叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼(旧Ver

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第3章 大量不審死事件

地獄の家 2つ目の事件の実況見分

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 テニサーの合コン。新年会という名前で行われたその飲み会で泰斗たいとから財宝の話を聞いた。
 北辻に喜友名晋司という画家がいたそうな。その画家は死んでしまったけど自宅はまだ残されていて、その家の中に最高傑作の絵が隠されているんだって。
「へぇ。泰斗って絵とか興味あるんだ。ちょっと意外」
「それを今度探しに行こうよ」
「えぇ~? どうせ遊びに行くならもっと楽しいとこにしよ」
「ちょっと気になってるんだ。だからお願いします!」
 泰斗は勢いよく頭を下げた。
 越谷泰斗こしがや たいとは同じテニサー所属の彼氏だ。
 クリスマスに『君は僕の太陽だ』っていうちょっと恥ずかしい告白をされて付き合いだしたばかり。ホワイトではないけど、なかなか悪くないクリスマス。直前まで一緒にクリスマス叩きをしていた友達とはちょっと距離感が難しくなっちゃった。予定してたクリスマス女子会は急な用事ができたと言って断った。それもあって、泰斗と付き合っているのは大っぴらにはしていない。というか、しずらい。それで正直なところ、泰斗が好きなのかどうかはまだよくわからない。
 泰斗に話しかけたことって、クリスマス前には数回しかなかった。テニサーの出席率もそんなでもなかったし、告白自体があんまりに突然で、泰斗のことはよく知らない。でも嫌いではない、ううん、どちらかというと好きかな。顔は好み。
 そんなふうに唐突に始まった関係は、クリスマスに引き続き年越しに一緒に初詣に行くというベタなイベントをこなし、それから映画館とか神津こうづ港のレンガ倉庫街とか、ベタベタなコースを一通り回って今。せっかくだからテニスしたいんだけど、泰斗はテニスが好きなわけではなさそうだ。まぁ、やらないことはないけどナンパ目って感じ。そういう人は多いから別にいいんだけどさ。

 でも宝探しかぁ。
 正直興味ないな。でもまあレンガ倉庫は私が行きたかったところなわけで、泰斗の行きたいところにいくのもバランスでしょう。うん。
「いいよ、じゃあ今週の土曜とか?」
「サンキュー。場所は北辻だから辻切で晩御飯食べてから行こっか」
「あれ? 夜に行くの?」
 その時、ブブブというなんだか妙な耳鳴りがした、気がする。
「あー。住んでないっていっても近所の人の目があるからね。夜の方が安全かなと」
「それって、大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。色んな人が入ってるけど、問題になってないし。それでさ。ちょっと探検して駄目だったら帰ってこよう、OK?」
「うん、まあ」
 その時、なんとなく少し嫌な予感がしたのは覚えている。他人の家に勝手に入るという罪悪感なのかな。けれどもそれを冒険という名の言葉のもたらす秘密のときめきが覆い隠したのだ。

 その日、辻切のバルで軽く飲んで、電車に乗って北辻に向かった。その家は北辻駅を西側に進んだ高台のちょっと高級住宅地にある。着くと立派な家で驚いた。芸術家ってやっぱりお金持ちなのかも。
 でもちょっと臭い。生ゴミみたいな匂いがする。なんだろ。嫌だな。
 泰斗に手を引かれて庭に回ると窓の一部が割れていて、泰斗はそこを指差した。
「ここに入るの?」
「そうだよ?」
「無理でしょ」
「無理ってなんで」
 だって。臭いが酷すぎる。家の門の外とは違って、この小さな隙間の中からは更にひどい臭いがする。むせ返るような肉の腐ったような、気持ち悪い匂い。
 うっぷ。無理。
 忍び込んだ犬か猫でも死んでるんじゃないの?
 臭い自体も嫌だけど服に臭いがついちゃうじゃない。
「ねぇ泰斗、私外で待ってる」
「えっ、何で? せっかく来たのに」
「だって凄い臭いじゃん」
「臭い? そうかな」
 感じないの? まさか。
「ここ入るのはちょっと無理、坂の下のコンビニで待ってていい?」
「そう? 残念。わかった、じゃあ待ってて」
 オケオケと頷いて振り返っところ、頭に衝撃を受けた。

 それからどのくらい経っただろう。
 あたまがグルグルしてる。いたたたた……。
 けれども頭がちょっとすっきりした瞬間、酷い匂いで吐いた。
 凄い、匂い、酷い、苦しい、無理。
 昔の公園のトイレなんかより更に酷い。空気の成分の半分、窒素や酸素や二酸化炭素のある部分の半分がアンモニア、汚物とか腐った何かの粒子に入れ替わっている。気持ち悪いどころじゃない。息が苦しい。目もざらざらする。頭がフラフラする。
 また吐いた。
 吐いて胃がからっぽになっても、嘔吐感ってものは全然消えない。息をするたびにウェってなる。
 それにも無理やりならされたころ、見回したら真っ暗だった。
 ここどこだろ? よくわからない。なんで?
 とにかく移動だ。なんとか立ち上がって足を進めると、ぐちゃりと何か粘土に足を踏み入れたよう感触がして、そこから破裂するように匂いが広がった。
 また、嘔吐した。
 少し前に考えていたことを思い出す。犬か猫。
 嫌だ、気持ち悪い、助けて、でも、考えないように、する。
 反対方向に向いて恐る恐る歩く。手探りで腕を伸ばしていたら、壁のようなものに当たった。よかった。
 何か硬いものがあった。スイッチかな。オンにするとパッと電灯が点く。ぐふ。
 目の前には下りの階段があったけど、点けたことに後悔して膝が笑い、立ちくらみとますますせり上がる嘔吐感で立ち往生する。悲鳴をあげないよう、咄嗟に口をふさぐ。ここの空気を肺にいれたくない。嫌だ。ぐらぐらと途切れようとする意識をなんとか説得する。
 待て待って、ここで倒れちゃ、ダメ。絶対駄目だ。
 なるべく下を見ないようにしよう。何も触らないようにしよう。
 階段を急いで降りる。幸いにも靴は履いていた。じゃりじゃりぱきぱきぐちゃり。そんな音を気にしないよう、そして万が一にも滑ったり転んだりしないように。
 慎重に階段を降りると、正面は閉じたドア、左が玄関、だよね?
 とりあえず外に出るんだ。玄関に急いだ。転ばないよう、焦らないよう、必死で。
 ドアをガチャガチャして外に転げ出た。真っ暗な玄関から飛び出した先は別世界で、とても静かで街灯が薄ぼんやりと道を照らしていた。ホウという梟か何かの声がした。大きく息を吸い込む。
 よかった。出られた。
 まともな空気。
「ふう、はあ」
 あれ? でもここは?
 そう思ってキョロキョロとあたりを見回す。ちょっと前にみた道。さっき登ってきた坂道。じゃあ後ろにあるのは……入ろうとした家? なんで家の中にいたの?
 頭が働かないけどともかくまずは警察に電話。
「あれ? どうしたの?」
 背後から泰斗の声がした。ほっとした。でも、違和感。どうして後ろから声が?
「泰斗、よかった、あの」
 振り向いたら玄関ドアがポッカリ開いていて、そこに泰斗はいなかった。
 嘘。
 ドアの奥の暗がりで何かが動く気配がした。
 そういえば気を失う直前に私といたのは泰斗だ。
 玄関の内側。そこはまるで黒いカーテンでもかかっているようにぽっかりと暗く、ひゅうとあの臭いが漂ってくる。少し奥に私が降りてきた階段の明かりだけが、闇の一部を切り取るように揺らいでいる。そのさらに奥で、何かの影がごそりと動いた。
「亜李沙、俺、宝物見つけたよ」
 私がこの家の中で体験したことと不釣り合いなとても幸せそうな、明るい声。
 なんだかおかしい。
 宝物……? そういえばもともとはそんな話だった。
「そんなことより早く逃げよう! 2階にたくさんの」
「どうして? 宝物を見つけたんだよ? 2階で」
 2階……?
 何かが玄関の奥から近づいてくる。階段の明かりの下を通った時、一瞬姿が見えるかと思った。けれども何故かざわざわと真っ暗で、それはやがて真っ黒なまま玄関に到達した。私の1メートルほど向かいに。
「亜李沙?」
 その闇の中から泰斗の声が聞こえた。これは泰斗なの?
 なんだろう? すぐ近くにいるのに姿が見えない。玄関が暗いせいなのかな。

  ゥゥヴヴゥ

 変な音がする。それに、あの臭い。嫌だ。あれは。考えたくない。頭が考えることを拒否する。
「亜梨沙?」
 泰斗がこちらに手を伸ばす。そこはまだ街灯の届かない場所。でもそれにしても泰斗の手も不自然に暗い。そしてその手はもざもざと表面がざわついているように見える。
 何かすごく嫌な感じ。ぞわぞわする。嫌。でも。何、泰斗? 何が起こっているの?
「亜李沙」
 その泰斗のいつも通りの優しそうな声で話しかける黒い何かはさらに手を伸ばし、私の手を掴んだ瞬間臭気を撒き散らしながらぶわりとたくさんの黒い粒が飛び立って、泰斗の手から私の体にぞわぞわと這いあがってくる。
 口からヒィッという変な音が出て、私は再び崩れ落ちた。



「亜李沙、俺が見つけた宝物は本当に宝物なんだ」
 俺が喜友名晋司の絵を初めて見た時の衝撃。それは忘れられないものだった。
 近くの美術館でやってた展覧会だ。秋口、気持ちのいい風が吹いていた。空いた時間にぷらりと入ったのは本当に偶然だった。絵を見るのは昔から好きだった。好きな画家はたくさんいたけど、それまで心を奪われる画家というのは特にいなかったし、その感覚はよくわからなかった。

 その絵は最初、他の絵に紛れていた。
 ふと、チラリと視界に入ったオレンジ色に違和感を覚えた。見上げると、そこに1枚の油絵があった。繊細とも荒々しいとも言えない中途半端な筆致、構図も色調もさほど新規性があるように思えない。なのに、そのオレンジに目を引かれた。何故だろう。
 絵具が盛り上がって陰影を形作っている。厚く重ね塗りをしているのか。でもこれほど盛り上がっているなら、もともとの塗られた色はわからないような。
 何か気になって絵の具の層の起こりを眺めていると、ふいにその層のすき間から不思議な匂いのする風が吹いたのを感じた。

 なんだろう? これ。
 絵の具の層のすき間に沿って目を動かしていると、その風はどんどん強くなって俺に絡みついてくる。何か、例えば掃除機にでも優しく吸われるように絵に誘われる。こっちへおいでと手をひかれる。こんな気持ちになるのは初めてだ。
 これが魅入られるということなのかな。
 困惑しながらそう思って絵の全体を眺めたその瞬間、視界の全てを奪われた。
 もう、絵しか見えなくなった。

  鮮烈なオレンジ、滲み出る藍、そして明滅する赤。

 絵を中心にパタパタパタとパネルが反転するように世界が塗り替えられてゆく。その色は侵食するように脳髄に刻みこまれ、そこを起点に染み込む色に脳が、魂が、俺の全てが奪われ、囚われ、抜け出せなくなった。
 何だか、俺が俺でなくなる感覚。生まれ変わるっていうのはこういう感覚なんだろうか。この、全てをこの絵の色に支配されるような鮮烈な感覚。

 絵のタイトルは『落日の悲歌らくじつのひか』。
 作者は喜友名晋司。
 日が沈み、世界が全ての終わりに悲しみ叫んでいる。
 その日、俺の魂は深いオレンジ色の中に沈んだ。
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