叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼(旧Ver

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第2章 橋屋家撲殺事件

貝田さんが来る 最初の被害者の供述

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「もうすぐ貝田さんが来る。けれども家の中を見せれば大丈夫なはすだ」
 空元気を出す。なんとかしようと思っても、この緊張感は容易に拭えない。すっかり弱った母さんを基広が支える。ずいぶん痩せてしまった。
 やれることは全てやったはずだ。
 町内会の方にも話を聞いた。私の家がうるさいのではないかと問いかけたが、隣近所で俺の家がうるさいという人はいなかった。だから、半分安心した。つまり俺の家はうるさくないということを。貝田さんは他の方にも話をしているようだが、気のせいではないかと反論されると、そうかもしれませんねと返事があり、以降は特に聞かれていないとのことだ。
 けれども残り半分の安心は、得られなかった。
 一度、19時を超えたら誰も何も発言しないよう試した。
「昨夜、お嬢さんが歌を」
「うちに娘はおりません」
 けれども翌朝、同じことを言われた。
 貝田さんのお宅を訪ね、梯子を登って自宅を覗くのは控えてほしいとお願いした。ご主人が平身低頭する隣で、貝田さんの奥さんは鬼のような形相で俺を睨んでいた。
 背筋が凍った。
 これか。
 これでは妻はひとたまりもない。俺ですら心臓が鷲掴みにされているような恐怖を感じるのだから。

 貝田さんのご主人は奥さんに注意をすると何度も述べ、俺は宅を辞した。けれども結局、ご主人は日中はいない。庭の監視は止まらず、やむを得ず1階と2階の南向き窓は雨戸を締めっぱなしにすることにした。その視線を防ぐには、こうするしかなかった。
 そうすると貝田さんはインターフォンを押して、家の外から妻を呼ぶようになった。だから、インターフォンも鳴らないようオフにした。妻の背が縮こまっていくのを俺たちは止められなかった。
 最終的に警察にも相談したが、警察は長くここに住む貝田さんを信じた。貝田さんはうち以外には人当たりがいい。おかしなところもないそうだ。
 事情聴取の結果、うちが夜に騒ぐから注意に行っただけという貝田さんの言い分に、こちらが注意された。騒いでいないから夜中に様子を見に来て欲しいと言っても、巡回しますとしか言われなかった。

 ここまで来て、再び家族会議を行った結論は引っ越し。ローンの支払いは厳しいが、妻の負担には代えられない。貝田さんのことがなければ、ここはいい家だったと思う。本当に。
 雨戸をわずかにあけた。
 その最後の決断の前に、最後の手段として貝田さんに家の中を見せ、女の子も女の子の形跡もないことを隅々まで確認してもらうことにした。
 それでだめなら引っ越しを前提に、引っ越しまでの間は妻をホテルかどこかに一時避難させる。これまで基広と永広は学校の長期休みの間中、交代で妻と一緒にいてくれた。けれどもすでに高校は始まり、明日からは大学が始まる。この家に妻を1人にするわけにはいかない。
 梯子をかけて庭からうちを覗く貝田さん。あれはすでにもう人では無い。あの形相はまさに鬼だ。
 雨戸を再び閉じた。

 ピンポン

 インターフォンが鳴り響く。
 久しぶりに電源を入れたその音に、妻はビクリと慄く。その背を撫でた。なるべく優しく。基広と永広の顔にも緊張が浮かぶ。ごくりと唾を飲み込み、家族をリビングに残して貝田さんを玄関で出迎えた。
「夜分遅く申し訳ありませんね」
「いえいえ、これで誤解が解けるのであればいいのです」
 誤解、という言葉に貝田さんの能面のような笑顔が少しひび割れた。そうだ、誤解だ。誤解であると何が何でも納得してもらねばならない。俺はさらに強く心を固めた。
「あの、ご主人はご同席されないのですか?」
「ほほ、主人は少し所用がありまして、本日は私だけでお願い致します」

 できれば冷静なご主人に一緒にいて頂きたかったが仕方がない。
 貝田さんの目は階段に釘付けになっている。何だ? 何かあるのか?
 リビングに促そうとしたが、貝田さんは階段の手前でピタリと足を止めた。
「あの、申し訳ないのですが2階から拝見してもよろしいでしょうか」
 構わない。どうせ全てを見せるつもりなのだから。むしろ妻と顔を合わせるのを先送りにできる。
「どうぞ」
 階段の前に佇む貝田さんの脇を通り抜けるとき、雨の日の公園の鉄棒のような、妙なにおいがした。
 2階は右側が永広の部屋、正面が家族共用の部屋、左側とその奥が基広の部屋だ。
 まずは永広の部屋の扉を開ける。貝田さんはチラリと部屋の中を見て、頷いた。気がすんだようだ。ホッとした。
 続いて正面の部屋。ここはホームシアターや家族の本棚、俺のゴルフ道具や基広の野球道具といった趣味のものが色々置いてある。ドアを開けて電気をつける。その瞬間声がした。
「ほら、やっぱりいるじゃない女の子」
「は?」
 貝田さんの言葉に固まった。
 見渡しても女の子なんてどこにもいない。やはり、基弘が言っていたように貝田さんには精神的な問題があるのだろうか。もう引っ越すしかないかと諦めていると、貝田さんはまた、ほら、と指をさす。
 その指先を見る。そうすると、ふしぎなことが起きた。ゆらりと空間が揺らいで、影のようなものが起き上がった。影? 思わず目を擦る。
 なんだこれは。何かの光の錯覚か?
「それにこんなに大勢で。煩いのは当り前よ」
 勝ち誇った貝田さんの声がする。貝田さんが指を次々に動かすと、ソファや本棚の隙間から、次々と黒い影が立ち上って揺らめいた。まるで部屋の中に黒い蜃気楼が発生しているような奇妙な悪夢の光景。
 何だ、これは。
 暗示にでもかかっているのだろうか。目を瞬かせても影は消えない。まるで元々そこにあったように。
 混乱して動けないまま、貝田さんが室内に入るのを見守るしかなかった。
「ええ、そうなの、みんなこの家に閉じ込められてたの。それで外に出てこれなかったのね。わかったわ。かわいそうに」
 黒い影に囲まれた貝田さんは、この世の者とは思われなかった。
 鬼だ。
 目は赤く滾り、頬は紅潮し、口は耳まで避けたように笑む。なんだ、これは、何故俺の『幸せなマイホーム』に鬼がいる。
 いや。見渡せば白い室内や壁や天井のそこかしこがひび割れ、その奥から次々と黒い影が湧き出、家に地獄が溢れ広がっていく。ここはもとより地獄だったのか。
 『幸せなマイホーム』はこの鬼が帰ってくるまでの仮初の姿でしかなく、そもそもこの家は地獄そのものだったのか。剥がれ落ちていく幸福の虚像にに足が震え、体は金縛りにあったように動けない。膝が笑い、尻もちをつく。すると自分の膝に黒い影が纏わりつき、地面に縫い付けているのに気付いた。動けない。
 貝田さんは部屋の中をゆっくりと見回し、立てかけてあった基弘のバットを手に取る。そして一歩一歩、忍び寄るように俺に近づく。
「悪いのはこの人達よね、ウフフわかったわ」
 貝田さんの目線は中空を睨み、もはや俺を見ていない。
 俺を見ないまま、貝田さんはバットを俺に振り下ろす。咄嗟に防ごうと振り上げた左腕はボグという鈍い音が響き、バットはそのまま頭蓋に振り下ろされた。その衝撃で、背にした階段を転がり落ちた。視界から色が失われていく。音も最早聞こえない。駆け寄る基弘に、逃げろと伝えられただろうか。
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