βなんか好きにならない

切羽未依

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もうひとりの謝罪

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 だんは言い出した。
笙悧しょうり、リュックと上着、昨日、市民会館に忘れたの、ぽぽんたの店長さんから、連絡が来て、取りに行って来たんだ」
「あっ。ごめん…」

 ごにょごにょ、笙悧は言い訳した。
「昨日、宇宙に、いきなし『αだ』って言われて、わああああって、なっちゃって、逃げちゃったんだよ、ぼく。わざわざ、取りに行かせちゃって、ごめん。」
「ううん」


 ぽぽんたの店長――希更きさらからは、昨日の夜、暖のスマホに電話の着信が入っていた。
 市民文化会館へ見に行って、当然、スマホの電源は切っていたので、暖は、寝る前に、電源を入れて、着信通知に気が付いた。
 ベッドで、もう眠り込んでいる笙悧に気付かれないように、リビングルームへ行って、もう夜中だったので、LINEすると、すぐに既読がついて、希更から電話がかかって来た。
 暖は「朝ごはんを買って来る」と、笙悧には言って、希更の屋台まで、笙悧の忘れ物を取りに行っていた。


 笙悧は、短い沈黙の後、暖は聞いた。
「何か、希更きさらさん、言ってた?」

 笙悧が聞きたい「何か」は、宇宙そらのことだと、暖には、わかった。

宇宙そらくんとは、会ってないって。昨日は、ずっと屋台にいて、市民会館には行っていないから、何が起きたのか、知らないって、言ってらっしゃった。旦那さんから、忘れ物を預かっただけだって。」
「そっか…」

 笙悧は、宇宙のことばかり、気にして、ぽぽんたの希更店長が、暖の連絡先を知っていることを、気にもしていない。
 本当のことを言わないままでもいいか。と、暖は気弱になる。でも、

「笙悧。ぼくは、笙悧に謝らなきゃいけないことがある」
 暖に言われて、反射的に笙悧は、両耳を両手で、ふさいだ。
「謝ってくんなくていい。世の中には知らない方がいいことがある」

 暖は謝った。
「ごめん、笙悧」

 笙悧が両手で両耳をふさいでも、暖の声は聞こえてしまう。
 どうして耳には、聞きたくないことを聞かないでいられるように、フタが付いてないんだろう?

市民祭しみんまつりのプログラムに、ぽぽんたの店長さんとお子さんが」
「希更さんとお子さんが?」
 希更さんとお子さんが、何か、あったかと、笙悧は、両耳から両手を離した。

「笙悧の名前を、シールで貼ってくれてたんだ」
「えっ?」
 笙悧は聞き返す。

 印刷に間に合わなくて、市民祭のプログラムに、笙悧の名前がないことを、希更には謝られたけれど、わざわざ、名前のシールを貼ってくれていたことは、笙悧は知らなかった。


「その時は、まだ、おばさん笙悧の母親に、市民祭で、笙悧がピアノを弾くことは知られていなかったから、笙悧の名前が入ったプログラムが、万が一、おばさんの目に触れたら、笙悧がピアノを弾くのを止めさせられると思ったんだ。だから、笙悧の名前が貼られたプログラムを、店長さんに回収してもらって、」
 暖は、言葉を途切れさせた。
 を聞いた時の、笙悧の表情を見るのが、こわくて、下を向く。

 暖は言った。
「ぼくが
「…………」
 笙悧はびっくりして、目を見開く。

「ごめん、笙悧。」
 下を向いたまま、暖は謝った。

「ううん。ううん。」
 笙悧は、首を横に振る。
「お兄ちゃ、暖が、ぼくのためにやってくれたことじゃないか。謝ることじゃないよ」

 下を向いている暖には、笙悧が、本当は怒っているのに、怒ってないふりをしてくれているようにしか聞こえなかった。

「ごめん、本当に。」
「謝らないで。ぼくのためにやってくれたことなんだから。」
「ぼくは、笙悧が本当に欲しいものを、あげられない」
「ええ?」
「本当は、笙悧がピアノを弾きたかったことを、気付いてあげられなかった」
 下を向いたまま、そんなことを言う暖に、笙悧は慌てる。

「待って待って。ちょっと待って。ぼく、ピアノが弾きたいなんて思ってなかったよ。宇宙そらのギターが下手すぎたから、ピアノで伴奏しただけで。」


 ピアノを弾きたかったんじゃない。宇宙の歌の伴奏をしたかった。


「宇宙くんが、おばさん笙悧の母親に、笙悧がピアノを弾くことを言ったから、昨日、おばさんも、おじさん笙悧の父親も、本当にうれしそうに、笙悧を見てた。拍手してた」

 あたたかな拍手の中に、お母さんとお父さんの拍手もあったんだと思うと、笙悧は胸が、じーんっと、あたたかくなる。――いや、今、じーんっとしてる場合じゃない!

「宇宙が、お母さんに言っちゃったのは、偶然で。お母さんが、ぼくがピアノ弾くこと知って、喜ぶなんて展開、予想できなかったんだからさ。もおおおお」
 下を向いて、うじうじ、言い続ける暖にれて、笙悧は声を上げ、椅子を立った。ダイニングテーブルを回り込み、下を向いている暖のそばへ行くと、笙悧は立ったままで抱き締めた。

「暖が謝ることなんて何にもないよ。ぼくのためにやってくれたんだから。」
「本当に、ぼくで、いいの?」
 震える声で、暖は聞いた。
「暖がいいんだよ」
 即答する笙悧が、抱き締めてくれる腕の中で、暖は目を閉じた。


 右手でマイクを握り、左手をマイクスタンドのなかばに添えて、真っすぐに立つ、すらりとした長身。
 やわらかな表情。あたたかな眼差し。
 全ての視線を奪う存在感。ホール会館を満たす歌声。


 ステージに立ち、歌う宇宙そらを見て、暖は、宇宙がαであることに気付いた。
 歌う宇宙の背中を見つめ、ピアノを弾く笙悧を見て、暖は、笙悧の体に付いていたαのフェロモンも、突発的に発情したのも、発情期なのに、暖がそばにいても発情しなかったのも、宇宙のせいだとわかった。


 宇宙のフェロモンで、笙悧は発情して、もう、自分のフェロモンじゃ発情しない。


 市民文化会館から帰りのバスの中で、暖は、お兄ちゃんらしく、笙悧と別れることばかりを考えていた。


――笙悧の両腕が離れて、暖は目を開けた。見上げると、笙悧は、両手で、暖の顔を包み込むようにした。暖は目を閉じる。

 笙悧が笑う息が、暖の唇を撫でた。
「……トマトの臭い、するかも。」

 目を見開く暖に、笙悧は笑っている唇で、ぶちゅ~と、キスして、瞳を閉じた。
――キスはコーヒーの香りがして、暖は安心して、瞳を閉じ、唇を開けて、舌を伸ばした。

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