【完結】契約側妃は、盤上から静かに消えます。

朝日みらい

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第6章 騎士の休息と、戻れない場所

 リオネル様に横抱きにされたまま、私は王宮の喧騒から遠ざかっていきました。

 視界が涙で滲み、すれ違う侍女たちの驚愕の視線も、今はどこか遠い国の出来事のように感じられます。私の耳に届くのは、彼の鎧が擦れる規則正しい音と、驚くほど速く、けれど力強く打つ彼の鼓動だけでした。

 連れて行かれたのは、王宮の北端、騎士団の詰め所に隣接した彼の私室でした。
 王族の離宮のような華やかさは微塵もありません。質素な木製の家具と、磨き上げられた武具。そして、わずかに香る古い紙と革の匂い。

「……ここなら誰も来ないでしょう。少し休め」
 彼は私をそっと、毛皮の敷かれた寝椅子へと下ろしました。
 急に支えを失った不安から、私は思わず彼の袖を掴んでしまいます。
「……リオネル様。私は、大変なことを。側妃が騎士の部屋に連れ込まれるなど、不敬罪になる……」
「不敬なら、あの場で何もできなかった殿下の方が重罪だろ」
 彼は短く吐き捨てると、膝を突き、私の冷え切った指先を一つずつ解くように包み込みました。

 そして、あの大剣を振るう大きな手で、私の乱れた髪を耳に掛け、そっと指先で私の頬を撫でます。
「まだ震えてますね。……怖かったか」
「怖かった……のではありませんわ。ただ、虚しかったのです。私が積み上げてきた時間が、あんなにも簡単に泥を被らされるものだなんて」

 ポツリと漏らした本音。
 するとリオネル様は、ふっと自嘲気味に口角を上げ、私の手に自分の額を押し当てました。

「……あんたは、戦場を知っているか。俺がいた北方は、常に泥と血に塗れていた。殿下が採用した上司のミスで部下が死に、手柄を中央の無能な貴族に奪われる。そんなのばかりですよ」
 彼の低い声が、部屋の空気を震わせます。
「俺は、あんたを初めて見た時、かつての自分を見ているようで吐き気がしたんだ。……誰よりも有能で、誰よりも献身的な者が、一番先に使い潰される。そんな盤面、俺が叩き壊してやりたいと思ってました」

「リオネル様……」
「セレフィナ。俺は騎士だ。だが、あんたを守るためなら、いつでもこの剣を捨てます」
 彼は顔を上げ、私の瞳を真っ直ぐに見つめました。
 その瞳に宿る熱。それは忠誠心などという言葉では到底収まりきらない、執着に似た深い感情。

 彼はそのまま、私の手を引き寄せ、掌に熱い口づけを落としました。
「……俺のものになれとは言わない。だが、もうあいつらのために泣くのはやめろ。あんたの価値を、俺が証明してやる」

 その力強い言葉に、私はようやく一息つくことができました。
 彼に身を預け、毛皮の温もりに包まれていると、数日分の疲労が一気に押し寄せます。
 私は、彼の指の感触を肌に感じながら、泥のように深い眠りへと落ちていきました。

 数時間後。
 私が目を覚ました時、窓の外はすでに夜の静寂に包まれていました。
 室内には柔らかな暖炉の火が灯り、リオネル様は椅子に座って、静かに剣の手入れをしていました。
「……起きたか」
「ええ。……申し訳ありません、ぐっすり眠ってしまって……」
 私が起き上がろうとすると、肩から彼のマントが滑り落ちました。

 するとその時、部屋の扉が激しく叩かれたのです。
「リオネル! セレフィナ! 中にいるのだろう! 開けてくれ!」
 カイル殿下の焦燥しきった声でした。
 リオネル様は眉を寄せ、ゆっくりと扉を開けました。
 そこに立っていた殿下は、髪を振り乱し、衣装も乱れた惨めな姿でした。

「セレフィナ! 助けてくれ……! アメリアが部屋に引きこもって泣き止まないんだ。それに、北方への謝罪文……あれを修正できるのは君しかいない。事務官たちも、君の指示がないと何も進まないと……!」
 殿下の言葉に、私は思わず乾いた笑みが漏れそうになりました。
 私を「生贄」にしようとした舌の根も乾かぬうちに、今度は「便利だから戻ってこい」と。
 
 私はリオネル様を見上げました。
 彼は何も言わず、ただ「あんたの好きにしろ」というように、私の手を取ってくれました。
 
 その大きな手の温かさに背中を押され、私はカイル殿下を冷ややかに見据えました。
「……殿下。私は本日をもちまして、外交補助および妃殿下の教育係の任を辞退いたします」
「なっ……! 何を言っているんだ、セレフィナ! 君がいないと王宮は回らないんだぞ!」
「回らなくなるのは、私が今まで『本来の責任者』が負うべき負担を、すべて肩代わりしていたからです。……これからは、どうぞご自身たちで解決なさってくださいませ」

 私は優雅に一礼しました。
 契約を破棄するつもりはありません。ですが、これからは「便利な駒」としてではなく、私の意志でこの盤面を動かしてみせます。

「リオネル様。……送っていただけますか?」
「ああ。地獄の果てまででもな」
 リオネル様は不敵に笑い、私の腰をぐいと引き寄せました。
 カイル殿下の前で、堂々と示される親密な距離感。

 殿下の顔が驚きと屈辱で真っ赤に染まるのを見届けながら、私は初めて、自分の力で盤面から一歩踏み出した実感を味わっていました。
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