ミヌシロ ―白糸の祈り―

地味紅葉

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一章・澄羽編

「四日目」― 風は語る

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 その朝の風は、昨日よりも浅かった。
 いつもと同じ朝。けれど、澄羽の針の動きはどこか鈍い。
 肩のあたりで小さく息を詰まらせるたび、糸の音が途切れた。

「……少し休もうか」
 思わずそう言っていた。

 澄羽は糸を押さえたままこちらを見た。
 笑顔を作ろうとして、作りきれず、視線を落とす。

「休んじゃ、だめかな?」
「だめじゃ……ないけど」

「そうだね……
 たまには羽を、伸ばさないとね──」

 その言葉のあと、糸がほどけるように、彼女の指が力を抜いた。
 織り機の上に置かれた布は、まるで生きものの呼吸のようにふくらみ、しぼんだ。

 二人で外に出る。
 いつもの土手ではなく、村を見下ろす小さな丘の上。
 そこだけ風が通り抜け、白布の匂いが薄くなる。

 澄羽は座り込み、両膝の上で手を重ねた。
 その姿を見ていると、織り手というより、ただの少女に見えた。

「こんなに空、広かったんだね」
「……空、見てなかったんだ?」
「見ちゃいけない気がしてた。
 見たら……行きたくなっちゃうから」

「どこへ?」
 澄羽は指で空をなぞる。
 その動きは、見えない糸を探すようだった。

「……上。
 飛んでみたいの。
 風になるんじゃなくて──自分の羽で」

 言葉に息を混ぜるようにして笑った。
 それは夢ではなく、“未来”という言葉を初めて形にした瞬間だった。

「飛べるさ」
「どうして?」
「根拠なんてない。でも……そうだったらいいと思う」

 澄羽は俯いて、唇の端を噛んだ。

「ずるいね、その言い方」
 そう言いながらも、声には微かな安堵が混じっていた。

 風が草の穂を撫でていく。
 亜麻色の髪が陽をすくい、その淡さは、まだ羽化しきれない繭の色に似ていた。

 ──昼はそれだけで終わった。
 言葉よりも、風のほうが多くを話していた。



 夜。
 眠る前に、耳の奥で“針の音”がした。
 閉じた瞼の裏で、糸がすべる気配がする。
 次に目を開けたとき、宿の天井はもう、どこにもなかった。

 風が白い。
 光も音も柔らかく歪み、輪郭のない夜が広がっている。
 機織り小屋の灯りが、遠くで淡く瞬いていた。

 ──夢だ、と分かっている。
 けれど、歩みを止められなかった。

 扉の前に立つと、布越しの光が肌に触れた。
 温かい。まるで息づいているようだ。

 中に入る。
 澄羽がいた。
 昼と同じ服装。けれど、髪の先まで夜の光を吸って、輪郭が少し透けて見えた。

「来てくれたんだね」
 澄羽は微笑む。
 夢の中の声は、やさしいのにどこか遠い。

 白布の前で、彼女が針を持ち上げる。
「これ、少し持っててくれる?」

 手のひらを差し出される。
 反射的に手を伸ばしてしまった。

 けれど──触れた瞬間、指先に痛みが走った。

 針の先が、ほんのわずかに皮膚を掠めた。
 音が消える。息が止まる。
 血の珠が、一滴。

 落ちる前に、それは糸に吸い込まれた。
 白布の奥で、細いひとすじが光った。

「……ごめん」
 反射的に謝る。
 だが澄羽は首を振らなかった。

 彼女の瞳が、赤に吸い寄せられていく。
 恐れと驚きと、そして──祈りのような静けさ。

「こんな色、初めて見た」
 囁く声が震える。
 その震えは、悲しみではなかった。
 生きているものだけが持つ温度だった。

「痛くない?」
「……平気」
「でも……血って、こんなに……あたたかいんだね」

 澄羽はそっと糸の上に手をかざした。
 触れたら消えてしまうと分かっている手つき。
 けれど、離せない。

「ねぇ」
 澄羽の声が、夜をすくう。
「わたしが……飛べるとしたら、見ててくれる?」

 その目には涙も笑みもなく、ただ、確かな“願い”があった。

 息が詰まる。言葉が出ない。
 だから頷いた。

「ここにいる。見えるところに」

 その瞬間、白布の奥で何かが脈打った。
 風がひとつ、長く息を吐く。
 灯りが揺れて、世界が少しだけ溶ける。

「ありがとう」
 澄羽は、微笑んだ。

 それが夢の言葉か、現の言葉か、分からなかった。
 ただ、胸の奥で何かが結ばれた感触だけが残った。

 視界が白く滲む。
 風の音が遠くなる。

 ──目を覚ますと、宿の天井。
 右手の指先に、小さな痛み。
 布団の上に、赤い染みが一滴。

 外では、風が吹いていた。
 息をするように。
 まるで、誰かの夢がまだ終わっていないみたいに。
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