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第二章『恋蕾』~黒竜と銀狼・その想いの名は~

黒馬と丘とピクニック

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「か、カインさん!! ちょっ、ちょっと速すぎませんか!?」

 地を力強く踏み締め、ぐんぐんと物凄い速さで前の景色を掻き分けて進んで行く馬の蹄。
 漆黒の大きな馬の背で、私は涙目になりながら悲鳴を上げている。
 恐ろしい程の速さで整備されている街道を走る黒馬と、楽しげに手綱を操っているカインさん。
 そして、彼の片腕に支えられて前に黒馬の背に乗っている私の心境は、阿鼻叫喚と言ってもいい。
 特に急ぐ必要もないはずなのに、カインさんの意思受けて走る黒馬は荒々しく前へと進んで行く。
 アレクさんと馬で出掛けた時は、もっと気遣いのある手綱捌きを感じられたのに、これは一体何なのだろうか。

「カインさんっ、も、もっとゆっくり!! ゆっくりお願いします~!!」

「はぁ? こんなもん序の口だろうが」

「序の口!?」

 この鬼のような速さが、序の口……。
 黒馬の方は、とても嬉しそうな鳴き声と共に足を動かしているけれど、普通の女の子からしたら恐怖に固まってしまう速さだとしか思えない。
 こうやって馬の背に跨って体勢を保っている事さえ、ギリギリのラインで意識を保っているようなものだ。それなのに、振り向いた先で見た、カインさんの楽しそうな笑顔。
 まるで初めて冒険に出た少年の抱く輝きそのものの爽やかさを前に何を言っても、意味はないらしい。
 風を切って走る黒馬の速度はどんどん勢いを増していく。

「せ、せめて、手綱を両手で持ってください!! 事故の元です、事故の!!」

「ははっ、お前怯えすぎだろ~。この馬は俺達を落としたりしねぇよ。なぁ?」

 カインさんからの陽気な声に、黒馬が同意をするように鳴き声を上げる。
 意思の疎通はバッチリだとアピールしているのはわかるのだけど、正直そんな問題じゃない!
 もっとゆっくり走って貰わないと、私の心臓が告白を受ける前に恐怖で大破してしまう。

「禁呪相手に引かなかった女が、この程度でびびんなよ。ほら!! もっとスピード上げていくぞ!!」

 お願いだから速度を緩めてほしいと懇願する私に、カインさんがニヤリと悪役のような笑みを纏い、手綱と共に鋭い声で黒馬を促したその瞬間、さらなる恐怖が私を襲った。

「い、いやあああああああああああああ!!」

 鼻息荒く猛烈な勢いで速度を上げた黒馬と、視界に捉える事も出来なくなった周囲の景色。
 聞こえるのは黒馬の気合いの入った蹄の音と、カインさんの上機嫌な笑い声だけになった。
 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「はぁ、はぁ……」

 ウォルヴァンシアの王都を出て一時間ほど。
 限界の果てを見た私は、何度も意識を失いかけたけれど、どうにか目的地まで耐える事に成功した。本当に……、物凄く容赦のない走りのせいで、吐き気まで覚えたけれど、無事に辿り着いて良かった。完全に意識がぐらぐらと危うい事になっている事は、まぁ、横においておこう。
 カインさんの手を借りて地面へと下ろされた私は、黒馬の鞍に固定してあったバスケットを取り外し中を確かめる。あんな乱暴な走りをされたのだ。きっと中身は酷い事に……。

「なってない?」

 あれだけ高速で走っていた黒馬の鞍に取り付けられていたのに、微動だにしていない?
 へにゃんと、連れて来られた丘の一角で座り込んでしまった私は、もう一度中を確かめた。
 やっぱり、綺麗な状態で維持されている。
 
「馬を走らせる前に術をかけといたからな。全然崩れてねぇだろ?」

「は、はい……。カインさんのお蔭だったんですね」

 私は犠牲となったようなものだけど、一生懸命作ってきた軽食達が無事で良かった。
 木陰の方で携帯してきた水と餌を黒馬に与え始めたカインさんが、にっとその口端を上げて見せる。確かに何の考えもなしに馬を走らせるわけもない、か。
 私の事は考えてくれなかったけれど、バスケットの中身の事は死守してくれたから、恨み言はやめておいてあげよう。だけど……、出来れば帰りはゆっくりと走ってほしいなぁ。
 私をからかって遊ぶ事が大好きなカインさんが、その願いを聞いてくれる可能性は低いかもしれないけれど。溜息を零しながら肩を落とした私は、バスケットの中からボトルを取り出した。
 普通サイズのボトルだけど、この中には見た目以上の量が入る仕様となっている。
 冷たい水を入れておいても、そのままの美味しさと冷たさが維持される仕様で、流石は魔術の存在する異世界ならではの便利な一品。
 一緒に取り出した木のコップに中身を注ぎ、私はそれを一気に飲み干した。
 うん、冷たくて、とっても美味しい!!
 とんでもない爆走に付き合わされて疲弊しきった心と身体を、内部から癒してくれる水の恩恵。
 さっきまで黒馬の背で酷い目に遭っていた事が夢のように思える心地に表情を和ませていると、馬の世話を終えたカインさんが、ぽんっと私の頭に手をおいた。
 そのまま、わしゃわしゃと犬の頭を撫で回すように人の頭を掻き回し、横へと座り込む。
 ロングスカートのポケットにヘアブラシがあるけれど、それを取り出して髪を整える気力はない。
 その代わり、カインさんの方をじろっと睨み、文句をぶつける。

「女性の頭を犬みたいに扱うのはやめてくださいっ」

「悪ぃな。俺にとっちゃ、犬と同様に撫で心地の良い頭なんだよ」

 むすっと不機嫌になる私を見ても、カインさんは楽しそうだ。
 頭上に広がる晴れやかな青の世界を真紅の双眸に映し、風の心地良さに四肢を投げ出している。
 確かに、賑わう王都を離れたこの場所は、何もかも忘れて心を解き放つ事の出来る豊かさに満ちているかもしれない。時折聞こえてくるのは、木陰で休んでいる黒馬の嘶きと、空を舞う鳥の声。
 私もカインさんと同じように、その隣で寝転んでみた。

「落ち着きますね~」

「そうだな……。誰に邪魔をされる事もねぇし、ゆっくりしていられるからな」

「カインさんの、お気に入りの場所だったりするんですか?」

 この山に来るまで、カインさんの手綱が迷う事はなかったし、横を向いた先に見えるその表情も、心から安らいでいるように感じられる。
 元々、一人でどこかに出掛けてしまう人だから、秘密の場所を幾つか持っていたとしても、不思議はない。輝く日差しに向かって咲き誇る花々に囲まれた、爽やかな風の吹く丘。
 その景色と青空に包まれて休んでいると、カインさんがゆっくりと起き上った。

「あぁ、やべ。もう少しで寝ちまうところだった……。ふあぁぁ……、ユキ、飯にすっか」

「あ、そうですね。今準備します」

 持ってきたレジャーシートを敷き、バスケットの中身をせっせと並べていく。
 試作会で色々と口にしているから、それほど多くは用意してこなかったけれど、目の前に用意された軽食のサンドウィッチを見つめるカインさんの視線は、やはり男の子といった感じだ。
 それぞれに具材の違う仕様にしてあるから、きっと飽きずに食べられるはず。
 カインさんはお肉の挟まったそれを手に取ると、がぶりと勢いよく齧り付いた。
 じっくりと味わいつつ、最初のひとつを食べ終えたカインさんが、休む暇もなく、準備してきたサンドウィッチをパクパクと平らげていく。

「美味しいですか?」

「んっ……、はぁ、おう。やっぱお前、料理上手だよな」

「ふふ、料理上手じゃなくても、サンドウィッチぐらい誰にでも作れますよ」
 
 木のコップに水を注ぎ、カインさんへと差し出す。
 私はまだひとつ目も平らげていないけれど、こんなにも嬉しそうに食べてくれるのなら作った甲斐があるというものだ。ゴクゴクと水を飲み干したカインさんが、口元を腕で拭い、ひと息吐いた。

「……お前の手作りってのも、さらに美味く感じるポイントのひとつなんだけどな」

 甘いジャムとクリームを挟んだサンドウィッチを食べていると、カインさんがふいっと横を向いて、何かを呟いた。だけど、それはとっても小さな音で、私には何を言ったのか聞き取れず、「どうしました?」と尋ねてみれば、顔を僅かに赤くしたカインさんに誤魔化されてしまった。

「なぁ、番犬野郎とも……、その、こうやって出かけたりすんのかよ?」

「え? えーと……、そう、ですね。何度か」

 以前なら、普通にアレクさんとの事をあれこれ話していたと思うけど、今は事情が違う。
 カインさんは、アレクさんと私がどこまで進展しているのか、それを探っているのだろう。
 しどろもどろになりながら答えると、カインさんは「ふぅん……」と、不機嫌そうに真紅の目を細めた。あぁ、どうしよう。これは絶対に、アレクさんに対する嫉妬心が強まった気配だよね? 
 あれこれと探ってくるカインさん追及と気配に怯えつつ、口の中で甘いはずのジャムが、ほろ苦く感じるような心地に襲われてしまう。

「お前にとってあの野郎は……、さぞかし大切な存在なんだろうな」

「そ、それは、まぁ……。この世界で暮らすようになってから、色々とお世話になっていますし」

「色々……、ねぇ」

 普段から、私とアレクさんが一緒にいると、何故か割り込んでくるな~と思ってはいたけど、それが嫉妬によるものだとわかった今、背中に流れていくのは居た堪れない気持ちばかりだ。
 何も悪い事なんてしていないのに、咎めるように寄越されるカインさんの視線にグサグサと心を刺されながら、私は食事を進めていく。
 あえてその追及の目を見ないように顔を逸らし、もぐもぐもぐ……。

「おい、何で別方向に向いて食うんだよ」

「こ、こっちの景色を見ながら食べたいな~と」

 貴方の嫉妬心に溢れた視線が怖すぎて直視出来ません、とは断じて言えない。
 むしろ、今すぐにこの場を全力で逃げ出したい気持ちでいっぱいなのだから、顔を別方向に向けて現実逃避する事ぐらい許してほしいところだ。
 それなのに、恋に燃える竜の皇子様は容赦のない意地悪な人だった。
 サンドウィッチを頬張って遠くを見ている私の腰を背後から抱き寄せて、右肩に顎を乗せて腕の中に閉じ込めてしまう。

「か、カインさんっ!! や、やめてください!!」

「現実を見ない奴には、実力行使しかねぇだろ」

 私の右手をぐいっと引き寄せたカインさんが、半分まで食べていたジャム入りのサンドウィッチをぱくりと頬張った。
 甘すぎだなんだと小さく呟きながら、またもうひと口。
 完全に思考が停止した状態でそれを見ていた私は、食料を奪われてしまった事よりも、人がついさっきまで噛り付いていたそれを躊躇もなく食べてしまったカインさんに対して戦慄を覚えてしまっていた。

「あの……、それ、私が食べていた物なんですけど」

「やっぱ肉入りの方が美味ぇな」

「あ、あの……」

 しかも、全部食べてしまった後に、この人……、私の指を舐めたあああああああ!!
 わなわなと震える私に気付いていないのか、指の間についているクリームをその濡れた舌で舐めとったのだ。比喩でもなんでもなく、本当に、直に、舐めた!!
 
「ん? どうしたんだよ」

「か、カインさん……、い、今、な、舐めっ」

「はぁ? 汚れてたから舐めとってやったんだろ。それがどうしたんだよ」

 平然と不思議そうな顔をしないでほしい。
 私のサンドウィッチを奪った挙句、手まで舐めるなんて……!!
 どうしてそんなに平気な顔をしていられるの!! カインさんの馬鹿!!
 衝動的にカインさんの腕の中で暴れだしてしまった私は、思い浮かぶ全ての罵声をカインさんへと浴びせてしまう。
 
「や、やっぱり、カインさんは女の敵なんですね!! 平気で指を舐めるなんて、変態!! セクハラ!! スケベ竜!!」

「痛っ!! こら!! あ、暴れんな!! ってか、酷い言い様だな、この野郎!!」

 互いに攻防戦を繰り広げている最中に、私の右の拳がカインさんの顎をヒットした。
 その隙にバスケットを抱えてレジャーシートの外に逃げ出すと、木陰で休んでいた黒馬が不思議そうに小さな鳴き声を響かせるのが見えた。
 
「ユキ、お前なぁぁぁっ」

「来ないでください!! やっぱりカインさんは、ルディーさんが前に言っていた通り、最低最悪の女タラシだったんですね!! 普通人の食料を奪って、指まで舐めますか!!」

「じょ、冗談だろうが!! お前が俺に対して顔を背けるから、ちょっとからかってやっただけで……。ってか、女タラシってなんだよ!! もう遊んでねぇよ!!」

「じゃあ、何で指を舐めるんですか!! 吃驚したんですよ!!」

 さらに言えば、昔女性関係で遊んでいた事は事実らしい。
 女性に対して手馴れている事が丸わかりの竜の皇子様の言動に憤慨した私は、毛を逆立てた猫のようにカインさんに対して威嚇の気配を向け続けた。
 
「はぁ……、悪かった。経験値ゼロの子供に、やりすぎた。謝るからこっちに戻って来い」

 け、経験値……、ゼロっ。
 しかも、子供とまで呆れ顔で言ったカインさんに、私の怒りゲージがさらに高まった。
 手招きまでして、自分が折れてやってるんだぞ~と言いたげな、その飄々とした姿に、私が戻りたくなるわけがない。カインさんから背を向けて、バスケットの中に残っているサンドウィッチを取り出した私は、がぶがぶとそれを咀嚼し始めた。誰が戻ってあげるものですか!!

「ユキ~……、もうしねぇから、経験値皆無のお前が困るような大人の触れ合いは控えてやるから、だから、こっちに戻ってこ~い」

「知りません!!」

 どうせ初恋もまだの経験値皆無の全部が初めての情けない二十歳ですよ!!
 だけど、普通に考えて、指を異性から舐められて、平気な顔をしていられる女性っているの!?
 経験豊富なお姉様でもない限り、きっと無理!!
 二人で出掛ける事だけでも試練だったのに、あんな事までされてしまったら……。

(うぅ、心臓が、心臓が太鼓のように激しく鳴っている!!)

 瞬間、心臓の騒々しさを感じながら喉にパンの欠片を詰まらせてしまった私に、カインさんが水の入った木のコップを差し出してくれた。
 
「何やってんだよ、お前は」

「けほっ、……んっ、んっ!!」

 冷たいそれを一気に喉の奥へと流し込み、私は命の危機から救われた。
 背中をトントンと宥めるように叩いてくれているカインさんが向けてくる、呆れ交じりの気配が辛いっ。

「あ、ありがとうございました……」

「本当……、ガキだよなぁ、お前」

「悪かったですね……っ。経験豊富なカインさんに比べたら、私なんて卵ですよ、卵!!」
  
 カインさんに意地悪をされると、何故か自分の歳も忘れて、毎回子供っぽい喧嘩文句を連呼してしまう自分がいる。自分でもこういうのは恥ずかしいと思うのに、次から次へと……。
 アレクさんと一緒にいる時は、喧嘩どころか口論事態が起こらないから、こんな姿を見せずに済んでいるけれど、はぁ……、カインさんを相手にすると、いつもこう。
 だけど、私の言い方がきつすぎたのか、カインさんはすぐ傍で黙り込んでしまった。
 
「あ、あの……、か、カイン、さん?」

 様子を窺おうと、傍にあるその顔を覗き込んでみると……。

「――っ」

 カインさんの、今までに見た事のないような、心を揺らす切ない眼差し。
 自信満々に笑っているはずの真紅が、ゆっくりと私に向けられる。

「それでも……」

「え?」

「それでも……、好きになった女は、たった一人だけだ」

 絞り出されたその声音に宿っていたのは、からかいや意地悪の気配ではなくて……。
 まだ確かな音にはなっていない、カインさんの中に秘められた、一番大切な光。
 その瞳に囚われた瞬間、私は木のコップを落としてしまい、戸惑いと共に視線を彷徨わせてしまった。

「あ、あの……、えっと」

 怒っていたはずの心が、急激に羞恥のような感覚と入れ替わる。
 夕陽にも負けないぐらいの熱が顔に宿り、今この場で第二の告白を受ける事になるのだろうかと、私は内心で怯えながら暴れ回ってしまう。
 まだ、まだ心の準備が、その、突然こられると、ですねっ。
 だけど、カインさんはすぐにその切なく真剣な気配を収め、立ち上がってしまった。

「飯食ったら、また別の場所に移動するからな」

「え? は、はい……」

 私の傍からバスケットを持ち上げ、カインさんはレジャーシートへと戻って行く。
 まるで、大きな口を開けて牙を剥きかけた獣が、あっさりと食欲をなくしたかのように……。
 もしかして……、私の心の準備が追い付いていない事に、気付いてくれたのだろうか?
 困っている私を落ち着かせる為に、時間を与える為に……、わざと、引いてくれたの?
 トクトクと、戸惑いと共に高鳴る胸の鼓動を抑えながら、私はレジャーシートの上で食事の続きを始めたカインさんの姿を、暫しその場から動けずに見つめ続けるのだった。 
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