侯爵令嬢の好きな人

篠咲 有桜

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幼少期編

知らない天井①

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 目を覚ませば知らない天井だった。

 きっとたくさんの出だしで使われただろう出だし文。在り来りな出だしではあるが、実際に目の前に広がってるのは知らない天井なのだから、第一声が在り来りであることはご了承願いたい。

 薄暗い部屋の中。少しだけ湿気った木の香り。見える天井は目の前がぼやけてよく分からないが、木目が見えるし知らないものだと言うのはわかる。天井が見えると言うことは私自身は仰向けに寝転がっているのだろう。

しかし、背中に感じるのはふかふかではなく硬い床。更に身体はがっしりと何かで固定されてて身動きも取れないし、口はしっかりと布で猿轡をされてるので上手く声を発せることも出来ない。首の付け根と頭が酷く痛い。固定された体も凝り固まってとても痛い。視界は霞んでここがどこかも分からない。遠くでぴちゃんぴちゃんと水が滴る音がする。

 痛い体を少しだけ動かしたときに、床と衣服が擦れる音がした。途端、ふっと人の気配が部屋の奥から感じ取れる。

「起きたか?」

 男の人の声。それに身じろいだ体の動きを止めれば、ゆっくりと頭を動かした。目を凝らしてもそこに人がいるだなんて分からない。

 それと同時に恐怖が冷えた足先から這い上がってきて息が苦しい。猿轡で声は発せないし、吐いた息が上手く外に流れないので息がさらに苦しくなる。歯を鳴らしてしまいたくなる怖さを感じながら、ゆっくりと近づく人の気配に視線を向ければ、知らない男の人が立っていた。

 ボロ布の服に、ぼさぼさの艶のない金色の髪。ひょろっとした手足に、こけた頬。ぎょろりと飛び出そうなほどに大きな目が恐ろしく感じた。私は今どんな表情をしているのだろうか。

 いや、そもそも私は誰だ。

 というか、そもそも私はどうしてここに居るんだ。

「ふん、気持ち悪い赤い目をしている。」

 気持ち悪いと言った彼は、汚物を見るように顔が歪んだ。

 そこで初めて認識する。――私の目は赤いのか…と。

「まあ、そんなでも侯爵家のお嬢様だもんな。しっかりといい人質になってくれよ?」

 その一言で私がどっかの侯爵家の娘なのだと理解する。ガチガチと歯を鳴らしたいのに布が邪魔して上手く噛み合わない。ガンガンと鳴り響く頭痛が思考を停止させるし、恐怖で体を震わせていれば、男が手を伸ばして私の髪を掴んだ。床についていた背中がゆっくりと持ち上がるが、髪を引っ張られ皮膚が伸びてとても痛い。

ぶちぶちっと毛が少し抜けた音もする。私が痛さに顔を歪めれば、それに満足したような気持ち悪い笑みに男が顔を歪めさせる。その様子を写す視界が歪んでくる。それは痛さによるものなのか、恐怖によるものなのかは分からない。

何をされるのか、何のために私がここにいるのか、理解が出来なかった。それでも臆したら駄目だと心の奥から叫ばれれば、眉を釣り上げて男を睨みつけた。

途端、男が酔ったように恍惚とした笑みを浮かべれば更に髪を掴みあげられた。更に体は浮くが皮膚が引っ張られて眉間にのシワを濃くさせる。

「いいね、その強気な目。赤いのは気持ちが悪いと思ってたが、なんだか欲しくなってくるよ。その目を1個オレに寄越せ。」

 先程まで気味悪がっていた人の発言では無い。まるで魅了された様にうっそりとした表情を浮かべて、浮いていた手をこちらに伸ばしてきた。気持ち悪くて顔を背けようとするもがっちりと髪を掴まれているので逃げられない。あと少し、もう少しで汚い指先が私に触れようとした時だ――


「お嬢様ッ!!」



 部屋の扉が激しく開かれた。バンっと音がするはずが、バキッと割れた音がしたので、開くと言うより壊したのだろう。薄暗かった部屋へ一気に光が入り込んできた。同時にいきなり大量に入ってきた光に耐えきれなくなった視界を、ぎゅっと瞼を閉じて暗闇に逃げてしまう。

 いきなりの事に、男も伸びていた手を止めて、声のする方へ顔を向けた。同時に私の髪を掴んでいた手の力が抜ける。髪を掴んで浮いていた体が冷たい床に投げ出されるとその光景を見た何者かが息をひゅっと飲み込んだ。

「貴様ァ!!お嬢様に何をしたァッ」

 響く怒号は部屋を揺らして酷く頭に響いた。成長仕切れてない怒りの声は、若々しくて男の子の声では無い。確かめたいのに響く頭痛に誘われて、1度閉ざされた瞼はなかやな持ち上がらない。それでも、私を助けに来た人の声を聞いた途端、この体は一瞬にして安堵で気が抜けたのだ。

 そんな私を置いて、どうやら戦闘が始まったらしい。足で地面を蹴る音。キンっと鉄と鉄がぶつかり合う甲高い音。後からバタバタとかけてくる足音。様々な男の声の人。全てが全て現実離れしており、遠くなり始めた意識の向こうで結局は最後まで上がらなかった瞼のせいで私は確認が取れなかった。取れないまま、あっ…限界……と悟れば、ぷっつんと意識が途切れたのだ。

「アイシャ様ッ!」

 意識を手放しながら遠くでを呼ぶ声がした。

 





 次に目を覚ませばそこは何も無い空間だった。真っ白なその空間には、壁も天井も床もない。私は立ってるのか浮いてるのか皆目見当もつかない。きょろきょろと辺りを見渡していれば、視界の端に黒い影がうつりこんだ。ゆっくりと視線を下げてそちらに目を向ければ、女の子が私をじっと見上げている。その両目はは珍しい赤だった。

「錦戸玲奈様ですか」

 幼さの残る凛とした声は、1本の針金が入ってるようにまっすぐで、それでもその周りを優しく包んだような安心する声。その芯の強さはこの女の子の性格を表すように、女の子はまっすぐと背筋を伸ばして私を見つめていた。

 それに押されてか、私は半歩だけたじろぐと静かに首を縦に振る。そして認識する。――私は錦戸玲奈だ、と。

 私の頷きに満足したのか、女の子は凛とすました表情が一変して、柔らかくゆっくりとその形のいい唇が弧を描いた。よくよく見ると女の子はとてつもなく美人だった。

 黒く長い髪は、キューティクルを放ちながら波打っている。その長い髪をハーフアップにして、赤い大きなリボンで止めている。

 幼さの残る顔立ちは整っており、大きく零れそうな程のパッチリとした目は、黒く長いまつ毛で縁取られ赤い瞳を強調している。更に少しだけつり上がってる目尻のせいか、その見た目はどこか勝ち気に見えた。

 真ん中を通る小ぶりな鼻は、しっかりと芯が通っており毛穴というものも見当たらないし、先にある唇は小さいのに血色がよくとてもぷっくりとして妖艶だ。

 全体的に黒や紫に統一しているワンピースは、シンプルなのだが生地がとても良質なのが素人目でも分かる。所々に金色の刺繍で綺麗な模様を描きながら、派手さもなく、服の裾にからは見えるようにレースが覗かせていた。

 人目見て上品と言えるだろうその佇まいに、女の子よりも年上筈な私は怖気付いてしまった。すっかりと、言葉を失って、彼女の姿を文字通り、頭の先から足の先までゆっくりと舐めてしまったのだ。

そんな視線を感じたのか、女の子は小さな掌を口許で隠し、軽く咳払いをすると、ゆっくりとその赤い宝石のような瞳を再度こちらに向けた。

「はじめまして。ルドルフ侯爵家が長女。アイシャ・ルドルフと申します。私は貴女、錦戸玲奈様の生まれ変わりですわ」

 息を飲むほどの綺麗なカーテシーでそう挨拶をされると、可愛らしくニッコリと効果音がつくような笑みを頂いた。

しかし、発せられた言葉を上手く理解して飲み込むには、彼女の発言にはツッコミどころが満載でどのような反応をしたらいいか分からず、「はい」とも「え?」とも言葉を出すことが出来なかった。寧ろ混乱しすぎて、言葉を発さない私はほぼほぼ失礼にあたるだろう。

それでも、アイシャはその愛らしい笑みを崩すことはなく、私の無言を言葉の咀嚼時間と捉えたのか返事を促すことも、責めることもなかった。

 静かな空気は数十秒続いたあと、私はやっと息をした。今まで息をしていなかったわけじゃない。ただ、息をした心地がなかっただけだ。私は小さく口を開いた。

「私…は、どうしてここに……」

 声帯が震えるも、やっと出せた言葉だったからかとてもとても小さくて、掠れた声が響いた。それを聞き逃さず、アイシャはゆっくりと大きく頷くと私の手をそっととれば、大切に両手で包み込むと額に私の手の甲を押し当てる。

「話すには少し長くなりますわ。まず――」

 そうやってぽつぽつゆっくりと語り始めた彼女の話に、私はショックを隠せなかった。


 結論から言ってしまえば私は死んだらしい。


 いや、そもそも私が誰なのかから話をした方がいいか。私は錦戸玲奈、28歳

日本にいるごく普通のOLというと言葉はいいが、ドラッグストアの社員だった。大手のドラッグストアではあったが、私が勤めていた会社は超がつくほどの真っ黒。日頃の人員不足で駆り出される社員(私)。押し付けられる責任。御局様の嫌味や妬み。上司からのパワハラ。増える残業時間。それでも終わらない仕事はサービス残業というもので片付けていた。

 更には客とのトラブル。窃盗からなにやらで起きる警察沙汰。色々と精神的な疲労を蓄積していたと言うのに、続いて訪れた世界規模で揺るがす伝染病。

毎日マスクがあるかないかの電話が相次ぎ、開店3時間前に店先に来ては、マスクがないと分かると帰ってく。落ち着いて終結し始めたあたりでは、お店側での簡易検査が出来るようになった。

その時にたまたま対応したお客に陽性が出た。その相手から病原体を貰ったのだろう。私もその伝染病にかかり、高熱を出しそのままお陀仏となっていたらしい。日頃の精神的なストレスも含めて体の免疫力が低下したのも敗因だったと。

 なんとも最悪な終わりだ。なんとも言えないこのやるせなさにギリッと歯を鳴らしてしまう。こんな死に方望んでないし、人生80歳だとしたらまだまだ若いのである。もっと人生謳歌したかった。結婚だってしたかった。子どもだって欲しかったし、何より成人してから楽しめてないオタク活動だってしたかった。

あの人生で働いていたドラッグストアでは、社員でも残業してやっと人並みの生活が出来るものだったので、満足なオタク活動も出来なかった。

 そして、死んだ私の魂は神様に拾われて輪廻転生へと繋げた結果が、目の前の大人顔負けな女の子である。

 アイシャの話を続ければ、元々アイシャの中に私の魂は形をなさずにいたらしい。ただふんわりと私の人となりと薄い記憶、それらを繋いで私の形成を待っていたのだと言う。そして、私が私を取り戻したのがつい最近。私という形ができたはいいが魂に意思がないのもまた続いたのだとか。その間にアイシャの魂が私の魂の記憶を覗いたらしい。

 そして私の魂の意識が戻り、一瞬だけアイシャの体に入ったのが、先程の誘拐直後だったのだ。それでも体と精神が乖離しすぎて保たず、今は体が眠りについてるとのこと。今の間に私の記憶とアイシャの記憶を混ぜ込んで、ゆっくりとひとつにしたいというのがアイシャの希望だとのこと。

 順序立てて説明をしてくれるアイシャの年齢を聞けば10歳と聞く。なんと大人っぽくしっかりとしているのか、私はツンとする鼻の奥を落ち着かせるように目頭を抑えた。

「そう言えばなのですけれど、貴女の記憶を覗かせていただいた時にちらっとお目見えしました、乙女ゲームという物に私たちもおりましたの。」

 私が上を向いて鼻を押さえてる時にアイシャがふっと思い出したように言葉を零す。途端ツンとした痛みは落ち着いて同時に目を大きく開いて彼女を見る。

 ぽつぽつと零した乙女ゲームのタイトルは、私が高校の頃に一時期ドハマリしていた乙女ゲームだった。それでも10年も前に一時的にのめり込んでただけで、内容も、出てくるキャラの名前もCVだって思い出せない。

 メディア化をしたものは別としてそれはメディア化すらしておらず、中古ゲームで安かったこともあり人気があるわけでもなかった。

  だから尚更記憶が薄い。そして、アイシャが言うには、どうやらアイシャの立場はお邪魔キャラらしい。前世で流行っていた悪役令嬢転生物のゲーム内容ほど酷い終わり方は無いが、どうやら1個だけ死ぬ確率のあるルートはあるとのこと。

 他は追放がほとんどだった。追放された理由が、皇太子殿下の婚約候補のひとりであったアイシャ。15歳から入学する学園で、没落した伯爵令嬢が良い成績を叩きだし目立つことに対して、プライドの高いアイシャが嫌がらせをしていたらしい。

  それを咎とし王太子殿下諸々攻略対象達が止めに入ったりした結果、愛の力で立場を勝ち取った主人公たちから断罪をされる流れだとのこと。そしてそれが大抵追放であるらしい。死なないだけありがたい。

 そして、唯一死ぬルート。アイシャは初め主人公に意地悪をしていたが、最後は味方をしていたらしい。気がつけば友人としての立場を確立して色々と貴族社会のあれこれを教えていたのだ。しかし、ある時主人公が没落したきっかけを知ることになり、危ない橋を渡ることとなる。

  その際に、その黒幕に主人公は誘拐され、口封じに殺されそうになるのだ。しかしちょうどその時に、アイシャとその護衛の騎士が助けに飛び込んだが、目の前で殺されそうになってる主人公を目の当たりにし、彼女を殺させまいと飛び出した矢先に、アイシャが刺されて死ぬとのこと。

 そして数年後、アイシャの墓に並ぶ主人公と他攻略対象たちが集い、哀悼をする。その死に罪悪感を持った主人公に当時護衛をしていた騎士が、前に進んで欲しいと告げてその話は友情エンドで終わるというものだ。

 何もアイシャ悪くなくない?

 婚約者でもないため王太子の自由恋愛は良く、そこでプライド高いアイシャが主人公に意地悪していた結果の断罪は、まあ自業自得とかは思うが、友情エンドは酷い。いや、美談だよなで終わるならそれはそれでいいけども、される側としてはたまったものではない。

 私が微妙な顔をしていればアイシャはどこか楽しそうに小さく喉を鳴らして笑っていた。これだけでなんて可愛さだと鼻血が出そうだ。精神体だが。

「一応お邪魔キャラということではございますが、錦戸様はそのようなことはなさいませんでしょ?」

 アイシャの質問に私は赤べこのように頭を縦に沢山振った。それもまたツボにハマったらしく、ふふふ、と上品に笑われてしまった。

「私も死にたくはありませんわ。でも、友人を見殺しにもしたくはありませんの。だから、他の方法で一緒に幸せを掴みにいきたいですわ」

 私の手を包んでいたアイシャの小さな手に力が入る。そのしっかりとした意志に私は大きく頷いた。それに満足した様に彼女は笑うと私の手の甲に再度額を当てた。

「それでしたら私とひとつになってくださいまし。問題ございませんわ。意識はほとんど貴女様に代わってしまうでしょうが、ゆっくりと貴女と淘汰してを形成しますの。記憶も絡まらないようにしっかりと紐どいてゆっくりと混ぜ合わせて私の体に負担をかけない様にすれば目を覚ましてもきっと体と心が乖離することなんてありませんのよ。」

 静かに告げられるその言葉は大人顔負けで、同時に目頭が熱くなる。私が私でなくなるわけでもなく、アイシャがアイシャでなくなるわけでもなく、私はアイシャなのであるとしっかりと自覚する事なのだと次いで優しく告げられると、どこか落ち着いていく。

そして、私より断然低い位置にある彼女の目線に合わせるため、ゆっくりと腰を落とせば、こつんと頭と頭を重ねる。視界に少しだけ映る彼女の優しい笑みを瞼の後ろに閉じ込めると意識をアイシャに向けた。
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