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はじまり
激励
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その表情もっと知りたい。
私は天野雪。
高校卒業後、牛乳が好きだったために大手乳業メーカーに勤めたが生き甲斐を無くしいつの間にか楽しいという感情を忘れていた。
そんな中でスマホで動画を見ていたら能面と出会った。
「この顔、正直だ。」
乳業メーカーに勤めていた3年間、無理して笑っていた。たとえ何があっても自分が悪く思われたくない。周りに無理に合わせようとしていたのだ。
でも、笑えるようになったのは笑わない顔と向き合ったから。
能面と出会い、笑ってもいない。泣いてもいない。ありのままで。無理しなくてもいいんだそう思えた。
ちゃんと笑えるようになったのは能面のおかげ。
面接に行った時社長は自分を見て、
「無理に表情作らなくていい。面が勝手に語るから。」
そういうと笑顔で迎え入れてくれた。
あれから8ヶ月、まだ私は雑用をしてみんなをサポート係。そんな中大手住宅メーカーとの契約が成立した。
社長は
「こんな大きな契約滅多にないよ!小学生の時に作った俺の一番の最高傑作がコンテナにあるんだ。」
そういうと車に乗ってみんなと倉庫に行った。相変わらずこの倉庫はでかいなぁ。
倉庫は20フィート。コンテナ15個分が置ける。
倉庫の1番奥からN-13と書かれたコンテナを
みんなでトラックに牽引して運び出した。
またみんなで会社に戻りコンテナを開けた。
コンテナ外側は青い波打った鉄板。
中はくすんだグレー。小さな窓なんてほぼない。
天井に裸電球が付いてるが機能しない。
お面はコンテナの手前右側の棚に置いてあった。
埃まみれのお面。
「懐かしい。もう20年以上はこのコンテナ開けてないなぁ。」
「すごい。これが小学生が作った能面なんて…」
笑っていないのに、楽しそうな面。
怒っているはずなのに、どこか悲しい面。
何も語らないはずなのに、責めてくる面。
角度を変えなくても、光を当てなくても、勝手に表情が変わる。
これは見る側の心が動いた瞬間に表情が変わっているから。
--技術が高い、という言葉では足りない。
そこにあるのは
人の感情を知り尽くした痕跡。
私はこんなお面を作りたい
すぐに社長は井川さんと社長の二人で契約した住宅メーカーにお面を持って行ってしまった。
洗車をしていた私は鳥井さんとコンテナを綺麗にして欲しいと西村さんに頼まれた。
コンテナは右側と左側にそれぞれ棚が置いてあった。
鉄の匂い。わずかに防虫剤、漆、湿気の混じった工房じゃない匂い。
「すごい年季入ってますよねこの倉庫埃すごいし」
会話をすると少し声が跳ね上がる。
床に埃の塊がボヤボヤしていた。コンテナは懐中電灯がないと暗い。
「そうだよね。20年も開けてないとこうなるのか、」
鳥井さんは27歳の会社歴3年目。
面倒見がよくとても優しい。この会社で一番話しやすいと思っている。
「私右側やります。」
社長が昔能面づくりの際に使用していただろう彫刻刀や、木材、胡粉という化粧でいう下地が散乱していた。
木材は20年ほど経っているのに埃のみでちゃんと乾燥していた。
聞いたことがある。
能面に使用する木材は10年~15年が主流で20年以上の木材はすごく希少だと。
この木材で作ったらどんな能面ができるのだろう。木材を見ていると鳥井さんが近づいてきた。
「見てこれ。」
表紙に
きらい
と明らかに子供の字で書かれている。分厚いノート2冊分はあるだろう。背表紙が僅かに湾曲しており角が全て丸く潰れている。
触る前から古いとわかる。
「なんですかこれ」
全体が均一に黄ばんでいる。
空気で変色したのだろう。
おそらく、いやきっと20年以上前から置いていたのだろう。
「棚の下に置いてあったんだよ。なんか隠してたみたいな?」
隠してた!?
「怪しいですね。中見たんですか?」
私に書類を向けてきた。
受け取って中身を見てみる。
きらい
ころしたい。
きらい、きらいきらいきらい
憎しみが伝わってくる。子供だよね?
ころした。いたみつけた。すごくくるしんでたよ。ぼくのほうがくるしんでたのに、
きづかなかったのがわるい。
ペラペラめくっただけですごく沢山の情報が入り込んでくる。
こんなに?いたずらか?好奇心で書いたんじゃないか?
鳥井さんも一緒に覗き込んでいた。
見入ってる私はずっとそのページもさらに捲る。
森のなかのがけにたたせてうしろからおした。
そうしたらおちたんだよ。
そこには絵も書いてあった。
正確にまるで本物のように書かれてる。
憎しみや怒りが込み上げているのが読み取れる。
「怖いですね。本当っぽくないですか?」
私は少し戸惑っていた。
スマホを取りだし、この場所、殺し方、
1ページ目の1行目に書かれている
年月日、このことが本当なら事件になっているはず。
二人で携帯を覗いた。いやそんな事件は何回調べてもなかった。
「調べてもないってことは嘘っぽいですね!」
子供の警察真似ごっこかなんかでしょ!
本当ならあるはずだもん。ただの子供の遊びに思えていた。
ピコン♩
そこで井川さんからLINEがきた。
「お面こんな感じだよ」
私はお面を全部ちゃんと見ていなかったので
「えぇ、すごい!!可愛いですね。どれも表情が違くて素晴らしいです!」
気持ちが高揚した。やっぱり能面が好きだ!
続けて送った。
「今日は新しいことができるようになりました!」
これを送ったのは以前
「井川さんにできないことを
10個リストアップしてできるように
なったら楽しみが増えるから
できないことをなにかメモしてた方が
きっとこれからもっと楽しみが増えるよ。」
と言われたことをふと思い出したからだ。
「どんなことができるようになったの?教えてよ!」
返信がすぐ送られてきた。
「教えません。楽しみは自分だけの楽しみにしたいです!」
井川さんも優しい。沢山の知識を教えてくれる。井川さんも私も同じ時期に入社してきた。頼れる同期。
「ところでさ、そのコンテナに書類なかった?」
え?唐突。井川さんなにか知ってるのかな。
「ありませんでしたよ!どんな書類ですか?」
「ないならいいんだよ。」
なんかやっぱりなにか知ってる気がする。
このやり取りを鳥井さんにも説明した。
書類の作成した年月日と名前を見てみると
井川さんと歳が合う。名前は1文字違うが
鳥井さんは
「なんか怪しいよね。俺は井川さん重要人物だとみた。」
と心霊好きな鳥井さんはニヤつきながら言った。
カバンに書類を入れて持って帰ると言い、
2人だけの秘密になった。
それから倉庫掃除を続けて1時間後
井川さん達が帰ってきた。
能面の顔合わせと打ち合わせだけしてきたらしい。
なにか険しい顔をしながら急ぎ足で近づいてきた。
「書類今も見つかってないですか?」
今までに見たことない顔。
感情を動かさない訓練をしたかおにみえた
「ないですよ。どういう内容の書類ですか?」
あまり動揺してたらダメ。いつも通り。平常心で話した。
「いや、ただお面の書類があるかなって思って。」
やっぱりなにか隠している。
ますます私は気になった。
「先にお疲れ様です。」
先に帰った私はネットで覚えてる範囲の
書類で書いてあったどこで殺したか、
殺し方を片っ端から調べた。
何も一致しない。
まだ見つかってないだけ?
それとも嘘?
井川さんって偽名なのか、
気になって気になって仕方がなかった
探偵事務所に電話して井川さんについて調べられるかを聞き、値段を聞いた。
到底私が出せる金額ではない。
「夜分遅くにすみません。井川さんの子供の書類の件どうしても気になって眠れなくて探偵に相談したのですが費用が15万と言われ出せない金額なので困ってます、すぐ鳥井さんにLINEした。」
すぐに返信はきた。
「俺も今書類読んでて気になってたところ、
最後らへんのページでね、社長の名前が出てきてるんだよ、そこで社長に恨みを持ってるみたいな言い方だから気になって」
この子供は社長の幼少期を知ってるんだ。
社長に聞けばなにかわかるかも。
「どんな恨みですか?」
「今日おにごっこをしていたらゆうじくんに追いかけられておにになった。僕はおにがだいきらいなのに、、、きらい、」
「すごい怖いですねちょっと子供の時にそんな感情…というか鬼ごっこしたくてたまらなかったですけどね!」
「そうだよね普通に歪んでるよね
費用の件なら僕が出すよ。僕も探偵にお願いしたいって思ってたから、明日一緒に行こうか」
「明日ちょうどおやすみですもんね!
リンク送っときます。
ここ何時でもいいらしいんで13時に会社でどうですか」
「おけ」
当日会社で集合した。楽しみすぎて
集合時間より20分早めに着いたが
鳥井さんはもう来ていた。
「やっほー。早いね。
まぁ俺は1時間前から来てるけどね!
社長にこの書類のたかひろくんについて聞いてきたよ。」
さすが仕事が早い。
「え!なんて言ってましたか?」
「社長が言うにはこの井上たかひろくんは小学校低学年に引っ越してきて、母親が入院することになって大きな病院に移るから4年生の時に引っ越したらしいんだ。そこからもうあってないって」
「えーー!引っ越しちゃったんですね。じゃあやっぱり情報何も無いって事ですね。
やっぱり探偵事務所に行くしかない。」
探偵事務所は会社から徒歩20分程の近場にあった。
マップを開いて探偵事務所の方に向かう。
「昨日、雪ちゃんが帰ってから井川さんまたなんか書類なかったか?って聞いてきたよ。」
「またですか!ますます楽しみですね。」
まだ何も始まっていないのにとても楽しく感じた。
たわいもない会話をしていると探偵事務所に着いた。
建物は二階建て。
外壁はくすんだ白。
新しくも古くもなく、時間が止まっているような色をしている。
一階はシャッター付きの窓。
今は閉まっているが、完全に使われていないわけではない。
シャッターの下に、薄く埃が溜まっている。
二階の窓にはカーテン。
昼間なのに、完全には開いていない。
中が見えないというより、見せる気がない感じ。
建物の脇に星野探偵事務所と書かれた少しさびた鉄板看板が置かれていた。
入口は1階の横。ガラス扉。指紋が目立たないように拭かれている。
---営業中
手書きでも印刷でもない。事務的な文字。
ここは、何かを見つける場所じゃない。
何かを整理する場所だ。
ガラス扉の取っ手に手をかける。
ギィ、と音はしなかった。思ったより静かに扉は開いた。
外より少し冷たい。
一階は事務所というより、倉庫みたいだった。
段ボールが積まれていて、
壁には古いファイル棚。
誰もいない。
でも、使われていない感じもしない。
「……すみません」
声が、やけに響いた。鳥井さんも続けて
「すみませんー!」
私よりも大きい声を発した。
二階の奥から、足音がした。
トン、トン、トン。
「はーい、今行きますよー」
声が、やけに明るい。
この場所に合っていない。
階段の上から、顔が覗いた。
派手じゃないけど、よく笑う顔。
年齢は五十代くらいだろうか。
髪はきちんとまとめていて、
エプロンのポケットが少し膨らんでいる。
「いらっしゃい。探偵事務所、初めて?」
初対面なのに、
ずっと前から知っている人みたいな距離で話しかけてくる。
「お茶入れるね。こういう話、喉乾くでしょ」
断る間もなく、
キッチンの方へ消えていった。
鳥井さんが小声で言う。
「……雰囲気、全然違うよね」
本当にそうだった。
この事務所に入ってから、
初めて空気が動いた気がした。
でも、安心はしなかった。
明るい人ほど、
重たいものを普通に扱える。
そんな気がしたから。
湯のみを二つ、ことん、と机に置いた。
「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」
お茶の湯気が立つ。
さっきまで重かった空気が、少しだけ緩んだ。
おばさんは向かいの椅子に腰を下ろすと、
私と鳥井さんを交互に見て、にこっと笑った。
鳥井さんはバッグから書類を取り出しおばさんに渡した。
昨日の内容を全て話しながら。
おばさんはゆっくり時間をかけて書類を全て呼んだ。
30分ぐらい無言で紙をめくる音だけが響いた。
「それで?」
おばさんは、また湯のみを持ち上げた。
「まあまあ、難しい顔しないで」
くすっと笑う。
「今のはね、別に“犯人が誰か”って話じゃないの」
鳥井さんが少し肩の力を抜いた。
「ほらね。やっぱり事件じゃないですよね」
「ええ、事件じゃない」
おばさんははっきり言った。
「これは、気持ちの話」
私は首を傾げた。
「……気持ち、ですか?」
「そう」
指先で机を軽く叩く。
「子供ってね、
殺したかどうかより先に、
嫌いだったかどうかを書いちゃうの」
その言葉に、ノートの表紙が浮かんだ。
――きらい。
「だから、これは“告白”じゃない」
「日記に近い」
鳥井さんが言った。
「でも、具体的すぎません?
場所とか、落とし方とか……」
「具体的だから嘘、とは限らないし
具体的だから本当、とも限らない」
おばさんは笑顔のまま、
「ただ一つだけ、
確実に言えることがあるとしたら」
一瞬、間が空いた。
「この子は、
誰かにずっと見られてた」
私は思わず聞き返した。
「見られてた?」
「干渉されてた、と言ってもいいわね」
声は柔らかいのに、
言葉だけが刺さる。
「子供が“嫌い”ってここまで書く時って、
相手がいなくなってほしい時じゃない」
「自分が、自由になりたい時」
鳥井さんが腕を組んだ。
「……じゃあ、これ書いた子って
被害者じゃないんですか?」
「どっちとも言える」
即答だった。
「だから厄介なの」
おばさんは立ち上がり、
ファイル棚に手を伸ばす。
「名前に引っ張られない方がいいわ」
「書いた名前と、
書いた“気持ち”は、
一致しないことが多いから」
私は、井川さんの名前を思い出しながらも、
社長の顔はまだ浮かばなかった。
——社長が書いた、なんて
考えもしなかった。
「じゃあ、私たちは何を調べればいいんですか?」
そう聞くと、
おばさんは振り返って、にっこり笑った。
「簡単よ」
「この工房で、
一番“守られてた子供”が誰だったか」
その言葉は、
まだ意味を持たないまま、
私の中に残った。
「…守られてた子、ですか?」
私がそう言うと、
おばさんは少しだけ目を細めた。
「ええ。
大人ってね、無意識に一人決めるの」
「この子は大丈夫、って」
鳥井さんが笑って言った。
「それ、悪いことじゃないですよね?
面倒見がいいっていうか」
「もちろん」
おばさんはうなずいた。
「最初はね」
そして、少し間を置く。
「でも、その子が
“一人でいたかった子”だったら?」
私は何も言えなかった。
「毎日声をかけられて、手を引かれて、
気にかけられて」
「それが優しさでも、その子にとっては
檻になることがある」
おばさんは、
机の上のノートを軽く指で叩いた。
「この子、
“嫌い”って言葉を繰り返してるでしょ」
「怒ってるんじゃない」
「逃げ場がなかったの」
鳥井さんが、少し真面目な顔になった。
「……工房って、
昔から子供の出入り多かったらしいですよ」
「社長が子供の頃、
職人さんたちにすごく可愛がられてたって」
私ははっとした。
「よく聞きますよね。
『みんなで育てた』みたいな」
「そうそう」
鳥井さんは何気なく続ける。
「社長、小さい頃から
工房に入り浸りだったらしくて」
「彫刻刀触らせてもらったり、
木くずで遊んだり」
その話を聞きながら、
おばさんは黙っていた。
ただ、
聞き逃さない目をしている。
「でもさ」
鳥井さんが首を傾げる。
「それって普通、
羨ましい思い出じゃないですか?」
おばさんは、そこで初めて口を開いた。
「羨ましいかどうかは、
本人が決めること」
声は相変わらず明るい。
「可愛がられた子はね、
“嫌われる自由”を持ってないの」
私は胸の奥が、少し痛くなった。
「怒ったら、
“そんなこと言っちゃだめ”って止められる」
「泣いたら、
“みんな心配するから”って抱きしめられる」
「逃げたら、
“いい子なんだから”って連れ戻される」
……逃げられない。
「だからね」
おばさんは、立ち上がって階段の方を見た。
「その子が
誰かを突き落としたかどうかより」
「その子が
どこにも行けなくなってたかを
見た方がいい」
私は、工房の風景を思い出していた。
大人に囲まれて笑っている社長。
--無理に表情作らなくていい。
あの言葉が
まだ'優しさ'に聞こえていた。
「……実はね」
おばさんが、少しだけ声を落とした。
「可愛がられてた子、一人じゃない」
鳥井さんが顔を上げた。
「え?」
「工房って、閉じた世界でしょ」
「大人が多くて、子供が少ない場所」
おばさんは指を二本立てた。
「だから、
二人いると、比べられるの」
私は無意識に息を吸った。
「一人は、
“ここにいていい子”」
「もう一人は、
“いなくなったら困る子”」
鳥井さんが眉をひそめる。
「それ、違いあります?」
「大違い」
おばさんは即答した。
「前者は守られる」
「後者は、手放せない」
その言葉が、
ゆっくり胸に沈んだ。
「昔ね」
おばさんは遠くを見る。
「工房に、
よく似た年の子が
二人出入りしてた時期があるの」
「顔も、背格好も、
声の高さも似てて」
私は、ぞっとした。
「双子……ですか?」
おばさんは首を振った。
「当時は、誰もそう思ってなかった」
「ただね」
少しだけ、笑顔が消える。
「大人の前に出る子と
大人の後ろに隠れる子だった」
鳥井さんが言った。
「社長って、
前に出るタイプですよね」
「そう」
おばさんはうなずいた。
「話しかけられたら答えるし、
期待されたら応えようとする」
「だから可愛がられた」
「でも、もう一人は?」
私が聞くと、
おばさんは少し考えてから言った。
「……気づかれないのが、上手な子」
「何も欲しがらない」
「何も言わない」
「でもね」
一拍置いて。
「いちばん、見てほしかった」
部屋が静かになる。
「大人は、
“問題を起こさない子”を安心だと思うでしょ」
「だから放っておく」
「でも、放っておかれた子は、
ずっとそこにいる」
私は、あのノートの文字を思い出した。
――きらい
――きらいきらいきらい
「その二人、
どうなったんですか?」
鳥井さんが聞いた。
おばさんは、また明るい声に戻った。
「さあ」
「一人は、
ここに残った」
「もう一人は、
名前だけが残った」
その言い方が、
なぜか引っかかった。
名前だけ。
私はまだ、
それが何を意味するのか
わかっていなかった。
「名前だけ残った子って……」
私がそう言うと、
おばさんは一度だけ、深く息を吸った。
「その子ね」
声は相変わらず明るいのに、
少しだけ速度が落ちた。
「三歳のときに、養子に出された」
鳥井さんが驚いた顔をする。
「三歳って……
早くないですか?」
「そうでもないわ」
おばさんは肩をすくめた。
「事情があれば、
大人は簡単に決める」
「“この家の方が幸せになれる”とか
“このままじゃ大変だから”とかね」
私は、胸の奥がざらついた。
「じゃあ……
もう工房には来なくなったんですか?」
「逆」
即答だった。
「近所だったの」
「養子先がね」
鳥井さんが言葉を失う。
「……それ、
余計に複雑じゃないですか」
「ええ」
おばさんはうなずく。
「“会えないと可哀想”って言って、
前より頻繁に遊ばせてた」
「工房にも、普通に来てた」
私は、頭の中で整理しようとした。
引き取られた。
でも離れていない。
名前も、顔も、関係も、曖昧なまま。
「それって……」
私の声は自然と小さくなった。
「どっちの子でも、
ないですよね」
おばさんは、
少しだけ笑顔を崩した。
「そう」
「どこにも属してない子」
部屋が静まる。
「工房ではね」
おばさんは続けた。
「その子は、
“お客さん”みたいな立場だった」
「社長の隣に立つことはあっても、
中心には入らない」
「褒められても、
叱られても、
どこか遠慮してた」
私は、
あのノートの文字を思い出していた。
——きらい
——ころしたい
「養子に出された子って……そのあとどうなったんですか?」
鳥井さんの問いに、
おばさんは首を傾げる。
「さあ」
「大きくなったら、名前を変える子もいる」
「変えない子もいる」
「でもね」
一拍置いて。
「昔の名前を、借りたまま生きる人もいる」
私は、その言葉の意味を
まだ理解していなかった。
ただ、
胸の奥に小さな引っかかりが残った。
名前だけが、残った子。
——それは、
“誰の名前”だったんだろう。
「……養子先って、どんな家だったんですか?」
私がそう聞くと、
おばさんは少し考えてから答えた。
「普通の家よ」
拍子抜けするほど、あっさり。
「夫婦二人で、子供がいなかった」
「共働きで、
決して裕福じゃないけど、
困ってもいない」
鳥井さんが言う。
「じゃあ、
ちゃんとした家ですよね」
「ええ」
おばさんはうなずいた。
「ちゃんとしすぎてた」
私は首を傾げた。
「どういう……?」
「正解が決まってる家」
おばさんは、指を折りながら言った。
「何時に起きて、
何を食べて、
どう挨拶して、
どう感謝するか」
「“いい子”の見本が、
最初から置いてある」
鳥井さんが苦笑いする。
「それ、息苦しいやつですね」
「そう」
「でも、その家の人たちは
本気で思ってたのよ」
「この子を、
ちゃんと育てなきゃって」
私は、工房の自由な空気と
その家を重ねていた。
「だからね」
おばさんは続ける。
「その子は
“いい子”をやってた」
「工房では静かな子」
「家では従順な子」
「どっちでも、
本当の顔を出さなかった」
私は、能面のことを思い出す。
笑っていないのに、
感情がある顔。
「養子先の人たちは、
その子をどう思ってたんですか?」
鳥井さんの問いに、
おばさんは少し困ったように笑った。
「自慢の子」
「手がかからない」
「言うことを聞く」
「外で問題を起こさない」
私は、
胸の奥がじわっと冷えた。
「……それって」
思わず口に出た。
「何も見てない、
ってことですよね」
おばさんは否定しなかった。
「子供が静かだと、
大人は安心するの」
「安心して、
見なくなる」
一拍置いてから、
おばさんはこう言った。
「でもね」
「その家、
“よく工房に連れてきてた”」
私は顔を上げた。
「え?」
「“離してしまって可哀想だから”って」
「週に何度も」
「社長の家族とも、工房の人たちとも、
顔見知りだった」
鳥井さんが小さく呟く。
「……それ、
養子に出した意味あります?」
「ないわね」
おばさんは、
いつもの明るい笑顔で言った。
「でも大人は、
自分が正しいと思える形を
選び続けただけ」
私は、
頭の中で一つの風景を思い描いていた。
工房で遊ぶ二人の子供。
片方は中心。
片方は少し後ろ。
誰も悪くない顔をしている。
「その子……」
私はまだ、
社長とも井川さんとも
結びつけていなかった。
ただ、
はっきりと思った。
——この子は、
どこにも行けなかった。
「……その養子先、
今もここにあるんですか?」
私の問いに、
おばさんは一瞬だけ目を瞬かせた。
「ええ」
それから、あっさり言った。
「歩いて十分くらい」
鳥井さんが驚いて笑う。
「近っ。
それもう、ほぼ実家じゃないですか」
「そう思うでしょ」
おばさんは立ち上がって、
窓の外を指さした。
「でもね、
あの子にとっては
どこも“仮の家”だった」
⸻
養子先の家は、
古い住宅街の一角にあった。
二階建て。
外壁は薄いベージュで、
手入れはされているけど、
新しくはない。
庭は狭く、
遊具もない。
代わりに、
植木鉢がきれいに並んでいる。
「きちんとした家ですね」
私がそう言うと、
鳥井さんもうなずいた。
「生活感あるし、
変な感じしない」
インターホンを押すと、
すぐに音がした。
対応が早すぎて、
少しだけ身構える。
⸻
出てきたのは、
小柄な女性だった。
年齢は六十代くらい。
背筋が伸びていて、
声がよく通る。
「はい?」
事情を説明すると、
彼女は少し考えてから言った。
「……ああ」
「あの子のことね」
“名前”は、出さなかった。
家の中は、
驚くほど整っていた。
物の位置が決まっていて、
無駄なものがない。
鳥井さんが靴を揃えると、
それだけで褒められた。
「几帳面なのね」
私は、その言葉に
少しだけ引っかかった。
⸻
「その子は、
いい子でしたよ」
女性は、
湯のみを差し出しながら言った。
「本当に、
手のかからない子」
「言われたことはちゃんとやるし、
泣かないし、
わがままも言わない」
私は、
ノートの“きらい”を思い出していた。
「……怒ったりは?」
そう聞くと、
女性は首を振った。
「見たことないわ」
「怒る前に、
我慢する子だったから」
鳥井さんが口を挟む。
「それ、
大変じゃなかったですか?」
「いいえ」
即答だった。
「助かりました」
その言葉が、
胸に刺さる。
「ただね」
女性は、
少しだけ声を落とした。
「夜になると、
よく一人で起きてた」
「何も言わずに、
座ってるの」
「声をかけると、
ちゃんと笑うのよ」
……ちゃんと。
「工房には、
よく連れて行ってたんですか?」
私の問いに、
女性はうなずいた。
「ええ。
あの子、
あそこが好きだったから」
「……好き、
だったんですかね」
思わず、
そう漏らすと。
女性は少し考えてから、
こう言った。
「好きじゃないと、
あんな顔しない」
「どんな顔ですか?」
鳥井さんが聞く。
女性は、
空中で手を止めた。
「……見てる顔」
「ずっと、
誰かを見てる顔」
私は、
能面を思い出していた。
感情を出さずに、
すべてを見ている顔。
「その子、
今どこに?」
そう聞いたとき、
女性は初めて視線を逸らした。
「……さあ」
「名前も、
変えたかもしれないし」
「変えてないかもしれない」
その言い方は、
探偵事務所のおばさんと
まったく同じだった。
あれ?なんでこんなにおばさんは
親い人しか知らないことをこんなにも知っているのだろうか。
これも探偵の力なの?
帰り際、
女性はぽつりと言った。
「でもね」
「あの子は、
一度も“帰りたい”って
言わなかった」
私は、
それが一番怖いと思った。
あれからしばらくが経ち
探偵事務所からの二度目の連絡があった。
養子先の家族関係。
離婚の理由。
当時の近隣の証言。
点だったものが、
線になり始める。
井川さんが、
養子先の家で暮らしていた頃。
まだ、
“自分の居場所”という言葉を
知らなかった年齢。
その家の階段は、
無駄に広くて、
音がよく響いた。
ある日の夕方。
僕は二階から降りようとして、
途中で足を止めた。
一階の踊り場。
大人の声。
低くて、
押し殺したみたいな声。
次の瞬間、
母親の身体が
階段を外れた。
落ちた、というより
崩れた。
音がした。
僕は声を出せなかった。
ただ、
見てしまった。
⸻
父親は、
すぐに僕に気づいた。
怒らなかった。
慌てもしなかった。
むしろ、
しゃがんで目線を合わせた。
「嫌いな人はね」
静かな声だった。
「こうやって、
消せばいいんだよ」
僕の頭に、
その言葉は
意味としてじゃなく、
形として残った。
父親は続けた。
「でも、
約束がある」
「このことは、
自分だけの秘密にすること」
「そうすれば、
誰も傷つかない」
その言葉は、
優しさみたいに聞こえた。
⸻
母親は、
意識を取り戻した。
命に別状はなかった。
でも、
家の中の空気は
元に戻らなかった。
唯一の友達のゆうじくんに会いに行った。
工房は、木のにおいがした。
削る音が、
ずっと鳴っていた。
僕はひとりで外で遊んでいた。
コンテナのほう。
中に入っちゃだめって
言われてたけど、
今日は開いていた。
ゆうじくんと
知らないおじさんがいた。
声が大きくなった。
僕は呼ばれてないのに
そこにいた。
おじさんが後ろに下がった。
足が、なくなったみたいになった。
下が、見えた。
風の音だけして、
おじさんはいなくなった。
石みたいに動けなかった。
ゆうじくんがゆっくり振り向いた。
目が合った。
何も言わなかった。
でも、
「言わないで」って
言ってる気がした。
僕は知ってるよ。ひみつは、言わないもの。ひみつは、守るもの。
僕は小さくうなずいた。
2人だけの秘密だね。
そのあと、何も言わなかった。聞かなかった。
聞いちゃいけない気がした。
ひみつは、
ひとりで持つもの。
でも、
このひみつはふたりのものだと思った。
ふたりだけなら、だいじょうぶ。
だれも、けがしない。
そう、思った。
しばらくして
大人たちは話し合い、
やがて離婚した。
「子供のために」
という言葉だけが、何度も使われた。
僕は何も言わなかった。
言えなかった。
約束を、守っていた。
⸻
それ以来。
井川さんは、感情を外に出さなくなった。
怒らない。
泣かない。
求めない。
嫌い、という気持ちだけを
心の中に溜めていった。
言葉にすると、
約束が壊れる気がしたから。
だから、
文字にした。
誰にも見せないノートに。
——きらい
——ころしたい
それは、
願望じゃない。
記憶だった。
⸻
私は、
その話を聞いたあと、
能面のことを思い出していた。
感情を出さない顔。
でも、
すべてを知っている顔。
——面が勝手に語る。
社長の言葉が、
少し違う意味を帯びて
胸に残った。
井川さんは、何もしていない。
でも、知ってしまった。
それだけで、人は一生、縛られることがある。
僕とゆうじくんは双子だ。
でも、同じじゃない。
顔はよく似てるって言われる。
だけど、僕は知ってる。
まゆげの角度。
目の開き方。
笑ったときのえくぼの場所。
ぜんぶ、少しずつちがう。
大人たちは
「そっくりだね」
って言う。
でも、それはちゃんと見てないからだ。
ゆうじくんはまんなかに立つ。
僕は、横に立つ。
それだけで、もうちがう。
⸻
僕たちは
いっしょに生まれた。
でも、いっしょには育たなかった。
それを知ってるのは僕だけだ。
ゆうじくんは知らない。
知らないまま大きくなってる。
⸻
だから、あの日のことも僕が持つ。
ゆうじくんが見てしまったあの瞬間。
僕は、ゆうじくんを見た。
ゆうじくんは、僕を見た。何も言わなかった。
それで、決まった。
これは、僕が持つ。
同じじゃない。でも、似ている。
似ているから、代われる。
代われるから、隠せる。
それが、僕たちの双子だった。
おばさんは湯呑みを二つ置き、
最後にもう一つ、空のままの湯呑みを机の端に置いた。
「……あ、ごめんなさい。癖で」
そう言って、その湯呑みをすっと引っ込める。
何の癖なのかは、言わない。
「それで、例のノートね」
おばさんは、私がカバンから出した分厚いノートを触る前に、じっと見た。
表紙の文字。
――きらい
「……懐かしい字」
ぽつりと、誰に向けたわけでもなく言った。
「懐かしい、ですか?」
鳥井さんが聞くと、おばさんは笑った。
「あぁ、ごめんごめん。子供の字って、時代が出るのよ」
ページをめくる。
速くもなく、遅くもない。
まるで、内容を知っている人の速度だった。
⸻
(やっぱり、これは“あの子”のだ)
心の中で、彼女は確認する。
養子先の家。兄の家。
階段の踊り場。
落ちた音。
そのあと、兄が言った言葉。
――嫌いな人は、こうやって消せばいいんだよ。
――でもね、約束して。これは、自分だけの秘密。
義姉は助かった。
離婚した。
でも、
子供の目は変わらなかった。
⸻
「このノートを書いた子、とても頭がいい」
突然、おばさんが言った。
「え?」
「感情を、ちゃんと“言葉にしてる”。普通、ここまで書けない」
ページの端を、
指で軽く叩く。
「それにね、ここ」
“ころした。いたみつけた。”
「この“た”の形、途中で変わってるでしょ」
私は息を呑んだ。
確かに、最初のページと後半で、微妙に違う。
「成長、じゃないわね」
おばさんは即座に否定した。
「これは、“書き方を変えた”字」
⸻
「じゃあ……誰かに見せる前提?」
鳥井さんが聞く。
おばさんは、首を横に振った。
「逆」
「隠すため」
その一言が、部屋に落ちた。
⸻
「この子ね、“二人分の記憶”を持ってる」
二人分。
私は思わず、顔を上げた。
「でも安心して。双子とか、そういう話じゃないわ」
にこっと笑う。
嘘だ、となぜか思った。
⸻
(ゆうじくんは、知らない)
(この子は、知ってる)
(知ってるほうが、守る)
それが、この子のやり方だった。
兄の家で見た、あの目と同じ。
⸻
「このノートを書いた子はね」
おばさんは、ノートを閉じた。
「可愛がられてた」
「え?」
「二人に」
その“二人”が誰かは、
まだ言わない。
「だから、壊れなかった」
「でも」
一拍置く。
「代わりに、抱えた」
私は、能面のことを思い出していた。
笑っていないのに、感情がある顔。
⸻
「調べますよ」
おばさんは、立ち上がった。
「ただし、知りたくない答えも出る」
「それでも?」
鳥井さんが、私を見る。
私は、少しだけ迷ってから頷いた。
「知りたいです」
おばさんは、一瞬だけ、本当に優しい顔をした。
「……そう言うと思った」
階段を上りながら、小さく呟く。
「昔から、あなたも“見る側”の顔をしてる」
二階に消えるその背中を見ながら、
私はなぜか、井川さんの無の表情を思い出していた。
怖かったからじゃない。
疑ったからでもない。
あの人も、今のおばさんと同じ顔をしていたからだ。
明るくもなく、暗くもなく、感情がないように見えて、
全部を知っている人の顔。
何も言わないことで、何かを守っている人の顔。
だから。
二階に消えるその背中を見ながら、私は何故か井川さんの無の表情を思い出していたんだ。
同じ側の人間だと、気づいてしまったから。
二階に消えるその背中を見上げたまま、私はしばらく動けなかった。
階段の途中で、きし、と木が鳴る。
それだけで、この場所が長い時間、誰かの秘密を吸い込んできたことが分かる。
「……緊張した?」
鳥井さんが、少し軽い声で聞いてきた。
「いえ」
嘘ではなかった。
緊張より、置いていかれた感じが近い。
探偵事務所の一階は、古いけれど整っている。
書類棚。ソファ。壁に貼られた、もう何年も前のカレンダー。
ここは、
“調べる場所”なのに、どこか待つための場所みたいだった。
私は、膝の上に置いたバッグを無意識に抱き寄せる。
中に入っているものの重さを、確かめるみたいに。
(まだ、誰にも言ってない)
(ここに来た理由も、本当のところは)
二階から、
紙を揃える音が聞こえた。
一枚ずつ、丁寧に。
慣れている音。
あの人は、最初から全部を知っていたんだろうか。
それとも、知っている“ふり”を続けてきただけなんだろうか。
私は、なぜか井川さんの顔を思い出していた。
無の表情。
感情がないようで、何かを必死に隠している顔。
(……似てる)
探偵のおばさんと、井川さん。
性格も、立場も、全然違うのに。
「知っているけど、言わない」
その立ち位置だけが、不思議なくらい重なって見えた。
「ねぇ」
鳥井さんが、小声で言う。
「もしさ、このノートが本当にただの子供の落書きだったら」
「……はい」
「それでも、気になる?」
私は、
少し考えた。
そして、
正直に答えた。
「はい」
「理由、分かる?」
分からない、と言いかけて、やめた。
「たぶん」
私は、バッグの口を指でなぞりながら言った。
「書いた子が、一人で抱えるには重すぎた気がして」
鳥井さんは、何も言わなかった。
でも、否定もしなかった。
そのとき、二階から足音がした。
さっきより、
少しだけ
速い。
私は、背筋を伸ばした。
まだ、何も知らない。
何も、明かされていない。
それでも、ここから先は――
選ぶ側に立ってしまった。
そう、はっきり分かってしまった。
二階から降りてきたおばさんは、さっきと同じ笑顔だった。
でも、湯呑みを置く手だけが、少しだけ慎重になっている。
「お待たせ」
そう言ってから、私と鳥井さんを交互に見た。
「さっきのノートね。全部は、今日は見ないわ」
「え?」
鳥井さんが声を上げる。
「途中までで、十分」
それは、調べるのをやめる人の言い方じなかった。
必要なところだけ、もう見た人の言い方だった。
⸻
「この子」
おばさんは、ノートの表紙を指で軽く押さえた。
「環境が、途中で変わってる」
「引っ越し、ですか?」
私が言うと、おばさんは首を振った。
「もっと、根っこから」
一拍。
「養子」
その言葉は、静かに置かれたのに、やけに重かった。
⸻
「養子先って、書いてありました?」
鳥井さんが聞く。
「いいえ」
即答だった。
「書いてない。でもね」
おばさんは、ノートの端をめくり、あるページで止めた。
「ここから、字が変わる」
「丁寧になってる」
「感情が、減ってる」
「そして―言い訳が増える」
私は、息を吸うのを忘れていた。
⸻
「養子に出された子ってね」
おばさんは、独り言みたいに続ける。
「“いい子”でいようとするの」
「嫌われたら、もう居場所がないから」
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
⸻
「だから」
おばさんは、視線を上げた。
「このノートを書いた子は、誰かに可愛がられてた」
「でも、同時に」
少しだけ、声が低くなる。
「気を遣われてた」
⸻
私は、無意識にバッグの口を押さえていた。守るみたいに。
⸻
「安心して」
おばさんは、また笑った。
「養子先が悪いって話じゃない」
「むしろ、大切にされてた」
「だからこそ、言えなかった」
「……何を、ですか?」
私がそう聞くと、おばさんはすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落として、湯呑みの縁を指でなぞる。
「言葉にするとね」
一拍。
「全部、壊れてしまいそうなこと」
それは、事実を隠す人の言い方じゃなかった。守ってきたものを、まだ手放せないの言い方だった。
⸻
「養子先って」
鳥井さんが、慎重に言葉を選びながら続ける。
「その子にとっては、居場所だったんですよね」
「ええ」
おばさんは、はっきりとうなずいた。
「だからこそ、“見たこと”も“感じたこと”も」
「自分の中にしまったままにした」
⸻
私は、ノートの厚みを思い出していた。
二十年分の紙。重なった時間。書かれなかった行。
そこには、誰かを責める言葉よりも、自分を納得させるための文章が多かった気がする。
⸻
「養子先での生活は、穏やかだったと思う」
おばさんは言った。
「少なくとも、外から見れば」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
⸻
「今日はここまで」
おばさんは立ち上がり、ノートを静かに閉じた。
「続きは、また今度」
そう言って、階段の方へ向かう。
⸻
二階へ消えていくその背中を見ながら、私はなぜか――
井川さんの、あの無の表情を思い出していた。
同じ側の人間だと、気づいてしまったから。
理由は、まだ言葉にならない。
ただ、
「養子先」という場所が、この話の中心じゃなく、出発点だった気がして。
あの日の探偵事務所も、二階に消えていったあの背中も、大きな事件の前触れには見えなかった。
ただ、少しだけ空気が変わった。それだけだった。
⸻
休み明けの朝。
いつもと同じ時間に目が覚め、同じ道を通って、同じ会社に向かった。
体も、頭も、驚くほど普通だった。
だから余計に、違和感が際立った。
⸻
能面工房に入った瞬間、空気が違った。
湿り気を含んだ木の匂い。削り屑の粉が光の中を静かに漂っている。
休みのあいだ、誰も触れていないはずなのに、工房は「続き」を知っている顔をしていた。
⸻
作業台の上には、途中まで削られた能面。
目の輪郭だけが掘られ、まだ表情と呼べない段階。
なのに、視線だけは確かにあった。
⸻
「おはよう」
社長の声がした。
いつもと変わらない調子。
変わらないはずなのに、なぜか距離を測られている気がした。
⸻
「今日は、ここから始めようか」
そう言って、社長は一つのコンテナの前に立った。
番号は、N-13。
休み前に開けたはずのコンテナ。
なのに、扉は閉まっている。
まるで、何事もなかったみたいに。
⸻
私は思った。
探偵事務所が「入口」だったなら、ここは――戻ってきた場所だ。
始まりじゃない。
ずっと前から、ここに置かれていたものの前に、立たされているだけ。
⸻
能面工房は、何も語らない。
でも、語らせないままにもしない。
削る音が、今日も一定のリズムで鳴り始める。
私は、その音を聞きながら、なぜか確信していた。
ここから先は、もう「知らなかった」ではいられない。
工房の朝は、
音から始まる。
削り台の前に立つ前、誰かが換気扇を回す音。木屑を掃く、ほうきの乾いた音。
それらが全部、昨日の続きみたいに同じ順番で流れていく。
――何も変わっていない。
そう思おうとした。
⸻
僕は、棚の奥に積まれた木材を確認する。
年数の経った檜。乾きすぎるほど乾いて、叩くと低い音が返る。
いい木だ。
能面には、こういう木が向いている。
感情を、勝手に吸ってくれるから。
⸻
作業台の向こうで、彼女が道具を並べているのが見えた。
真剣な顔。
余計なことを考えていない顔。
――まだ、知らない。
それが、
少しだけ救いだった。
⸻
「井川さん」
社長――ゆうじくんが声をかけてくる。
「この面、どう思う?」
差し出されたのは、目元だけが掘られた能面。
完成には程遠いのに、見る角度によって妙に落ち着いて見える。
「……いいと思う」
僕はそう答える。
言葉を選びすぎないように。
「だろ?」
ゆうじくんは、嬉しそうに笑った。
昔から、この人は変わらない。
⸻
でも。
その笑い方を見た瞬間、僕の頭の奥で、別の景色が重なった。
⸻
子供の頃。
工房の裏。森に続く、人の入らない斜面。
走る音。
息の荒さ。
誰かの背中。
⸻
――落ちる。
⸻
その瞬間を、
僕は声も出さずに見ていた。
怖かったんじゃない。
驚いたんでもない。
ただ、「見てしまった」と思った。
⸻
そのあと、ゆうじくんは何も言わなかった。
僕も、何も言わなかった。
あれは、二人だけの出来事だった。
二人だけの、秘密。
⸻
だから今も、僕は何も言わない。
能面を作る手は、正確に動く。
削る。止める。また削る。
感情を挟まない。
⸻
彼女が、この工房に来たとき、少しだけ不安になった。
でも同時に、思ってしまった。
この人なら、能面を信じられるかもしれない。
⸻
まだ、
ノートのことも。
探偵のことも。
僕は、何も知らない。
知らないままで、今日も面を削る。
それが、一番安全な選択だと分かっているから。
⸻
工房には、能面が並んでいる。
笑っていないのに、感情を隠さない顔たち。
僕は思う。
本当に怖いのは、表情があることじゃない。
何も語らずに、全部を残してしまうことだ。
⸻
そして、それを一番よく知っているのは――
きっと、
僕と、
ゆうじくんだけだ。
私は天野雪。
高校卒業後、牛乳が好きだったために大手乳業メーカーに勤めたが生き甲斐を無くしいつの間にか楽しいという感情を忘れていた。
そんな中でスマホで動画を見ていたら能面と出会った。
「この顔、正直だ。」
乳業メーカーに勤めていた3年間、無理して笑っていた。たとえ何があっても自分が悪く思われたくない。周りに無理に合わせようとしていたのだ。
でも、笑えるようになったのは笑わない顔と向き合ったから。
能面と出会い、笑ってもいない。泣いてもいない。ありのままで。無理しなくてもいいんだそう思えた。
ちゃんと笑えるようになったのは能面のおかげ。
面接に行った時社長は自分を見て、
「無理に表情作らなくていい。面が勝手に語るから。」
そういうと笑顔で迎え入れてくれた。
あれから8ヶ月、まだ私は雑用をしてみんなをサポート係。そんな中大手住宅メーカーとの契約が成立した。
社長は
「こんな大きな契約滅多にないよ!小学生の時に作った俺の一番の最高傑作がコンテナにあるんだ。」
そういうと車に乗ってみんなと倉庫に行った。相変わらずこの倉庫はでかいなぁ。
倉庫は20フィート。コンテナ15個分が置ける。
倉庫の1番奥からN-13と書かれたコンテナを
みんなでトラックに牽引して運び出した。
またみんなで会社に戻りコンテナを開けた。
コンテナ外側は青い波打った鉄板。
中はくすんだグレー。小さな窓なんてほぼない。
天井に裸電球が付いてるが機能しない。
お面はコンテナの手前右側の棚に置いてあった。
埃まみれのお面。
「懐かしい。もう20年以上はこのコンテナ開けてないなぁ。」
「すごい。これが小学生が作った能面なんて…」
笑っていないのに、楽しそうな面。
怒っているはずなのに、どこか悲しい面。
何も語らないはずなのに、責めてくる面。
角度を変えなくても、光を当てなくても、勝手に表情が変わる。
これは見る側の心が動いた瞬間に表情が変わっているから。
--技術が高い、という言葉では足りない。
そこにあるのは
人の感情を知り尽くした痕跡。
私はこんなお面を作りたい
すぐに社長は井川さんと社長の二人で契約した住宅メーカーにお面を持って行ってしまった。
洗車をしていた私は鳥井さんとコンテナを綺麗にして欲しいと西村さんに頼まれた。
コンテナは右側と左側にそれぞれ棚が置いてあった。
鉄の匂い。わずかに防虫剤、漆、湿気の混じった工房じゃない匂い。
「すごい年季入ってますよねこの倉庫埃すごいし」
会話をすると少し声が跳ね上がる。
床に埃の塊がボヤボヤしていた。コンテナは懐中電灯がないと暗い。
「そうだよね。20年も開けてないとこうなるのか、」
鳥井さんは27歳の会社歴3年目。
面倒見がよくとても優しい。この会社で一番話しやすいと思っている。
「私右側やります。」
社長が昔能面づくりの際に使用していただろう彫刻刀や、木材、胡粉という化粧でいう下地が散乱していた。
木材は20年ほど経っているのに埃のみでちゃんと乾燥していた。
聞いたことがある。
能面に使用する木材は10年~15年が主流で20年以上の木材はすごく希少だと。
この木材で作ったらどんな能面ができるのだろう。木材を見ていると鳥井さんが近づいてきた。
「見てこれ。」
表紙に
きらい
と明らかに子供の字で書かれている。分厚いノート2冊分はあるだろう。背表紙が僅かに湾曲しており角が全て丸く潰れている。
触る前から古いとわかる。
「なんですかこれ」
全体が均一に黄ばんでいる。
空気で変色したのだろう。
おそらく、いやきっと20年以上前から置いていたのだろう。
「棚の下に置いてあったんだよ。なんか隠してたみたいな?」
隠してた!?
「怪しいですね。中見たんですか?」
私に書類を向けてきた。
受け取って中身を見てみる。
きらい
ころしたい。
きらい、きらいきらいきらい
憎しみが伝わってくる。子供だよね?
ころした。いたみつけた。すごくくるしんでたよ。ぼくのほうがくるしんでたのに、
きづかなかったのがわるい。
ペラペラめくっただけですごく沢山の情報が入り込んでくる。
こんなに?いたずらか?好奇心で書いたんじゃないか?
鳥井さんも一緒に覗き込んでいた。
見入ってる私はずっとそのページもさらに捲る。
森のなかのがけにたたせてうしろからおした。
そうしたらおちたんだよ。
そこには絵も書いてあった。
正確にまるで本物のように書かれてる。
憎しみや怒りが込み上げているのが読み取れる。
「怖いですね。本当っぽくないですか?」
私は少し戸惑っていた。
スマホを取りだし、この場所、殺し方、
1ページ目の1行目に書かれている
年月日、このことが本当なら事件になっているはず。
二人で携帯を覗いた。いやそんな事件は何回調べてもなかった。
「調べてもないってことは嘘っぽいですね!」
子供の警察真似ごっこかなんかでしょ!
本当ならあるはずだもん。ただの子供の遊びに思えていた。
ピコン♩
そこで井川さんからLINEがきた。
「お面こんな感じだよ」
私はお面を全部ちゃんと見ていなかったので
「えぇ、すごい!!可愛いですね。どれも表情が違くて素晴らしいです!」
気持ちが高揚した。やっぱり能面が好きだ!
続けて送った。
「今日は新しいことができるようになりました!」
これを送ったのは以前
「井川さんにできないことを
10個リストアップしてできるように
なったら楽しみが増えるから
できないことをなにかメモしてた方が
きっとこれからもっと楽しみが増えるよ。」
と言われたことをふと思い出したからだ。
「どんなことができるようになったの?教えてよ!」
返信がすぐ送られてきた。
「教えません。楽しみは自分だけの楽しみにしたいです!」
井川さんも優しい。沢山の知識を教えてくれる。井川さんも私も同じ時期に入社してきた。頼れる同期。
「ところでさ、そのコンテナに書類なかった?」
え?唐突。井川さんなにか知ってるのかな。
「ありませんでしたよ!どんな書類ですか?」
「ないならいいんだよ。」
なんかやっぱりなにか知ってる気がする。
このやり取りを鳥井さんにも説明した。
書類の作成した年月日と名前を見てみると
井川さんと歳が合う。名前は1文字違うが
鳥井さんは
「なんか怪しいよね。俺は井川さん重要人物だとみた。」
と心霊好きな鳥井さんはニヤつきながら言った。
カバンに書類を入れて持って帰ると言い、
2人だけの秘密になった。
それから倉庫掃除を続けて1時間後
井川さん達が帰ってきた。
能面の顔合わせと打ち合わせだけしてきたらしい。
なにか険しい顔をしながら急ぎ足で近づいてきた。
「書類今も見つかってないですか?」
今までに見たことない顔。
感情を動かさない訓練をしたかおにみえた
「ないですよ。どういう内容の書類ですか?」
あまり動揺してたらダメ。いつも通り。平常心で話した。
「いや、ただお面の書類があるかなって思って。」
やっぱりなにか隠している。
ますます私は気になった。
「先にお疲れ様です。」
先に帰った私はネットで覚えてる範囲の
書類で書いてあったどこで殺したか、
殺し方を片っ端から調べた。
何も一致しない。
まだ見つかってないだけ?
それとも嘘?
井川さんって偽名なのか、
気になって気になって仕方がなかった
探偵事務所に電話して井川さんについて調べられるかを聞き、値段を聞いた。
到底私が出せる金額ではない。
「夜分遅くにすみません。井川さんの子供の書類の件どうしても気になって眠れなくて探偵に相談したのですが費用が15万と言われ出せない金額なので困ってます、すぐ鳥井さんにLINEした。」
すぐに返信はきた。
「俺も今書類読んでて気になってたところ、
最後らへんのページでね、社長の名前が出てきてるんだよ、そこで社長に恨みを持ってるみたいな言い方だから気になって」
この子供は社長の幼少期を知ってるんだ。
社長に聞けばなにかわかるかも。
「どんな恨みですか?」
「今日おにごっこをしていたらゆうじくんに追いかけられておにになった。僕はおにがだいきらいなのに、、、きらい、」
「すごい怖いですねちょっと子供の時にそんな感情…というか鬼ごっこしたくてたまらなかったですけどね!」
「そうだよね普通に歪んでるよね
費用の件なら僕が出すよ。僕も探偵にお願いしたいって思ってたから、明日一緒に行こうか」
「明日ちょうどおやすみですもんね!
リンク送っときます。
ここ何時でもいいらしいんで13時に会社でどうですか」
「おけ」
当日会社で集合した。楽しみすぎて
集合時間より20分早めに着いたが
鳥井さんはもう来ていた。
「やっほー。早いね。
まぁ俺は1時間前から来てるけどね!
社長にこの書類のたかひろくんについて聞いてきたよ。」
さすが仕事が早い。
「え!なんて言ってましたか?」
「社長が言うにはこの井上たかひろくんは小学校低学年に引っ越してきて、母親が入院することになって大きな病院に移るから4年生の時に引っ越したらしいんだ。そこからもうあってないって」
「えーー!引っ越しちゃったんですね。じゃあやっぱり情報何も無いって事ですね。
やっぱり探偵事務所に行くしかない。」
探偵事務所は会社から徒歩20分程の近場にあった。
マップを開いて探偵事務所の方に向かう。
「昨日、雪ちゃんが帰ってから井川さんまたなんか書類なかったか?って聞いてきたよ。」
「またですか!ますます楽しみですね。」
まだ何も始まっていないのにとても楽しく感じた。
たわいもない会話をしていると探偵事務所に着いた。
建物は二階建て。
外壁はくすんだ白。
新しくも古くもなく、時間が止まっているような色をしている。
一階はシャッター付きの窓。
今は閉まっているが、完全に使われていないわけではない。
シャッターの下に、薄く埃が溜まっている。
二階の窓にはカーテン。
昼間なのに、完全には開いていない。
中が見えないというより、見せる気がない感じ。
建物の脇に星野探偵事務所と書かれた少しさびた鉄板看板が置かれていた。
入口は1階の横。ガラス扉。指紋が目立たないように拭かれている。
---営業中
手書きでも印刷でもない。事務的な文字。
ここは、何かを見つける場所じゃない。
何かを整理する場所だ。
ガラス扉の取っ手に手をかける。
ギィ、と音はしなかった。思ったより静かに扉は開いた。
外より少し冷たい。
一階は事務所というより、倉庫みたいだった。
段ボールが積まれていて、
壁には古いファイル棚。
誰もいない。
でも、使われていない感じもしない。
「……すみません」
声が、やけに響いた。鳥井さんも続けて
「すみませんー!」
私よりも大きい声を発した。
二階の奥から、足音がした。
トン、トン、トン。
「はーい、今行きますよー」
声が、やけに明るい。
この場所に合っていない。
階段の上から、顔が覗いた。
派手じゃないけど、よく笑う顔。
年齢は五十代くらいだろうか。
髪はきちんとまとめていて、
エプロンのポケットが少し膨らんでいる。
「いらっしゃい。探偵事務所、初めて?」
初対面なのに、
ずっと前から知っている人みたいな距離で話しかけてくる。
「お茶入れるね。こういう話、喉乾くでしょ」
断る間もなく、
キッチンの方へ消えていった。
鳥井さんが小声で言う。
「……雰囲気、全然違うよね」
本当にそうだった。
この事務所に入ってから、
初めて空気が動いた気がした。
でも、安心はしなかった。
明るい人ほど、
重たいものを普通に扱える。
そんな気がしたから。
湯のみを二つ、ことん、と机に置いた。
「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」
お茶の湯気が立つ。
さっきまで重かった空気が、少しだけ緩んだ。
おばさんは向かいの椅子に腰を下ろすと、
私と鳥井さんを交互に見て、にこっと笑った。
鳥井さんはバッグから書類を取り出しおばさんに渡した。
昨日の内容を全て話しながら。
おばさんはゆっくり時間をかけて書類を全て呼んだ。
30分ぐらい無言で紙をめくる音だけが響いた。
「それで?」
おばさんは、また湯のみを持ち上げた。
「まあまあ、難しい顔しないで」
くすっと笑う。
「今のはね、別に“犯人が誰か”って話じゃないの」
鳥井さんが少し肩の力を抜いた。
「ほらね。やっぱり事件じゃないですよね」
「ええ、事件じゃない」
おばさんははっきり言った。
「これは、気持ちの話」
私は首を傾げた。
「……気持ち、ですか?」
「そう」
指先で机を軽く叩く。
「子供ってね、
殺したかどうかより先に、
嫌いだったかどうかを書いちゃうの」
その言葉に、ノートの表紙が浮かんだ。
――きらい。
「だから、これは“告白”じゃない」
「日記に近い」
鳥井さんが言った。
「でも、具体的すぎません?
場所とか、落とし方とか……」
「具体的だから嘘、とは限らないし
具体的だから本当、とも限らない」
おばさんは笑顔のまま、
「ただ一つだけ、
確実に言えることがあるとしたら」
一瞬、間が空いた。
「この子は、
誰かにずっと見られてた」
私は思わず聞き返した。
「見られてた?」
「干渉されてた、と言ってもいいわね」
声は柔らかいのに、
言葉だけが刺さる。
「子供が“嫌い”ってここまで書く時って、
相手がいなくなってほしい時じゃない」
「自分が、自由になりたい時」
鳥井さんが腕を組んだ。
「……じゃあ、これ書いた子って
被害者じゃないんですか?」
「どっちとも言える」
即答だった。
「だから厄介なの」
おばさんは立ち上がり、
ファイル棚に手を伸ばす。
「名前に引っ張られない方がいいわ」
「書いた名前と、
書いた“気持ち”は、
一致しないことが多いから」
私は、井川さんの名前を思い出しながらも、
社長の顔はまだ浮かばなかった。
——社長が書いた、なんて
考えもしなかった。
「じゃあ、私たちは何を調べればいいんですか?」
そう聞くと、
おばさんは振り返って、にっこり笑った。
「簡単よ」
「この工房で、
一番“守られてた子供”が誰だったか」
その言葉は、
まだ意味を持たないまま、
私の中に残った。
「…守られてた子、ですか?」
私がそう言うと、
おばさんは少しだけ目を細めた。
「ええ。
大人ってね、無意識に一人決めるの」
「この子は大丈夫、って」
鳥井さんが笑って言った。
「それ、悪いことじゃないですよね?
面倒見がいいっていうか」
「もちろん」
おばさんはうなずいた。
「最初はね」
そして、少し間を置く。
「でも、その子が
“一人でいたかった子”だったら?」
私は何も言えなかった。
「毎日声をかけられて、手を引かれて、
気にかけられて」
「それが優しさでも、その子にとっては
檻になることがある」
おばさんは、
机の上のノートを軽く指で叩いた。
「この子、
“嫌い”って言葉を繰り返してるでしょ」
「怒ってるんじゃない」
「逃げ場がなかったの」
鳥井さんが、少し真面目な顔になった。
「……工房って、
昔から子供の出入り多かったらしいですよ」
「社長が子供の頃、
職人さんたちにすごく可愛がられてたって」
私ははっとした。
「よく聞きますよね。
『みんなで育てた』みたいな」
「そうそう」
鳥井さんは何気なく続ける。
「社長、小さい頃から
工房に入り浸りだったらしくて」
「彫刻刀触らせてもらったり、
木くずで遊んだり」
その話を聞きながら、
おばさんは黙っていた。
ただ、
聞き逃さない目をしている。
「でもさ」
鳥井さんが首を傾げる。
「それって普通、
羨ましい思い出じゃないですか?」
おばさんは、そこで初めて口を開いた。
「羨ましいかどうかは、
本人が決めること」
声は相変わらず明るい。
「可愛がられた子はね、
“嫌われる自由”を持ってないの」
私は胸の奥が、少し痛くなった。
「怒ったら、
“そんなこと言っちゃだめ”って止められる」
「泣いたら、
“みんな心配するから”って抱きしめられる」
「逃げたら、
“いい子なんだから”って連れ戻される」
……逃げられない。
「だからね」
おばさんは、立ち上がって階段の方を見た。
「その子が
誰かを突き落としたかどうかより」
「その子が
どこにも行けなくなってたかを
見た方がいい」
私は、工房の風景を思い出していた。
大人に囲まれて笑っている社長。
--無理に表情作らなくていい。
あの言葉が
まだ'優しさ'に聞こえていた。
「……実はね」
おばさんが、少しだけ声を落とした。
「可愛がられてた子、一人じゃない」
鳥井さんが顔を上げた。
「え?」
「工房って、閉じた世界でしょ」
「大人が多くて、子供が少ない場所」
おばさんは指を二本立てた。
「だから、
二人いると、比べられるの」
私は無意識に息を吸った。
「一人は、
“ここにいていい子”」
「もう一人は、
“いなくなったら困る子”」
鳥井さんが眉をひそめる。
「それ、違いあります?」
「大違い」
おばさんは即答した。
「前者は守られる」
「後者は、手放せない」
その言葉が、
ゆっくり胸に沈んだ。
「昔ね」
おばさんは遠くを見る。
「工房に、
よく似た年の子が
二人出入りしてた時期があるの」
「顔も、背格好も、
声の高さも似てて」
私は、ぞっとした。
「双子……ですか?」
おばさんは首を振った。
「当時は、誰もそう思ってなかった」
「ただね」
少しだけ、笑顔が消える。
「大人の前に出る子と
大人の後ろに隠れる子だった」
鳥井さんが言った。
「社長って、
前に出るタイプですよね」
「そう」
おばさんはうなずいた。
「話しかけられたら答えるし、
期待されたら応えようとする」
「だから可愛がられた」
「でも、もう一人は?」
私が聞くと、
おばさんは少し考えてから言った。
「……気づかれないのが、上手な子」
「何も欲しがらない」
「何も言わない」
「でもね」
一拍置いて。
「いちばん、見てほしかった」
部屋が静かになる。
「大人は、
“問題を起こさない子”を安心だと思うでしょ」
「だから放っておく」
「でも、放っておかれた子は、
ずっとそこにいる」
私は、あのノートの文字を思い出した。
――きらい
――きらいきらいきらい
「その二人、
どうなったんですか?」
鳥井さんが聞いた。
おばさんは、また明るい声に戻った。
「さあ」
「一人は、
ここに残った」
「もう一人は、
名前だけが残った」
その言い方が、
なぜか引っかかった。
名前だけ。
私はまだ、
それが何を意味するのか
わかっていなかった。
「名前だけ残った子って……」
私がそう言うと、
おばさんは一度だけ、深く息を吸った。
「その子ね」
声は相変わらず明るいのに、
少しだけ速度が落ちた。
「三歳のときに、養子に出された」
鳥井さんが驚いた顔をする。
「三歳って……
早くないですか?」
「そうでもないわ」
おばさんは肩をすくめた。
「事情があれば、
大人は簡単に決める」
「“この家の方が幸せになれる”とか
“このままじゃ大変だから”とかね」
私は、胸の奥がざらついた。
「じゃあ……
もう工房には来なくなったんですか?」
「逆」
即答だった。
「近所だったの」
「養子先がね」
鳥井さんが言葉を失う。
「……それ、
余計に複雑じゃないですか」
「ええ」
おばさんはうなずく。
「“会えないと可哀想”って言って、
前より頻繁に遊ばせてた」
「工房にも、普通に来てた」
私は、頭の中で整理しようとした。
引き取られた。
でも離れていない。
名前も、顔も、関係も、曖昧なまま。
「それって……」
私の声は自然と小さくなった。
「どっちの子でも、
ないですよね」
おばさんは、
少しだけ笑顔を崩した。
「そう」
「どこにも属してない子」
部屋が静まる。
「工房ではね」
おばさんは続けた。
「その子は、
“お客さん”みたいな立場だった」
「社長の隣に立つことはあっても、
中心には入らない」
「褒められても、
叱られても、
どこか遠慮してた」
私は、
あのノートの文字を思い出していた。
——きらい
——ころしたい
「養子に出された子って……そのあとどうなったんですか?」
鳥井さんの問いに、
おばさんは首を傾げる。
「さあ」
「大きくなったら、名前を変える子もいる」
「変えない子もいる」
「でもね」
一拍置いて。
「昔の名前を、借りたまま生きる人もいる」
私は、その言葉の意味を
まだ理解していなかった。
ただ、
胸の奥に小さな引っかかりが残った。
名前だけが、残った子。
——それは、
“誰の名前”だったんだろう。
「……養子先って、どんな家だったんですか?」
私がそう聞くと、
おばさんは少し考えてから答えた。
「普通の家よ」
拍子抜けするほど、あっさり。
「夫婦二人で、子供がいなかった」
「共働きで、
決して裕福じゃないけど、
困ってもいない」
鳥井さんが言う。
「じゃあ、
ちゃんとした家ですよね」
「ええ」
おばさんはうなずいた。
「ちゃんとしすぎてた」
私は首を傾げた。
「どういう……?」
「正解が決まってる家」
おばさんは、指を折りながら言った。
「何時に起きて、
何を食べて、
どう挨拶して、
どう感謝するか」
「“いい子”の見本が、
最初から置いてある」
鳥井さんが苦笑いする。
「それ、息苦しいやつですね」
「そう」
「でも、その家の人たちは
本気で思ってたのよ」
「この子を、
ちゃんと育てなきゃって」
私は、工房の自由な空気と
その家を重ねていた。
「だからね」
おばさんは続ける。
「その子は
“いい子”をやってた」
「工房では静かな子」
「家では従順な子」
「どっちでも、
本当の顔を出さなかった」
私は、能面のことを思い出す。
笑っていないのに、
感情がある顔。
「養子先の人たちは、
その子をどう思ってたんですか?」
鳥井さんの問いに、
おばさんは少し困ったように笑った。
「自慢の子」
「手がかからない」
「言うことを聞く」
「外で問題を起こさない」
私は、
胸の奥がじわっと冷えた。
「……それって」
思わず口に出た。
「何も見てない、
ってことですよね」
おばさんは否定しなかった。
「子供が静かだと、
大人は安心するの」
「安心して、
見なくなる」
一拍置いてから、
おばさんはこう言った。
「でもね」
「その家、
“よく工房に連れてきてた”」
私は顔を上げた。
「え?」
「“離してしまって可哀想だから”って」
「週に何度も」
「社長の家族とも、工房の人たちとも、
顔見知りだった」
鳥井さんが小さく呟く。
「……それ、
養子に出した意味あります?」
「ないわね」
おばさんは、
いつもの明るい笑顔で言った。
「でも大人は、
自分が正しいと思える形を
選び続けただけ」
私は、
頭の中で一つの風景を思い描いていた。
工房で遊ぶ二人の子供。
片方は中心。
片方は少し後ろ。
誰も悪くない顔をしている。
「その子……」
私はまだ、
社長とも井川さんとも
結びつけていなかった。
ただ、
はっきりと思った。
——この子は、
どこにも行けなかった。
「……その養子先、
今もここにあるんですか?」
私の問いに、
おばさんは一瞬だけ目を瞬かせた。
「ええ」
それから、あっさり言った。
「歩いて十分くらい」
鳥井さんが驚いて笑う。
「近っ。
それもう、ほぼ実家じゃないですか」
「そう思うでしょ」
おばさんは立ち上がって、
窓の外を指さした。
「でもね、
あの子にとっては
どこも“仮の家”だった」
⸻
養子先の家は、
古い住宅街の一角にあった。
二階建て。
外壁は薄いベージュで、
手入れはされているけど、
新しくはない。
庭は狭く、
遊具もない。
代わりに、
植木鉢がきれいに並んでいる。
「きちんとした家ですね」
私がそう言うと、
鳥井さんもうなずいた。
「生活感あるし、
変な感じしない」
インターホンを押すと、
すぐに音がした。
対応が早すぎて、
少しだけ身構える。
⸻
出てきたのは、
小柄な女性だった。
年齢は六十代くらい。
背筋が伸びていて、
声がよく通る。
「はい?」
事情を説明すると、
彼女は少し考えてから言った。
「……ああ」
「あの子のことね」
“名前”は、出さなかった。
家の中は、
驚くほど整っていた。
物の位置が決まっていて、
無駄なものがない。
鳥井さんが靴を揃えると、
それだけで褒められた。
「几帳面なのね」
私は、その言葉に
少しだけ引っかかった。
⸻
「その子は、
いい子でしたよ」
女性は、
湯のみを差し出しながら言った。
「本当に、
手のかからない子」
「言われたことはちゃんとやるし、
泣かないし、
わがままも言わない」
私は、
ノートの“きらい”を思い出していた。
「……怒ったりは?」
そう聞くと、
女性は首を振った。
「見たことないわ」
「怒る前に、
我慢する子だったから」
鳥井さんが口を挟む。
「それ、
大変じゃなかったですか?」
「いいえ」
即答だった。
「助かりました」
その言葉が、
胸に刺さる。
「ただね」
女性は、
少しだけ声を落とした。
「夜になると、
よく一人で起きてた」
「何も言わずに、
座ってるの」
「声をかけると、
ちゃんと笑うのよ」
……ちゃんと。
「工房には、
よく連れて行ってたんですか?」
私の問いに、
女性はうなずいた。
「ええ。
あの子、
あそこが好きだったから」
「……好き、
だったんですかね」
思わず、
そう漏らすと。
女性は少し考えてから、
こう言った。
「好きじゃないと、
あんな顔しない」
「どんな顔ですか?」
鳥井さんが聞く。
女性は、
空中で手を止めた。
「……見てる顔」
「ずっと、
誰かを見てる顔」
私は、
能面を思い出していた。
感情を出さずに、
すべてを見ている顔。
「その子、
今どこに?」
そう聞いたとき、
女性は初めて視線を逸らした。
「……さあ」
「名前も、
変えたかもしれないし」
「変えてないかもしれない」
その言い方は、
探偵事務所のおばさんと
まったく同じだった。
あれ?なんでこんなにおばさんは
親い人しか知らないことをこんなにも知っているのだろうか。
これも探偵の力なの?
帰り際、
女性はぽつりと言った。
「でもね」
「あの子は、
一度も“帰りたい”って
言わなかった」
私は、
それが一番怖いと思った。
あれからしばらくが経ち
探偵事務所からの二度目の連絡があった。
養子先の家族関係。
離婚の理由。
当時の近隣の証言。
点だったものが、
線になり始める。
井川さんが、
養子先の家で暮らしていた頃。
まだ、
“自分の居場所”という言葉を
知らなかった年齢。
その家の階段は、
無駄に広くて、
音がよく響いた。
ある日の夕方。
僕は二階から降りようとして、
途中で足を止めた。
一階の踊り場。
大人の声。
低くて、
押し殺したみたいな声。
次の瞬間、
母親の身体が
階段を外れた。
落ちた、というより
崩れた。
音がした。
僕は声を出せなかった。
ただ、
見てしまった。
⸻
父親は、
すぐに僕に気づいた。
怒らなかった。
慌てもしなかった。
むしろ、
しゃがんで目線を合わせた。
「嫌いな人はね」
静かな声だった。
「こうやって、
消せばいいんだよ」
僕の頭に、
その言葉は
意味としてじゃなく、
形として残った。
父親は続けた。
「でも、
約束がある」
「このことは、
自分だけの秘密にすること」
「そうすれば、
誰も傷つかない」
その言葉は、
優しさみたいに聞こえた。
⸻
母親は、
意識を取り戻した。
命に別状はなかった。
でも、
家の中の空気は
元に戻らなかった。
唯一の友達のゆうじくんに会いに行った。
工房は、木のにおいがした。
削る音が、
ずっと鳴っていた。
僕はひとりで外で遊んでいた。
コンテナのほう。
中に入っちゃだめって
言われてたけど、
今日は開いていた。
ゆうじくんと
知らないおじさんがいた。
声が大きくなった。
僕は呼ばれてないのに
そこにいた。
おじさんが後ろに下がった。
足が、なくなったみたいになった。
下が、見えた。
風の音だけして、
おじさんはいなくなった。
石みたいに動けなかった。
ゆうじくんがゆっくり振り向いた。
目が合った。
何も言わなかった。
でも、
「言わないで」って
言ってる気がした。
僕は知ってるよ。ひみつは、言わないもの。ひみつは、守るもの。
僕は小さくうなずいた。
2人だけの秘密だね。
そのあと、何も言わなかった。聞かなかった。
聞いちゃいけない気がした。
ひみつは、
ひとりで持つもの。
でも、
このひみつはふたりのものだと思った。
ふたりだけなら、だいじょうぶ。
だれも、けがしない。
そう、思った。
しばらくして
大人たちは話し合い、
やがて離婚した。
「子供のために」
という言葉だけが、何度も使われた。
僕は何も言わなかった。
言えなかった。
約束を、守っていた。
⸻
それ以来。
井川さんは、感情を外に出さなくなった。
怒らない。
泣かない。
求めない。
嫌い、という気持ちだけを
心の中に溜めていった。
言葉にすると、
約束が壊れる気がしたから。
だから、
文字にした。
誰にも見せないノートに。
——きらい
——ころしたい
それは、
願望じゃない。
記憶だった。
⸻
私は、
その話を聞いたあと、
能面のことを思い出していた。
感情を出さない顔。
でも、
すべてを知っている顔。
——面が勝手に語る。
社長の言葉が、
少し違う意味を帯びて
胸に残った。
井川さんは、何もしていない。
でも、知ってしまった。
それだけで、人は一生、縛られることがある。
僕とゆうじくんは双子だ。
でも、同じじゃない。
顔はよく似てるって言われる。
だけど、僕は知ってる。
まゆげの角度。
目の開き方。
笑ったときのえくぼの場所。
ぜんぶ、少しずつちがう。
大人たちは
「そっくりだね」
って言う。
でも、それはちゃんと見てないからだ。
ゆうじくんはまんなかに立つ。
僕は、横に立つ。
それだけで、もうちがう。
⸻
僕たちは
いっしょに生まれた。
でも、いっしょには育たなかった。
それを知ってるのは僕だけだ。
ゆうじくんは知らない。
知らないまま大きくなってる。
⸻
だから、あの日のことも僕が持つ。
ゆうじくんが見てしまったあの瞬間。
僕は、ゆうじくんを見た。
ゆうじくんは、僕を見た。何も言わなかった。
それで、決まった。
これは、僕が持つ。
同じじゃない。でも、似ている。
似ているから、代われる。
代われるから、隠せる。
それが、僕たちの双子だった。
おばさんは湯呑みを二つ置き、
最後にもう一つ、空のままの湯呑みを机の端に置いた。
「……あ、ごめんなさい。癖で」
そう言って、その湯呑みをすっと引っ込める。
何の癖なのかは、言わない。
「それで、例のノートね」
おばさんは、私がカバンから出した分厚いノートを触る前に、じっと見た。
表紙の文字。
――きらい
「……懐かしい字」
ぽつりと、誰に向けたわけでもなく言った。
「懐かしい、ですか?」
鳥井さんが聞くと、おばさんは笑った。
「あぁ、ごめんごめん。子供の字って、時代が出るのよ」
ページをめくる。
速くもなく、遅くもない。
まるで、内容を知っている人の速度だった。
⸻
(やっぱり、これは“あの子”のだ)
心の中で、彼女は確認する。
養子先の家。兄の家。
階段の踊り場。
落ちた音。
そのあと、兄が言った言葉。
――嫌いな人は、こうやって消せばいいんだよ。
――でもね、約束して。これは、自分だけの秘密。
義姉は助かった。
離婚した。
でも、
子供の目は変わらなかった。
⸻
「このノートを書いた子、とても頭がいい」
突然、おばさんが言った。
「え?」
「感情を、ちゃんと“言葉にしてる”。普通、ここまで書けない」
ページの端を、
指で軽く叩く。
「それにね、ここ」
“ころした。いたみつけた。”
「この“た”の形、途中で変わってるでしょ」
私は息を呑んだ。
確かに、最初のページと後半で、微妙に違う。
「成長、じゃないわね」
おばさんは即座に否定した。
「これは、“書き方を変えた”字」
⸻
「じゃあ……誰かに見せる前提?」
鳥井さんが聞く。
おばさんは、首を横に振った。
「逆」
「隠すため」
その一言が、部屋に落ちた。
⸻
「この子ね、“二人分の記憶”を持ってる」
二人分。
私は思わず、顔を上げた。
「でも安心して。双子とか、そういう話じゃないわ」
にこっと笑う。
嘘だ、となぜか思った。
⸻
(ゆうじくんは、知らない)
(この子は、知ってる)
(知ってるほうが、守る)
それが、この子のやり方だった。
兄の家で見た、あの目と同じ。
⸻
「このノートを書いた子はね」
おばさんは、ノートを閉じた。
「可愛がられてた」
「え?」
「二人に」
その“二人”が誰かは、
まだ言わない。
「だから、壊れなかった」
「でも」
一拍置く。
「代わりに、抱えた」
私は、能面のことを思い出していた。
笑っていないのに、感情がある顔。
⸻
「調べますよ」
おばさんは、立ち上がった。
「ただし、知りたくない答えも出る」
「それでも?」
鳥井さんが、私を見る。
私は、少しだけ迷ってから頷いた。
「知りたいです」
おばさんは、一瞬だけ、本当に優しい顔をした。
「……そう言うと思った」
階段を上りながら、小さく呟く。
「昔から、あなたも“見る側”の顔をしてる」
二階に消えるその背中を見ながら、
私はなぜか、井川さんの無の表情を思い出していた。
怖かったからじゃない。
疑ったからでもない。
あの人も、今のおばさんと同じ顔をしていたからだ。
明るくもなく、暗くもなく、感情がないように見えて、
全部を知っている人の顔。
何も言わないことで、何かを守っている人の顔。
だから。
二階に消えるその背中を見ながら、私は何故か井川さんの無の表情を思い出していたんだ。
同じ側の人間だと、気づいてしまったから。
二階に消えるその背中を見上げたまま、私はしばらく動けなかった。
階段の途中で、きし、と木が鳴る。
それだけで、この場所が長い時間、誰かの秘密を吸い込んできたことが分かる。
「……緊張した?」
鳥井さんが、少し軽い声で聞いてきた。
「いえ」
嘘ではなかった。
緊張より、置いていかれた感じが近い。
探偵事務所の一階は、古いけれど整っている。
書類棚。ソファ。壁に貼られた、もう何年も前のカレンダー。
ここは、
“調べる場所”なのに、どこか待つための場所みたいだった。
私は、膝の上に置いたバッグを無意識に抱き寄せる。
中に入っているものの重さを、確かめるみたいに。
(まだ、誰にも言ってない)
(ここに来た理由も、本当のところは)
二階から、
紙を揃える音が聞こえた。
一枚ずつ、丁寧に。
慣れている音。
あの人は、最初から全部を知っていたんだろうか。
それとも、知っている“ふり”を続けてきただけなんだろうか。
私は、なぜか井川さんの顔を思い出していた。
無の表情。
感情がないようで、何かを必死に隠している顔。
(……似てる)
探偵のおばさんと、井川さん。
性格も、立場も、全然違うのに。
「知っているけど、言わない」
その立ち位置だけが、不思議なくらい重なって見えた。
「ねぇ」
鳥井さんが、小声で言う。
「もしさ、このノートが本当にただの子供の落書きだったら」
「……はい」
「それでも、気になる?」
私は、
少し考えた。
そして、
正直に答えた。
「はい」
「理由、分かる?」
分からない、と言いかけて、やめた。
「たぶん」
私は、バッグの口を指でなぞりながら言った。
「書いた子が、一人で抱えるには重すぎた気がして」
鳥井さんは、何も言わなかった。
でも、否定もしなかった。
そのとき、二階から足音がした。
さっきより、
少しだけ
速い。
私は、背筋を伸ばした。
まだ、何も知らない。
何も、明かされていない。
それでも、ここから先は――
選ぶ側に立ってしまった。
そう、はっきり分かってしまった。
二階から降りてきたおばさんは、さっきと同じ笑顔だった。
でも、湯呑みを置く手だけが、少しだけ慎重になっている。
「お待たせ」
そう言ってから、私と鳥井さんを交互に見た。
「さっきのノートね。全部は、今日は見ないわ」
「え?」
鳥井さんが声を上げる。
「途中までで、十分」
それは、調べるのをやめる人の言い方じなかった。
必要なところだけ、もう見た人の言い方だった。
⸻
「この子」
おばさんは、ノートの表紙を指で軽く押さえた。
「環境が、途中で変わってる」
「引っ越し、ですか?」
私が言うと、おばさんは首を振った。
「もっと、根っこから」
一拍。
「養子」
その言葉は、静かに置かれたのに、やけに重かった。
⸻
「養子先って、書いてありました?」
鳥井さんが聞く。
「いいえ」
即答だった。
「書いてない。でもね」
おばさんは、ノートの端をめくり、あるページで止めた。
「ここから、字が変わる」
「丁寧になってる」
「感情が、減ってる」
「そして―言い訳が増える」
私は、息を吸うのを忘れていた。
⸻
「養子に出された子ってね」
おばさんは、独り言みたいに続ける。
「“いい子”でいようとするの」
「嫌われたら、もう居場所がないから」
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
⸻
「だから」
おばさんは、視線を上げた。
「このノートを書いた子は、誰かに可愛がられてた」
「でも、同時に」
少しだけ、声が低くなる。
「気を遣われてた」
⸻
私は、無意識にバッグの口を押さえていた。守るみたいに。
⸻
「安心して」
おばさんは、また笑った。
「養子先が悪いって話じゃない」
「むしろ、大切にされてた」
「だからこそ、言えなかった」
「……何を、ですか?」
私がそう聞くと、おばさんはすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落として、湯呑みの縁を指でなぞる。
「言葉にするとね」
一拍。
「全部、壊れてしまいそうなこと」
それは、事実を隠す人の言い方じゃなかった。守ってきたものを、まだ手放せないの言い方だった。
⸻
「養子先って」
鳥井さんが、慎重に言葉を選びながら続ける。
「その子にとっては、居場所だったんですよね」
「ええ」
おばさんは、はっきりとうなずいた。
「だからこそ、“見たこと”も“感じたこと”も」
「自分の中にしまったままにした」
⸻
私は、ノートの厚みを思い出していた。
二十年分の紙。重なった時間。書かれなかった行。
そこには、誰かを責める言葉よりも、自分を納得させるための文章が多かった気がする。
⸻
「養子先での生活は、穏やかだったと思う」
おばさんは言った。
「少なくとも、外から見れば」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
⸻
「今日はここまで」
おばさんは立ち上がり、ノートを静かに閉じた。
「続きは、また今度」
そう言って、階段の方へ向かう。
⸻
二階へ消えていくその背中を見ながら、私はなぜか――
井川さんの、あの無の表情を思い出していた。
同じ側の人間だと、気づいてしまったから。
理由は、まだ言葉にならない。
ただ、
「養子先」という場所が、この話の中心じゃなく、出発点だった気がして。
あの日の探偵事務所も、二階に消えていったあの背中も、大きな事件の前触れには見えなかった。
ただ、少しだけ空気が変わった。それだけだった。
⸻
休み明けの朝。
いつもと同じ時間に目が覚め、同じ道を通って、同じ会社に向かった。
体も、頭も、驚くほど普通だった。
だから余計に、違和感が際立った。
⸻
能面工房に入った瞬間、空気が違った。
湿り気を含んだ木の匂い。削り屑の粉が光の中を静かに漂っている。
休みのあいだ、誰も触れていないはずなのに、工房は「続き」を知っている顔をしていた。
⸻
作業台の上には、途中まで削られた能面。
目の輪郭だけが掘られ、まだ表情と呼べない段階。
なのに、視線だけは確かにあった。
⸻
「おはよう」
社長の声がした。
いつもと変わらない調子。
変わらないはずなのに、なぜか距離を測られている気がした。
⸻
「今日は、ここから始めようか」
そう言って、社長は一つのコンテナの前に立った。
番号は、N-13。
休み前に開けたはずのコンテナ。
なのに、扉は閉まっている。
まるで、何事もなかったみたいに。
⸻
私は思った。
探偵事務所が「入口」だったなら、ここは――戻ってきた場所だ。
始まりじゃない。
ずっと前から、ここに置かれていたものの前に、立たされているだけ。
⸻
能面工房は、何も語らない。
でも、語らせないままにもしない。
削る音が、今日も一定のリズムで鳴り始める。
私は、その音を聞きながら、なぜか確信していた。
ここから先は、もう「知らなかった」ではいられない。
工房の朝は、
音から始まる。
削り台の前に立つ前、誰かが換気扇を回す音。木屑を掃く、ほうきの乾いた音。
それらが全部、昨日の続きみたいに同じ順番で流れていく。
――何も変わっていない。
そう思おうとした。
⸻
僕は、棚の奥に積まれた木材を確認する。
年数の経った檜。乾きすぎるほど乾いて、叩くと低い音が返る。
いい木だ。
能面には、こういう木が向いている。
感情を、勝手に吸ってくれるから。
⸻
作業台の向こうで、彼女が道具を並べているのが見えた。
真剣な顔。
余計なことを考えていない顔。
――まだ、知らない。
それが、
少しだけ救いだった。
⸻
「井川さん」
社長――ゆうじくんが声をかけてくる。
「この面、どう思う?」
差し出されたのは、目元だけが掘られた能面。
完成には程遠いのに、見る角度によって妙に落ち着いて見える。
「……いいと思う」
僕はそう答える。
言葉を選びすぎないように。
「だろ?」
ゆうじくんは、嬉しそうに笑った。
昔から、この人は変わらない。
⸻
でも。
その笑い方を見た瞬間、僕の頭の奥で、別の景色が重なった。
⸻
子供の頃。
工房の裏。森に続く、人の入らない斜面。
走る音。
息の荒さ。
誰かの背中。
⸻
――落ちる。
⸻
その瞬間を、
僕は声も出さずに見ていた。
怖かったんじゃない。
驚いたんでもない。
ただ、「見てしまった」と思った。
⸻
そのあと、ゆうじくんは何も言わなかった。
僕も、何も言わなかった。
あれは、二人だけの出来事だった。
二人だけの、秘密。
⸻
だから今も、僕は何も言わない。
能面を作る手は、正確に動く。
削る。止める。また削る。
感情を挟まない。
⸻
彼女が、この工房に来たとき、少しだけ不安になった。
でも同時に、思ってしまった。
この人なら、能面を信じられるかもしれない。
⸻
まだ、
ノートのことも。
探偵のことも。
僕は、何も知らない。
知らないままで、今日も面を削る。
それが、一番安全な選択だと分かっているから。
⸻
工房には、能面が並んでいる。
笑っていないのに、感情を隠さない顔たち。
僕は思う。
本当に怖いのは、表情があることじゃない。
何も語らずに、全部を残してしまうことだ。
⸻
そして、それを一番よく知っているのは――
きっと、
僕と、
ゆうじくんだけだ。
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