上 下
245 / 314
第四章『恋惑』~揺れる記憶~

心を許せる友人と、不穏との遭遇。

しおりを挟む

 ――Side 幸希


 ――翌日の朝、私は全く以て意味不明な事態に身をおいていた。
 窓の外から差し込んでくる普段通りの少し暑い日差しと、見慣れた御主人様の寝室。
 これから美味しい朝ご飯を食べて、お外で清々しい朝のお散歩を……。

「って、そうじゃなくて……!! その前に!! こ、これは何なの!?」

 私が目を覚ましたのは、御主人様に用意して貰った小さな寝床じゃなくて、ふかふかのベッド。
 まぁ、場所が変わっていたのは些細な問題じゃないと思う。
 それよりも、今一番重大事なのは……。
 驚きで乱れた呼吸を整えつつ、私は自分の『両手』を見下ろした。

「私……、人間になってるっ、人間っ、人間っ、うぅぅっ」

 真っ黒な毛並みの子犬、それが昨日までの私だったはずだ。
 御主人様に拾われた幸運な身の上……、そのはずだったのに。
 犬の声しか出せなかったはずの音は、人間の少女のものに変化し、身体も……、すらりと伸びた四肢と共に、衣服を纏っている。
 犬であった事が夢なのか、今のこの状況が夢なのか……、全然わからない。
 
「――目が覚めたようだな? ユキ」

「え……」

 食事をする部屋の方から寝室へと入って来たのは、昨日の三人組だ。
 眼鏡と白衣姿の男性……、確か、ルイヴェルさんと言っただろうか?
 その人を先頭に、カインさんと、銀髪の物静かそうな男性が私の傍へと寄ってくる。
 
「ご、御主人様っ、御主人様っ、どこですか!!」

「はぁ……、やっぱ記憶は戻ってねぇんだな」

「ユキ、落ち着いてくれ。王弟殿下なら、朝食の支度をしている最中だ」

 どうしてこの人達がまだここにいるの!? 御主人様が許したの!?
 自分の身に起きた突然の変化と、胸の奥を騒がせる三人の存在のせいでパニックが大きくなってしまった私は、薄地のタオルケットの中へと頭を潜り込ませてしまう。犬の時の癖だ。
 隠れても意味なんてない、子犬の時とは違い、今の身体を隠せる場所はない。
 案の定、タオルケットを勢いよく剥がされてしまった私は、三人の男性陣にじっくりと見下ろされてしまう。

「ユキ、お前の黒髪が元の色を取り戻したその時……、俺達の事も思い出すだろう」

「か、髪……? 何を言ってるんですかっ。うぅぅっ、御主人様ああああっ!!」

「あ~……、御主人様ってのは、あの獅貴族の奴の事か? すっかり懐いちまったなぁ……」

「ユキが、出会って間もない男を、御主人様……、御主人様っ、はぁ……、最悪だっ」

 御主人様は御主人様なんです!!
 剣を携えている銀髪の男性が、片手でその顔を覆って俯き何かを呟いているけれど、一体何が最悪というのだろうか。飼い主となってくれた人は、どこからどう見ても、御主人様でしょう?
 ベッドから飛び出した私は、朝食を作っているという御主人様の許に駆け出した。
 キッチンでは、御主人様が本当に料理をしていて、助けを求めに縋り付いてきた私を優しく片腕で受け止めてくれた。

「御主人様っ、どうしてあの人達がいるんですか!! それに、私のこの姿はっ」

「はいはい、ちょっと落ち着きましょうね~。ふあぁぁ……、ふぅ。朝食を食べながら、ね?」

 真っ黒な子犬の姿をしていないのに、御主人様は私の事をわかってくれた。
 だけど、あの三人がこの家にいる事を許したのは当然、目の前の御主人様なわけで……。
 私はこれからどうなってしまうのだろう……。もう犬ではなくなってしまった私は。
 不安で涙ぐむ私を、御主人様の優しい手のひらの感触が包み込む。

「大丈夫よ~、キャンディ。まだ貴女は姿が元に戻っただけで、記憶の方はまだ時間がかかるらしいの。だから……、少しずつ、心の準備をしていきましょうね」

「御主人様……っ」

 心の準備ってなんですか? 記憶って……、一体。
 席へと私を促した御主人様は、そのまま平気そうな顔で料理の続きに戻ってしまう。
 どうして? あの三人は……、私を迎えに来た、と。そう言っていたのに。
 追い返しもせず、何故この家にいる事を許しているの?
 御主人様の気持ちがわからない……。

「ユキ……、いや、今はキャンディと呼ぶべきなんだな」

「あ……」

 俯いた状態で御主人様の真意が見えず悩んでいると、私の隣の席に銀髪の男性が腰を下ろした。
 穏やかな……、懐かしい心地のする、蒼の眼差し。
 私を気遣うように、怖がらせないように、言葉を選んでくれているようだ。
 そう、私はキャンディ。『ユキ』という名前じゃない、その人じゃない。

「あの……、えっと」

「アレクだ。突然の変化に驚いている事はわかっている……。突然意味のわからない話でお前を戸惑わせてしまっている事も」

「アレク……、さん」

 初めて知る、三人の中で一番優しそうな人の名前(おと)。
 それをそっと紡いでみると、何だか胸の奥がじんわりと温もりを抱いたような気がした。
 アレクさんから他の二人の名前も教えられ、知ってはいたものの、それを音にしてみると、やっぱり同じ感覚が……。
 これは何? ただ名前を呼んでみただけなのに、私の中で、『誰か』が騒いだような気がする。
 御主人様の許で安らぎを手に入れて……、ようやく落ち着ける場所に身を委ねられると、そう思っていたのに、この三人と出会ってからの私は。

「安心しろ。お前が慕う飼い主の許から無理に引き離したりはしない」

「本当……、ですか? ルイヴェル、さん」

「あぁ。ウォルヴァンシアに帰るか、この場所で暮らすか、それを決めるのは、お前が全ての記憶を取り戻したその時だ」

 記憶……、私が、まだ思い出せていない、野良犬になる前の、記憶。
 興味がないわけじゃない。自分がどんな風に生きてきて、あの場所で目を覚ます事になったのか、気にはなっている。だけど、それを思い出した時、『私』は、自分自身のままでいられるのだろうか。最終的には私の意志でいるべき場所を決めていいと言われているけれど、胸の中にある不安の揺らめきは消えない。

「はい、お待ちどうさま~! レオン特製朝食用オムライス~!! 量は調整してあるから軽く食べられるわよ~。ふあぁぁぁ、あぁ、ほらほら、キャンディも今日からは一緒の席で食べるのよ~」

「御主人様……、私、私っ」

 それぞれの席へと着いた三人と私の前に置かれていく、美味しそうなふわとろのオムライス。
 昨日までは専用の餌皿に犬用の食事を用意して貰って床で食べていたけれど、今日からは違う……。人間と同じ物を使って、人の身体で食事をする。
 そんな事やったこともないのに、私の手は自然な動作でスプーンを掴み、温かいスープを掬ってみせた。零さずに口に含むと、何だかその味が、今こうやって人の姿で食事をしている事が、とても懐かしく感じられる。
 自分は人の食事の仕方を知っているのだ。誰かと席を一緒にして美味しい料理を味わった事が、何度もある……、そう、感じられる今の状況。
 犬の姿が私にとっての本物だったなら、こんな風に器用な動きを出来るわけがない。

「私……、本当は、人、だったんですね」

「キャンディ……。あぁもうっ、泣いちゃ駄目よ~。どんな姿になっても、貴女は私の可愛いキャンディなんだからっ。ね?」

「御主人様……っ、うぅっ。御主人様~!!」

 犬の姿でなくても、御主人様は私をキャンディと呼んでくれる。拒んだりしない。
 それがとても嬉しくて、私は席を立ちあがり、向かいの席に座っている御主人様の許に駆け寄った。犬の時にそうしていたように、御主人様の首にしがみついて擦り寄る。
 そんな私を御主人様はよしよしと頭を撫でて、いつも通りの接し方をしてくれた。
 優しい、優しい、大好きな、この世で唯ひとりの愛する御主人様。
 その触れ合いに心底から幸せを感じていると、――突然、向かいの席で恐ろしい音が走った。

「あ、あの……、ど、どうしたん、です、か?」

 静かに朝食を食べていたはずのアレクさん達が、私達の方を怖いぐらいの視線で睨みつけながら……、その手にあるマグカップに大きな亀裂を走らせている。
 ガタガタと小刻みに震える三人の身体、視線に籠っている殺気は、私ではなく御主人様に向かっているようだ。

「ご、御主人様を睨まないでください!! な、何かしたら、絶対に許しませんからね!!」

 御主人様を庇う為に両手を広げて向かいの席の三人を威嚇すると、何故だか物凄く悲しそうな顔をされてしまった。アレクさんなど、今にも泣きだしそうに顔を辛そうに歪めている。
 あるはずのない、しょぼんと力なく垂れた犬耳と尻尾が見える気が……っ。
 だけど、それに絆されたりはしない。御主人様は私の大切な人なんだから!!

「ユキ……っ」

「アレク、あまり気落ちするな。今のユキに記憶はない。自分を拾った者が絶対的な存在になるのは当たり前の事だ。耐えろ」

「そういうテメェも、ユキと王弟野郎のじゃれ合いにブラック・オーラ出しまくりじゃねぇか!!」

「気のせいだ」

 確かに、カインさんがずびしっ!! と、指をさして指摘した通り、三人の中で一番怖い気配を放っているのはルイヴェルさんだ。今にもそのゆらりゆらりと全身から立ち昇る黒い気配が、私の御主人様に襲い掛かってきそうな勢いを醸し出している。
 三人がどうしてそんな風に、御主人様に敵意を放っているのか……、本当に謎だ。
 
「キャンディ、そろそろ席に戻りなさい。不安もあるでしょうけど、ゆっくりとでいいから、この人達の話を聞いてあげなさいな?」

「は、はい……」

 敵意を向けられても笑みを崩さない御主人様に宥められ、私は朝食の席で三人からの説明を聞く事になった。あまりにも信じ難い、野良犬となる前の自分……、それを他人事だと、馬鹿馬鹿しいつくり話だと、そう、一蹴する事も出来ずに。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ええ~!? きゃ、キャンディ!? お師匠!! この子がキャンディって、本当!?」

「はいはい、驚く気持ちはわかるけど、ふあぁぁぁ……、とりあえず、落ち着きなさい、ね?」

 朝食の席を終えた後、アレクさん達は一度宿屋の方へと帰って行った。
 その後、二時間くらいして、レアンティーヌがやって来たのだけど……。
予想通り、私の変り果てた姿を見て驚いてしまった。
そりゃあ、昨日まで犬だったものが人になってしまったのだ。普通に考えて驚くのは当たり前。
困惑しながらも私の身体をぺたぺたと触りまくり、御主人様の説明を聞いているのかいないのか、彼女は突然、ポンっと、何かを思いついたようにその握り拳を手のひらで弾ませた。

「ねぇ、お師匠~。これからキャンディと遊びに行ってもいいかな?」

「れ、レアンティーヌ?」

 急に何を言い出すのだろうか。驚きつつも、姿の変わり果てた私の存在をすんなりと受け入れたレアンティーヌは、私を外に連れ出そうとしている。
 一応、ルイヴェルさんが外用の服を何着か置いて行ってくれたから、外に出ても問題はないのだけど……。急に沢山の人混みの中に行く勇気は、ちょっと。

「日用品とか、キャンディには色々と必要だろ? だから、一緒に選びに行こう!! 大丈夫大丈夫、アタシがバッチリ、キャンディの事を守ってやるからさ!!」

「で、でも……」

 御主人様に助けを求めてみたけれど、にっこりと「いいんじゃない? 二人で楽しんでらっしゃいよ」と、逆に送り出されてしまう始末……。
 昨日までの私だったら、レアンティーヌの腕に抱かれて外に出る事を喜んだかもしれないけれど、今の私は違う。柔らかな長い黒髪が躍る、ブラウンの瞳を抱く少女の姿だ。
 これが本物の姿だと説明された今でも、やっぱりどこか落ち着かないのは、記憶がないせいなのだろう。人として王都の街中に繰り出す事が、とても不安に感じられる。

「大丈夫よ、キャンディ。レアンが貴女の傍にいる。ふあぁぁ……、だから、勇気を出して、お買い物を楽しんでいらっしゃい」

「御主人様……」

 御主人様がくれる、「大丈夫」という、不安を宥める魔法の言葉。
 それは、拾われてからというもの、私にとっては縋るように優しい音で……、孤独の狭間から救い出してくれた、私の心を包み込む温かなもの。
 その絶対の言葉に、私の心の奥で震えていた不安が止んだ。
 一人で行くわけじゃない。傍にはレアンティーヌがいてくれる。
 怖いものなんて何もないのだから、気を楽に人の姿で出来る事を楽しんでいらっしゃいと、そう言ってくれる御主人様に頷いた私は、勇気を抱いて王都巡りに繰り出す事にした。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ねぇねぇ、キャンディ。せっかく人の姿になれたんだから、お祭りの日は王宮にもおいでよ」

「王宮……? レアンティーヌのお家?」

「そう。王宮の大神殿でね、今年初めて父上からお役目を貰ったんだ! 女神フェルシアナ様に捧げる獅貴族の巫女としての役目なんだけど、大詠唱歌の祈りと一緒に舞を躍って、フェルシアナ様をこの身に降ろせるんだよ!!」

 神様を、自分の身体に……、降ろす?
 獅貴族では毎年、この時期になると祝祭の日をお祭りの最終日とし、数日間に渡って盛大な催し物と共に楽しい時を過ごす、というのは、昨日聞いていたけれど。
 神様をその身に降ろすというのは初耳だった。それも、レアンティーヌがその役割を任じられるなんて、友達として、とても誇らしい気分だ。

「毎年、踊りの練習を頑張ってたんだけどね。なかなか父上のおめがねに叶わなくてさ~。ようやく、だよ。ふふ、楽しみだなぁ」

「良かったね、レアンティーヌ。私、絶対に見に行くから」

「うん!! キャンディの為に最前列の席を用意しておくよ!!」

 大切な友達の晴れ舞台。それを、一番近くで見られる約束を貰えるなんて、まるで夢を見ているかのようだ。それに、彼女と私の距離がとても近くなった気がする。
 人と犬という関係の時は、こんな風に女の子同士の会話なんて楽しめなくて……。

「ふふ……、でも不思議だなぁ。キャンディが犬の時は、私が喋ってるばっかりで、今みたいにその声が聴けなかったからさ」

「レアンティーヌ……」

「レアンでいいよ。あ~、でも、キャンディの事、なんて呼ぶべきなのかなぁ。ユキっていうのが本当の名前とか聞いたけど、……うん、やっぱり私にとっては、キャンディだ。ね? キャンディ」

 私が、自分を迎えに来た三人の存在に戸惑っている事や、忘れている記憶に不安を覚えている事、御主人様の話を聞き流しているようにも見えていたけれど、レアンはちゃんと私の気持ちをわかってくれていたのだろう。たとえ、『ユキ』という名前が本物であったとしても、私がキャンディでいたい事を、わかってくれている。
 ゼクレシアウォードの王都を二人で仲良く歩きながら、私の手を引いてくれるレアン。
 あぁ、女友達というのはこんな感覚なのだろうかと、気持ちと一緒に心が和んでいく。

「ありがとう、レアン」

 私の事を、キャンディとして見てくれて……。
 繋ぎ合っている温もりが、私を優しい眼差しで、心から受け入れてくれる温かな笑顔が、御主人様と同じように、今の私を救ってくれている。
 いつか取り戻すかもしれない『記憶』。もし、……その時が訪れたとしても、どうか神様。

(御主人様とレアンの存在を、私から取り上げないで……)

 アレクさん達の言っている事が正しければ、元の記憶を取り戻した際、今の記憶を……、キャンディとしての自分を覚えていられるのか、それも不安のひとつ。
 元の、ウォルヴァンシアの王兄姫、『ユキ』という女の子に戻った時、どうか……、『キャンディ』としての私が消えませんように。それが、今の私の、切なる願いとなっている。

「うわっ!!」

「れ、レアンっ、大丈夫?」

 前を行くレアンが雑貨屋さんらしきお店に入ろうとした瞬間、中から出てきた一人の男性が彼女とぶつかってしまった。
 後ろに弾かれそうになったレアンを、男性がその腕をまわし体勢を立て直させてくれる。

「あ~、ごめんねぇ? 大丈夫?」

「うぅっ、……ご、ごめん。前をよく見てなかったよ」

 レアンとぶつかってしまったのは、……四十代前半程に見える、少しだらしのない着こなしをした、不精髭の男性。愛想の良い物言いでレアンを気遣ってはいるけれど、……、その目が、全く温かさを湛えていない。

(この感じ……、前にも、どこかで)

 そうだ。昨日出会った女の子に感じたものと似ているのだ。
 胸の奥を掻き回す、黒い染みを滲ませていく奇妙な不安感。
 それを、この男性からも感じている自分……。
 そして、不精髭の男性の後ろから現れた豪奢な金髪の女の子が、悪意のない無邪気な笑顔で前に出てきた瞬間、私はさらなる恐怖の感覚に鼓動を鷲掴まれた。

「もうっ、ヴァルドナーツったら、駄目じゃありませんの。ちゃんと前を見なくては」

 昨日の女の子だ。さっきまではこの男性の陰に隠れていて見えなかったけれど、間違いなく、昨日出会った女の子。保護者と思われる不精髭の男性を、ヴァルドナーツと呼んだ、その愛らしい囀り。ヴァルド、ナーツ……。その名を、どこかで聞いた事があると思えるのは、忘れている記憶のせいだろうか。

「……あら? まぁまぁまぁ!! お姉さまじゃありませんの!!」

「え……」

 ヴァルドナーツと呼ばれた男性にお説教をしていた少女が、私をその美しいアメジストに映し込んだ瞬間、歓喜の声を上げた。
 レアンの後ろにいる私へと両手を広げて飛びついてくると、すりすりと懐いてくる。
 な、何なの……? まさか、この子も記憶を失う前の私と、どこかで会った事が?
 だけど、アレクさん達とはまるで違うこの感じは……、本能的な警鐘となって私に逃げろと訴えかけてくる。
 だけど、こんな小さな女の子に……、何の危険があるというのか。

「お姉さまっ、お姉さまっ、こんな場所で会えるなんて、ああっ、この喜びをどうやって表しましょうかっ」

「あ、あの……」

 引っ付いて離れない女の子に戸惑っていると、レアンを気遣っていたヴァルドナーツさんが、私の方に一歩近づいてきた。暗く淀みのある視線と共に、私の腕を掴む。
 力を籠められているわけではないのに、どうしてこんなに強い不安感が全身を包んでいくのだろうか。早く、早く、この二人から離れないと。

「ウォルヴァンシアのお姫様と、こんな所で会うとはね~……。観光か何かかな?」

「は、離して……、くだ、さいっ」

「ん? ……君、髪の色が前と違うねぇ。イメチェンでもしたのかな?」

「あ……、あぁ、あ、あの」

 急激に呼吸が忙しなくなっていき、私は吐き気のするような感覚に陥ってしまう。
 ずるずると地面に崩れ落ち、ヴァルドナーツさんが怪訝な目をしながら手を放す。
 金髪の少女も、私の異変に気付いたのか、地面に私が座り込む前に離れてくれた。

「ちょっ、大丈夫!? キャンディ!!」

「「キャンディ?」」

 熱い、獅貴族の王都に敷き詰められている石畳み。
 その感触さえ気にならない程、今の私は何かがおかしくなっている。
 傍に膝を着き気遣ってくれるレアンが私の名を呼びながら背中を擦ってくれていると、ヴァルドナーツさんと金髪の少女が声を揃えて疑問に満ちた音を重ねた。
 まるで、レアンに何を言っているのだと問いたそうに。

「お姉さまのお名前は……、ユキ、でしたわよねぇ?」

「……」

 まただ。この人達も、私の事をユキと呼んでくる。
 見も知らないウォルヴァンシアのお姫様。それが……、私なのだと。
 道に座り込んでいる私を、道行く人達が視線を寄越しながら通り過ぎていく。
 他の人達は私の事なんか知らないのに、目の前で立ち尽くしている男性と少女は、確実に私を知っている眼差しで見下ろしてくる。キャンディではなく、……『ユキ』を見ている。

「わた、し、は……、キャンディ、です。ユキなんて……、知ら、ないっ」

「キャンディ……」

 息を乱しながら、レアンに支えられ立ちあがる私に、ヴァルドナーツさんと金髪の女の子はその目を見開いて、――笑った。
 笑った、というよりも、嗤った、の方が正しいのかもしれない。
 レアンの手から私を受け取るように支えたヴァルドナーツさんが、有無を言う暇も与えずに私をその腕に抱きかかえてしまう。

「な、何をするんですか!!」

「いやぁ~? 具合が悪そうだし、どこか休める場所に連れて行ってあげようと思ってね~」

「ふふ、今のお姉さまなら、私と楽しくお話してくれそうですものね~」

 レアンが止めるのも聞かず、ヴァルドナーツさんと金髪の少女は私をどこかに連れて行こうとする。その存在が近くにあるだけで、こうやって触れられているだけで、どうしようもない恐怖が身を包んでしまうというのに、これ以上なんてっ。
 弱々しくしか抵抗出来ない自分を歯がゆく思いながら、下ろしてほしいと懇願する。
 レアンも私を助け出そうとその武術の腕を揮おうとしたけれど、ヴァルドナーツさんは視線ひとつで彼女をその場に抑え込み……。

「可愛らしい獅貴族のお姫様。君の相手は……、まだ、もう少し先なんだよ。ごめんね? 俺としては、早く君と遊びたいんだけどねぇ」

「うっ……、何なんだ、アンタ……っ」

「レアンっ!!」

 レアンを残し、その場を去ろうとしたヴァルドナーツさんと女の子だったけど、私はそれに抗った。このまま連れて行かれるわけにはいかない。この人達と一緒に行ったら、大変な事が起きる。
 そう予感した私は、胸の奥から全身へと急速に広がり始めた熱い感覚と共に、自分の右手をヴァルドナーツさんの顔へと押し付けた。
 直後、全身から右手へと集まった何か強い感覚が溢れ出すように、三色が美しい光が混じり合い、ヴァルドナーツさんを大きく向こう側へと吹き飛ばしてしまう。
 どすんっと地面に落ちてしまった私は、ふらふらと立ち上がり、ヴァルドナーツさんへと駆け寄っていく金髪の少女とその姿を見据えた。

「……『私』に、触れないで。負の力に侵された……、哀れな子供達」

 今のは……、私? 口が勝手に、ヴァルドナーツさん達を拒む言葉を向けている。
 それは、完全な拒絶でもあったけれど、どこか哀れんでいるような、寂しげな音だった。
 負の力に侵された、哀れな子供……。今の私には、それが何を意味しているのか、まるでわからない。だけど、早くこの場を離れなければならない事だけは、絶対的な本能の警鐘だ。

「「「ユキ!!」」」

 口元に滲んだ血を拭い、私の方を冷たい目で睨んできたヴァルドナーツさんだったけど、何かを言おうとするその前に、別の声が人波を割って現れた。
 騒ぐ人々の声が意識の遠くに聞こえているのに、その三人の声だけは、私の意識を強く揺さぶってくる。私の前に盾となるように立ってくれたのは……。

「アレク……、さん。ルイヴェル……さん、それに、カイン、さん、も……」

 宿屋に戻ったはずの三人が、私をその背に庇い、ヴァルドナーツさんと金髪の少女に対峙してくれている。だけど……。私はアレクさんとルイヴェルさんの隙間から前に出ると、自分の意思なのか、そうでないのかわからない感覚に支配されながら、ヴァルドナーツさんと少女に声をかけた。

「今ならまだ、『戻る』事が出来ます……。『その力』を、どうか手放してはくれませんか?」

「……さぁ、何の事だろうねぇ。前に会った時とは色々と違うようだけど。君、本当にウォルヴァンシアのお姫様かな?」

「お姉さま……、何を言ってらっしゃいますの?」

 さっき、私の中で本能の警鐘を鳴らし怖がっていたのは、別の私。
 だけど、今喋っている『私』は、それとはまた違う、別の存在……。
 ううん、そうじゃない……。何かが徐々にひとつの存在となって溶け合うかのように、完成された何かへの目覚めを感じさせるかのような。

「ルイ……、ユキの、神としての力が、存在が、表に出ている」

「……神、か」

 私を自分達の後ろに下げようとするアレクさんが、小声でルイヴェルさんに何かを言っている。
 神様の……、力。また意味のわからない言葉が出てきた。
 ルイヴェルさんは私の顔を見下ろすと、目の前に手を翳し……。

「暫くの間、眠っていろ……。アイツらの相手は俺達がやっておく」

 ふらりと傾く自分の身体、それを支えてくれたのは、心配そうな気配で私を抱き締めてくれたアレクさんだった。
 だけど、瞼が閉じるその寸前……、私の心の中で強く叫んでいたのは、ヴァルドナーツさんと金髪の少女を心配し、助けたいと願う自分の思い。
 何故そんな事を願っていたのか、思考を闇に溶かした酷い眠気が……、全てを攫っていく。
 まだ、言いたい事があるのに、言わなくてはならない事があるのに、まだ、駄目、なのに。
しおりを挟む

処理中です...