【完結】契約側妃は、盤上から静かに消えます。

朝日みらい

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第5章 盤面の歪み

 その綻びは、あまりに呆気なく、そして致命的な形で現れました。

 ことの始まりは、アメリア様が私に相談せず、独断で署名した一通の書簡でした。北方連合との国境付近に位置する「緩衝地帯」での薬草採掘権――それを、特定の中央貴族に独占的に与えるという内容です。

「セレフィナ、見て! 私、頑張ったのよ。いつもあなたに頼りきりじゃいけないと思って、カイル様を驚かせようとね……」
 執務室で差し出された書簡の写しを見た瞬間、私の指先から血の気が引いていくのが分かりました。

 アメリア様は誇らしげに胸を張っていますが、これは最悪の悪手です。その「特定の中央貴族」とは、旧侯爵派の急進派。中立派の領地を実質的に侵食し、さらには北方連合との休戦協定で定めた「不可侵領域」にまで踏み込む内容だったのです。
「……アメリア様。すぐに、すぐにこの撤回の手続きを。これは北方への宣戦布告と取られかねない危険な内容ですわ」
「えっ……? でも、彼らは『平和のための投資だ』って……」
 アメリア様の顔がみるみるうちに青ざめていきます。彼女は、書類の行間に隠された「政治の毒」を読み解く訓練を受けてこなかったのです。

 その時、廊下から怒号が響き渡りました。
「アメリア! 説明してくれ、これはどういうことだ!」
 扉を蹴り開けるようにして入ってきたのは、カイル殿下でした。その手には北方連合からの抗議文が握られています。
 殿下の背後には、険しい表情のリオネル様の姿もありました。
「カイル様、私は……その、良かれと思って……」
「良かれと思って国を滅ぼす気か! 中央貴族に便宜を図り、北方を刺激するなど……王太子妃としての自覚が足りないのではないか!」
 カイル殿下の激しい叱責に、アメリア様は崩れ落ちるように泣き出しました。

 殿下は、彼女の「努力」ではなく「結果」だけを見て、初めて剥き出しの失望を突きつけたのです。
「セレフィナ……! お願い、セレフィナ、助けて!」
 アメリア様が私のスカートの裾に縋り付きました。

 潤んだ瞳が、私を「救い主」として求めています。いいえ、それは救いなどではなく、自分の罪を肩代わりさせるための「生贄」を求める目でした。

「あなたが……あなたが私に助言したことにして。そうすれば、中立派の失策として処理できるわ。私、私は悪くないのよ……!」
 その言葉に、部屋の空気が凍りつきました。
 カイル殿下までもが、一瞬、救いを求めるような目で私を見たのです。

「君が泥を被ってくれれば、丸く収まる」――そんな残酷な期待が、彼の沈黙に混じっていました。

(……ああ。結局、私はどこまで行っても『便利な駒』なのですね)
 心の中で、何かが音を立てて砕け散りました。

 長年、父様に、家に、そしてこの王宮に捧げてきた「強い私」という仮面が、もう重すぎて支えきれません。
 私はゆっくりと瞳を閉じ、冷たい沈黙を飲み込もうとしました。

 その時。
「――ふざけないでいただきたい」
 低く、地鳴りのような声が響きました。

 リオネル様が、カイル殿下と私の間に割り込むように一歩踏み出したのです。
 彼の大きな手が、アメリア様の腕を私から引き剥がしました。
「何をする、リオネル! 無礼だぞ!」
「無礼なのはどちらですか、殿下。……そして妃殿下。貴方方は、一人の女性にどれだけの重荷を背負わせれば気が済むんですか」
 リオネル様の声は静かでしたが、そこには戦場での死気にも似た、凄まじい圧迫感がありました。

 彼はカイル殿下を真っ直ぐに睨み据え、それから、震えている私の肩を抱き寄せたのです。

「この女性(ひと)は、あんたたちの不始末を片付けるための道具じゃないんです。……今日までどれだけの夜を、あんたたちの無能を埋めるために捧げてきたと思っているんですか」
「リオネル、様……もう、いいのです。私は……」
「よくないですよ!」
 彼は初めて、私に対して声を荒らげました。
 そして、人目も憚らず、私を強く、壊れ物を扱うような慎重さで抱きしめたのです。
 鎧の冷たさと、その奥にある心臓の鼓動。
 彼の首筋から香る革の匂いが、私の強張った思考を強引に解きほぐしていきます。

「もういい、セレフィナさん。あんたは十分に戦った。……これ以上、自分を殺すな。分かりましたね」
 彼の大きな手が、私の髪をゆっくりと、何度も撫で下ろします。
 その温もりに触れた瞬間、私は自分の目から熱いものが溢れ出すのを止められませんでした。

「……っ、う……ああ……」
 人前で涙を見せるなど、淑女として、戦略家としてあるまじき失態。
 けれど、彼の腕の中だけが、世界で唯一「強くなくていい場所」なのだと、魂が理解してしまったのです。
 カイル殿下は呆然と立ち尽くし、アメリア様は絶句しています。
 二人の醜態と、抱き合う騎士と側妃。

「殿下。この件の事後処理は、私が正規の騎士団ルートで行います。……セレフィナさんは、私が連れて行く。文句があるなら、俺の首を跳ねてからにしてください」
 リオネル様は私を横抱きに抱え上げると、王太子の返事も待たずに、堂々と部屋を後にしました。

 廊下を歩く彼の足音だけが、静かな王宮に響きます。
 私は彼の胸に顔を埋め、ただひたすらに泣き続けました。
 契約の一年が、まだ半分も過ぎていないというのに。

 私という駒は、ついに盤上から溢れ出してしまったのです。
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