくるようだ。
祝福されているのだと、本能的に感じた。
「おお、これはもしや精霊神の祝福……! アンリ殿下が精霊の呼び手であられたとは!」
大臣の一人が目を爛々と輝かせながら言った。
それから黒狼はテオフィルのほうへ視線を移し、口を開いた。
「ならば、この子をオレの養子にしよう。この子をオレの跡継ぎとして育てる」
「ふぇ……」
驚いたような声は、テオフィルのものだ。
どういう話の流れかはわからないが、黒狼はテオフィルを引き取るつもりのようだ。この男のもとでなら、今よりはマシな境遇になるだろうか。
出会ったばかりだというのに、アンリはテオフィルの行く末を本気で心配し、幸福を願うようになっていた。やっと会えた、あの光が見えるたった一人の同胞だ。せめてこの子は、幸せな人生を歩んでほしい。
「それは……跡継ぎにしていただけるなら願ってもないことですが、なぜこの子なのです? この子の兄のほうが……」
「このテオフィルがいいのだ」
黒狼は、決然と言い放った。
なにを考えているのかはわからないが、黒狼は跡継ぎとして強くテオフィルを求めている。ならば、無下に扱われることはないだろう。
自分は、こんな風に誰かに強く求められたことなどないけれど――そんな思いが胸をかすめた。
「か、かしこまりました。それにしても、養子を跡継ぎにすることは、簡単には認められないと思いますが……」
王国の貴族は、血統第一主義だ。
理由もなしに養子を跡継ぎにすることは、基本的に認められない。
「ああ。だが、この王国では慣例的に、当主が同性婚を行う場合には、分家から養子を迎えて跡継ぎとして教育を行うことになっている」
黒狼は、滔々と理由を口にした。
同性婚は、数少ない例外の一つだ。同性同士では子を成せないのだから、養子を取るしかない。
子を成せないことは愛し合う二人を引き裂く理由にはならない……というのは建前で、性別を選ばず結婚できたほうが政略結婚に都合がいい。そういうことで、王国では同性婚が全面的に認められている。分家から養子を選ぶのだから血統が途絶えるわけではない、という理屈もこねられる。
「なんと、ついにご婚約ですか。お相手は同性の方なのですね。まるで存じませんでした。そうとおっしゃっていただければ、よろしかったのに。お相手は一体、どこのどなたなのですか?」
「相手は……」
黒狼は、床にしゃがみこんだままのアンリを一瞥した。なぜそこで自分を見るのだろう。
「この方だ。この方がオレの将来の伴侶だ」
黒狼は、ぽんと肩に手を置いた。アンリの肩にだ。
「は?」
思わず声が出た。
頭部と同じく漆黒の毛に覆われた手が、額の傷にガーゼを当てる。
鋭い爪の生えた手でありながら、白い肌を傷つけることなく器用に包帯を巻いていく。
黒い毛に覆われてはいるが、五本の細長い指と肉球のない手の平を見ると、彼が人間と同じ構造の肉体を持っていることがよくわかる。
アンリは長椅子に座った状態で、黒狼に怪我の手当を受けていた。
彼はアンリを伴侶にしてテオフィルを養子にする、と驚きの宣言をした後、「早く婚約者の手当をしてやりたいから、二人きりにしてくれ」と頼んだのだ。
婚約者。婚約者だと。
頭の中で反芻するたび、胃が躍り出しそうだった。
「これで完了だ」
黒い手が、最後にきゅっと包帯を結んだ。きつくないのに、ゆるみそうな気配もない。こなれた手当だ。
見上げるほど大柄で、にこりとも微笑まない彼が、こんなにも細やかな手当をしてくれるとは意外だった。
「戦場では、自ら包帯を巻かなければならないこともあるのでな」
アンリの視線を問いかけに感じたのか、黒狼は答えた。
戦場ではさぞ有能な指揮官なのだろう、と切れ長の怜悧な金の瞳から連想した。
「それよりも、聞きたいことがあるのだが……」
フィアンセやら伴侶やら養子やらの話だ。どういうつもりであんな嘘を口にしたのか、聞かせてもらわなければならない。アンリはキトンブルーの瞳で黒狼を鋭く睨みつけた。
「ああ……」
黒狼は、向かいの長椅子に腰かけた。
金の双眼が、アンリの視線をしっかり受け止める。
「あの子を養子に取りたいと思ったのだが、適当な口実が思いつかず……やむを得ず、貴殿を婚約者だと偽ってしまった。申し訳ない」
アンリは目を瞬かせた。
申し訳なさそうな顔色をしているのかどうか、アンリに獣人の表情は判別がつかない。
あんなに落ち着き払っていたように見えたのに、婚約者だなんだと言い出したのは口からでまかせにすぎなかったというのか。
「養子に取りたいと思ったのは、一体なぜ?」
「……あの子をこのままこの家に置いておいたら、どうなるかわからないからだ」
このまま虐待が深刻化すれば、テオフィルの身体と心が無事でいられる保証はない。アンリが感じたのと同じことを、彼もまた感じていたのだ。そして、咄嗟に嘘を吐いてでも助けようとした。
この男なら、信用してもいいのではないか。そんな考えが去来する。
「しかし、実際には私は貴方の婚約者ではない。よって、テオフィルを養子にすることはできない。どうするつもりだ?」
咄嗟の嘘が真実になることはない。テオフィルを救いたいという気持ちは痛いほど理解できるが、どうするのか。
――咄嗟の嘘が真実になることはない? それは本当に?
アンリの頭の中で考えが閃くのと、黒狼が口を開いたのは同時だった。
「そのことだが……本当に、オレと結婚してもらえないだろうか」
思わず、ぱちぱちと瞬いた。彼の言葉が理解できなかったからではない。自分が思いついた考えと、まったく同じだったからだ。
その通りだ。テオフィルを救うには、本当に結婚してしまうしかない!
「ほんの数年間でいい。あの子がオレの後継者だと、名実ともに認められるまで。そうすれば、あの子がこの家に連れ戻されることはないだろう。貴殿の時間を浪費させる提案だと理解している。結婚から数年で離婚すれば、貴殿の名誉が傷つくことも。だが、オレにはあの子を引き取る手段がそれしかない。金なら積む。だから、どうかオレと結婚してくれないか」
黒狼は腰を折って、深々と頭を下げた。
アンリは、黒狼の姿をしばし見つめる。王族相手といえど、辺境伯ともあろう人間が頭を下げるとは。相当な覚悟の表れだ。
「……金と引き換えの契約婚ということか」
黒狼の提案を、アンリは一言にまとめた。
政略結婚とは別に、金品などと引き換えに婚姻を結ぶ契約婚という概念は、しばしば耳にする。明確な目的があって、結婚の期限が定められていることが多い。
黒狼の提案は、いわゆる契約婚に該当すると判断した。
それにしても代価として金しか提示できないなんて、彼は実直すぎる人間のようだ。辺境伯なら、いくらでもやりようはあるだろうに。生き馬の目を抜く社交界では、さぞ苦労してきたことだろう。あくどいやり方はいろいろあるのだと、兄のコンスタンを見ていればわかる。
そもそも王族相手に、金を積むという提案が効果的だろうか。そこまで考えたところで、アンリはふと気がついた。
まさかこの男、契約婚を持ちかけた相手が、誰だかわかっていないわけではあるまいなと。こちらが第二王子であることに、気づいていないのではないだろうか。
いやいやまさか、そんな間抜けなことがあるわけがない。降って湧いた考えを、一旦横に置いておく。
「そう、金と引き換えの契約婚だ。あの子を救うために、どうか受けてもらえないだろうか……?」
黒狼の表情がわずかに動き、眉間に皺が寄った。懇願するように。
ほんの少し会話を交わしただけの、銀色のふわふわなあの子。自分と同じく光たちが目に見えるのだとわかっただけで、アンリはもうあの子のために全てをなげうってもいいとまで思っていた。それこそ、この黒狼と契約婚してもいいくらいに。
「わかった、貴方と契約を交わそう」
鋭い視線のまま返答すると、黒狼の肩からすっと力が抜けるのが見て取れた。
「ただし、契約に際して一つ条件がある」
「なんなりと聞こう」
「貴方がテオフィルの親にふさわしくないと判断した場合には、彼を連れて家を出ていかせてもらう」
アンリは厳しく言い放った。
辺境伯の家を出ても、王城に居場所はない。だが光たちの助けを借りれば、たとえ野山でも生きていけるだろう。
この男のところよりも野山で暮らすほうがマシだと判断することがあれば、テオフィルを連れて逐電するつもりだ。
「当然の条件だ。心しておく」
黒狼は重々しく頷いた。
こうして、二人の契約は成立した。一人の子を救うための、共犯関係だ。
「ところで、曲がりなりにも伴侶となる御身の名を聞きたいのだが」
アンリは尋ねた。
「む、まだ名乗っていなかったか。これは大変な失礼をした。オレはグウェナエル・ドゥ・デルヴァンクール。デルヴァンクール辺境伯領を治めている」
やはり辺境伯だったか。
予想が裏切られなかったことに、内心でそっと安堵する。
「よろしければ、貴殿の名も聞かせていただけないだろうか」
グウェナエルに名を請われ、アンリは口を開いた。
「この身は現国王が第二子、アンリ・ドゥ・シャノワーヌという名を持つ者だ」
「アンリ……ドゥ、シャノワーヌ……殿下……」
アンリが名乗っても、グウェナエルの表情は変わらなかった。
正確には、表情だけは変わらなかったと言うべきか。
黒く毛並みのいい尾は、アンリの名前を聞くなり爆発したかのように膨らみ、毛の一本一本を逆立たせていた。よくよく見ると、三角形の耳もピンと立っている。獣人に詳しくないアンリにすら、これが「驚愕」という感情を表していることはよくわかった。
――この男、本当に相手が誰かもわからないまま、契約婚を持ちかけたのか。
その事実は、テオフィルをなんとしても保護したいという彼の思いの必死さを伝えてきた。
だが、それ以上に。
なんというか……この男、思っていたよりもずっと、天然なのではないか?
まさか正体を知ったからといって契約を反故にしようと言い出しはしないだろうな、と言わんばかりに睨みつけたからか、あるいはグウェナエルの意志が硬かったからか。契約婚の話が取り消しになることはなかった。
引き取ると決めた以上、こんな家にテオフィルを一日でも置いておくわけにはいかない。
今すぐ引き取ろうということで、グウェナエルとアンリの意見は一致した。
事情を説明するために、部屋にテオフィルを呼んでもらった。
少しして使用人に連れてこられたテオフィルは、不安そうにグウェナエルとアンリとを見つめた。銀色の瞳は、緊張と恐れでいっぱいのように見開かれている。
アンリは微笑みを浮かべ、テオフィルの前に膝をついて目線を合わせた。彼のためなら、膝をつくことなどなんでもなかった。
「初めまして。さっきは挨拶をする暇もなかったね。私の名前は、アンリ・ドゥ・シャノワーヌ」
「こ、こんにちは。テオフィルです、五さいです。よろしくおねがいします」
少しつっかえたものの、テオフィルは物怖じせずに挨拶ができた。なんていい子なのだろう。
「よろしくね。これから大事な話をするよ。いいかな」
テオフィルは、ちっちゃい頭を動かして、こくんと頷いた。
どこもかしこもふわふわで、動くぬいぐるみのような子だ。彼の一挙手一投足が愛らしくて、自然と笑みが零れた。こんな風に優しい表情になれたのは、いつぶりだろうか。
アンリはグウェナエルを振り返った。ここから先は、責任者が説明すべきだろうと。
グウェナエルは頷き、口を開いた。
「先ほども聞いただろうが、オレはアンリ殿下と結婚するつもりだ。だが男同士では子を成せず、後継者ができない。そういう時は、分家から養子を取ることになっている。オレは、テオフィル、君なら後継者にふさわしいと思った。君さえよければ、これからオレの家に君を引き取ろうと思う。君の意見は、どうかな?」
彼がどう説明するかも、テオフィルにふさわしい親かどうかの判断材料の一つだ。彼が落第点を取り次第、すぐさまテオフィルの手を取って逃げ出すつもりだ。
アンリは、彼の言動を見定める。
子供に対するものとしては、口調が硬い。それに一気にたくさん説明しすぎだ。あれでは、五歳の子には理解が難しいだろう。目線の高さも合わせていない。別にアンリも慣れているわけではないが、グウェナエルはそれ以上に子供の相手が苦手なようだ。
だが、「後継者にふさわしいから」と前向きな理由を口にしている。テオフィルの意志も、きちんと確認している。子供相手が不慣れなだけで、テオフィルという個人を尊重するつもりはしっかりあるようだ。
グウェナエルと自分が契約婚で、いずれ別れることになることは、テオフィルには秘密にしておくつもりだ。そんなことを話しても、混乱させるだけだろう。グウェナエルは契約婚のことを、おくびにも出さなかった。それも評価できる。
ひとまず彼を信じてよさそうだ。
「おとうさまは、いいからうなずきなさいって……」
――あのマルクとかいう父親は。
アンリは、心の中で悪態を吐いた。
絶対に自分たちが引き取ってやらなければという思いが、さらに強くなる。
「テオフィル、君自身の気持ちが聞きたいのだ」
目線の高さこそ合わせていないものの、グウェナエルの瞳の色は優しい。穏やかな口調で、テオフィルの意見を促した。
「ようしになるって、へんきょーはくかっかと、あ、アンリさま……? が、おとうさまとおかあさまになるってこと?」
「その通りだ。我々は君の両親にふさわしき存在だろうか?」
「えっと……」
テオフィルは、迷ったように視線をさまよわせる。
その時、複数の光が前に出た。
光たちは、グウェナエルとアンリの周りを踊るようにくるくる回る。まるで、この二人なら大丈夫だと太鼓判を押してくれているかのようだ。
光たちの踊りを眺めていたテオフィルは、うつむいて床を見つめる。
心の中で本来の父母と、自分たちとを比べているのだろうか。どんなにひどい親だろうと、彼にとっては血の繋がった本当の親だ。簡単には愛を捨てられないだろう。アンリ自身が未だに父への愛慕や、いつの日か愛される期待を捨てきれないのと同じように。
もしかするとテオフィルは、この家に留まることを選ぶかもしれない。そうしたら、無理強いはできない。自分たちにできることはなにもない。
祈るような気持ちで銀毛に覆われた後頭部を見つめていると、意を決したかのようにテオフィルは顔を上げた。
「あ、あのね……おかあさまはね、おにいさまにはやさしいおかあさまなの。いつもえがおなの。でもね、テオにはおこってばっかり」
彼の語る内容に、心臓がぎゅっと締めつけられる。覚えのある胸の痛みだった。父に愛されているのは、兄だけ。どうして自分は愛されないのかと、思い悩んだ夜がどれほどあったことか。
「テオがこのおうちにいないほうが、おかあさまはいつもえがおでいられるのかも」
絞り出すような震えた声を聞くと、力の限り抱きしめたくなった。そんなことはないと言ってあげたかった。こんなに可愛らしい子がいて、笑顔でいられないなんてことがあるものか。
だが、現実は残酷なものだ。
本人が感じている通り、テオフィルはこの家にいないほうがお互いにいいだろう。
「だから、テオ……へんきょーはくかっかのおうちにいく」
テオフィルは、はっきり意志を口にした。
「よく、決断してくれたね」
これがテオフィルにとって、どれだけ苦しい決断だったことか。我が事のように感じ取ったアンリは、彼の小さな身体に両腕を回して抱きしめた。
「今度のおうちは、居心地のいいおうちにしてあげるからね」
アンリの声もまた、わずかに震えを帯びていた。
突如としてできたこの継子を、なんとしても幸せにしてやらなければ。
アンリは深く深く、胸に誓ったのだった。
テオフィルを連れ、グウェナエルとアンリは王城へ向かった。
結婚の許しを得るためだ。結婚とは親が許可するもので、アンリの場合は国王たる父の許可が下りなければ、結婚することは叶わない。
辺境伯家の馬車に乗り、揺られることわずか。王城に着いた二人は国王への謁見を申し出た。
それから、どれほど待たされただろうか。
テオフィルが退屈して、アンリに身体を預けて寝息を立てていた頃、ようやく一行は国王の間に通されることとなった。
国王の間に足を踏み入れると、部屋の中央を貫く絨毯の先に玉座があり、国王が厳めしい視線を一行へ向けていた。白髪の交じった茶髪に、同じ色の顎髭。疲労を感じさせる深い皺が、国王の視線を鋭いながらも無関心そうなものに見せている。 周囲には何人かの大臣が侍り、その中に兄のコンスタンもいた。兄は王太子として、国王の公務の手伝いをしている。この場にいるのは、なんら不思議なことではない。
一体なんの用だと言わんばかりに、兄は訝しげな視線を送ってきた。
大臣の中には、ブルレックの姿もある。
「あれはデルヴァンクール辺境伯か」
大臣の誰かが呟いた。
「デルヴァンクールというと、残虐だという、あの?」
誰かがそう言葉を継ぐ。
――残虐? 誰が? 隣の男が?
アンリの脳裏に浮かぶのは、アンリが王子だと知って尻尾を膨らませていたグウェナエルの姿ばかりだ。残虐なんて、およそ似つかわしくない言葉だ。
だが、誰かの呟きについて深く考えている時間はない。
グウェナエルとアンリは国王の前に跪き、テオフィルもまた小さな身体で真似をした。
「デルヴァンクール辺境伯と、結婚したいのだとか?」
国王たる父は、出し抜けに口を開いた。
謁見の目的は事前に大まかに伝えるが、実際に謁見したら改めて一から説明するのが正しい形式だ。それを省くのは手っ取り早く、一見鷹揚にも思えるが、その実この謁見をさっさと終わらせたいのだ。
跪いてうつむいたままのアンリは、唇を噛み締めた。
「結婚?」
どよめきが起こった。いきなり結婚かと、大臣らが囁き合っているようだ。「誑かした」だの「獣人と?」だのと聞こえてくる。
好きに言えばいい。テオフィルを救うためなら、今さらどんな噂が立ったところで気にしない。
「うむ、よかろう。めでたいことだ。アンリはそなたにくれてやる」
父はあっけなく、ぞんざいに婚姻の許可を下した。
ほんの少しの躊躇もなかった。本当に、自分は父にとってどうでもいい存在なのだ。
テオフィルという大事な存在を得た今なら、わかる。少しでもアンリを大事に思っているなら、その男が相手でいいのかどうか確かめようと思うはずだ。いきなり結婚だなんて、なにが起こったと聞きたくなるはずだ。
「なんなら、今ここで結婚の契りを済ませてしまうがいい。ほれ、誰でもいいから神官を呼べ」
「は?」
ぱんぱんと手を叩く父に対して声が上がったのは、隣からであった。
面を上げる許可も出ていないのに、驚愕のあまりつい顔を上げてしまったグウェナエルの姿が隣にあった。口をあんぐり開けている。
いくらなんでも、国王の間に神官を呼んで婚姻の契りを交わすなんて、聞いたことがない。どれだけ自分の存在をぞんざいに思っていれば、そんな発想が出てくるのだろうか。
いや、いくらアンリのことをぞんざいに思っていようと、婚姻の相手は辺境伯だ。これでは、グウェナエルのことまでぞんざいに扱っていることになる。国王といえども、辺境伯は軽々しく扱ってはならない存在のはずだ。
父はグウェナエルをも、ぞんざいに扱っているのだ。
不意に気がついた。兄コンスタンの獣人蔑視は、どこから来ているのか。兄より幾分か狡猾だから口に出さないだけで、父もまた獣人を見下しているのだ。
辺境伯領は国境に接する要衝の地でありながら、王都から離れているために、国王に睨まれた者が左遷される地としても有名だ。
獣人であるため武力に優れ、なおかつ気にくわない異種族を遠方の地に追いやれる。一石二鳥というわけだ。
自分のみならず、グウェナエルまで粗末に扱われている。気がつくと同時に、怒りが胃の腑を焦がした。こんなに激しい怒りを感じるとは、自分でも意外だった。
もう、父に期待するのはやめた。
いつか愛してもらえるかも、なんて望みは捨てよう。これからは、父とは関係のないところで生きていくのだ。契約婚が終わった後も、決して王城には戻らないと心に決めた。
見ると、グウェナエルの手もまた怒りを覚えているかのように震えていた。彼は同じ気持ちでいてくれる。単なる契約婚の相手だが、同じ気持ちを抱いてくれる人が伴侶でよかった。
ほどなくして、走ってきたのか真っ赤な顔の神官がやってきた。
グウェナエルとアンリの二人は跪いた姿勢から立ち上がり、神官の前に立った。
「えー、それではグウェナエル・ドゥ・デルヴァンクールとアンリ・ドゥ・シャノワーヌに問います」
このような略式での誓いの儀は初めてなのだろう、神官は言葉運びに困惑を滲ませながら問う。
「汝、互いを伴侶とすることを誓いますか?」
月のような金の双眼で神官をまっすぐに見据え、まずグウェナエルが口を開く。
「春が過ぎ、夏の暑さに晒されようと、秋になり葉が落ちて、冬の雪に包まれようと、アンリ・ドゥ・シャノワーヌを生涯伴侶とし、守り続けることを誓う」
彼は朗々と誓いの言葉を口にした。
誓いの言葉に、決まり文句はない。自分で考えるのがならわしだ。
いきなりで考える時間などなかったはずなのに、彼は意外なほど詩的な誓いの言葉を口にした。
もしかしたら父は恥を掻かせるつもりだったのかもしれないが、その目論見は打ち砕かれた。
ならば、自分もそれに続かねば。
「鋼鉄よりも固く揺るぎなき意思を持って、グウェナエル・ドゥ・デルヴァンクールの伴侶として添い遂げることを誓う」
アンリは淀みなく誓った。
実際には期限の定められた契約婚だが、テオフィルの保護者としての意思は鋼よりも固いつもりだ。
「然れば、誓いの口づけを」
神官に促され、二人は向き合う。
普通の結婚式なら、客人たちに祝福されながら、あるいは羨望の溜息を聞きながら口づけする場面だろう。
だが、今ここにあるのは好奇の視線だけだ。このような場所で誓いの口づけをさせられることが、どれほど屈辱的なことか。
恥辱で首筋まで顔が熱くなるのを感じていると、グウェナエルの口が動いた。
『オレだけを見ろ』
そう言っているように見えた。
月のような双眼に、視線が吸い寄せられる。金の海の中に、自分の姿が映っていた。金の猫毛に、キトンブルーの瞳。毎朝鏡に映る姿を呪っているのに、月面に映る自分はなぜだか心穏やかに見られた。
互いの瞳に、お互いの姿しか映らない。
まるで世界に二人しかいないみたいだ。
グウェナエルの細長い鼻筋が近づいて……唇のすぐ横に口づけが落とされた。父たちからは、唇に口づけたようにしか見えないだろう。
彼の気遣いに、胸のうちが温かくなる。
「おめでとーっ!」
下のほうから、可愛らしい祝福の声がした。テオフィルだ。
笑顔で尻尾を振っている。彼にとっては、これは純粋に喜ばしい出来事なのだ。略式でも結婚式をしてよかったと、少しだけ思えた。
その時。
あちらこちらから、大量の光が集まってくるのが目に入った。いつもアンリを助けてくれる、あの光たちだ。今まで見たこともないほど、たくさんの光が集まってくる。
寄り集まった光は少しずつ形をなし――巨大な女神となった。
「わあー……!」
現れた女神の姿に、テオフィルは歓声を上げた。
否、声を上げたのはテオフィルだけではなかった。気がつくと、騒めきが周囲を満たしていた。女神に指をさす者もいる。みんな、この女神が見えているのだ。
グウェナエルとアンリの頭上に現れた女神は、二人の上に光を降らせた。
七色に煌めく光を浴びると、不思議と心地よさを覚えた。全身に力がみなぎり、勇気が湧いてくるようだ。
祝福されているのだと、本能的に感じた。
「おお、これはもしや精霊神の祝福……! アンリ殿下が精霊の呼び手であられたとは!」
大臣の一人が目を爛々と輝かせながら言った。
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