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第二章『竜呪』~漆黒の嵐来たれり、ウォルヴァンシア~

解き放たれし竜の皇子

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 強大な魔力の奔流を宿した激しい光の渦が、容赦なく禁呪を呑み込んでいく。
 それと同時に生じる、大きく唸るような轟音と、私達の周辺一帯を恐ろしい程に震わせる震動。
 目も開けていられない程の眩しさを感じた私の目の前に、アレクさんが飛び込んで来た。
 光に背を向け、私の身体を強く庇うように抱き締めてくれる優しい温もり……。
 カインさんの状況を確認する余裕もなく瞼をきつく閉じていると、――不意に、不自然な静寂が私の感覚を満たした。

「……え」

 確かに、セレスフィーナさんとルイヴェルさんが発動させた術の奔流を目の当たりにしていたはずなのに、突然生じた変化に恐る恐る瞼を押し開けると……。
 淡い光に自分の身体が縁取られ、一面真っ暗な闇の中に座り込んでいた。
 何の音もなく、光も、暗がりの中に見えていた山の風景さえ……、存在しない世界。
 一体何が起きたというのだろうか……。
 そんな状況の中でもパニックにならずに済んだのは、私を抱くアレクさんの温もりがすぐ傍に在ったから。
 
「大丈夫か? ユキ」

「は、はい……」

 アレクさんも私と同じように、その身体の輪郭を淡い光に縁取られている。
 世界が変わってしまったかのような現象に首を傾げていると、アレクさんの背後から、レイフィード叔父さんの声が聞こえた。

「ユキちゃん、ごめんね。ちょっと外の状態が酷い事になっているから、僕達の周りだけ空間を分離する結界を行使してるんだよ」

「空間を……、分離?」

 私の傍に歩み寄り、膝を折ったレイフィード叔父さんもまた、その輪郭を光に縁取られている。
 そして、促されて周囲を見回してみれば、同じ状態の皆さんの姿があった。
 カインさん以外……、全員が無事な姿で私の周りに立っている。
 ほっと安心の心地に浸っていると、レイフィード叔父さんが別方向を向いて手招きをした。
 セレスフィーナさんとルイヴェルさんが、ゆっくりとこっちに歩み寄ってくる。

「セレスフィーナ、ルイヴェル……。僕が何を言いたいか、わかるかな?」

 苦笑混じりに、少しだけ冗談めいた咎める言葉をお二人に向けたレイフィード叔父さんに、セレスフィーナさんが申し訳なさそうな顔で頭を下げる。

「申し訳ございません……。少々、……箍(たが)が外れてしまいまして」

 そう小さく謝るセレスフィーナさんとは反対に、ルイヴェルさんの方は動揺のない普段通りの冷静な表情で結界の外に意識を向けるように口を開く。

「ですが、あれだけやっておけば、禁呪もひとたまりもないでしょう。今頃は、カイン自身が術によって自由を取り戻し、禁呪を闇に沈めている頃かと」

「それはそうなんだけどねぇ……。はぁ、……カインがこっちに戻ってきたら、物凄く怒られると思うよ?」

「望むところです」

 涼しい顔でそう答えたルイヴェルさんは、どこか楽しそうな笑みを浮かべていた。
 カインさんが無事に戻ってくる事を、信じているのだろう。
 レイフィード叔父さんが眉間を困ったように指先で揉み解しながら、やれやれと肩を竦めてしまう。

「まったく……、君はお姉さんの事が大好きだから、つい協力しちゃうんだよねぇ」

「申し訳ありません」

「仲良しなのは良い事だけどね……、まぁ、いいか。今回は特別に大目に見よう。何はともあれ、これで形勢は逆転した。……二人とも、よくやったね」

 お二人の頭を、幼い子供を褒めるかのように優しく撫でたレイフィード叔父さんが、にっこりと微笑む。セレスフィーナさんの頬が、熟した赤い果実のように染まっていく。
 ルイヴェルさんの方も、彼女ほどではないけれど、薄らとだけ頬を染め、眼鏡の奥の深緑の双眸を逸らすのが見えた。
 大人の男性と女性だけど、レイフィード叔父さんの前では、どこか印象が幼くなるように感じられるのがまた微笑ましく映る。

「レイフィード、……終わったようだよ」

「おや、意外と早かったですね。じゃあ……、結界を解くとしましょうか」

 外の様子を読み取ったらしいお父さんに振り返り、レイフィード叔父さんの短い言葉によって闇が引き始めた。
 鬱蒼とした山の中の風景と、足元に広がる暗緑の湖面にも似た湿った匂いのする草地。
 あれだけの凄まじい轟音と光の大洪水と震動を与えられた世界は、術が発動する前と変わらずそこに在った。けれど、瘴気の獣達の姿もなくなっている事から考えて、物質的な被害をもたらすものではなかったのだろうと察した。

「か、カインさんは……」

 アレクさんの手を借りて立ち上がると、私はカインさんの姿を求めて視界の中に探した。
 お二人の術が発動し、それが終わったという事は、禁呪の支配から解放されたカインさんの姿があるはず。焦るように彷徨わせた視線の先に、……倒れこんでいる影が見えた!
 
「カインさん!!」

 崖の手前付近。俯せに倒れ込んでいるカインさんの姿を見つけた私は、重い疲労感に苛まれる身体をどうにか前へと動かそうと身を乗り出す。
 
「まだ、確認が出来るまでは行かない方がいい」

「アレクさん……、でも」

 私の進路を阻み、その優しい腕の中に引き寄せたアレクさんが、カインさんの方を剣呑な眼差しで見つめながら警戒を促してくる。
 カインさんが無事に自分の身体の主導権を取り戻せたかどうか、それを確かめなくてならない。
 伏せられた顔から、くぐもった呻き声が小さく聞こえてきた事に気付くと、その身体が……、ゆっくりと、起き上がっていく。

「……ってぇ、クソッ」

 どっちなの? 禁呪? それとも、本物のカインさん?
 早く真偽を確かめたくて、私は緊張の息を呑み込みながら前方をしっかりと見据える。

「おい、ルイヴェル……っ、テメェ、覚悟は出来てんだろうなぁあああっ」

 名指しで呼ばれたルイヴェルさんの方を振り向けば、一切の動揺を感じさせない物腰で腕を組み、余裕に満ちた笑みを纏いながらカインさんを見据えている姿があった。
 これは……、もしかしなくても。

「無事に戻って来れたのだから問題はないだろう? それに、あの術があそこまで凶悪に変化したのは、セレス姉さんが」

「言い訳すんじゃねぇええええええ!! 姉貴の分までテメェが償えぇええええ!!」

 地を蹴ったその人、――正真正銘、本物のカインさんが、ルイヴェルさんの懐に飛び込んで来ると、その胸倉を掴み、右腕を振り上げた。
 だけど……。

「……クソッ」

 カインさんの身体が、急にルイヴェルさんの目の前で崩れ落ちる様子が見えたかと思うと、ルイヴェルさんがその力を失った身体を支えた。

「よく頑張ったな」

「うるせぇよ……。はぁ、この国にぶち込まれてから、酷ぇ目に遭ってばっかりだぜ」

「退屈しなくていいだろう?」

「……そう、だな」

「おかえり、と……、言っておこうか?」

「ふん……」

 ルイヴェルさんの手を借りて体勢を立て直したカインさんが、気怠い様子で私の方へと真紅の双眸を向けてくる。

「カインさん……、本物の……、貴方、なんですね?」

「ユキ……」

 ゆっくりと、私の方へと歩いて来るカインさんの方へ、私もアレクさんに支えられながら近づいていく。禁呪の支配から解放されたその身体。顔や衣服の破れた箇所から見える肌に這っていたおぞましい紋様も消えている……。
 その真紅の眼差しに、禁呪が浮かべていた狂気の気配はどこにもない。
 自分の血を術の一部として使った私も、それを放たれたカインさんも、お互いに酷い疲労感を堪えながら、地に足を着いている。
 
「世話……、かけたな」

「いえ……、無事に戻って来てくれて、良かったです。――おかえりなさい」

 手を伸ばし、カインさんの温もりを握り締めながら微笑み合えば、ようやく張り詰めていた緊張の糸がぷつりと途切れた。
 
「ユキっ、……大丈夫か? ルイ、セレス、頼む」

 アレクさんの言葉に頷いたセレスフィーナさんが私の傍に駆け付けると、短く詠唱を紡ぎ、淡い光をもって負担を軽減する為の術を行使してくれた。
 辛そうに息を繰り返しているカインさんにも、その身体を支えているルイヴェルさんが同じように術を。
 
「ユキ姫様、このようなご負担をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません……」

「いえ……、お二人のお蔭で、カインさんを……、取り戻せましたから。こちらの方こそ……、お礼を、言わせてください」

「勿体ないお言葉です。……先程の術により、カイン皇子の深淵に、禁呪は抑え込まれました。あとは、解呪を成せば、全てに決着がつきます」

 彼女の術により疲労感の和らいだ身体の感覚を感じながら、頷きを返す。
 これで、カインさんは禁呪の支配から完全に解放される。
 
「良かった……、ですね。カインさん」

「ユキ……、あぁ」

 事態の収束に心からの安堵を覚えた私は、心地よい眠りの気配が訪れるのを感じながら、霞み始めたカインさんの優しい表情を見つめながら……、瞼を下ろし始める。
 あとはもう、セレスフィーナさん達に任せておけば、きっと全て上手くいく。
 
「ユキ……」

 アレクさんの腕が、私をしっかりと抱き抱えようとしてくれる気配が伝わってくる。
 私の役目は、もう終わった……。次に目が覚めた時には、きっと以前のような平穏な日常が戻っているのだろう。
 
「ごめんなさい……、少しだけ」

「大丈夫だ。あとは俺達に任せて、ゆっくりと休むといい。……ユキ」

「ありがとう……、ござい、ます。アレク……さん」

 私を包んでくれている優しい温もりに身を委ね、ゆっくりと……、意識が溶けていく。













『――ねぇ……、まだ終わりじゃないよ?』


「――っ!!」

 直後、狂気の嘲笑とも言える響きを纏った『声』が、眠りかけていた私の意識を急速に引き戻した。今のは……、何!? 心地良い眠気が嘘のように掻き消えた私は、アレクさんの腕の中から、頭上高くに広がっている闇色の空を見上げた。
 
『終わらない……、まだ、終わらないよ?』

 幻聴じゃなかった。アレクさんも、周囲の皆さんも確かな警戒の気配を抱き、夜空を見上げている。この『声』は……、叡智の神殿で解呪の儀式を行っている最中にも聞いたような気がする。
 愉しそうに笑ってはいるけれど、その根底には、冷たい……、虚無を思わせる暗い響きを抱いているような……、子供の声。

「誰……、なの?」

『忌まわしき怨嗟の呪いは、業が深い……。その竜の皇子の息の根が止まるまで……、いいや、この地を滅ぼしても飽き足りないほどにね』

 姿なき不気味な介入者の静かな嘲笑が響き渡る中、――さらなる異変が私のすぐ傍で起きた。
 ルイヴェルさんに支えられていたカインさんが、急にガタガタと激しく震え始め、苦痛に喘ぐように自分の喉を掻き毟り始めた。

「か、カインさん!?」

「カイン!!」

 私とルイヴェルさんの驚愕の音が重なった瞬間、カインさんは自分を支えてくれている人の身体を突き飛ばし、私達から距離を取った。
 まるで……、内側から何かに攻撃を受けているような、カインさんの苦しそうな気配が伝わってくる。

「まさか……っ」

 信じたくはないけれど、カインさんの中に抑え込まれた禁呪がこの望まれない異変を起こしたとしか思えない。予想外の事態に、その場の誰もが驚愕と不安に目を見開いている。

「どうして……っ、術は上手くいったはずよ!! それなのに……」

「カインの中の禁呪の気配が……、膨れ上がっている、だと?」

 銀フレームの奥の深緑の双眸に、突然生じた異変に僅かな動揺を浮かべたルイヴェルさんの声音に、険しい響きが混じる。
 セレスフィーナさんが肩を震わせ怯むような様子を見せたけれど、感じている恐怖や焦りを抑え込むように、その手のひらを握り締めた。
 カインさんの身体から、禍々しい淀みきった黒い靄……、瘴気が煙のように溢れ出してくる。
 真紅の瞳に、黒く波打つような筋が入り、消えたはずのおぞましい紋様が再びその姿を現す。
 今度はただの紋様じゃない。……生物のように肌の表面で蠢くそれが、カインさんの中から表に出て来ようとしている禁呪の身体の一部のようにも感じられる。

「グアァアアッ……、ァウァアッ」

「カインさん!!」

 すぐさま、この事態を収めようとセレスフィーナさん達が詠唱を始める。
 けれど、翳された手を狂ったように薙ぎ払ったカインさんが、セレスフィーナさんのお腹に向かって右拳を打ち込もうとしたけれど、間に割り込んだルイヴェルさんがそれを代わりに受けてしまった!

「ぐっ……!!」

「ルイヴェルさん!!」

 そして、禁呪の影響を抑え込もうとした王宮医師のお二人から逃れたカインさんの動きがそこで一瞬止まったかと思うと、彼の肌を生き物のように蠢いていた呪いの紋様が、禍々しい瘴気と共に毒蛇の如き実態を持ち、宙へと踊り出た!!
 そして、私達の視界が噴き出す瘴気の気配で満たされた、――その直後。

「きゃあああああああああああ!!」

「ユキ!!」

 アレクさんに支えられていたはずの私の許に、瘴気の闇の中から何かが飛び込んで来たかと思うと、肉を締め付ける程の勢いで四肢に絡みついてきた!!
 一体何が、そう思う暇さえなかった。ぐんっと凄い力で身体が宙へと引き上げられる感覚と、耳元に響いた子供の声。

『おいでよ、お姫様。君にもお礼をしないとね……』

 幼い子供の声なのに、どうしてこんなにも恐怖を感じるのだろう。
 両手両足、腰に絡み付き肌に食いついてくる存在に苦悶の表情を浮かべびくりと震え上がった私は、瘴気が満ちる空間の中で何度が激しく振り回される。
 普通の状態でさえこれはかなりきつい。だけど、私の身体は禁呪からカインさんを解放する為に負った疲労を抱えている事もあり、正直言って無理、というか、これは死ぬんじゃないかというぐらいにきつすぎる!!

「うぅっ!!」

 吐き気の込み上げる口許を押さえたいけれど、この状態じゃ無理すぎる。
 もう頭の中で脳がぐちゃぐちゃに掻き回されるような感覚と、いっそ今すぐに意識を失ってしまいたいと思うほどの責苦の真っ只中で私は必死に耐える。
 地上の方からは私の名を必死に叫ぶアレクさんや、皆さんの声。
 何がどうなっているのか……、目を開けて確認する事さえ出来ない自分を歯がゆく思っていると、――直後、瞼の裏を思考ごと爆発させるかのような閃光が襲った。
 すぐ間近で、小鳥が慌てて羽ばたくような音と、小さく舌打ちを漏らす気配が生じる。

「……うぅっ」

 強烈な光の渦が収まる気配と共に、恐る恐る瞼を開いた私は、……クリアになった視界に安堵すると共に、自分の身体を拘束している毒蛇の如き存在を視認した。
 私は今、崖の遥か上空に捕えられている……。冷たい風の感触が肌を嬲り、この禍々しい闇色の毒蛇が拘束を解けば……、私は確実に凄惨な死を遂げる事になるだろう。 
 恐怖感と共に眼下を見下ろすと、レイフィード叔父さん達の周囲から瘴気の存在が綺麗に消え去っていた。
 
「ユキちゃん!! 今助けるからね!!」

 双眸に抱く色が、力強い意志の表れと共に黄金の気配に染まっているレイフィード叔父さんが、以前にも目にした事のある蒼い光を纏いながら、空中に囚われている私へと呼びかけてくれている。
 きっと、レイフィード叔父さんがまたあの力を使って、瘴気を消し去ってくれたのだろう。
 アレクさんやセレスフィーナさん達も、誰一人欠けずに無事でいてくれた。
 けれど……、どんなに眼下に視線を彷徨わせても、――カインさんの姿はない。
 
「カインさ……、ん、カイン……、さんっ、どこっ」

 あの状態でどこかへ行けるわけが……。
 囚われの自分の状態も忘れて、私はもう一度地上に視線を走らせる。
 だけど、何度捜しても闇夜の中に彼の姿を捉える事は出来なかった……。
 
「どう……、して」

 あとはカインさんの中に抑え込まれた禁呪を解呪する儀式を終えれば、それで全て終わりだったはずなのに……。何もかもを嘲笑うかのように、事態は最悪のものとなってしまった。
 私を助けようと地上を離れたレイフィード叔父さん達は、再び現れた無数の瘴気の獣達に囲まれてしまい、何度消し去っても無尽蔵にそれらは這い出して行く手を阻んでくる。
 
(鳥の……、羽音。……子供の、声)

 叡智の神殿で耳にしたものと同じ……。姿は見えないのに、確かに……、ここにある存在。
 禁呪に身体を乗っ取られたカインさんを助ける事で頭がいっぱいだった私達は、その存在を失念していたのだ。というよりも、後回しになっていた、と言うべきだろうか。
 抑え込まれた禁呪が再び恐ろしい牙を剥いたのも、声の主が関わっているに違いない。
 
「どこに……、いる、のっ。カインさんを、どうした、のっ」

 身体が重い……。少しでも動けば、私の身体を縛めているそれがさらに肉を締め付けていく事だろう。ぐっと体内にある臓器への圧迫感が増したけれど、構わない。
 私は前に出るように腕や足を前のめりに引っ張りながら問い続ける。

「貴方は……、誰、なのっ。どうして……、こんな、こんなっ、カインさんや皆を苦しめるような真似を、する、のっ」

『この程度で酷い、なんて、お気楽なお姫様だね。あの竜の皇子や君にとっての『愉しい幕』は、まだ上がっていないんだよ?』

 まただ。声はすぐ傍に在るのに、その姿が見えない。
 それに、『愉しい幕』って何? これ以上、……何を起こそうと言うの?
 不安の荒波で溺死させようとするかのように、その声は静かに小さく笑い声を響かせる。
 許せない……っ。セレスフィーナさんとルイヴェルさんの努力を、カインさんの命を弄び踏み躙った禁呪も、この声の主も、絶対に許さない!!

「ふざけないで!! 私達は貴方の操り人形なんかじゃないのよ!! 早くカインさんを返して!! 返しなさい!!」

『威勢の良いお姫様だね……。君には何も出来る事はない。どんなにその心を憤怒に燃やしても、どんなに声を張り上げて怒りの声をあげても……』

 ――君に出来る事なんて、何ひとつないんだよ?
 胸に突き刺さるその事実に、一瞬だけ私の表情が悔しさと歯痒さに歪む。
 文句を叫ぶ事は出来ても、敵に抗う為の力なんて何も……。
 アレクさんのように剣を扱う事が出来れば、セレスフィーナさん達のように魔術を扱う事が出来れば、この声の主に抗って逃げ出す事が出来ただろうか。
 立ち向かう事が、敵を打ち滅ぼす事が出来ただろうか……。

『でも、悲観する事はないよ。もう何も考えなくてもいいようになるからね』

 遠まわしに告げられたその言葉に、私は目を大きく見開いて声にならない恐怖の音を漏らした。
 はっきりとは言わなかったけれど、どう考えても私に対する死の宣告だ。
 この身体を縛める毒蛇に呑み込まれてしまうのか、それとも、瘴気の獣達の餌にでもされてしまうのか、いずれにせよ、きっと穏やかな最期を与えられる事はないだろう。
 まだ、カインさんを助ける事が出来ていないのに、この世界に来て、何も出来てはいないのに……!!
 
「ユキ!!」

「ユキちゃん!!」

 毒蛇のような存在が飽きた玩具を捨てるかのように、私の身体を放り出す。
 満点の綺麗な星空と、大きな三つの月が視界を満たした瞬間、ぞわりと全身の産毛と感覚が逆立つかのように妙な痺れが駆け抜けた。
 伸ばした右手は何も掴めない。掴む物さえ存在しない……。
 レイフィード叔父さん達の悲痛な声が、どこか遠くからのものにしか感じられない。
 
 ――死ぬ。

 カインさんの身体を支配していた禁呪に崖から落とされた時と同じ展開。
 唯ひとつ違うのは、今度は空の真っ只中から容赦なく投げ出されてしまった事だろうか。
 急加速で落下していく私の視界に、水色の羽根が場違いな様子で舞い降りてくる様が見える。
 死に逝く者への手向けの花か、それとも私が死ぬ事を喜んでいるのか……。

(もう、……駄目、なの?)

 諦めたくない、こんな場所で酷い死に様を晒したくなんかない……!!
 まだ何も終わってないの、何も……、始まってさえいないのに……!!
 悔し涙が風に煽られて空に溶け消えていくのを見つめながら、訪れる死の瞬間に抗う術(すべ)を必死に考えるけれど、もう時間はない。

「ユキ!! 今助ける!!」

「アレクさん!!」

 不意に、瘴気の獣達に妨害されていたはずのアレクさんの姿が、私の視界の端に映り込んだ。
 もう一度繰り返すかのように、崖の下へと落ちたあの時と同じように……。
 アレクさんが私を助けようと猛烈なスピードで宙を裂きながら、星空を背に私へと手を伸ばしてくる。絶対に助けると、徐々に近くなるその蒼の双眸が私に希望を与えてくれるから……。

「アレクさん!!」

「もうすぐだ。必ず助ける!!」

 私が地上に叩きつけられるよりも早く、アレクさんの姿はどんどん目の前に近くなり、お互いの指先が吸い寄せられるかのように触れ合おうとした……、その瞬間。
 その片鱗すらどこにも見えていなかったというのに、突然私の視界を黒い影が覆い尽くした。
 それが一体何だったのか、自分がどうなってしまったのか……、背中を強く抱き締めた影の感触に抗う事も出来ず、私は加速をかけて下に向かって落ちていく。

「い、やぁっ、離しっ」

「ユキ……っ」

「……えっ」

 私の背中と頭を抱え込んでいる影の主が、不意に苦しそうな呻きと共に聞き覚えのある音を発した。聞き間違い……? 今、確かに……。影の主が着地したのと同時に強い砂煙が巻き起こる。
緩んだ腕の中で身じろぎをした私は、『彼』の顔を恐る恐る見上げた。
 変わらぬ夜空の光を受けながら、エリュセードを守護する神々の象徴たる三つの月を背にしているその顔には、苦痛を噛み締めるような表情が見てとれる。
 今こうしている事さえ辛いのだろう『彼』は、口の端からそれを証明するように紅の雫を伝わせていた……。

「カイン……、さん?」

 その人は紛れもなく、見失ってしまったはずの……、カインさんだった。
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