少年と執事

マン太

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27.帰郷

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 レヴォルト家の長子である、クラレンスが屋敷に帰ってきた。
 玄関先でその姿を認めた時、主人であるクライヴは思わず駆け寄り、その両肩を抱き、目に涙を浮かべた。
 勢ぞろいした使用人たちも、一様に喜びの表情を浮かべ出迎える。彼が無事だった事もさることながら、この屋敷の次期主になることが明白だったからだ。クラレンスが継げば、この屋敷は安泰で。
 皆が喜ぶのも自然な事だった。
 ただ一人、浮かない顔をして兄の姿を見つめるヴァイスは、その中で浮いて見えた。
 シーンはそんなヴァイスが気がかりではあったが、どうすることもできない。
 彼の心の内は手に取る様に分かった。きっと不安と焦燥感と嫉妬と。すべてのマイナスの思いが渦巻いているに違いない。
 しかし、同情はできなかった。
 今の状況を生んだのはほかでもない、彼自身の行いによるものなのだから。
 それに、全てをマイナスにとらえる気質を改めることもしてこなかった。幾らこちらが注意を促しても、聞く耳を持たなかったのだ。
 もう少し、考え方を改めていたなら、シーンとて側にいて役に立ちたいと思ったことだろう。

「やあ、シーンも元気そうで良かった」

 父親との対面を果たし、一通り挨拶を済ませると、クラレンスは使用人にも声をかけてきた。
 父オスカーと話し終えた後、シーンにも目を向ける。
 亜麻色の髪を揺らし、太陽のような明るい笑顔を向けてきた。快活な性格で、使用人たちにも寛大だ。彼なら誰もが安心してここへ残ろうと思えるだろう。
 確かにこの屋敷の未来は安泰だった。

「おかげさまで。クラレンス様もご息災でなによりでした」

 クラレンスは声を潜めると。

「…父から聞いたが、辞めるんだって?」

「はい。そのつもりです」

「なんだ。君がいるからこの屋敷も安泰だと思っていたのに…。残念だな。考えを変えるつもりは?」

「既に決めたことなので。私がいなくとも、代わりは幾らでもおります」

 そう言って後方に控える後輩らに目を向けた。クラレンスは肩をすくめると。

「けれど、こう言っては失礼になるが、束にしないと君と同等にはならないだろうな…。まあ、もう少し、君が残ってくれる手だてを考えてみる」

 そう言うと悪戯っぽく笑って肩に手を置いてから、他のものへと声を掛けていった。

 ここへ残る。

 いくらクラレンスが主になるとはいえ、やはりそれは辞退したかった。
 ヴァイスとの関わりを絶ちたい、そう思っていたからだ。ここに残れば、どうしても繋がりが出来てしまう。
 自分にとって何が大切なのかを考えれば、自然とその判断となった。
 ヴァイスは自分と関わるもの全てを排除してきた。今までの行動からも、今回、ハイトとの仲も裂こうとやっきになるだろう。
 どんな手に出るかわからない今、早くここを辞してヴァイスの前から去るのが賢明だった。ハイトを先に出すことは、既に父オスカーにも了承を得ている。
 当のヴァイスは兄を待たずして屋敷の中へと戻って行った。その表情は何時にもまして陰鬱に見えた。

+++

「それで、ヴァイス。お前はどうしたい?」

「どうしたいも…。父上にお考えがあるのでしょう…? このまま、ここにいられるとは、思っていません…」

 クラレンスとの話しが一段落し、書斎に呼ばれたヴァイスは、クライヴの前で幾分小さくなって見えた。
 この父の前では、いつもの生意気な態度は影を潜め委縮する。幼い頃からそうだった。
 それは厳格な気質の父に太刀打ちできないと感じているからなのか。そこには恐れがあるのみで、尊敬などではないと見ている。
 シーンは父オスカーと共に壁際に控えていた。

「お前はここで暮らすには居心地が悪かろうと思ってな。もっと都会で暮らす方が性に合っているだろう?」

「都会…?」

「そうだ。私の妹、お前の叔母がブルガルにある別宅を自由に使っていいと言っている。あそこは少し狭いが、ここより気楽に過ごせるはずだ。あの街にはお前の叔父のリオネルもいる…。話が合うだろう? お前をそこへやるつもりだ」

「そんな…」

 ブルガルと言う街は、ここと比べれば、かなりの都会だった。
 行くとなれば汽車では五時間ほど。車だと一日掛かりになる。近い距離では無い。リオネルが早々ここへ寄り付かないのも、そう言った理由もあるのだろう。
 ヴァイスは言葉を失ったようにそこに立ち尽くす。しかし、クライヴは淡々と続けた。

「来週には行ってもらう。もう行く先の準備は整っている。執事や従者、メイドもそろえた。お前はそこで自由に暮らすといい。それだけの財産も持たせてやる。何か不便があれば──オスカーに頼め。以上だ」

 一度、シーンを見たが、辞めると気付いてオスカーにその役目をふった。
 それはていのいい厄介払いだった。それをヴァイスが気づかないはずがない。
 しかし、異を唱える事もできない。跡を継ぐのは兄クラレンスだ。それを変えることなどできないのだ。それに、ここに残った所で厄介もの扱いされるだけ。
 せっかく持ち上がった婚約の件も、結局、兄が戻ってきたことにより白紙になった。
 アストン家は婿を迎え入れるつもりはないらしい。しかもいいうわさを聞かない相手だ。せめて領主になるならと差し出した娘だが、それも無しになれば、当然話はなかったものとなるだろう。

 不憫だが。

 これも自業自得、なのだろう。
 しかし、これはヴァイスにとっていい話だと思った。都会なら、いちいち人目を気にせずともいい。好きな様に暮らせるだろう。
 だが、ヴァイスはどう捉えるのか。

「…分かりました」

 視線を落とし俯くと、そのまま部屋を出ていった。シーンも廊下を行くヴァイスの後に続き、部屋へと向かう。
 部屋に戻るとヴァイスは、脱いだ上着を叩きつけるように床へ放った。
 怒りが収まらないようだ。シーンはそれを拾い上げると、丁寧に形を直し、ハンガーにかけなおす。

「くそっ! いいように利用して…! 挙句に邪魔者は追い払えか?」

「…お言葉ですが、クライヴ様はヴァイス様にとって最善の提案をなされたかと。ここで暮らせば何かとクラレンス様と比べられることも多いでしょう。また、クラレンス様がご結婚なされば、住み辛さも増すでしょう。無理をしてここで暮らすより、気兼ねなく暮らせる場所としてお選びになったのかと。快く受け入れられてはいかがでしょうか?」

 するとヴァイスは鋭い眼差しをシーンに向けてきた。

「お前だって、僕がいなくなればひと安心だろう? あの、下賤な奴と過ごせる。厄介払いできて清々だな?」

「…ヴァイス様。彼はハイトという名前があります。それに、厄介などとは思っておりません。ただ、ヴァイス様の幸せを願うだけです。何がご自身の幸せに繋がるのかを考えていただければ、今後の選択も間違わないかと」

「ふん。口では何とでもいえるな…。シーン。僕はお前が側を離れるのを認めてはいない。結局、お前は僕を選ぶしかないんだ…。よく覚えておけ。──もう下がれ」

「…はい」

 それでシーンは大人しく下がった。

 ヴァイス様を選ぶしかない? 

 どうしてそんな事が言えるのか。シーンには分からなかった。

+++

 その後、ヴァイスは父クライヴに従い、街の別宅へ向かう事を受け入れた。
 今後はそこが生活の拠点となるのだ。週末、移動する手はずになっていた。
 ヴァイスはそれまでの素行がまるで嘘のように静かに、自室や領内を散策して過ごしている。まるで良家の子息そのもの。
 きっと、このような暮らしぶりだったなら、皆の不安を煽ることもなく、自らの未来を狭めることもなかっただろうにと思えたが。
 一時、元学友が別れを惜しみにここへ訪れたが、その際も以前の様に自堕落に過ごすことはなく、ただ自室で談話したのみ。
 友人はその日のうちに帰って行った。その帰り際、シーンの姿を認め、薄っすら笑みを浮かべて見せる。
 一度、ヴァイスと彼の情事の現場を目撃させられたことがあって、その時以来の笑みだった。あの時、ヴァイスを組み敷いていたこの男は、シーンを認めて、不敵な笑みを浮かべて見せたのだ。
 それを思い起こさせる嫌な笑みではあったが、それだけの事。別段気にするほどではないと思った。

 そうして一週間はあっと言う間に過ぎ、ヴァイスの出立の日となった。
 今日の午前中には、ヴァイスは屋敷を出る予定になっている。既に粗方の荷物は運び終えていた。後は本人が車で向かうだけだ。
 シーンはその午後、ハイトと新居となる叔母の住む村、サンティエを見に行く予定だ。
 既にハイトは屋敷での仕事を辞して、アパートに戻っている。今日はそのアパートの近くで待ち合わせをし、昼過ぎには出る予定だった。
 その後、村で数日を過ごし、農場や畑の様子を見る回る。叔母はかなり喜び、ラルスたちが越してくるのを楽しみにしていた。
 その間、ヴァイスからは何の動きもなかった。シーンを引き留める様な手立てや、ハイトを陥れる様な様子も見られず。
 このままで終わるはずが無い、何かあっても良さそうなものなのに、こちらの警戒を嘲笑うかの様に、何事も起こらなかった。
 それがかえって不気味でもあったのだが──。
 その日の朝、朝食を終え、皆が自室に戻った際、事件が起きた。
 クライヴとクラレンスはまだ、食後の一杯を別室で楽しんでいる。
 シーンは先に部屋へ戻ったヴァイスの着替えを手伝うため、その自室へ向かいドアを開けた所で異変に気付く。

「──ヴァイス様?」

 見れば、ヴァイスがソファの上に横になっていた。部屋に戻ったのは、つい先程の事。寝ているにしては不自然で。
 足元の絨毯の上には割れたグラス。テーブルの上には何かの薬が入っていただろう、小瓶がある。

 まさか──。

 すぐに駆け寄り、その身体を抱き起す。
 瞳孔が開き、口から白い泡がこぼれていた。急いで小瓶を確認すれば『モルヒネ』とある。

 これは──。

「ヴァイス様──!」

 すぐにヴァイスをそこへ横たえ、呼び鈴を鳴らす。それから胸もとを寛げ、口へ水をもっていった。駆けつけたメイドに指示を出す。

「すぐに病院へ連絡を! 医師を呼んでください。モルヒネを誤飲したと。早く!」

 それからは屋敷中が大騒ぎとなった。医師はすぐに呼ばれ、治療にあたる。
 幸い飲んですぐに発見出来たため、薬の効きが遅くそこまで大事には至らなかった。
 使用人の間では、悲観して命を絶とうとしたのだと噂された。
 しかし、シーンにはどうしてもヴァイスが自死を選ぶようには思えない。

 これは、何か計略があっての事なのでは?

 モルヒネを常用するものはこの屋敷にはいない。致死量に近いそれは、外部から持ち込まれたとしか考えられなかった。
 ヴァイス自身が薬を購入したとは思えない。そんな事をすれば直に噂になるだろう。
 ふと、数日前、訪れた友人を思い出す。彼の去り際の笑み。

 あれはもしや、この事を予見していたのではなかったのか──。

 友人を使い薬を調達し。ヴァイスの後を追って、シーンが部屋を訪れる事は分かっていた。発見が早ければ早いほど、助かる確率は高くなる。

 しかし、何の為に?

 考えを巡らせていれば、ベッドの上のヴァイスが身じろいだ。既に医師の診察は終え、別室にてクライヴと話をしている。
 先ほどまでは看護師もついていたが、休息をとるためこちらも別室にいた。代わりにシーンが様子を診ることになる。
 ヴァイスが倒れてから数時間が経とうとしていた。

「…シーン…?」

 弱々しい声音は、幼い頃を思い起こさせた。昔は虚弱体質で、事あるごとに貧血を起こし倒れていたのを思い出す。

「こちらに。お加減はいかがですか?」

「…気持ち悪い」

「吐きたいなら仰ってください。こちらに準備がありますから──」

「大丈夫だ…。それより、シーン…」

「はい?」

「…次、目が覚めるまで、ここにいてくれるか?」

 ベッドから僅かに手を差し伸べ、掛け布団を引き上げようとした手に触れてくる。それはひんやりと冷たかった。
 時刻は午前十一時を回るところ。ハイトとの約束は午後一時だった。この分では間に合わないだろう。さすがにこの状態のヴァイスをおいてはいけない。

「…はい。おりますから。気にせずお休みになってください」

「ありがとう…」

 そう言うと、ヴァイスは再び目を閉じた。
 ハイトになんとか連絡を取りたかった。
 看病の合間に、ちょうど外出予定のあった下僕のアンリに、午後一時までに必ず伝えて欲しいと頼む。急遽行けなくなったため、また後日、日を改めていこうと。
 それをメモにも書き手渡した。これで取り敢えずは安心だ。とにかく、このヴァイスの件が収まるまでは動けない。
 しかし、それも数日の事。ハイトには申し訳なかったが、あと少しの我慢ですべてが手に入るのだ。
 これが最後の務めとなる。それまで、シーンはヴァイスの回復に努めた。

 父オスカーの話によると、やはり服用したのはモルヒネで、致死量に近かったと言う。
 この担当医師が処方したものではないため、やはり外部から持ち込まれた者だろうとのことだった。
 それで自殺未遂を起こした。
 自分の将来を悲観しての事となったが、やはり疑問は残る。
 ヴァイスはその後、しばらく屋敷で養生させることとなった。
 また事件を起こさせないため、看護師や下僕がその看護と見張りに立つこととなる。シーンもその役目を指示された。
 これでは当分、ハイトと村に行くことが出来そうにない。
 またハイトに手紙を書こうと思った。

+++

 その日の騒ぎが一段落した頃、外出先から帰って来たアンリが声を掛けてきた。

「シーン、伝言なんだけど…」

「済まなかったな、アンリ。突然、お願いして。ハイトには会えたか?」

「それが…。俺が行った時には姿がなくて。暫く待っても見たけれど来る様子もなかったんだ。それで近くの店の親父に聞いたら、俺が到着する少し前に、馬車に乗って行ったって…」

 済まなそうに頭をかきながらそう口にした。

「馬車に? 俺がいかないのに?」

「ああ。不思議だろ? 馬車だからどこか遠くへ行ったと思うんだけど…。それ以上は分からなくてさ。ハイトのおじいさんに聞けば何かわかるんじゃないのか?」

「そうか…。早速電話をかけてみる。ありがとう。アンリ」

「ああ。役に立てなくて済まなかった」

 アンリは申し訳なさそうにそう言うと、ハイトに渡すはずだったメモを返してきた。シーンはそれを握り締める。

 いったい、どこへ行ったのか。

 ハイトが理由もなく見ず知らずのものの誘いで馬車に乗るはずがない。何かあったのだ。
 その後、いったんヴァイスの看病を看護士に任せ、まだ遅くならないうちに、ラルスへと電話をかけた。
 電話は執事室にある。父はクライヴの世話の最中で部屋には誰もいなかった。
 足の悪いラルスを呼びつけるのは気が引けたが、今はそれどころではない。どうしても、ハイトの行方を知りたかったのだ。なぜか胸騒ぎがして。
 電話を管理人の部屋へとかけ、ラルスを呼び出してもらう。数分後、ラルスのしわがれた声が聞こえてきた。

「ああ、ラルス。遅くに済まない。夕飯時だったね?」

『ああ、かまわんよ。わしもシーンに聞いて欲しいことがあってな。もうそっちはもうサンティエの村についたのかい?』

「実は…領主のご子息が急に病に伏せってその看病に追われて。村には行けなくなったんです。それを使いのものを使ってハイトに伝えようとしたのですが、行き違ったようで。ハイトは今どこに?」

『そうか…。ハイトはそっちにいないのか…』

 そこでラルスは沈黙する。シーンは嫌な予感がして、せくように言葉を続けた。

「ハイトは家に帰っていないのですか? 使いの者が馬車に乗ったと聞いたらしいのですが…」

『いや。ハイトは帰ってきとらん。ただ、さっき、どこの者とも名乗らん奴が、金を置いて行ったんだ…』

「金? なんの金ですか?」

 ラルスは少し押し黙った後。

『…ハイトを買い取った金だと』

「……」

『わしも訳が分からなくてな。男はすぐに帰ってしまって話を聞くどころではなくて。ただ、ここに金と領収書のようなもんを置いて行ったんだ。わしは字が読めなくてな。さっき管理人に読んでもらったら、ドゥロ商会と書いてあるらしい。シーン、知っているかい?』

 ドゥロ。その名を聞いて一気に血の気が引いた。
 それは闇取引を行っていると噂される、いかがわしい店の名で。どうしても欲しいものがあるなら、法外な大金をはたけばそこが用意してくれると言われていた。
 扱うものは薬や食料品に収まらず、武器から宝飾品、美術品に動物、奴隷まで様々だと。

「確かに、ハイトを売った金だと?」

『ああ。しかし、大した額じゃない。…なにかの間違いだと思っているんだが…』

 シーンは取り敢えず、またこちらから連絡すると言って通話切った。

 まさか、人買いに? でも誰が? どうして──。

 しかし、今は詮索している暇はなかった。もしラルスの言葉が事実なら、ハイトは買われたことになる。

 いったい何処へ?

 ドゥロ商会と取引のある店など、シーンは知らない。闇雲に探し回った所で時間が過ぎるばかりで見つかるはずもなかった。
 しかし、裏の世界を知っているものが一人いる。シーンは躊躇いなく、すぐに取って返しその人物へと連絡した。
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