侯爵令嬢の好きな人

篠咲 有桜

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幼少期編

アイシャ・ルドルフ侯爵令嬢

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 ここまでで知らない天井の出だしだった。ここからは、お決まりの自己紹介の出番だろう。

 まずこの世界から紹介したい。

 ここは、大陸の北側に位置する北国。北国でも5カ国あるうちのひとつ、スヴァーリア王国。秋と冬が長く、夏と春は短いそんな国。王様が頂点に立つ立憲君主制だ。

 時代感覚は近代寄り。西の島国エンゲルス連合国が蒸気というものを生み出し、産業革命が起きた。大量生産というものが出来たために資本主義というものが出来上がった。

 貴族を含むブルジョワ階級が根強く、むしろ労働階級が最悪な時代。田舎から夢見て稼ぎに来るも、労働体制の整ってないこの世界はきっと劣悪なものなのだろう。


 そんな時代の、侯爵という高い地位に生まれたのが私こと、アイシャである。

 父親であるヨーセフ・ルドルフは、国の重鎮で主に王様が行う政務の補佐を担う役職に就いている。
 
 母親であるリリアナ・ルドルフは、前陛下の妹の娘で王家の血を色濃く引き継いでいる。国に4つほどしかない公爵家の娘だった。政略結婚だったとは笑いながら話すが、あのふたりは確実に恋愛を通してちゃんと心を通わせている。子供から見てもとても仲睦まじいのだ。

 リリアナは政務で忙しい父に代わって領地を経営している。元々それをしたかったのだが、いいところのお嬢様はしないものだと言われ続けており、なかなか手を出させてもらえなかったらしい。

 父と結婚してから、そのいろはをこのルドルフ家の人から教えてもらったらしい。今ではバリキャリウーマンだ。ヨーセフ曰く、ヨーセフがするより断然リリアナが領地を経営した方がうまく回るそうだ。才能を感じたよと楽しそうに笑って話している印象だった。

 そして夫婦の子供たちはアイシャを含めて3人。アイシャが一番末っ子。上にふたり兄がいた。

 長男のルシウス・ルドルフはアイシャの3歳上。そしてアイシャの双子で兄のアイザック・ルドルフ。家族5人に使用人たちと首都ストックホールの邸宅に住んでいる。

 侯爵家ではあるが周りからは悪魔と契約して出来た家だなんだと言われている。それはアイシャの持っている瞳と髪の色が原因だった。烏の濡れ羽のように艶やかな黒い髪と、兎のように赤い瞳が特徴だった。

 完全にルドルフの血を濃く継いだアイシャは貴族の中でも畏怖の象徴として悪い噂の的であった。更にきれいに配置された顔の造りにプラスして軽く吊り上がった目元が怖く、気が付いたら自己中心的でわがまま、癇癪もちといろいろと噂に尾鰭が付いて泳いでいった。


 そのためアイシャには友だちがいなかったが、唯一アイシャをアイシャとして見てくれていたのが幼馴染のリーシアのみだったのだ。リーシアとの出会いを語るとまた長くなるので、ここの話しはひとまず置いておくとする。


 とりあえず、目の前ですっかりと短髪になってイケメン度に磨きの上がったリーシアを見た。手には黒いリボンで彩られたバターブロンドの髪の束。切り口は整えていないためまばらとなっている。

 勿論髪の毛もきれいに整えていないため長さがばらばらだ。そんな様子の彼女に私はショックから現実逃避を心掛けた結果、アイシャの自己紹介と走ったが、目の前に繰り広げられている現実からは逃げられない。彼女が持っている髪の毛の束にそっと手を伸ばせば、その意図を汲み取った彼女が手に持っている者を差し出した。

 震える指先でそっとそれに触れると、無意識に頬に一粒の涙が流れた。


「お、お嬢様?」

 まさか私が泣き出すとは思わなかったのか、リーシアは慌てて私に手を伸ばした。

「……んで……なんでこんなことをしたの」

 今の時代、髪の毛の長さは自由だ。庶民では髪を短くするお洒落だってある。メイドにもショートカットの子もいるくらいだ。それでも貴族の女性は髪の長さや艶もステータスのひとつだった。

 だから私は髪を伸ばし、綺麗に整えている。きっとリーシアも同じなのだと思っていたのだが、それをあっさりと短くしたのだ。しかも乱暴に。それが悲しかったのだ。リーシア自身がリーシアを乱暴に扱うのが悲しかった。そして、それをさせたのが私自身なのだと思うと悔しかった。


 指先に触れる滑らかな髪の束をゆっくりと撫でると、リーシアは少しだけ困ったように眉を下げた。

「申し訳ございません。泣かせたかったわけではないのです。これは、私の決意です。これからこの先、お嬢様から離れないという気持ちを示したかったのです。お嬢様から離れてしまい、お嬢様が誘拐されたときは息が詰まる気持ちでした。私がいながら、お嬢様に怖い思いをさせてしまった。なかなか目を覚まさない3日間、ずっと後悔しておりました。

貴女様には恐ろしいもの、汚いものなどに触れてほしくない。穢れが勝手にお嬢様を連れ去った。その事実に私は後悔しかなかった。生きている私自身を責めたくなった。それでもお嬢様は、それをすべて許してくださり、それでも尚、私にそばにほしいとおっしゃった。そんなお嬢様に後悔を向けていては示しがつかなかったのです。

 だから、私は私の後悔を、嫌いな自分を切り捨てる思いで髪を切らせていただきました。」


 リーシアは、髪に触れる私の手をそっと取ると掌を上にした。躊躇いがちにその掌に、髪の束を乗せるとぽつぽつと言葉を零す。

 段々と下がる彼女の頭に、滲む感情が胸をひどく締め付けた。私はきゅうっと眉を寄せると、じっと彼女の旋毛を見つめていた。

「我儘を承知で申し上げます。お嬢様。これは、後悔である弱い私の分身。これをお嬢様にお持ちになってほしいのです。」

 掌に持った彼女の分身をじっと見つめた。きっと他の人の物であれば気持ち悪くて手に持った時点で投げていただろう。それがどうだ、リーシアのものだと思うと嫌だと思わなかったのだ。

掌に乗った束を空いたもう片方の手でゆっくりと閉じ込めて、丁寧に集中に収めるとゆっくりと首を縦に振った。

「分かったわ。これはリーシャの分身だと思って大切にいたしますわ」

 静かにそう告げると、弾かれたようにリーシアの顔が上がる。その瞳にはキラキラと星を浮かべていた。安心したように気の抜けた可愛らしい笑みを向けられたのだ。

 それに私もつい笑みが零れた。

 目が覚めてから沢山泣いて、沢山リーシアと言葉を交わして、喉が渇いたことに気が付くと同時に今何時なのだろうかと思った。今しがたリーシアがさらっと私が3日間は目を覚まさなかったと告げられたが、誘拐されてからどれくらいたったのか。

 そもそも、何故誘拐されたのか。そう言う大事な話をしていない。そして追い打ちをかけるように空腹だと体が訴えている。何日もまともに食べていないのであれば固形物は難しくとも、そろそろお腹に何かを入れてあげないと体が栄養を欲している。

 私はもリーシアの手からするりと手を抜くと布団から出ようと体を起こした。とたん、ぴきっと体に激痛が走る。そう言えばさっき上半身を起こそうとしたり首を動かそうとしたら体中が痛かったと思いだした。現実逃避を含む一連の流れですっかり忘れていた。

 体を起こそうとした衝撃で激痛が走り顔を歪めた私を、青い顔でリーシアが手を伸ばした。何をしたいのかさ咄嗟に理解したのか背中に手を差し込むと、「ゆっくりですよ」と言葉を添えられながら上半身を起こしてくれたのだ。

 痛みに備えて、体を起こすときはゆっくりと息を吐けば、痛みはないわけではないが半減した。肩を落として深く息を吐く。

「リーシャ、今って何時くらいなのかしら」

 痛みを息とともに逃がしながら、落ち着かせた後リーシアに問いかけると、リーシアは思い出したようで、あらか様に「あっ」と口にしていた。ベッドサイドからリーシアが離れれば、カーテンをゆっくりと開いていく。
 
 窓から差し込む光量に一瞬目が開けられなかった。ゆっくりと閉じられた瞼を持ち上げて窓の外を見るとまだ朝が昇り始めたばかりのような、緑に朝露が乗ってきらきらと輝いている。

 リーシアの瞳のような透き通った湖畔のような青空が広がっている。空を飛ぶ鳥たちが歌を歌っている。どうやら早起きだったらしい。私が目を覚ましてから随分と経つがこの様子だと今は朝6時くらいだろうか。メイドたちが支度を始める時間だ。

「リーシャ、私喉が渇いたわ」

 大体の時間が確認できたので、今度は喉の渇きを訴える。するとリーシアは蕩けるような笑みを浮かべてこくりと大きく頷いた。

「かしこまりました。そろそろメイドのアンネ・リトリスがお嬢様のご様子を確認に来られるかと思いますので、先に水差しもお願いするようにお伝えします。」

 私に一礼をすると部屋を後にした。その姿をじっと見つめながら扉が閉まったのを確認すれば再びふぅっと深く息を吐く。手に持ったリーシアの髪の束をゆっくりと撫でる。私の護衛騎士で同い年。

それにしては大人びていて、過保護な気もする。それでも彼女から伝わる熱意は嫌ではない。重たくも感じるがそれも苦ではない。それすらも嬉しいと思うのだから、私自身もおかしいのだろう。

 満足するまでリーシアの髪を撫でた後に、顔を上げてゆっくりと首を動かした。部屋を確認する。アイシャの記憶と相違ない。玲奈の記憶にある子ども部屋にしてはとても広くて豪華だ。一個一個の家具がアンティークである。

 きっと現代だとかなりいい値の張るものばかりに違いない。現代庶民育ち。薄月給生活をしていた玲奈の意思が入ってしまったら少しだけ使うのが怖くも感じるが、物は使われてなんぼだろう。

 出来るだけ長持ちするように大切に使っていこう。そう決意をしたときだった。扉の向こうでぱたぱたと廊下を駆ける音がする。そして、バンっと勢いよく扉が開いた。


「アイシャ!!目が覚めたというのは本当か」


 飛び込んできたのは、双子の兄アイザックと父ヨーセフ。その後ろからわらわらとメイドや侍女、執事に少し遅れて兄のルシウスが部屋に入ってくる。

 アイザックは足早にベッドに近づくと両手を私に伸ばして頬を包み込む。むにっと両頬がつぶれる感覚に数回瞬きを繰り返した。ずいっと顔を寄せられる。

 妹ながら実兄の顔がとてもいい。アイシャを男にしたような顔なのだが、彼の纏っている色が全く真逆なのだ。彼は母親の血を色濃く継いだ。王家の人間と間違えられてしまうほどに、王家の血を強く引き継いでいるのがよくわかる。

 きれいなブロンドヘアーに若葉のようにきれいな緑色の瞳。そこに私が写り込んでいた。少しだけたこ口になった情けない顔。流石に恥ずかしいとは思うが、それを口にするには私は彼らに心配をかけすぎた。特に、アイザックはシスコンでブラコンなのだ。言うなれば身内贔屓が強い。

 いつもリーシアと私の事で言い争っているほど。そんな兄が私を心配しないはずがない。リーシアにも見られた目の下のクマは勿論後から入ってきた人たちにもしっかりと色濃くついていた。どこか疲れたような顔をしている。

 私は眉を下げると、私の頬を包む彼の手にそっと手を重ねる。
「大変に心配をおかけしましたわ、アイクお兄様。私この通りしっかりと目を覚ましました」


 彼の掌の中で花が咲いたように笑うと、ほっとした空気が辺りを漂った。
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