叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼(旧Ver

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第4章 芸術家変死事件

ある記者の手記 客観的でない視点

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 喜友名先生は本当に変わった人だ。話が通じない。
 今日も菓子折を手土産に、憂鬱な足取りで喜友名邸を目指した。
 俺は芝山彰夫というペンネームで『美術Note』という雑誌の記者をしている。今月号の特集は月展のその後だ。月展の入選者数人のその後の活躍を追う。他の画家の取材はすでに終えていて、残りは喜友名晋司だけだ。だが、一向に進まない。アポはすぐに取れる。だいたい家にいる。俺の他に訪れるのは画商くらいだろう。もはや勝手知ったるもので、インターフォンで声をかけたら勝手に上がり込み、勝手に自分で茶を入れる。

 最近少し戦法を変えた。
 何を言ってるかわからない発言を日本語に翻訳しようとするから無理なんだ。とりあえず全部頷いて気持ちよく喋らせて、その内容をまとめて記事にすればいい。どうせ喜友名晋司はできあがった記事なんぞに興味は持たないんだから。
「喜友名先生の新作のモチーフはなんです?」
「うん、君はなんだと思うかね?」
 さっぱりわからない。描き途中の抽象画なんてわかるわけないだろ。そう思いながらも適当に捻りだす。
「ええと、なんとなく波っぽいでしょうか?」
「そうだな、波というのもいいな。波はどこからくるのだろう? 山の上からは来ないよな?」
 何の話だ。
 全部が全部こんな感じだ。日本語を喋って欲しい。
 他の画家なら絵に込める思いや背景なんかを黙っていてもべらべら話してくれるものだ。芸術家という生き物は本来自己顕示欲が強い。世界を変えるウィルスを絵で創造する生き物で、そのプロダクトの説明をしたがるのだ。より感染効果を高めるために。
 喜友名晋司の奇妙なところはそこだ。
 描いてる途中、本人は何を描いているのかよくわかっていないようにしか見えない。
 そんなことがありえるんだろうか。抽象画というのは感情や思い、信念なんかを込めて書くものだ。そうでなければ、真に何を描いているのかわからなくなってしまう。
 喜友名晋司は確かに魂を込めている、という。だがどんな魂を込めているのか、本人にもわからない。

 そもそもこの画家の絵はおかしかった。
 もとより抽象画は好みが分かれる。
 偉大な芸術家、例えばダリやピカソなんかは、よくわからないなりにも大抵の人がなんとなく凄い絵だな、面白いな、と思うような絵を描く。もちろん理解できない人も一定いる。それは当然のことだ。
 次に一般的には理解されてなくとも、特定の人には強いプレッシャーを与える画家、というのがいる。有名な画家の例で恐縮だが、ポロックやカンディンスキーなんかはパッと見はただの線や四角だ。これを素晴らしいと感じるかどうかは、美術眼というものが存在するのかどうかはさておき、その絵の世界観に共感できるかどうかという個人個人の心の容器の具合による。だから、その画家の1つの絵を自分の心の容器に入れられるのであれば、同じ画家の絵は大体心の容器に入る。
 つまり、その魂に心酔し、ファンになる。

 だが……喜友名晋司は違う。
 ぱっと見似たような絵を描くが、絵自体によって心の容器の形が大きく異なる、ようにしか思えない。それはもう、同じ画家が描く絵の中で良し悪しがあるというレベルでは全くない。それぞれの絵から受ける印象がまるで違う。他の画家が書いたとしか思えないほどに。
 例えば俺は『漆紺の偽城しっこんのぎじょう』という絵には心に穴が開くほどの衝撃を受けたが、月展で入選した『落日の悲歌』は何がいいのかさっぱりわからなかった。学生の描いたオリジナリティのない駄作にしか思えなかった。喜友名晋司の絵は、1枚の絵に対して駄作と罵る者も傑作と推算する者もいる。
 その落差は本当に訳が分からない。喜友名晋司は複数人で絵を描いているのでは、という噂もまことしやかに流れた。けれども喜友名晋司は確かに俺の目の前で絵を描いている。
 わかる。8割方完成している紺色のキャンバス。これは傑作だ。
 なぜだ。
 なぜあんな、自分がなにを描いているのかもわからない状態でこんなに魂を鷲掴みにするような作品が描ける。
 本当に意味がわからなかった。
(12月3日の手記)

 理由がわかった。
 恐ろしい。これは記事には書けない。しかし。俺はすでに喜友名晋司の絵に魅入られた後だった。
(2月15日の手記)

 喜友名先生はイカレている。
 芸術家というのは大なり小なりイカレているものだとは思う。
 そもそも人を感動させるという試みは自らの価値観を取り出して他人に投げつけ、動揺させる行為だ。芸術家は他人を動揺させるほどの感情や狂気を内包している。
 しかし喜友名先生は凡庸だ。それどころか喜友名先生の中には何もない。だから、中身を入れてそれキャンバスに描き出す。詰め替え式のシャンプーのようなもので、液状のシャンプーの詰め替え液を入れると泡立ったシャンプーとなって出てくるのだ。
 喜友名先生が絵を書くというのは、そんな作業だ。出てくるシャンプーは元の原液によって匂いや色を変える。だから人によって好き嫌いが分かれる。ようやく絵によって心の容器が違う理由がわかった。

 最近はその詰め替え用のシャンプーを集める手伝いをしている。なんでこんなことを始めてしまったのか。けれども秘密を知ってしまった時には既に喜友名先生の絵に魅入られていた。
 そしてその日、俺は指名された。
 指名したのは喜友名先生なのかそうではないのか、それはもうわからない。ただ、俺はその指名を断らなかった。喜友名先生の描く絵の手招きとこれまでの罪悪感で、断りようがなかった。それから少しだけ、ホッとしていた。これで終わる。終われる。
 だから俺はこれまで積み上がった罪悪感を紙面にまとめて三文雑誌に送りつけた。どうせ掲載される事はないだろうし俺の自己満足だ。
(この手記はこの頁で終わっている)
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