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1.雨やどり
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その日は朝から雨だった。
アジサイも色づくこの季節。鬱陶しいと思われがちな季節だが、文人は嫌いではない。
雨が降ると、辺りがしんと静かになる。
雪が降っても同じように感じたが、雪がすべての音を攫って行くのと違って、雨はただすべてを静かな音に塗り替える、そんな気がした。
洗濯物が乾きにくいのは難だけど。
店舗兼自宅を兼ねる昭和建築の二階。少しばかりあるベランダに出て洗濯物を干す。
文人はカフェ兼定食屋の店主だ。
干す手を休め、降り続く雨を見やった。
ベランダにトタン張りではあるが屋根があるため、雨が降ってもこうして洗濯物を外へ干すことができるが、いかんせん乾きが悪い。
洗濯物も乾かせる乾燥機か除湿器でも買えばいいのだが、意外に高価で手が出せないでいる。それに、一人暮らしの洗濯物に購入するのもためらわれ。
そんなこんなで、今まで梅雨の季節でも外へ干して、なんとかしのいできた。冬場ならストーブを焚けば乾きも早いが、この季節に流石にストーブは焚けない。
店で使うタオルや布巾が生乾きになるのは嫌で、それだけはアイロンをかけていた。雑菌の繁殖したタオルやふきんなど、使えたものではない。
それならタオル類を使うのをやめればいいのだが、使い捨てのペーパータオルだけでは事足りないし、出費もバカにならないのだ。
文人は最後の洗濯物を干し終えると、階下へと降りていった。少し急な階段がきしんだ音を立てる。
この店舗兼自宅は、祖父母から引き継いだものだった。
幼い頃、両親が離婚し父親に引き取られた文人は、ずっとこの父方の祖父母のもとに預けられ育てられる。
参観日も運動会も教師との面談も、すべて祖父か祖母が来ていた。別段、珍しいことでもない。片親の子どももちらほらいたからだ。
高校生になり、進学か就職かを悩む時期、父親が急死した。急性の心筋梗塞だった。
当時、商社に勤めていた父はかなり無理をして仕事を背負っていたらしい。
労災が認められ、文人の元には大学進学もできる資金がはいってきたが、進学はせずに、二年専門学校に通い調理師の免許だけとると、フランス料理を出す店へと就職した。
なぜ、料理の道へ進んだのかと言えば、祖父母が喫茶店を営んでいたからだ。
店の名前はオルヴォワー。フランス語で
『さよなら』
なんとも寂しく感じる店名だったが、祖父が昔みたフランス映画で、その言葉の響きが気に入って、店名にしたのだという。
とにかく、料理の基本を学べば祖父母の店の役に立つだろうと、その道に進んだのだ。
その後はイタリアンや洋食、日本料理も学んだ。煎茶にコーヒー、紅茶の淹れ方も学ぶ。
ありとあらゆることを学び終えた頃、祖母が先に倒れた。入院して一週間で亡くなり、一年後、祖父も亡くなる。
その時、文人は二十六才。休みには祖父母の店も手伝っていたため、すんなり継ぐことを決意したのだった。
◇
初めは喫茶店のみだったが、それだけでは立ち行かなくなり。夜も営業することにしたのだ。
夕飯を兼ねた定食とアルコールを出す店。
定食は単品でも頼めたから、それを肴に飲む人もいた。
様々な業種で働いた経験がここで役に立ち、店は小さかったがそれなりに繁盛していた。
とは言っても、店の立地が悪く、半ば常連にささえられていると言っても過言ではない。
近い駅でも歩いて十分はかかる。それに、商店街からも外れていて、一見するとこんなところに店があるのか? と思われれるような路地にある。知らなければ来られない場所だった。
客は中高年が主だ。大体、四十半ばから上は八十代まで。若い客は稀に訪れるが、それも常連が連れて来ればの話で。
どうやら、常連たちが結託してあまりひとに店の存在を吹聴していないらしい。勿論、グルメサイトにも載せていない。
大手の地図検索サイトの口コミには、わざと無難な評価をつけているらしい。酷いなと思うが、特にそれで困ってはいないので──今の所だが──そのままにしている。
そんなわけで、常連のみが占める少し入りにくい店になっているのが現状だった。
それでも彼ら彼女らが足繁く通ってくれるため、なんとかやって行けている。
彼らの注文を無理ない範囲で受け入れているため、定食のメニューも多彩だった。
魚と肉をメインだが、フライにハンバーグ、煮魚に焼き魚。海鮮丼にお刺身。ナポリタンにピザにドリアに。焼き鳥もあれば一人鍋もある。
定食には小鉢もつける。酒の肴にはそれだけでも十分だった。
昼過ぎに開いてカフェ利用の客も迎える。こちらは仕事で使う人たちも多かった。
十六時でいったん閉めて、また十八時から二十二時まで開けている。休日は月曜日と第一火曜日。後は不定期で休暇を入れている。
本当は旅行が好きで、特に温泉を巡るのが好きなのだが、店がある為あまり遠出はできず、近場で済ませていた。
旅行に出た時は、料理の研究もかねて、食事が美味しいと言われる宿を選んで泊っている。けれど結局、ただゆっくり休んで楽しんで帰ってきている気もした。
数年前、その旅に付き合ってくれる相手がいた。いわゆる恋人だ。
名前を屋宮崇と言った。文人より二つ年上。物静かだがウィットに富んだ親しみやすい青年だった。
彼は店の常連で。この店を継いだころ、訪れるようになった客だった。互いにひと目で気に入り、どちらともなく、休みに会うようになり付き合い始めた。
彼も自分と同じ、性的志向を自覚はしていたが、表だって公表はしていなかったのだ。
ただ、二人の関係をこの店の常連客は知っていて。誰もそこをつっこまず、ごく普通に接してくれていた。
初めての客が常連になっても、いつの間にか知っていたようで。どうやら先輩常連がそれとなく知らせていたらしい。お陰で嫌な思いをしたことはひとつもない。
しかし、付き合って三年後、ひとりっ子だった崇は親に孫の顔が見たいと泣きつかれ、文人と泣く泣く別れた。そうして、お見合い結婚し。その直後、倒れ帰らぬ人となった。
それなら別れなければ良かったと酷く後悔して。
二年になるか…。
彼が亡くなり。丁度、この季節だった。
あの日も雨がふっていて──。
そこまで思いだし頭をふった。
今もあまり思い出したくはないのだ。あの時のショックと悲しみ、後悔が押し寄せてくるようで。
あれ以来、誰かと深く付き合うことはない。彼がはじめてで終わりの気がした。
あんな風に付き合える相手は、もういないだろう。
付き合ったとしても、彼と比べてしまいそうで。それが嫌で人を遠ざけてもいた。
◇
そろそろ、カフェの時間だった。傘立てを出そうと、年期の入ったそれを抱え、木枠のガラス戸を背中で押し開ければ。
「あ…」
軒先に人の姿があった。
かなり大柄で身長が高い。頭の天辺がひさしにつきそうだ。
肩ぐらいまであるだろう真っ黒な髪は、団子にして頭の上で一つにくくられている。
日焼けした顔には無精ひげが生えていて、一見すると強面に見えた。着ているのはラフな薄手の黒ジャケットにTシャツ、濃紺の綿のパンツ。
寒そうに二の腕をさすりながら、雨の降る空を見上げていた。
「あの─…中に、入りますか?」
客だと思ったのだ。見覚えのある顔ではない。常連客ではなかった。開けるには少し早いが、寒そうにしているのに待たせては申し訳ない。
「…いいんですか?」
驚いたように振り返った男は、次には笑顔を浮かべる。案外、人懐っこい表情だ。
「どうぞ。そこ、寒いでしょう?」
男は曇天の空を見上げるようにすると、
「軒先。雨宿りに借りてたんです…。申し訳ない」
どうやら客ではなかったらしい。
「そうですか…。良かったら何か飲まれますか?」
男は店内をうかがうように目を向けながら、
「ええっと、じゃあコーヒーを…」
「なら丁度良かった。試飲していただけますか? 代金は結構ですので…。新しい豆を入れたので、感想が聞きたかったんです」
「──いいんですか?」
「どうぞ。こちらこそ、試飲で申し訳ないですが…」
傘立てをドアの脇に置くと、男を中へと招く。
やや背を屈めるようにして戸口からはいってきた男はやはり高身長だった。胸板も厚い。ジャケットの上からも鍛えているのが分かった。
なんだか、圧がすごいな…。
それが第一印象だった。
見た目の圧もそうだったが、黙っているとかなり強面で。顎にある無精ひげと相まって、かなり見るものを圧倒する。
が、やはり表情が柔らかく変化するため、話し出せば怖いことはなかった。
男は手にしていた黒いケースを椅子に置くと、
「ここでも?」
そう言って示したのは、カウンター席の一番奥。文人はあれ? と思ったが。
「どうぞ。お好きな所へ。すぐに淹れますね」
すると、男は何か気づいたようで、椅子のすぐわきに手を伸ばすと。
「ここに…ぬいぐるみが落ちてますよ? ──なんだろう?」
そう言って拾い上げたのは、両手に乗るくらいのクマのぬいぐるみ。茶色でつぶらな目が光る。
今、男が座ろうとしている席が定位置だったのだが、掃除の最中に落ちてしまったのだろう。
「ああ、どこかカウンターの空いたところに置いておいてください。…すみません」
カウンターの奥は崇の定位置だった。
彼の亡くなった後、知った常連がそこにクマのぬいぐるみを代わりに置くようになったのだ。以来、誰もそこには座っていない。
ふと、彼を思いだした。彼も良く店が始まる少し前に来て、その席へ座りコーヒーだけ飲んで仕事へと戻って行ったのだ。幸せだったあの頃を思い出す。
クマのぬいぐるみはカウンターの脇に置かれる。その様は、まるで男をじっとみているようでもあった。
アジサイも色づくこの季節。鬱陶しいと思われがちな季節だが、文人は嫌いではない。
雨が降ると、辺りがしんと静かになる。
雪が降っても同じように感じたが、雪がすべての音を攫って行くのと違って、雨はただすべてを静かな音に塗り替える、そんな気がした。
洗濯物が乾きにくいのは難だけど。
店舗兼自宅を兼ねる昭和建築の二階。少しばかりあるベランダに出て洗濯物を干す。
文人はカフェ兼定食屋の店主だ。
干す手を休め、降り続く雨を見やった。
ベランダにトタン張りではあるが屋根があるため、雨が降ってもこうして洗濯物を外へ干すことができるが、いかんせん乾きが悪い。
洗濯物も乾かせる乾燥機か除湿器でも買えばいいのだが、意外に高価で手が出せないでいる。それに、一人暮らしの洗濯物に購入するのもためらわれ。
そんなこんなで、今まで梅雨の季節でも外へ干して、なんとかしのいできた。冬場ならストーブを焚けば乾きも早いが、この季節に流石にストーブは焚けない。
店で使うタオルや布巾が生乾きになるのは嫌で、それだけはアイロンをかけていた。雑菌の繁殖したタオルやふきんなど、使えたものではない。
それならタオル類を使うのをやめればいいのだが、使い捨てのペーパータオルだけでは事足りないし、出費もバカにならないのだ。
文人は最後の洗濯物を干し終えると、階下へと降りていった。少し急な階段がきしんだ音を立てる。
この店舗兼自宅は、祖父母から引き継いだものだった。
幼い頃、両親が離婚し父親に引き取られた文人は、ずっとこの父方の祖父母のもとに預けられ育てられる。
参観日も運動会も教師との面談も、すべて祖父か祖母が来ていた。別段、珍しいことでもない。片親の子どももちらほらいたからだ。
高校生になり、進学か就職かを悩む時期、父親が急死した。急性の心筋梗塞だった。
当時、商社に勤めていた父はかなり無理をして仕事を背負っていたらしい。
労災が認められ、文人の元には大学進学もできる資金がはいってきたが、進学はせずに、二年専門学校に通い調理師の免許だけとると、フランス料理を出す店へと就職した。
なぜ、料理の道へ進んだのかと言えば、祖父母が喫茶店を営んでいたからだ。
店の名前はオルヴォワー。フランス語で
『さよなら』
なんとも寂しく感じる店名だったが、祖父が昔みたフランス映画で、その言葉の響きが気に入って、店名にしたのだという。
とにかく、料理の基本を学べば祖父母の店の役に立つだろうと、その道に進んだのだ。
その後はイタリアンや洋食、日本料理も学んだ。煎茶にコーヒー、紅茶の淹れ方も学ぶ。
ありとあらゆることを学び終えた頃、祖母が先に倒れた。入院して一週間で亡くなり、一年後、祖父も亡くなる。
その時、文人は二十六才。休みには祖父母の店も手伝っていたため、すんなり継ぐことを決意したのだった。
◇
初めは喫茶店のみだったが、それだけでは立ち行かなくなり。夜も営業することにしたのだ。
夕飯を兼ねた定食とアルコールを出す店。
定食は単品でも頼めたから、それを肴に飲む人もいた。
様々な業種で働いた経験がここで役に立ち、店は小さかったがそれなりに繁盛していた。
とは言っても、店の立地が悪く、半ば常連にささえられていると言っても過言ではない。
近い駅でも歩いて十分はかかる。それに、商店街からも外れていて、一見するとこんなところに店があるのか? と思われれるような路地にある。知らなければ来られない場所だった。
客は中高年が主だ。大体、四十半ばから上は八十代まで。若い客は稀に訪れるが、それも常連が連れて来ればの話で。
どうやら、常連たちが結託してあまりひとに店の存在を吹聴していないらしい。勿論、グルメサイトにも載せていない。
大手の地図検索サイトの口コミには、わざと無難な評価をつけているらしい。酷いなと思うが、特にそれで困ってはいないので──今の所だが──そのままにしている。
そんなわけで、常連のみが占める少し入りにくい店になっているのが現状だった。
それでも彼ら彼女らが足繁く通ってくれるため、なんとかやって行けている。
彼らの注文を無理ない範囲で受け入れているため、定食のメニューも多彩だった。
魚と肉をメインだが、フライにハンバーグ、煮魚に焼き魚。海鮮丼にお刺身。ナポリタンにピザにドリアに。焼き鳥もあれば一人鍋もある。
定食には小鉢もつける。酒の肴にはそれだけでも十分だった。
昼過ぎに開いてカフェ利用の客も迎える。こちらは仕事で使う人たちも多かった。
十六時でいったん閉めて、また十八時から二十二時まで開けている。休日は月曜日と第一火曜日。後は不定期で休暇を入れている。
本当は旅行が好きで、特に温泉を巡るのが好きなのだが、店がある為あまり遠出はできず、近場で済ませていた。
旅行に出た時は、料理の研究もかねて、食事が美味しいと言われる宿を選んで泊っている。けれど結局、ただゆっくり休んで楽しんで帰ってきている気もした。
数年前、その旅に付き合ってくれる相手がいた。いわゆる恋人だ。
名前を屋宮崇と言った。文人より二つ年上。物静かだがウィットに富んだ親しみやすい青年だった。
彼は店の常連で。この店を継いだころ、訪れるようになった客だった。互いにひと目で気に入り、どちらともなく、休みに会うようになり付き合い始めた。
彼も自分と同じ、性的志向を自覚はしていたが、表だって公表はしていなかったのだ。
ただ、二人の関係をこの店の常連客は知っていて。誰もそこをつっこまず、ごく普通に接してくれていた。
初めての客が常連になっても、いつの間にか知っていたようで。どうやら先輩常連がそれとなく知らせていたらしい。お陰で嫌な思いをしたことはひとつもない。
しかし、付き合って三年後、ひとりっ子だった崇は親に孫の顔が見たいと泣きつかれ、文人と泣く泣く別れた。そうして、お見合い結婚し。その直後、倒れ帰らぬ人となった。
それなら別れなければ良かったと酷く後悔して。
二年になるか…。
彼が亡くなり。丁度、この季節だった。
あの日も雨がふっていて──。
そこまで思いだし頭をふった。
今もあまり思い出したくはないのだ。あの時のショックと悲しみ、後悔が押し寄せてくるようで。
あれ以来、誰かと深く付き合うことはない。彼がはじめてで終わりの気がした。
あんな風に付き合える相手は、もういないだろう。
付き合ったとしても、彼と比べてしまいそうで。それが嫌で人を遠ざけてもいた。
◇
そろそろ、カフェの時間だった。傘立てを出そうと、年期の入ったそれを抱え、木枠のガラス戸を背中で押し開ければ。
「あ…」
軒先に人の姿があった。
かなり大柄で身長が高い。頭の天辺がひさしにつきそうだ。
肩ぐらいまであるだろう真っ黒な髪は、団子にして頭の上で一つにくくられている。
日焼けした顔には無精ひげが生えていて、一見すると強面に見えた。着ているのはラフな薄手の黒ジャケットにTシャツ、濃紺の綿のパンツ。
寒そうに二の腕をさすりながら、雨の降る空を見上げていた。
「あの─…中に、入りますか?」
客だと思ったのだ。見覚えのある顔ではない。常連客ではなかった。開けるには少し早いが、寒そうにしているのに待たせては申し訳ない。
「…いいんですか?」
驚いたように振り返った男は、次には笑顔を浮かべる。案外、人懐っこい表情だ。
「どうぞ。そこ、寒いでしょう?」
男は曇天の空を見上げるようにすると、
「軒先。雨宿りに借りてたんです…。申し訳ない」
どうやら客ではなかったらしい。
「そうですか…。良かったら何か飲まれますか?」
男は店内をうかがうように目を向けながら、
「ええっと、じゃあコーヒーを…」
「なら丁度良かった。試飲していただけますか? 代金は結構ですので…。新しい豆を入れたので、感想が聞きたかったんです」
「──いいんですか?」
「どうぞ。こちらこそ、試飲で申し訳ないですが…」
傘立てをドアの脇に置くと、男を中へと招く。
やや背を屈めるようにして戸口からはいってきた男はやはり高身長だった。胸板も厚い。ジャケットの上からも鍛えているのが分かった。
なんだか、圧がすごいな…。
それが第一印象だった。
見た目の圧もそうだったが、黙っているとかなり強面で。顎にある無精ひげと相まって、かなり見るものを圧倒する。
が、やはり表情が柔らかく変化するため、話し出せば怖いことはなかった。
男は手にしていた黒いケースを椅子に置くと、
「ここでも?」
そう言って示したのは、カウンター席の一番奥。文人はあれ? と思ったが。
「どうぞ。お好きな所へ。すぐに淹れますね」
すると、男は何か気づいたようで、椅子のすぐわきに手を伸ばすと。
「ここに…ぬいぐるみが落ちてますよ? ──なんだろう?」
そう言って拾い上げたのは、両手に乗るくらいのクマのぬいぐるみ。茶色でつぶらな目が光る。
今、男が座ろうとしている席が定位置だったのだが、掃除の最中に落ちてしまったのだろう。
「ああ、どこかカウンターの空いたところに置いておいてください。…すみません」
カウンターの奥は崇の定位置だった。
彼の亡くなった後、知った常連がそこにクマのぬいぐるみを代わりに置くようになったのだ。以来、誰もそこには座っていない。
ふと、彼を思いだした。彼も良く店が始まる少し前に来て、その席へ座りコーヒーだけ飲んで仕事へと戻って行ったのだ。幸せだったあの頃を思い出す。
クマのぬいぐるみはカウンターの脇に置かれる。その様は、まるで男をじっとみているようでもあった。
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