記憶さがし

ふじしろふみ

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第三章 綾

『少女』の記憶

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 —— 先生、おかあさんからジュース! ——

「はい、どうぞ!」
 はっとして前方に目を向けると、幼い少女が俺に向かってにこやかな笑みを浮かべていた。この子は、そうだ。屋敷で目の前に現れた、瞳から血を流していた少女だ。
 少女は盆に乗せてあった、微かに濁った液体が入ったガラスのコップをテーブルに置いた。
「あ、ありがとう」
「これ、りんごジュース!先生好きー?」
「あ、ああ。好きだよ」
「ほんと!あたしも好きなんだー」
 思わずそう答えると、少女は歯を見せて笑う。
 ここはどこだろう。よく思い出せないが、最近来たような気もする。内装は至って普通の住宅内、リビングのようだ。十畳程の空間に白い壁、焦茶色のフローリング張りの床。四十インチ程のテレビが、床と同じ色のテレビ台の上に乗り、部屋の端に鎮座している。
 他には食卓といえるテーブルが一つ、そこに四つ椅子が置いてあり、うち一つに俺が座っている。この少女の家だろうか。
「長らくお待たせしてすみません」
 その時、リビングに一人の女が入ってきた。シンプルな黒のシャツにグレーのジャケット、タイトスカートというオフィスカジュアルな服装で、清楚な雰囲気を醸し出している。ウェーブのある茶色がかった髪が、雰囲気とマッチしている。
 前の記憶で見た、東島綾である。
「い、いえいえ。待っていないですよ。いやもうほんとに」
 何が「待っていないです」だ。くそ、何だか変に緊張してしまう。それは未だ、この記憶がどんなものか判断できていないからだろう。
 俺の慌てふためく様子を見て、綾はふふっと笑った。
「友美、ジュースを先生に運んでくれてありがとう。お母さんの隣の椅子に座りなさい」
 綾は目の前の椅子に座りつつ、隣の椅子を指差しながら少女に呼びかけた。そうだ、この少女の名前は綾の娘の友美だった。俺は今、担任を受け持つ学級の子である、友美の家に家庭訪問に来ているのだ。
 半年前、新学期も始まったばかりの五月の末あたり。この時期に、家庭環境の確認、また保護者への挨拶も兼ねて、家庭訪問を行うことが常葉小学校の通例である。
 訪問は平日の夕方。授業が終わり生徒を家に帰した後、教師はその日にまわる家へと向かう。大体一家庭で三十分、一日に回ることのできる家庭はおよそ三から四つである。家族の夕食の時間帯を邪魔する訳にはいかないので、訪問は午後四時から遅くとも六時過ぎというのが暗黙の了解となっていた。
 そう言いつつも、保護者と話し込んでしまい、それを超過する教師は多いのだが。
 友美はピンクの可愛らしいコップとりんごジュースが入った紙パックを両手に抱え、綾の隣に座る。そして、テーブルの上でコップにジュースを注ぎ、両手で掴んでごくごくと飲む。
「こら友美!先生の前で…」
 そう叱りながら、友美の頭を軽く叩く。ぶーぶー文句を垂れる友美を見ながら、俺は両手で二人を制した。
「まあまあ。全然気にしないですから」
「先生がそう言うなら良いですが…」
「へへ、先生はお母さんと違って心が広い…いたい!」
 娘の肩を軽く叩きながらも「ほんとすみません」と軽く頭を下げる綾。俺はそんな彼女を見つつ片手を伸ばし、友美の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「うわ!ちょっと!やめてよ先生!」
「お母さんの言うことは聞くべきだぞ」
「それはわかってるけどー」
「まったく。でも友美ちゃんは、家でも元気ですね」
 綾は気難しい顔から一転、柔らかい笑みを浮かべた。
「そうなんですよ。でも、こう元気でいてくれるのは、本当に有難いことですよね」
 綾は、今度は優しく友美の頭を撫でながら宣う。
「…そうですね」
 俺はそんな彼女の姿に若干の愛おしさを感じながらも、本来の目的を思い出した。
「さて、このままじゃ夕ご飯の時間を奪ってしまいそうですし。そろそろ始めましょうか」
 気を取り直してそう切り出すと、綾もまた慌ててかぶりを振った。
「そ、そうですね!よろしくお願いします」
「よろしくお願いしまーす!」
 友美も元気よく同意し、両手を強くテーブルにつく。その震動で、テーブルの上のコップが大きく揺れ、テーブルの下に落ちた。
「あっ!」
 すかさず手が伸びたが一歩叶わず。ジュースの入ったコップは俺の手の数センチ下を落ちていき、床に到達する。
 それが引き金だった。
 ガシャンッと大きな音を立て、コップが割れたと思うと、急に視界が一変した。
「え?」
 それを改めて認識した時にはもう、割れたコップのことなどどうでもよくなっていた。
 顔を上げる。夕暮れ前で日の光が入り、明るい空間だった室内が、急に日が落ちたかのように暗い。カメラの露出補正機能で、明度が極端に下がったかのよう。
「綾?友美ちゃん?」
 それまで目の前にいた彼女たちの姿もまた消えている。
 一体、何が起きた。それと…なんだ、この生臭さは。鼻につく、鉄臭い、この不快な臭いは。
 立ち上がり、震えながらも瞳を動かす。場所は変わらず、綾と友美の家の中だった。ソファが一つに食卓用のテーブル、インチの小さなテレビ。それに変化は無い。
 いや、大きく変わっているものが、一つ。
 ソファの裏にあったそれを見つけた時。思わず腰が抜けそうになった。
 女の死体だ。うつ伏せで倒れたそれは、首筋に大きな切れ目が入っている。そこから流れ出た多量の出血により、顔は真っ赤に染まっていた。
 ここは綾の家であり、その家で女が倒れている。大量の血で正確に判別できないが、恐らくこの死体は綾に間違いなかった。
「綾!おい!」
 綾の周囲の血溜まりなど御構い無しで、俺は彼女に駆け寄った。うつぶせに倒れている彼女の体を両手で抱え込む。
 途端に彼女の首が、がぐんと前に垂れ下がった。続いて首筋部分がぱっかりと割れ、体から離れる。そしてそのまま、ごとんと床に落下した。
「わああああ!」
 大声を上げ、手を離してしまう。頭部が取れた体もまた、床に叩きつけられた。
 俺は血溜まりに尻餅をついていた。血が衣服を伝い、地肌まで染み込んでくる気持ち悪い感触。しかしそんなことはどうでも良い。
 何だ、これは。
 何の記憶だ。
 俺の記憶なのか。
 それならどうして。
 どうして、綾が死んでいるのだ。
 分からない、分からない。
 思い出せない。
 …分からない。
 心が折れそうなほど、俺は動揺していた。冷や汗が全身からぶわっと滲み出る。額の脂汗を血がついた掌で拭い、そのまま俺は後ずさる。
「うう…うう…」
 その時、声が聞こえた。この声は聞いたことがある。あの屋敷の廊下で泣いていた、少女。そうだ、友美の声。俺は勢いよく振り返った。
 そこには確かに、友美がいた。しかしその姿に俺は戦慄した。先程りんごジュースを片手に笑っていた時の透き通る瞳は無く、彼女の両目は潰れ、血が流れ出ていた。
「せ、せんせえ」
 怖気付く俺に向かって、友美は呼びかけてくる。
「せんせえ」
 何度も俺を呼ぶ。視力を失った瞳でなお、俺を呼ぶ。
「あ、たし。どうしたの」
 俺は床に座ったまま動かなかった。というより、まるで体が床に根を張っているかのように、動くことができないのだ。
「痛いよ。何も、見えないよ」
 血と共に、透明な液体も流れ出ている。あれは涙だ。友美が痛みにより、泣いているのだ。
「みええええええ」
 突然大きく痙攣したようにぶるぶると震えたかと思うと、友美は俺の方に正面から倒れ込んできた。そして、動かなくなった。
 背中を見て、目を大きく見開いた。そこにはいくつもの刺し傷があった。それが致命傷だったのだろうか。
 友美を床にそっと起き、震える脚でゆっくりと立ち上がった。もわりとした気持ちの悪い空気が、顔の周りを漂う。
 この状況から、彼女達は何者かに殺されたのだ。そうなると一体誰が、こんな酷いことを。
 そう考えていると、背中に何か強烈な衝撃。遅れて激痛が走った。
「うっ」
 これは。この感覚は。俺は既に知っている。首を軽く後ろに向けると、己の背中に包丁の柄が見えた。ああ、やっぱり。
 そうして、俺は綾の遺体が作った血溜まりの中へ、前のめりに倒れこんだ。体の言うことを聞かない。麻痺しているようだ。
「ど、どうして」
 これまた同じく、俺の口が勝手に言葉を放つ。
「あなたの、せい」
 足下に何者かが立っている。
 おまえは誰なんだ。渾身の力を振り絞り、視線を地面から上方へと傾けた。やはり、その人物の顔を見るまでには至らない。この記憶では、顔を見るまではできないのか。
「いいいいあああああ!」
 その人物は突然叫び声を上げた。その声は俺の耳の中の鼓膜に何倍にも反響する。

 そしてそのまま手に持った刃を。

 勢いよく、振り下ろした。

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