ミヌシロ ―白糸の祈り―

地味紅葉

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二章・澪編

「第四夜」― 曇りのち夢

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 その日は、朝から蝉の声が薄かった。
 鳴いていないわけではない。ただ、耳を澄ませば届くはずのざわめきが、どこか遠くの空に貼りついている。
 白でも灰でもなく、その中間。陽の場所だけがぼんやりと透けている。

 窓を開けると、空は一面の雲に覆われていた。
 湿った匂いだけが、まだ降らない雨の存在を知らせている。
 手を伸ばせば、指先に触れそうで、触れない水気。

 机の上のノートを開く。
 昨夜までに書きつけた断片は、ところどころ滲み、頁の端で途切れている。

 澄羽のこと、白布のこと、この村のこと。
 そして、ここ数夜のこと――

 途中までは読めるのに、その先が、水に落とされた墨のように滲んでいる。

 消えたからといって、なかったことにはならない。
 むしろ、消えたことそのものが、ここにあった証のように思えた。

 だから今日もまた、あの坂を登る。

 白羽神社へ続く道は、曇り空の下でいつもより暗く見えた。
 光がないのではなく、光の行き先がどこにも決まらずに漂っている。
 鳥居をくぐると、空気の温度が少しだけ下がった。

 境内には人影がない。
 風鈴はぶら下がったまま、やはり今日も鳴らない。
 それでも、どこかから水の匂いだけが届いていた。

 社の横手へ回り、岩壁に沿う細い道へ入る。
 踏みしめる草の感触が、今日は少し重い。
 雲に覆われた空から、光の代わりに湿り気だけが降ってくる。

 視界の先がふっと開ける。

 藍色の池が、今日もそこにあった。
 風もないのに、水面だけがかすかに震えている。
 その揺れは、誰かの呼吸に似ていた。

「……来てくれたんだね」

 水面の向こうから聞こえた声は、いつもより少し小さかった。
 寝言のように細い声。それでも、耳の奥に確かに届く。

 澪がいた。
 白に藍を溶かしたような浴衣が、曇り空の下で柔らかく沈んでいる。
 髪は背中にまっすぐ落ち、その先が水面に溶け込むように揺れた。

「約束……したからな」

「うん。そうだったね」

 澪はそう言って笑った。
 冗談めかしているはずなのに、その笑みはどこか頼りない。
 水の膜一枚で支えられているみたいな、壊れやすさを含んでいた。

「空、重たいね」

 池を見下ろしながら、澪がぽつりと呟く。

「こういう雲のときはね、明日、雨が降るの」

「分かるのか?」

「うん。……たぶん、ずっと見てきたから」

 “ずっと”という言い方が胸に引っかかる。
 何年分の「ずっと」なのか、ここでは簡単に測れない。

「あなたは……雨、好き?」

 澪がこちらを見ずに訊ねる。

「嫌いじゃない。でも、ここで降られると、道がぬかるんで困るかもしれないな」

「そっか。……わたしは、嫌い」

「どうして?」

「雨が降ると、全部が少しだけ、遠くなっちゃうから」

 澪は池のほとりに腰を据えた。
 目線の先には池。水面には、まだ一滴の波紋もない。

「音も、景色も、匂いも。
 みんな同じ雨に混ざっちゃって、誰のものか分からなくなるの」

「それが、怖い……」

 それは、記憶の話にも聞こえた。

 ――形にならない、昨日の連続。
 自分の中で生まれたのか、誰かから受け取ったのか、判別のつかない場面。

「でも、本当はきっと、嫌いじゃないんだと思う」

 澪は自分の膝を両腕で抱き、顎をのせた。

「怖いって言っておけば、今なら少しだけ……近くにいてくれる気がするから」

 自分で口にして、少し困ったような顔をした。
 矛盾をごまかすような笑い方。その仕草に、昨日までの澪が重なる。

「あのね」

 少し間を置いて、澪が続けた。

「もし……明日、雨が降ったら――」

 そこで言葉が途切れる。
 池の水面にはまだ変化がないのに、心のどこかで、最初の滴が落ちる音がした気がした。

「明日は来ないで」

 澪の声は、思っていたよりもずっと小さかった。
 それでも、藍の水より深い場所まで届いてしまう。

「急にどうしたんだ?」

 聞き返すと、澪はぎゅっと膝を抱きしめた。

「分かんない。分かんないけど……」

「明日が来たら、きっと何かが変わっちゃう。
 同じ場所に……いられなくなるような気がするの」

 澪は顔を伏せる。
 黒髪が、前へさらりと落ちた。

 “変わる”。
 その言葉の重さは、この村へ来てから何度も味わってきたはずなのに、今の一回は別の場所に沈んでいった。

「ときどきね、目が覚めてるのか眠ってるのか分からなくなるんだ」

 澪は、ひざ掛けのようにしていた布を指でつまみながら言った。

「だから、明日なんて来なきゃいいって思うの。
 “明日”なんて言葉がなければ、今日のままでいられるのに、って」

 それは祈りに似た拒絶だった。
 捨て台詞でも、子供じみた駄々でもない。
 終わりを知ってしまった誰かが、それでも今という時間を守ろうとする時の、ぎりぎりの言葉。

「そうだな」

 肯定とも否定ともつかない言葉が、曇り空の下に落ちる。

「ただ……どうにも迷って、ここへ来てしまうみたいなんだ」

 足元で草が鳴る。
 行く理由なんて、もうとっくに同じ場所に絡まっている。
 解こうとしても解けない結び目。

「なにそれ」

 澪は少し笑って、少し泣きそうな声を出した。
 けれど、指先は膝の上の布を握りしめていた。

「わたしのために言ってるなら……!」

「たぶん、帰り道のほうが分からないんだと思う」

 口にしてから、自分でもその言い方に苦笑した。
 どこから帰ればいいのか分からない。
 どこまでが“現実”で、どこからが“夢”なのか、はっきり線を引けないまま、ここまで来てしまった。

「……ずるいね」

 澪はそう言って、膝の間に顔を埋める。
 声は隠されても、肩の揺れが、彼女の感情のかたちを教えてくれる。

「濡れても、知らないよ?」

 曇り空の重さと、水面の静けさのあいだに、言葉にならないものが溜まっていく。

「じゃあ、なおさら来ないわけにはいかないな」

 自分でも不意に思えた言葉が、口を抜けた。

 澪が、はっとした顔でこちらを見る。
 藍の瞳が曇り空を映し、そこに小さな波紋が広がる。

「……どういうこと?」

「一人でずぶ濡れな姿を想像したら、放っておけない」

 それだけ言って、池の水面を覗き込む。
 自分の影と澪の影が、重なったり、かすかにずれたりしている。

明日あした来なくても、きっと明日あすという日は来る。
 そういうふうに世界はできているんだろう?」

 澪は答えない。
 代わりに、指先が膝の上で小さく動く。

「だったら、来ないことで“変わらない明日”なんて守れない」

「一緒に、濡れるの?」

「道がぬかるんでも構わないくらいには、迷ってるみたいだから」

 わざと軽口に寄せると、澪の唇の端が、かすかに揺れた。
 笑いなのか涙の前触れなのか、判別のつかない動き。

「やっぱり……ずるい」

 澪はぎゅっと目を閉じる。

「明日が怖いの。明日が来たら、あなたのことも、今日のことも、
 ぜんぶ夢だったってことにされちゃいそうで」

 喉の奥で何かがつかえる。

「忘れたくないものほど、遠くへ行ってしまう。
 でも、遠くへ行ってしまったことを、誰かが覚えていてくれたら……
 それだけで、少しは楽になるのかな」

 澪はゆっくりと顔を上げる。
 藍の瞳が、曇り空ではなく、こちらを映す。

「ねえ、あなたの瞳に映るわたしの目は、何色なのかな――」

 考えるより先に、視線が彼女の目に吸い寄せられる。
 藍とも碧ともつかない色。雲の切れ間から覗く、まだ名前のない水の色。

「その答えは、明日までお預けだ。
 だから……約束」

 雲の向こうの光に向かって、問いかけるように。
 その選択が、自分自身への祈りに近いものだと分かった。

「明日、雨が降ったら……やっぱり怖いと思う。
 きっと泣きたくなるし、逃げたくなるし、
 “夢のまま”だったら良かったのにって」

「――それでも」

 懐から、あの手帳を取り出す。
 表紙はさらに色を失っていた。
 けれど不思議なことに、彼女が触れると、
 そこだけ薄く光を帯びたように見える。

「今日も、書くね」

 澪は、池の縁に膝を寄せて座り直した。
 水面と手帳の紙が、互いに相手を映し合うように向かい合う。

「忘れないためじゃなくて。
 忘れてもいいように。
 それから――」

 少しだけ間を置き、言葉を探す。

「もし、明日が来なくても、
 “ここまで来た”ってことだけは、ちゃんと残しておきたいから」

 ペン先が紙に触れる。
 墨の軌跡が、静かに文字を結んでいく。

 今日は、すぐには滲まなかった。
 まるで、紙そのものが最後の一行を待っているかのように。

 澪は丁寧に書き終えると、
 そっと息を吐き、手帳を閉じた。

「だから、待ってる」

 澪は最後に、少しだけいたずらっぽく笑ってみせた。

「ああ」

 そう答えると、水面がかすかに震えた。
 風は吹いていない。
 ただ、遠くで見えない羽音がした気がした。

 その瞬間、足もとに何かが落ちる気配があった。

 一枚の紙片だった。
 さっき閉じたはずの手帳から、
 切り取られたように舞い出てきた白。

 拾い上げると、指先に冷たさが走る。
 そこには、たった一行だけが、はっきりと刻まれていた。

 ――八月十四日。
  あの人の瞳の色を、私は覚えている。
 きっともうすぐ、会える。

 その言葉の意味を測りかけたところで、視界の色調がわずかに変わった。
 曇り空の灰が濃くなり、水面の藍が夜に近づく。

 気づけば澪の姿が、藍の影に沈んでいた。

 池の水面は、相変わらず静かに呼吸を続けている。
 その呼吸の音が、
 どこかで聞いた誰かの声と重なった気がした。
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