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嘘
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大型商業施設のスーパーマーケットで、買い物をして、今日は、暖が、肉じゃがを作ってくれることになった。
「まだ、『二人で、いっしょに料理イベント』は、まだ取っておきたい」
と、暖が言うので、笙悧は、ソファーで、ダラダラしているうちに、座ったまま、クッションを枕に、マスクを着けたまま、眠り込んでしまっていた。
目が覚めた時には、毛布が掛けられていた。
大学が始まったばかりで、疲れているぼくを、お兄ちゃんは、気遣ってくれたのかもしれない…と、今さら、笙悧は気付く。
笙悧は、クッションから頭を上げて、背もたれの上から、そっと暖を見た。
キッチンに、暖は、いなかった。
きょろきょろ、笙悧が見回すと、暖は、窓際の洗濯物が並ぶ室内物干し台の前、アイロン台で、ワイシャツにアイロンをかけていた。
しばらく、笙悧は声をかけずに、暖がアイロンをワイシャツにかける音を聴きながら、見つめていた。
暖は、アイロン台からワイシャツを引き上げ、笙悧が自分を見ていることに気付いた。
「起きてたの?」
「うん。今さっき。」
「ちゃんと夜、寝られてる?」
暖が心配してくれる。笙悧は答える。
「だいじょうぶ。ぐーぐー、寝てるよ」
本番まで、あと2週間、昔だったら、笙悧は、頭の中に、ピアノの音が鳴り響き続けて、目を閉じても、楽譜の音符が、まぶたの裏を埋め尽くして、眠れなくなっている。
笙悧は、ソファーを立ち上がり、掛けられていた毛布をたたみ始める。
「それなら、いいけど…」
暖は、アイロンをかけたワイシャツをハンガーに掛けて、室内物干し台の端に吊るす。キッチンへ行って、チェックが薄れたエプロンを掛けると、肉じゃがを、IHヒーターを弱にして、あたため直す。
笙悧は、ベッドルームへ毛布を置きに行って、リビングルームに戻ると、ウェットティッシュで、ダイニングテーブルを拭く。
「もうちょっと、ゆっくりしてていいよ。野菜、揚げるから。」
暖が言う。笙悧は、びっくりして、聞き返す。
「揚げ物するの?肉じゃがが、今日のメインじゃないの?」
「肉じゃががメインだよ。天ぷらとか、フライじゃなくて、素揚げだよ」
「揚げ物は、揚げ物だからね」
「天ぷらとか、フライよりは、カンタンだよ」
そんなことを言う暖に、笙悧は、高~く手を上げてみせた。
「すご~いレベルの高い所で、『カンタン』って言ってるよ、お兄ちゃん」
「そうかな?」
暖は首をひねりながら、冷蔵庫の野菜室から野菜を持って来る。
「そうだよっ!」
笙悧は断言する。
肉じゃが。
魚とかぼちゃとなすとパプリカの素揚げ。
豆腐とわかめのみそ汁。
スーパーマーケットで買った刺身と、白和え。
笙悧はカーディガンを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。着けていたマスクを取る。
やっぱり食べ物の匂いで、αのフェロモンを嫌な臭いは紛れる。
安心して、マスクをカーディガンのポケットに入れた。
「いただきます」
「いただきます」
二人は、ダイニングテーブルに向かい合わせに座ると、手を合わせて、声を合わせて、食べ始める。
早速、笙悧は、肉じゃがを小皿に取って、食べる。――しょうゆ寄りの味付けだった。
「並べてみると、じゃがいもとかぼちゃで、イモかぶりで、素揚げと刺身が、魚かぶりで、みそ汁と白和えが、豆腐かぶりで、いい献立ではないね」
暖が苦笑して、箸を取り、ごはん茶碗を持ち上げる。
味をよく覚えようと、もぐもぐしている笙悧に、暖は言った。
「味付けは、笙悧の好きで、いいよ。ぼく、おばさんの味付け、好きだから」
暖は、ごはんを食べる。
笙悧は肉じゃがを飲み込むと、答えた。
「でも、お兄ちゃんが『美味しい』って思う味付けの方がいいよ」
ごはんを、もぐもぐしている暖が、「そう?」という目で、笙悧を見る。
「うん」
答えて笙悧は、ごはんを食べる。――暖が研いで、水加減を決めて、炊いたごはんは、やっぱり、固めだった。
「食べ終わったら、笙悧、帰りなよ。明日、大学なんだから、早く寝て。履修登録で、最初の2週間は休めないだろ」
うなずく笙悧の、固めのごはんを噛み締める唇の端は、少し笑ってしまう。
「大学って、サボっていいんじゃないの?」なんて言う宇宙とは、大違いだ。
素揚げを小皿に全種類、取りながら、暖が聞く。
「ピアノのこと、おばさんに、バレたんじゃないんだよね?」
「バレてないよ」
笙悧は、ピアノのことが母親にバレているかより、母親が怒った理由を「わからない」と、暖に嘘をついていることが、バレているんじゃないか、心配になって来る。
暖は椅子を立ち、素揚げ全種類を取った小皿を、笙悧の前に置く。
「あ。ありがとう」
「ううん」
暖は椅子に座り直し、自分の分の素揚げを小皿に取る。
笙悧は言う。
「ほんと、よくわかんないんだって。火曜日、ぼくが『宇宙と会って来る』って言ったら、お母さん、突然、キレ散らかしてさ」
「火曜日?今週の?あ、先週か…」
今日が、週の始まりの日曜日で、暖は混乱する。壁のカレンダーを見る。
「笙悧が、まだ発情期だったからかな?…落ち着いてるとしても、やっぱり…、心配したのかな…」
「そうかな?そうだね…」
お兄ちゃんがそう思ってくれたなら、そういうことにしておこうと、笙悧は思う。
「他の友達と遊んでたら、お兄ちゃんに嫌われる」なんて、母親が、お兄ちゃんのことを心が狭いと思ってることを、笙悧は知られたくなかった。
笙悧は、素揚げのかぼちゃを食べる。
オリーブオイルの香り。サクッとして、ホクホク、甘い。
「お兄ちゃん、素揚げ、美味しい」
「ほんと?よかった」
笙悧が言うと、暖は微笑む。素揚げの魚を食べる。
笙悧は、素揚げのなすを食べる。これは、酢じょうゆで食べたいな、と思う。
「これからは、平日、大学の帰りに寄って、練習できるから、」
ため息が出てしまった。
「でも、木曜と金曜しか、練習できないんだよね。宇宙が、夕方は、バイトしてるから。」
暖は、カレンダーを見る。
「ぼくは、それくらいの練習量の方が、安心かな…」
小皿2つに、刺身に入っていたしょうゆを入れて、パックわさびを少し、溶く。1つを笙悧の前に置く。
「ありがと。――練習って言っても、1時間も練習できないんだよ」
「あんまり自分を追い込まないでね…」
暖は、刺身のイカに、わさびじょうゆを少し付けて、食べる。
ちょっと、笙悧は笑ってしまう。
暖がイカを、もぐもぐしながら、「何?」という目で見返す。
「琴音なら、まず大トロから行くなと思って。あいつは、まずは最初に、大好きな物で、口いっぱいにして、しあわせを噛み締めたいんだって。」
「それ、よく言ってるよね。聞いたことある」
「市民祭のプログラムもらったから、お兄ちゃん、もらって。」
そう言って笙悧は、サーモンを食べる。
「うん」
暖は、ごはんを食べる。
「練習の時間ないのに、この前なんてね、宇宙が、わざと歌い出し、まちがえたんだよ。まちがえた時に、ぼくがあせらないように、対応できる練習とか言って。そんな練習やるより、自分が歌い出し、まちがえるな。って話だよ」
笙悧も、ごはんを食べる。
暖は肉じゃがを小皿に取って、食べる。
笙悧は、おみそ汁を食べる。白和えを小皿に取る。
「いっつも、宇宙、ジャージしか着てないから、本番の衣装、どうするのか聞いたら、希更さん――ぽぽんたの店長さんに、『笙悧くん、ジャージ持ってる?』って、聞かれちゃって、」
笙悧は、暖に、ちっともウケなかったことに、かなりがっかりした。
「ジャージじゃなくて、本番は、スーツ着るって。」
白和えを食べる。
暖も、小皿に白和えを取って、食べる。
笙悧は、素揚げのパプリカを食べる。思い出して、もぐもぐ、噛んで、飲み込んで、話し出す。
「金曜日に、児童館に行った時、『鍵盤ハーモニカを教えて』って言われちゃって、ぼく。」
ごはんを食べている暖が、うなずく。笙悧は話を続ける。
「学校だと、運指が絶対だから、難しいよね…。小学生じゃ、手がちっちゃくて、力がなさすぎて、ファを親指、小指でオクターブ上のドって、無理ゲー。おまけに息も吹けって、鍵盤ハーモニカ、難ッ!って思った」
笙悧はハマチを食べる。わさびが、ツーンと来た。
「できるようになったの?」
暖は聞く。
「問題は、運指じゃなくて、息継ぎだったんだよ。吹けるだけ吹き続けて、息が切れたところで、息継ぎするから、曲が、ブツ切れる」
「ああ、そうか」
「そうそう。『歌う時と同じに、息継ぎしてみて』って、ぼくが教えてたら、宇宙がウケてて、マジでムカついた」
「どうして?」
笙悧は、肉じゃがを小皿に取る。
「ぼくが息継ぎ、下手だから。」
「え?」
暖は聞き返した。
自分の手元を見ている笙悧は、暖がひどく動揺している表情になったことに気付かないまま、答える。
「ほんとね、よくわかんないよね。ピアノで、息継ぎって。」
肉じゃがを取った小皿をテーブルに置き、笙悧は顔を上げた。
暖の動揺している表情を、「ピアノで息継ぎ」なんて聞いて、戸惑っているのだと思った。
「ぼくが、『息継ぎしないで、ピアノ弾いてる』って、宇宙が言うんだよ」
「ピアノは、息継ぎ、必要なくない?トランペットとか、吹奏楽なら、あ、鍵盤ハーモニカとかは、息継ぎ、必要だけど。」
「そうだよね。ぼくも、そう思った。でも、宇宙、『ピアノを弾く人には、息継ぎ、必要だろ?』って。」
「ああ…そういう意味か」
「うん。そう」
うなずいて笙悧は、話を続ける。
「鍵盤ハーモニカ、教えてあげた子ね、歌も、息継ぎ無しで、息が続く限り、歌ってたんだよね。まずは、『息継ぎ』という概念を教えなきゃなんなかった」
笙悧は、暖に、小首を傾げてみせる。
「ね、お兄ちゃん。ぼくの演奏って、息苦しかった?」
「――ピアノの曲って、大体、息苦しくない?」
暖が答えるまでの、ほんの少しの間が、笙悧にとっては『本当の答え』だった。
ぼくの演奏は息苦しかったんだなあと、笙悧は思う。
1位の子の演奏を、笙悧は思い出す。
作曲家が楽譜に書いた通りの、正確無比な打鍵、揺るぎない速度、自在に操られるピアニッシシモからフォルテッシシモ、決して音を濁らせることなく、伸びやかに響かせるペダリング。
なのに、自由に、楽しくピアノを弾いていた。
「ぼくは、笙悧が弾くピアノ、好きだよ。市民祭で聴くのも、すごく楽しみにしてるよ」
そう言ってくれるお兄ちゃんのやさしさが、笙悧の胸に痛かった。
「ありがとう」
コンクールの客席に、宇宙がいたら、
「息苦しい演奏だなあ」
自分が感じたことを、ただ素直に、真っすぐ言ってくれる。
そしたら、もっと早く、自分の演奏がダメなことに気付けて、もっと早く、ピアノを辞められたのに。
食べ終わると、笙悧は、
「お兄ちゃんが作ってくれたから、ぼくが片付ける」
と言って、茶わんや皿をキッチンに片付けて、食洗器に入れ、ONにする。
それから、ソファーの方へ行って、リュックに入れている楽譜のクリアファイルに、2枚入っている市民祭のプログラムの、1枚を取り出した。もう1枚は、自分の分だ。
暖は、入れ替わりにキッチンへ行き、冷蔵庫から、大型商業施設の広場でやっていた農家直売の瓶詰の梨ジュースを出す。栓抜きで開けると、2つのグラスに注いで、持って行く。
暖は、ダイニングテーブルにグラスを置き、椅子に座りながら、言った。
「笙悧。帰る時、梨ジュース、忘れずに持って帰ってね」
「うん。ありがとう」
笙悧の家族へのお土産に、もう2本、暖は買ってくれていた。
笙悧は、ダイニングテーブルの向こうから、立ったまま、暖にプログラムを両手で持って、差し出した。
「これ、市民祭のプログラム」
「ありがとう」
暖は両手で受け取った。
笙悧は説明する。
「表が、地図になってて、屋台が出てる道とか、外でやるイベントとかの場所が載ってて、中が、文化会館でやるプログラムが載ってる」
「そうなんだ」
暖は、二つ折りのプログラムを開く。
11月2日の最後から2番目に、「弾き語り そら」とあるのを、暖は見る。
笙悧の細くて長い指が、『そら』の名前を指差す。
「1日目の『弾き語り そら』ってあるのが、ぼくら。」
ダイニングテーブルに身を乗り出し、暖が持つプログラムを指差していた笙悧は、椅子に座った。
「ぼくが伴奏やることになったのが、遅かったから、印刷、間に合わなかったんだ」
「そうなんだ」
「それは仕方ないとして。今さら、舞台発表のエントリーの書類、書かされたんだよ。『本当に、出られるんですか?』って、ぼく、聞いちゃったよ」
笑って笙悧は、梨ジュースを飲んだ。
「美味し~!」
輝かせた瞳を大きく見開いて、笙悧が声を上げる。
「美味しいよ、これ、お兄ちゃん。」
暖は、うつむくように下を向き、グラスを持って、梨ジュースを飲んだ。
「そうだね。美味しいね」
「これ、琴音、喜ぶな~。買ってくれて、ありがとう」
笙悧の家族へのお土産に、買うことを言い出したのは、暖だった。
「いいえ。どういたしまして。」
暖は下を向いたまま、言って、梨ジュースを飲む。
笙悧も梨ジュースを飲んで、言う。
「最後から2番目なのは、最後のバンドが、巌さんがやってるバンドで、宇宙が失敗して、シーン…となっても、後は、どうにかしてくれるからだって。去年は、宇宙は、ゲストボーカルで、巌さんのバンドで、1曲、ギターを弾いて、歌って、思いっきり、コードまちがえたんだって。お客さん――ぽぽんたのお客さんが、動画、見せてくれて、アコースティックギター、巌さんと合奏してて、思いっきり、宇宙がコードをまちがえて、不協和音。てへぺろで、許される問題じゃない」
暖が梨ジュースを飲み干し、グラスを置いて、椅子を立った。
笙悧が見上げると、暖はダイニングテーブルに手を着き、身を乗り出した。
暖の唇が、笙悧の唇に重ね合わされ、割り開く。
入って来る暖の甘い舌を、笙悧は瞳を閉じ、受け入れて、αのフェロモンの嫌な臭いが、鼻について、息ができず、思わず唇を離してしまった。
笙悧は下を向き、鼻息をふんふん、出して、嫌な臭いを追い出す。
「ごめん、お兄ちゃん、いきなりだったから、ぼく、息、できなくて…」
下を向いたまま、言い訳をする笙悧の両瞳は、じわりと熱くなって、涙がにじむ。
どうして、ぼくは、お兄ちゃんのαのフェロモンを、嫌な臭いに感じてしまうんだろう。お兄ちゃんが大好きなのに…
「笙悧は、キスの息継ぎも、下手だからね…」
微笑んで暖は、下を向いたままの笙悧の頭を、やさしく撫でた。
暖は、視線をソファーの方へと投げる。
新聞を置いているマガジンラックの横にある、古紙回収の紙袋の中には、新聞の下に隠して、市民祭のプログラムが、一山、入っていた。
「まだ、『二人で、いっしょに料理イベント』は、まだ取っておきたい」
と、暖が言うので、笙悧は、ソファーで、ダラダラしているうちに、座ったまま、クッションを枕に、マスクを着けたまま、眠り込んでしまっていた。
目が覚めた時には、毛布が掛けられていた。
大学が始まったばかりで、疲れているぼくを、お兄ちゃんは、気遣ってくれたのかもしれない…と、今さら、笙悧は気付く。
笙悧は、クッションから頭を上げて、背もたれの上から、そっと暖を見た。
キッチンに、暖は、いなかった。
きょろきょろ、笙悧が見回すと、暖は、窓際の洗濯物が並ぶ室内物干し台の前、アイロン台で、ワイシャツにアイロンをかけていた。
しばらく、笙悧は声をかけずに、暖がアイロンをワイシャツにかける音を聴きながら、見つめていた。
暖は、アイロン台からワイシャツを引き上げ、笙悧が自分を見ていることに気付いた。
「起きてたの?」
「うん。今さっき。」
「ちゃんと夜、寝られてる?」
暖が心配してくれる。笙悧は答える。
「だいじょうぶ。ぐーぐー、寝てるよ」
本番まで、あと2週間、昔だったら、笙悧は、頭の中に、ピアノの音が鳴り響き続けて、目を閉じても、楽譜の音符が、まぶたの裏を埋め尽くして、眠れなくなっている。
笙悧は、ソファーを立ち上がり、掛けられていた毛布をたたみ始める。
「それなら、いいけど…」
暖は、アイロンをかけたワイシャツをハンガーに掛けて、室内物干し台の端に吊るす。キッチンへ行って、チェックが薄れたエプロンを掛けると、肉じゃがを、IHヒーターを弱にして、あたため直す。
笙悧は、ベッドルームへ毛布を置きに行って、リビングルームに戻ると、ウェットティッシュで、ダイニングテーブルを拭く。
「もうちょっと、ゆっくりしてていいよ。野菜、揚げるから。」
暖が言う。笙悧は、びっくりして、聞き返す。
「揚げ物するの?肉じゃがが、今日のメインじゃないの?」
「肉じゃががメインだよ。天ぷらとか、フライじゃなくて、素揚げだよ」
「揚げ物は、揚げ物だからね」
「天ぷらとか、フライよりは、カンタンだよ」
そんなことを言う暖に、笙悧は、高~く手を上げてみせた。
「すご~いレベルの高い所で、『カンタン』って言ってるよ、お兄ちゃん」
「そうかな?」
暖は首をひねりながら、冷蔵庫の野菜室から野菜を持って来る。
「そうだよっ!」
笙悧は断言する。
肉じゃが。
魚とかぼちゃとなすとパプリカの素揚げ。
豆腐とわかめのみそ汁。
スーパーマーケットで買った刺身と、白和え。
笙悧はカーディガンを脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。着けていたマスクを取る。
やっぱり食べ物の匂いで、αのフェロモンを嫌な臭いは紛れる。
安心して、マスクをカーディガンのポケットに入れた。
「いただきます」
「いただきます」
二人は、ダイニングテーブルに向かい合わせに座ると、手を合わせて、声を合わせて、食べ始める。
早速、笙悧は、肉じゃがを小皿に取って、食べる。――しょうゆ寄りの味付けだった。
「並べてみると、じゃがいもとかぼちゃで、イモかぶりで、素揚げと刺身が、魚かぶりで、みそ汁と白和えが、豆腐かぶりで、いい献立ではないね」
暖が苦笑して、箸を取り、ごはん茶碗を持ち上げる。
味をよく覚えようと、もぐもぐしている笙悧に、暖は言った。
「味付けは、笙悧の好きで、いいよ。ぼく、おばさんの味付け、好きだから」
暖は、ごはんを食べる。
笙悧は肉じゃがを飲み込むと、答えた。
「でも、お兄ちゃんが『美味しい』って思う味付けの方がいいよ」
ごはんを、もぐもぐしている暖が、「そう?」という目で、笙悧を見る。
「うん」
答えて笙悧は、ごはんを食べる。――暖が研いで、水加減を決めて、炊いたごはんは、やっぱり、固めだった。
「食べ終わったら、笙悧、帰りなよ。明日、大学なんだから、早く寝て。履修登録で、最初の2週間は休めないだろ」
うなずく笙悧の、固めのごはんを噛み締める唇の端は、少し笑ってしまう。
「大学って、サボっていいんじゃないの?」なんて言う宇宙とは、大違いだ。
素揚げを小皿に全種類、取りながら、暖が聞く。
「ピアノのこと、おばさんに、バレたんじゃないんだよね?」
「バレてないよ」
笙悧は、ピアノのことが母親にバレているかより、母親が怒った理由を「わからない」と、暖に嘘をついていることが、バレているんじゃないか、心配になって来る。
暖は椅子を立ち、素揚げ全種類を取った小皿を、笙悧の前に置く。
「あ。ありがとう」
「ううん」
暖は椅子に座り直し、自分の分の素揚げを小皿に取る。
笙悧は言う。
「ほんと、よくわかんないんだって。火曜日、ぼくが『宇宙と会って来る』って言ったら、お母さん、突然、キレ散らかしてさ」
「火曜日?今週の?あ、先週か…」
今日が、週の始まりの日曜日で、暖は混乱する。壁のカレンダーを見る。
「笙悧が、まだ発情期だったからかな?…落ち着いてるとしても、やっぱり…、心配したのかな…」
「そうかな?そうだね…」
お兄ちゃんがそう思ってくれたなら、そういうことにしておこうと、笙悧は思う。
「他の友達と遊んでたら、お兄ちゃんに嫌われる」なんて、母親が、お兄ちゃんのことを心が狭いと思ってることを、笙悧は知られたくなかった。
笙悧は、素揚げのかぼちゃを食べる。
オリーブオイルの香り。サクッとして、ホクホク、甘い。
「お兄ちゃん、素揚げ、美味しい」
「ほんと?よかった」
笙悧が言うと、暖は微笑む。素揚げの魚を食べる。
笙悧は、素揚げのなすを食べる。これは、酢じょうゆで食べたいな、と思う。
「これからは、平日、大学の帰りに寄って、練習できるから、」
ため息が出てしまった。
「でも、木曜と金曜しか、練習できないんだよね。宇宙が、夕方は、バイトしてるから。」
暖は、カレンダーを見る。
「ぼくは、それくらいの練習量の方が、安心かな…」
小皿2つに、刺身に入っていたしょうゆを入れて、パックわさびを少し、溶く。1つを笙悧の前に置く。
「ありがと。――練習って言っても、1時間も練習できないんだよ」
「あんまり自分を追い込まないでね…」
暖は、刺身のイカに、わさびじょうゆを少し付けて、食べる。
ちょっと、笙悧は笑ってしまう。
暖がイカを、もぐもぐしながら、「何?」という目で見返す。
「琴音なら、まず大トロから行くなと思って。あいつは、まずは最初に、大好きな物で、口いっぱいにして、しあわせを噛み締めたいんだって。」
「それ、よく言ってるよね。聞いたことある」
「市民祭のプログラムもらったから、お兄ちゃん、もらって。」
そう言って笙悧は、サーモンを食べる。
「うん」
暖は、ごはんを食べる。
「練習の時間ないのに、この前なんてね、宇宙が、わざと歌い出し、まちがえたんだよ。まちがえた時に、ぼくがあせらないように、対応できる練習とか言って。そんな練習やるより、自分が歌い出し、まちがえるな。って話だよ」
笙悧も、ごはんを食べる。
暖は肉じゃがを小皿に取って、食べる。
笙悧は、おみそ汁を食べる。白和えを小皿に取る。
「いっつも、宇宙、ジャージしか着てないから、本番の衣装、どうするのか聞いたら、希更さん――ぽぽんたの店長さんに、『笙悧くん、ジャージ持ってる?』って、聞かれちゃって、」
笙悧は、暖に、ちっともウケなかったことに、かなりがっかりした。
「ジャージじゃなくて、本番は、スーツ着るって。」
白和えを食べる。
暖も、小皿に白和えを取って、食べる。
笙悧は、素揚げのパプリカを食べる。思い出して、もぐもぐ、噛んで、飲み込んで、話し出す。
「金曜日に、児童館に行った時、『鍵盤ハーモニカを教えて』って言われちゃって、ぼく。」
ごはんを食べている暖が、うなずく。笙悧は話を続ける。
「学校だと、運指が絶対だから、難しいよね…。小学生じゃ、手がちっちゃくて、力がなさすぎて、ファを親指、小指でオクターブ上のドって、無理ゲー。おまけに息も吹けって、鍵盤ハーモニカ、難ッ!って思った」
笙悧はハマチを食べる。わさびが、ツーンと来た。
「できるようになったの?」
暖は聞く。
「問題は、運指じゃなくて、息継ぎだったんだよ。吹けるだけ吹き続けて、息が切れたところで、息継ぎするから、曲が、ブツ切れる」
「ああ、そうか」
「そうそう。『歌う時と同じに、息継ぎしてみて』って、ぼくが教えてたら、宇宙がウケてて、マジでムカついた」
「どうして?」
笙悧は、肉じゃがを小皿に取る。
「ぼくが息継ぎ、下手だから。」
「え?」
暖は聞き返した。
自分の手元を見ている笙悧は、暖がひどく動揺している表情になったことに気付かないまま、答える。
「ほんとね、よくわかんないよね。ピアノで、息継ぎって。」
肉じゃがを取った小皿をテーブルに置き、笙悧は顔を上げた。
暖の動揺している表情を、「ピアノで息継ぎ」なんて聞いて、戸惑っているのだと思った。
「ぼくが、『息継ぎしないで、ピアノ弾いてる』って、宇宙が言うんだよ」
「ピアノは、息継ぎ、必要なくない?トランペットとか、吹奏楽なら、あ、鍵盤ハーモニカとかは、息継ぎ、必要だけど。」
「そうだよね。ぼくも、そう思った。でも、宇宙、『ピアノを弾く人には、息継ぎ、必要だろ?』って。」
「ああ…そういう意味か」
「うん。そう」
うなずいて笙悧は、話を続ける。
「鍵盤ハーモニカ、教えてあげた子ね、歌も、息継ぎ無しで、息が続く限り、歌ってたんだよね。まずは、『息継ぎ』という概念を教えなきゃなんなかった」
笙悧は、暖に、小首を傾げてみせる。
「ね、お兄ちゃん。ぼくの演奏って、息苦しかった?」
「――ピアノの曲って、大体、息苦しくない?」
暖が答えるまでの、ほんの少しの間が、笙悧にとっては『本当の答え』だった。
ぼくの演奏は息苦しかったんだなあと、笙悧は思う。
1位の子の演奏を、笙悧は思い出す。
作曲家が楽譜に書いた通りの、正確無比な打鍵、揺るぎない速度、自在に操られるピアニッシシモからフォルテッシシモ、決して音を濁らせることなく、伸びやかに響かせるペダリング。
なのに、自由に、楽しくピアノを弾いていた。
「ぼくは、笙悧が弾くピアノ、好きだよ。市民祭で聴くのも、すごく楽しみにしてるよ」
そう言ってくれるお兄ちゃんのやさしさが、笙悧の胸に痛かった。
「ありがとう」
コンクールの客席に、宇宙がいたら、
「息苦しい演奏だなあ」
自分が感じたことを、ただ素直に、真っすぐ言ってくれる。
そしたら、もっと早く、自分の演奏がダメなことに気付けて、もっと早く、ピアノを辞められたのに。
食べ終わると、笙悧は、
「お兄ちゃんが作ってくれたから、ぼくが片付ける」
と言って、茶わんや皿をキッチンに片付けて、食洗器に入れ、ONにする。
それから、ソファーの方へ行って、リュックに入れている楽譜のクリアファイルに、2枚入っている市民祭のプログラムの、1枚を取り出した。もう1枚は、自分の分だ。
暖は、入れ替わりにキッチンへ行き、冷蔵庫から、大型商業施設の広場でやっていた農家直売の瓶詰の梨ジュースを出す。栓抜きで開けると、2つのグラスに注いで、持って行く。
暖は、ダイニングテーブルにグラスを置き、椅子に座りながら、言った。
「笙悧。帰る時、梨ジュース、忘れずに持って帰ってね」
「うん。ありがとう」
笙悧の家族へのお土産に、もう2本、暖は買ってくれていた。
笙悧は、ダイニングテーブルの向こうから、立ったまま、暖にプログラムを両手で持って、差し出した。
「これ、市民祭のプログラム」
「ありがとう」
暖は両手で受け取った。
笙悧は説明する。
「表が、地図になってて、屋台が出てる道とか、外でやるイベントとかの場所が載ってて、中が、文化会館でやるプログラムが載ってる」
「そうなんだ」
暖は、二つ折りのプログラムを開く。
11月2日の最後から2番目に、「弾き語り そら」とあるのを、暖は見る。
笙悧の細くて長い指が、『そら』の名前を指差す。
「1日目の『弾き語り そら』ってあるのが、ぼくら。」
ダイニングテーブルに身を乗り出し、暖が持つプログラムを指差していた笙悧は、椅子に座った。
「ぼくが伴奏やることになったのが、遅かったから、印刷、間に合わなかったんだ」
「そうなんだ」
「それは仕方ないとして。今さら、舞台発表のエントリーの書類、書かされたんだよ。『本当に、出られるんですか?』って、ぼく、聞いちゃったよ」
笑って笙悧は、梨ジュースを飲んだ。
「美味し~!」
輝かせた瞳を大きく見開いて、笙悧が声を上げる。
「美味しいよ、これ、お兄ちゃん。」
暖は、うつむくように下を向き、グラスを持って、梨ジュースを飲んだ。
「そうだね。美味しいね」
「これ、琴音、喜ぶな~。買ってくれて、ありがとう」
笙悧の家族へのお土産に、買うことを言い出したのは、暖だった。
「いいえ。どういたしまして。」
暖は下を向いたまま、言って、梨ジュースを飲む。
笙悧も梨ジュースを飲んで、言う。
「最後から2番目なのは、最後のバンドが、巌さんがやってるバンドで、宇宙が失敗して、シーン…となっても、後は、どうにかしてくれるからだって。去年は、宇宙は、ゲストボーカルで、巌さんのバンドで、1曲、ギターを弾いて、歌って、思いっきり、コードまちがえたんだって。お客さん――ぽぽんたのお客さんが、動画、見せてくれて、アコースティックギター、巌さんと合奏してて、思いっきり、宇宙がコードをまちがえて、不協和音。てへぺろで、許される問題じゃない」
暖が梨ジュースを飲み干し、グラスを置いて、椅子を立った。
笙悧が見上げると、暖はダイニングテーブルに手を着き、身を乗り出した。
暖の唇が、笙悧の唇に重ね合わされ、割り開く。
入って来る暖の甘い舌を、笙悧は瞳を閉じ、受け入れて、αのフェロモンの嫌な臭いが、鼻について、息ができず、思わず唇を離してしまった。
笙悧は下を向き、鼻息をふんふん、出して、嫌な臭いを追い出す。
「ごめん、お兄ちゃん、いきなりだったから、ぼく、息、できなくて…」
下を向いたまま、言い訳をする笙悧の両瞳は、じわりと熱くなって、涙がにじむ。
どうして、ぼくは、お兄ちゃんのαのフェロモンを、嫌な臭いに感じてしまうんだろう。お兄ちゃんが大好きなのに…
「笙悧は、キスの息継ぎも、下手だからね…」
微笑んで暖は、下を向いたままの笙悧の頭を、やさしく撫でた。
暖は、視線をソファーの方へと投げる。
新聞を置いているマガジンラックの横にある、古紙回収の紙袋の中には、新聞の下に隠して、市民祭のプログラムが、一山、入っていた。
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ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
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「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
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