1 / 7
第1話 今生の別れ
しおりを挟む
冷たく、寒く、真っ白い。
荊軻はスゥと薄い唇に霞を吸い込み、白い世界で言葉を紡ぐ。
風蕭蕭兮易水寒
声とともに白い衣をまとった荊軻はするりと舞う。
俺はその詞に合わせて筑を打ち鳴らし、道行きの不吉を払う。音に合わせて、びょう、という冷たい風が足下を抜ける。
ゆるやかに伸ばされる荊軻の腕は上流から蕩々と流れ落ちる霞を切り裂き、踏み鳴らす足はさらさらとした易水の川の音を引き寄せる。けれども霞はまたすぐ積み重なり、再び世界は白に染められる。
壮士一去兮不復還
この道を進んでしまえば、荊軻はもう戻らない。
秦王政、後の世の始皇帝の暗殺。試みが成功しても失敗しても、その場で捕らえられ死は免れない。それを飲み込みこの男は進む。
いつしか筑に悲しみが混ざっていることに気づく。ふいに荊軻の透き通った目と目が合う。その目は既に過去を写さない。何も語らず静かに舞う。この舞は荊軻からの葬別だ。そうだ、この音じゃない。これは寿ぐべき別れ。荊軻は己の信念に従って死地に発つ。
背筋を伸ばして一層強く筑を打つ。その音は大地を震わせ、参集した者達を絡めとる。皆、白装束だ。荊軻を死地に追い込む者達。燕国の太子丹、その側近の鞠武。荊軻の出立を知って集まった者達。荊軻は燕の正式な使者として秦に赴き、秦王政に刃を向ける。燕の命運をのせて。
「風蕭蕭として易水寒し」
風はもの寂しく吹きすさび、易水の川の水は冷たい。
白装束の男達は唱和する。その音は集まり束ねられ、力強く大地を穿つ。
「壮士一たび去りて復還らず」
覚悟を抱いて旅立つ者は再び帰ることはない。
荊軻は二人の壮士の魂と共に行く。
筑に新たに宿った勇壮な調べに合わせて男達の目は赤く釣り上がり、その髪は天を衝く。地面は踏みしめられ、赤土が踊る。生まれ満ちる熱気が大気を震わせる。
しかし見上げる天は僅かにその縁に橙を残すだけで、未だに茫洋と白に沈んでいた。
いや、この音でもない。
1つ息を吐き、荊軻を思い、また新しい音を筑に乗せる。
荊軻は燕のために秦に赴くのではない。荊軻は己の義のために向かうのだ。荊よ。荊軻よ。誇り高き俺の友よ。あなたが最も好んでいた音があなたを送るのにふさわしい。筑を激しく打ち鳴らす。
その調べにようやく霧はゆるゆると晴れていく。滔々と揺蕩う易水の流れと沿うように広がるなだらかな草原、それを超えた先にある峻烈な山々が姿を現す。あの山を遥かに超えた先にある秦。そこに座す秦王政。
晴れた世界で荊軻は変わらず一人舞っていた。
傍らには誰もいないように。
白装束の唱和も俺の筑も存在しないように。
ふと、荊軻は地に降り立ち、爽やかに微笑む。
「友よ、さらばだ」
さよならだ、荊軻。俺は君の義と名を心に刻む。
荊軻を乗せた車は国境を超えて平原を進む。俺は荊軻の姿が豆粒になり、そして消え去るまで眺めた。この場に誰もいなくなって荊軻の姿が見えなくなっても、日が暮れるまで長い時間眺めて別れを惜しんだ。
荊軻は一度もこちらを振り返らなかった。
荊軻はスゥと薄い唇に霞を吸い込み、白い世界で言葉を紡ぐ。
風蕭蕭兮易水寒
声とともに白い衣をまとった荊軻はするりと舞う。
俺はその詞に合わせて筑を打ち鳴らし、道行きの不吉を払う。音に合わせて、びょう、という冷たい風が足下を抜ける。
ゆるやかに伸ばされる荊軻の腕は上流から蕩々と流れ落ちる霞を切り裂き、踏み鳴らす足はさらさらとした易水の川の音を引き寄せる。けれども霞はまたすぐ積み重なり、再び世界は白に染められる。
壮士一去兮不復還
この道を進んでしまえば、荊軻はもう戻らない。
秦王政、後の世の始皇帝の暗殺。試みが成功しても失敗しても、その場で捕らえられ死は免れない。それを飲み込みこの男は進む。
いつしか筑に悲しみが混ざっていることに気づく。ふいに荊軻の透き通った目と目が合う。その目は既に過去を写さない。何も語らず静かに舞う。この舞は荊軻からの葬別だ。そうだ、この音じゃない。これは寿ぐべき別れ。荊軻は己の信念に従って死地に発つ。
背筋を伸ばして一層強く筑を打つ。その音は大地を震わせ、参集した者達を絡めとる。皆、白装束だ。荊軻を死地に追い込む者達。燕国の太子丹、その側近の鞠武。荊軻の出立を知って集まった者達。荊軻は燕の正式な使者として秦に赴き、秦王政に刃を向ける。燕の命運をのせて。
「風蕭蕭として易水寒し」
風はもの寂しく吹きすさび、易水の川の水は冷たい。
白装束の男達は唱和する。その音は集まり束ねられ、力強く大地を穿つ。
「壮士一たび去りて復還らず」
覚悟を抱いて旅立つ者は再び帰ることはない。
荊軻は二人の壮士の魂と共に行く。
筑に新たに宿った勇壮な調べに合わせて男達の目は赤く釣り上がり、その髪は天を衝く。地面は踏みしめられ、赤土が踊る。生まれ満ちる熱気が大気を震わせる。
しかし見上げる天は僅かにその縁に橙を残すだけで、未だに茫洋と白に沈んでいた。
いや、この音でもない。
1つ息を吐き、荊軻を思い、また新しい音を筑に乗せる。
荊軻は燕のために秦に赴くのではない。荊軻は己の義のために向かうのだ。荊よ。荊軻よ。誇り高き俺の友よ。あなたが最も好んでいた音があなたを送るのにふさわしい。筑を激しく打ち鳴らす。
その調べにようやく霧はゆるゆると晴れていく。滔々と揺蕩う易水の流れと沿うように広がるなだらかな草原、それを超えた先にある峻烈な山々が姿を現す。あの山を遥かに超えた先にある秦。そこに座す秦王政。
晴れた世界で荊軻は変わらず一人舞っていた。
傍らには誰もいないように。
白装束の唱和も俺の筑も存在しないように。
ふと、荊軻は地に降り立ち、爽やかに微笑む。
「友よ、さらばだ」
さよならだ、荊軻。俺は君の義と名を心に刻む。
荊軻を乗せた車は国境を超えて平原を進む。俺は荊軻の姿が豆粒になり、そして消え去るまで眺めた。この場に誰もいなくなって荊軻の姿が見えなくなっても、日が暮れるまで長い時間眺めて別れを惜しんだ。
荊軻は一度もこちらを振り返らなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる