記憶さがし

ふじしろふみ

文字の大きさ
上 下
12 / 81
第二章 違和感

叫び声

しおりを挟む

 日も沈んで数時間は経った後。夜の闇の中で、叫び声が聞こえた。
 その日、俺は帰りが早かった。運動で小学校近くをランニングしていた途中のこと。午後七時を過ぎた頃であったか。確かに聞こえた。
 あの声は女性のものである。聞き間違いならそれで良い、何も無いなら笑い話で済む。不審に思った俺は、叫び声がした方向へ、全速力で走っていった。
「——や、やめて!」
「——が!お前の——で!俺は——!」
 微かだが、男女の争う声が聞こえる。恋人同士の甘い会話であればそれで良いのだが、声の雰囲気からして違うことが分かった。よく分からないが、急ぐ必要があるということ。それだけは理解できた。
「…!」
 そして俺は、漸くその場にたどり着いた。
 線の細い華奢な女。その女に覆いかぶさる男。男の手にはナイフか包丁か、刃物が握られている。街灯で怪しく光るその凶器は、今にも女の首筋に突き刺さる寸前だった。
 俺は何も考えず、男に強くタックルした。頭に血が上り、俺に気がつかなかったのか。男はいとも簡単に吹き飛ばされた。何回かバウンドし、数メートル先に倒れこんだ。
「助けて!殺される!」
 女は俺の足にしがみつき、叫んだ。女の顔を改めて見て、俺は驚いた。
「香住先生!?」
「あっ!」
 その女は春香だったのである。
「ど、どうして」
 今の状況について聞こうとしたが、太くざらついた声にその考えはかき消された。
「ま、またそうやって。はあ。俺みたいな奴を生み出すんだな」
 振り向くと、男が立っていた。その姿を見て俺は息を飲む。男の脇腹から、大量の血が流れていた。俺がタックルしたと同時に、手に持っていた刃物が一緒に吹っ飛び、運悪く脇に刺さったようだ。
 そんなことなどまるで気にしない様子。血のついた手で、俺を指差す。視線は彼女に向けながらも。
「いい、さ。はあ、はあ。そいつがそうなら。俺には、関係無い、ことだしな。ただ、ただ…こんなこと、いつかは…」
「犯罪者!どっか行きなさいよ!」
 男より数段大きな声で、春香が叫んだ。目の前の男も、また隣にいる俺でさえ目を丸くさせた程である。
「早く捕まえてください!私、こいつに殺される…!」
 春香は俺の体にしがみついてくる。彼女に頼りにされていることと、その恐怖より潤んだ瞳は、俺の内にある正義感に火をつけた。
「来いよ!捕まえて警察に突き出してやる!」
 両手を前に構え、ファイティングポーズをとる。そんな俺に恐れをなしたのか、男は数歩後ずさると、痛む脇腹を抑えながらも、よろよろと去っていく。
「今度また彼女を襲ってみろ!その時は容赦しないからな!」
 男はそのまま、夜の闇に姿をくらました。
 その場に取り残される俺と春香。
「香住先生、もう奴はいないですよ」
 俺の背中に隠れていた彼女は、恐る恐る顔を前に出す。男がいないことを確認すると、大きく息を吐いて座り込んだ。
「本当に、ありがとうございました。お陰様で助かりました」
「いえいえ。先生を助けることができて、本当に良かった」
 彼女の手をとり、ゆっくりと立たせる。
「それにしてもびっくりですよ。争い声が聞こえたのもそうですが、まさか襲われていたのが同じ学校の先生だなんて」
「あ、あはは」
「あの傷じゃあ、もう奴は襲ってこないでしょうね。安心してください」
 俺の言葉に、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「それにしても。どうして襲われていたんですか」
「ええっと。それが…」
 気になっていたことを尋ねる。ぱんぱんっと、スカートについた土埃を手で払いながらも、春香は俺の目を見た。綺麗な、少し青みがかった瞳の色。俺はその透き通るような透明感に心を揺さぶられる。
そんな俺に向かって、彼女は「あっ」と声を上げた。
「そうだ。このあとお時間ありますか。よければ一杯…飲みに行きません?」
 親指と残り四本の指でグラスを傾けるそぶりをしながら、春香は笑ってそう言った。
しおりを挟む

処理中です...