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第五章・アレク×幸希編~蒼銀の誓いと咲き誇る騎士の花~

悲しみを抱く神の目覚め

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 狼王族の地を抱く、天上の大海原。
 迷いの色を持たぬその大空を見上げながら、――男は静かにその目を細めた。
 彼が立っている崖の周囲には誰の気配もなく、まるで世界を独り占めしているかのような特等席。
 彼自身も、穏やかな時の流れと共にこの世界を感じながら過ごす事は好きだ。
 天上の神々が寵愛し、そして、必死に守ろうとしているこの世界、――エリュセード。
 地に芽吹いた生命(いのち)は、永き時の流れを経ても、まだ、在り続けてくれている。
 神々が創り出した数多の世界、その全てが彼らにとって大切な子供であり、いつまでも幸福にと願う対象だが、残念な事に、滅んだ世界も数多くあった。
 理由は多々あれど、このエリュセードは何度かに渡る危機を乗り越え、生き延びてくれている。
 叶う事ならば、このまま……。

「幸福の地として……、永久(とわ)に」

 そう言葉を零した男は、思ったよりも寂しげに聞こえた自身の音に、小さな自嘲の笑みを纏う。
 自分は、何を願う事も、許されはしない。男は心からずっと……、そう思いながら生きてきた。
 犯した罪の重さと、生み出した罪の大きさ。贖いたくも、それはあまりに遅すぎて……。
 心の奥に留まっている澱を拭い去ろうとするかのように流れてくる風を感じながら、男は後悔に苛まれた息を零す。
 どんなに美しい景色を、この世界を見ようと、母なる優しい風に抱かれようと、決して消えない罪。
 崖の先端に立った男は眼下に広がる深緑と、その先に見える、――ウォルヴァンシア王国の王都を眺めたその後に、地を蹴った。
 遥か頭上に広がる青を視界いっぱいに映しながら仰向けに落ちていく男は、その右手を上に向かって伸ばす。

「すまない……」

 直後、男の身体は光に包まれ……。
 それはやがて、大きな漆黒の影となって、ウォルヴァンシアの空(あお)に溶けていった。








 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 ――Side 幸希


「ま、禍々しい……!!」

 ウォルヴァンシア王国に帰還し、駆け付けた先であげた第一声がこれだった。
 爽やかな陽光が照らし出す王宮の廊下を辿って来たはずなのに、お目当ての一室からはわかりやすい程に禍々しい力……、いや、怒りの気配が漏れ出している。
 それを発しているのが『誰』なのか……、考える必要はない。
 
「ま、まだ、目覚めてはいない……、んです、よね? ルイヴェルさん」

「そのはずだがな。大方、覚醒の邪魔をするなと反撃に出てきたんじゃないか?」

「は、反撃……。う~ん、やっぱり、予想通り、ですね」

 扉の向こう、レイフィード叔父さんが休んでいるその部屋から伝わってくる気配は、全身に棘を刺されるかのように殺気じみている。
 それが誰に向けてのものなのか、……やはり、考えるまでもない。

「アレクさん、ルイヴェルさん、ここに……、いえ、出来るだけ遠くに逃げてください」

「「……」」

 ゆっくりと背後の二人に振り返り、ちょいっと廊下の向こうに指を向けると、物言いたげな無言の気配が返ってきた。
 主にその気配が強いのはアレクさんで、ルイヴェルさんの方はやれやれと諦め気味の体(てい)だ。
 
「少しでも穏便に済ませる為です。わかってください」

「ユキ……」

「アレク、行くぞ。この場に残れば、ユキの足を引っ張る事になる」

「ルイ……、だが」

 私の件に関して、その罪を抱え続けてきたアレクさんは、覚醒を遂げた後のレイフィード叔父さんから逃げるような真似はしたくないのだろう。
 たとえそれが憎悪でも、この人は真正面から受け止める覚悟を持っている。
 でも、どうか今は……、大人しく引いてほしい。
 重ねて頭を下げていると、何か言おうとしたアレクさんの首根っこを掴んだルイヴェルさんが、強制連行に入った。

「許しを請いたければ、ユキが陛下と話をした後にしろ。行くぞ」

「る、ルイっ、ぐ、ぐるしっ、うぅっ」

 ずるずると来た道を戻って行く二人を見送って、私は扉に向き直る。
 この向こうに待つのは、――私の大切な『家族』。
 遠い昔に、私のせいで……、深い傷を負った神(ひと)。
 レイフィード・ウォルヴァンシアとして生きてきた今が、過去の記憶に、傷と憎悪に塗り潰されてしまわぬように、私は心を尽くして向き合わなくてはならない。
 金色のノブの片方に手を添え、意を決してそれをまわす。

「レイフィード叔父さん!! ユキ・ウォルヴァンシア、只今戻りました!!」

 部屋の中に飛び込み、すぐに扉を閉める。
 予想通り、レイフィード叔父さんの部屋の中には神の力がルイヴェルさんの施した術を壊そうと蛇のようにその光を荒ぶらせていた。
 
「お帰りなさいませ、ユキ姫様。愚息の指示通り、特に手を出す事はせずにおいたのですが、本当によろしかったのでしょうか?」

「は、はいっ。下手に手を出してしまうと、レゼノスおじ様に被害が出るかもしれませんし、あとは私に任せてください」

 神の心が負に染まる時、その力を表す光は禍々しい闇に染まる。
 それは、怒りの感情が度を越し、強い憎悪に囚われた時にも……。
 薄い霧のように真っ黒なそれと、ルイヴェルさんの力である緑銀の光が拮抗している。
 その中に、現・フェリデロード家の当主であるレゼノスおじ様が平然と立っていられたのは、レイフィード叔父さんの力の矛先が、ルイヴェルさんの力にだけ向いているから。
 強い力を抱く神は、導きを受けなければ、覚醒時に暴発を引き起こしかねない。
 反対に、力の弱い神は、覚醒しても被害はないも同然。
 それが、このエリュセードを見守る神々の覚醒に関する事情だけど……、ある特定の神々に至っては、これが適用されない事がある。
 例をあげれば、ゼクレシアウォード王国で再会した、獅貴花の女神。
 そして、被害を出さずに覚醒した私と……、今、ベッドで眠りに就いているレイフィード叔父さん。
 通常であれば、私達は覚醒しても地上に被害を出す事はない。
 けれど、レイフィード叔父さんが覚醒後、自分の意思で誰かに敵意や殺意を向けた場合は別。
 だからこそ、アレクさんとルイヴェルさんを遠くに逃がしたのだ。

「レイフィード叔父さん……、お兄様」

 ベッドへと近づき、私はルイヴェルさんの施した術を教えられた通りに解いていく。
 その目覚めが、どうか穏やかなものとなるように……、願いを込めながら。
 レイフィード叔父さんの右手を両手の温もりに包み込んだまま、語りかける。

「お兄様、どうかあの二人を恨まないでください……。あれは、あの時の事は、私の罪。アヴェルオード様達は悪くないんです」

 神々の世界で、ずっと私の傍にいてくれた神(ひと)。
 その深い愛情の全てで、私を守り、導いてくれていた、愛する家族。
 レイフィード叔父さんの、お兄様の心に消えない傷を刻み付けたのは妹の私。
 『逃げ』を選んだ、この罪深い心を……、どうか叱ってください、お兄様。

「お兄様……」

 レゼノスおじ様の見守る中、やがてルイヴェルさんの施した術は完全に効力を失い、覚醒の時が訪れた。
 ゆっくりと……、閉じられていたレイフィード叔父さんの瞼が開く。

「……ユ、キ、ちゃん」

 眠り続けていたせいか、少し掠れた低い音が、私の名を呼んだ。
 ぼぉ~っと……、暫くの間は夢現の状態で時折目を瞬きながら小さな音を漏らしていたレイフィード叔父さんだったけれど、やがて、その双眸に確かな光が宿った。
 とてもわかりやすい、強い怒りの感情……、いや、永い時を経ても消えなかった憎悪なのだと悟る。
 レイフィード叔父さん、とは呼ばず、昔のように懐かしい音で呼びかけてみた。

「お兄様、ご気分はどうですか?」

「ユキちゃん……、僕、は……」

 辛そうに上半身を起こすレイフィード叔父さんを支えながら、その背の後ろにクッションを挟む。
 私を見るそのブラウンの瞳には、徐々に今と過去の狭間で自分自身と闘い始める気配が見えた。
 アレクさんとルイヴェルさんを子供のように、弟のように情をかけてきたレイフィード叔父さんとしての感情と、妹である私が眠るきっかけを作った二人への憎悪。
 それが鬩(せめ)ぎあっているのだ。

「ユキ姫様、陛下に水を」

「ありがとうございます。お兄様、喉が渇いているでしょう? さぁ」

「ん……、――はぁ、有難う」

 大丈夫、突然爆発したりするような激情は、レイフィード叔父さんとしての存在が抑え込んでくれている。話せばわかってくれる、大丈夫、大丈夫。
 ゆっくりと水を喉の奥に流し込み、レイフィード叔父さんは、ふぅ、と息を吐いた。

「そういう事、か……」

 ここではないどこか……。恐らくは、私が眠りに就いたあの日に、レイフィード叔父さんは意識を向けているのだろう。
 困惑と葛藤を抱くその瞳から、静かな涙が頬を伝うのが見える。

「レゼノス、アレクとルイヴェルを……、呼んでくれるかい?」

「ちょ、ちょっと待ってください!! まずは私の話を!!」

「君の話もちゃんと聞いてあげるから、今は僕のお願いを聞いてくれるかな? ねぇ、――ユキ」

「うっ……」

 叔父としてではなく、一人の兄として……、昔の音で私の名を呼ぶと、レイフィード叔父さんは微笑みながら静かに圧力をかけてきた。背後に真っ黒な、いや、ドス黒いオーラが見える!!
 一度ちらりと私に同情を込めた視線を落としてきたレゼノスおじ様が、僅かな沈黙の後に「御意」と礼をとった。
 
「お、お願いしますから、顔を合わせた瞬間に襲いかかるとか、そういうのは絶対に、絶対に!!」

 そう、微笑んだままのレイフィード叔父さんの腕に縋りながら必死に懇願していた私の切なる願いは……。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ぜ、全然喋らない……っ」

 レイフィード叔父さんの目に入らない場所に逃げて貰ったはずの二人が戻って来てから早三十分ほど……。廊下に出ていた私とレゼノスおじ様は、扉に耳を当てて中の様子を探り続けていた。
 顔を合わせた瞬間に部屋が吹き飛ぶ想像をしていたけれど、幸いな事に……、まだ、何も起きていない。
 扉の向こうからは何の音も聞こえず、ただ静寂の気配だけが伝わってくるだけ。

「や、やっぱり、私も中に……っ」

「おやめになった方がよろしいかと。陛下は、三人だけで話したいと仰せになられておりました」

「で、でもですねっ、あの三人は、神様時代に物凄い因縁がありましてっ、下手をしたら、このウォルヴァンシア王宮がボロッボロになる可能性もっ」

「落ち着かれてください、ユキ姫様。たとえ神としての覚醒を遂げられようと、レイフィード陛下という存在が消え去るわけではないと、息子からはそう聞き及んでおります」

 神様としての自分も、今を生きている自分も、どちらも同じ存在。
 それに変わりはないわけだけど……、でもやっぱり、中の静まり返っている気配が恐ろしい事の前兆に思えて仕方がない!!
 けれど、レゼノスおじ様は普段通り冷静そのもので、あまり中の様子を心配はしていないようだった。自分の息子さんが中にいるのに、この落ち着き様……、流石はレゼノスおじ様。
 滅多に動じる事のないレゼノスおじ様は、息子さんであるルイヴェルさんが神だとわかっても、やっぱり対応は変わっていないようで、三十分前にも普通に親子として言葉を交わしていた。

「陛下は、愛する者達が暮らすこの場所を、決して己の手で壊したりはいたしません。臣下として、また、昔からの友として、私はその事実を知っています」

「レゼノスおじ様……」

「どうかご安心を。たとえ何か事が起こったとしても、息子がどうにかするでしょう」

「……はい」

 扉から離れた私は、少しだけ薄らぎはしたものの、まだ胸に残る不安と共に、その場を後にした。
 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
 
「セレスフィーナ、邪魔するぞ」

「あら、お父様。陛下の方は……、よろしいのですか?」

「ルイヴェルとアレクに任せてある。私とユキ姫様に茶を頼む」

 ルイヴェルさんとよく似たレゼノスおじ様の背中を見つめながら歩いていると、やがて辿り着いたのは、――久しぶりの王宮医務室。
 書類仕事に向かっていたセレスフィーナさんが白衣を翻し出迎えてくれると、私の前で王族に対する礼をとり、その柔らかな眩い笑顔を向けてくれた。

「ユキ姫様、お帰りなさいませ。御無事で……、本当に良うございました」

「ご心配をおかけしてしまって、本当にすみませんでした。それと、ただいま戻りました、セレスフィーナさん」

 ふわりと甘い香りが漂ったかと思うと、私なんかよりもずっと女神と呼ばれるに相応しいセレスフィーナさんの腕の中に、私は抱き締められていた。
 王宮医務室の窓から差し込んでくる暖かな日差しが、さらりと流れ落ちる彼女の黄金の髪をさらに眩く輝かせている。
 幼い頃に、セレスおねえちゃんと呼び慕っていたあの時の流れが戻って来たかのように、心地よい温もり。
 その優しい感触に身を委ねた後、私はレゼノスおじ様と一緒にソファーへと招かれた。
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