侯爵令嬢の好きな人

篠咲 有桜

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幼少期編

軍と騎士

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 兄ふたりが退出した後、メイドのアンネが私の朝ごはんを持ってきてくれた。お盆に乗っているのは、ミルク粥。ほんのりと甘いミルクと舌でつぶせるくらい柔らかいお米。中身が元日本人の私にとって、甘いお米というのは違和感でしかなかったが、アイシャの体は慣れ親しんでいたのか嫌悪感はなくすんなりとお腹に収めた。


 あとからデザートだと言って出されたリンゴンベリージャム入りのヨーグルトは、甘くなりすぎたお口の中を甘酸っぱさで、さっぱりとさせてくれる。数日間食事をしていなかった体は、久しぶりの栄養をあっという間に取り入れれば満足したように空腹が落ち着いた。


 食後に貰ったサルミヤッキを無の感情でよく咀嚼して、水で口の中に押し込んでから、ふっと部屋を見る。兄ふたりがいたときには扉付近にいたリーシアが今はどこにもいない。私の膝の上にずっとあった彼女の毛束もいつの間にかサイドテーブルで丁重に扱われている。


 どうやら、私がご飯を食べている間に彼女が色々と世話を焼いてくれたのだろう。そして、ご飯をゆっくりとだが食べている姿に満足したのか彼女も朝ごはんを取りに行ったのだろう。普段から私のそばにほとんどいるのでこういう時くらいはゆっくりして欲しい。


 ご飯もすっかり食べきってしまった。固形物では無いものを胃に入れるだけはお腹空くかと思ったが、思っていた以上に胃は小さくなってたらしい。あれだけで充分お腹がいっぱいだ。そして、ご飯を食べたということは、私はとうとう暇になったということだ。リーシアもいない。


 アンネも先程私が平らげたあとの皿を片しに部屋を後にしている。することも無ければ出来ることも少ない。身体中筋肉痛のこの小さい体で動くのはやっと。立てなくも歩けなくもないが、少なくとも体力はないだろう。


 ミルク粥を食べきるだけでも結時間はかかったし、サルミヤッキを咀嚼しただけで顎が痛かった。今一人で布団から出て屋敷中を歩き回るのは少しきついかもしれない。そもそもがベッドの上を這って移動するにも全身筋肉痛の痛みがすさまじそうだ。それでも、人間食べたら出すし、汚いものは流したい。自然の摂理は抗えない。今すぐにお花を摘みたいわけではないが。少しでも動ける準備はして損はないだろう。


 まずは部屋にある本を取るところからはじめよう。そう思ってベッドの中を這うように横に体をずらす。その度に体の節々が痛い。筋肉がピキピキと悲鳴をあげる。何でこんなに凝り固まってんだ。誘拐犯がまともなところに私を寝かせなかったからか。そもそもが箱入り娘で、運動も社交ダンス以外は特にと言ったようなものではないはず。


 屋敷の中を歩くか、外に出る時は馬車か最近我が家にも取り入れた車を走らせるか。遠出の時は、汽車に乗るくらいだ。まともに歩いて動かない。それでも、城下町に買い物に出る時は歩くが、きっと庶民以上に歩くことは無いだろう。


 技術の発展で、今では大通りには路面電車もある。ある一定額を払えば誰でも乗れるそれは庶民でも使うことはあるが、家の前から通ってる訳でも無いし家の仕事が力仕事なら、やはり私は彼ら以上に動いていない。


 そんな箱入り娘は少し質の悪い布団でも体に現れるわけで。それが床なら尚更だし、手足を縛られていたのならもっと尚更だ。体を鍛えようものなら家族総出+リーシアが全力で止めに来る。挙句の果てに泣かれてしまうので、今よりもっと幼い私はそういうのを直ぐに諦めた。


 痛む体を丁寧に起こし、ベッドの橋にゆっくりと腰をかければ、ふぅっと深く息を吐いた。自分の足の長さより高い位置のベッドは、腰をかけただけだと床に足はつかない。

 ゆっくりと前におしりを動かして、床に足をつける。大理石で出来た床にはベッド下にふわふわなラグを置かれている。そのため、裸足で冷たく硬い床に着くことはなく、ふわふわなラグを踏みしめてゆっくりと立ち上がれば、くらりと目の前が霞む。


「!!――ッ」

「お嬢様ッ」


 霞んだ目の前に足腰の力が抜けて、その場にへたりこみかけた時、切羽詰まった声で私の体を抱き上げられる。その力強い腕は、同い年には見えないし、同性だとも思えない。彼女の腕にしっかりとしがみつきながら息を整える。血がしっかりと体中に巡り始めたのだろう、霞んでいた視界がゆっくりと回復する。


「ただの立ちくらみよ。……ごめんなさい、もう大丈夫」


 そう言って、彼女の腕を借りてゆっくりと背筋を伸ばした。


「リーシャ、朝ごはんじゃなかったの?」


 私は体制を整えて、まっすぐと湖畔の瞳を見つめた。すると、彼女は照れたように笑って頬をかく。


「はい。美味しくいただきました。」

「貴女、戻ってくるのが早くてよ?しっかりと噛みましたの?」


 少しだけむっと唇を尖らせながら確認を取ると、つっと彼女の視線が外れる。私は大きく息を吐くと、しがみついていた手を解く。代わりに彼女の頬に手を伸ばせば両頬をそっと包み込んで、逃げた視線を捕まえた。


「リーシャ。私は非力ですから、私は貴女に頼るしかできないのです。力がないですから、貴女への助けをいつも欲してしまうのです。食事は力の源。睡眠は生きる糧。努力は貴女の力。私の言葉が貴女へのそれを邪魔してしまったのでしたら、私はあえて近づかないでと言わなくてはならないわ。私は貴女に離れてほしくはないの。だから、どうかちゃんと食べて、寝て、自分の時間を作ってちょうだい。屋敷の中は安全だもの。お外に出ない限りは貴女は駆けつけやすいと思うの」


 ふっと自分の目じりが緩むのがわかる。掌に感じる彼女の温もりに安心をする。近い距離から香る彼女の匂いに少しだけ胸が高鳴る。


 叱られたわんこのように、私を見つめる瞳が少しだけ揺れた。眉を下げて、肩を落としている。なんて可愛らしいのだろうと口許がほんのりと緩む。


 愛しくて頬を包んでいる手でそのままその柔らかな頬を撫でる。反省しないといけないのだが、撫でられて嬉しいのか彼女の眉が少しだけ喜色を見せて跳ねた。しかしそれも一瞬で、思い出したように目を少し大きく開くと、次の瞬間拗ねた表情で私に視線を向ける。


「お嬢様のお言葉は素直に受け取ります。屋敷の中では、私は私自身の時間を大切にさせていただきましょう。体調管理が出来ていないとお嬢様のそばにもいられませんし、しっかりと鍛錬を付けなければお嬢様をお守りできません。知識を身につけなればお嬢様の恥となってしまいます。貴女にそのようなことを背負わせたくはございませんでので、私は私の努力をいたします。が、些か目を離した隙に貴女はやんちゃをする傾向がございます。今しがた、私が食事で席を離れ、アンネが食器を片している間に、ひとりで立とうとしておりました。ここ数日ずっと寝たきりでした貴女様が急に体を起こせば立ちくらみが起きて当たり前なのです。扉を開いた瞬間に、貴女が無理に立とうとしており、私は心臓が大きく跳ね上がりました。どうしてもう少し待ってくださらなかったのですか。用があるなら誰かをお呼びください。お散歩をされたいのでしたらいつだって私は貴女の手を取りましょう。むしろ、兄君方であっても私はその役割を譲りたくはございません。」


 リーシアの口から次々に零れてくる言葉にぐっと苦いものを飲み込んだ気分だ。苦くはないが、まずさで言えばサルミヤッキの味を思い出してしまう。


 静かに、それでいて的確に貫いてくるので、胃のあたりが急激に掴まれていく。次第に、私の表情が今度は渋くなっていく。怒られたわんこのようになったのは私だった。ここまで言われてしまえば、次いでくる言葉はひとつしかない。


「ごめんなさい」


 素直に口にすると、リーシアはそれはそれは乙女心を大きく揺さぶるような素敵な笑顔をくれた。



 リーシアの手を借りて、ゆっくりと部屋にある本棚に近づくと、本を選んでいた。安静にしていれば散歩とかはしていいらしいが長時間歩けるほど体の痛みはひいていない。鎮痛薬を口にして若干は落ち着いたが沢山動き回れるほどの効果もない。


 ベッドに一日横になるのもいいが、体を起こさないと怠くなってしまう。私は、本を三冊ほど選んでそれを片手で支え、もう片方の手をリーシアの腕に添えるとゆっくりと部屋の窓際に落ち着いている勉強机に腰を落ち着かせた。


「そういえば、お伝えし忘れておりましたが、後程父が来られるそうです」

「ローレル伯爵がですか」

「お嬢様の誘拐事件は、父の部署の管轄ですから」


 彼女の言葉に大きく納得をした。ルドルフ侯爵家は父の代までは王族とはさして大きなつながりは無かったが、母という王族の血を入れたことで狙われやすくなった。紛いなりにも私や兄たちは、王家の直系ではないがしっかりと血は繋がっているのだ。3歳上の王太子とは親戚関係となる。まあ、ちょっと遠いが。


 兄たちに王位継承権はないにしろ、万が一の万が一で兄たちが持つことだってあり得るのだ。だから王家直属の騎士団が動くのだろう。それともうひとつは、ローレル伯爵家とルドルフ侯爵家は割と関係が良好だ。リーシアが私の護衛をしているくらいには、家族ぐるみで仲がいい。個人的な感情も含めているところもあるのだろうか、と少しだけ自惚れたことも考える。


 そもそもが国には騎士と軍が存在する。国防となると軍だが、今回みたいに国内関連のいざこざは騎士が動く。日本で言う、警察と自衛隊みたいな役割だ。この時代には、騎士の腰にもしっかりと拳銃が備えられてはいるが、基本犯人を殺すことも出来ないため相変わらず素手や剣などのアナログ的なもので頼っている。


 家の敷地内にも領地の騎士が屋敷の警護で来ている。そのため、敷地に騎士の鍛錬所はあるしリーシアもそこで鍛えている。
 リーシアの実家であるローレル伯爵家騎士の家系だ。彼女は兄弟がたくさんいる中でも真ん中に当たる。上に兄がひとりおり、リーシアの兄は王城の騎士をしていたはず。その姿にリーシアは憧れたと聞いた。この世界では女性も今まで男性が主立ってしていた職もそれなりに出来るようになっていたが、それでも貴族の娘として生まれたらお家のために政略結婚が主流だろう。


 リーシアが騎士として私の元にいられるのはひとえに彼女が次女で、ローレル伯爵家にはリーシア以外にも兄弟があと4人いるからだ。あと、彼女の家族が全員寛容というところもあるだろう。


 話はそれてしまったが、今回の事件は高位貴族の子女の誘拐案件だ。関わった者たちの首と体が繋がっているか怪しいところはある。それでも、黒幕などを見つけないとならないので、首と体が繋がっているほうが辛いと思うほどの拷問を受けている可能性もある。


 脳内で自主規制が発生し始めたあたりで首を横に振る。前世も今世でもグロは苦手だ。前の人生よりは今の人生の方が人の生死は割と近いかもしれないが、やはり元生き物だったものを見るのは気持ちも精神的にも辛い。そこは生粋のお嬢様になるのだろう。


 私が黙って青くなったり首を横に振ったりしているのがリーシアにとっては、自身の誘拐事件について不安に思っていると捉えたのだろう。椅子に座っている私の視線に合わせるようにリーシアは両膝をついた。私の両手をそっと取ると下から視線を絡めとってくる。まっすぐと澄んだ青が私をとらえて捕まえる。とたんきゅっと唇を結んで表情を改めると、理想的なさわやかな王子様スマイルをリーシアは浮かべた。


「大丈夫です。お嬢様を攫った男の手首をしっかりと切り落としはしましたが、拷問の為生かしております。きっと彼からの情報提供があったのでしょう」


 心配ありませんと言わんばかりだが、心配しか生まれなかった。
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