【完結】契約側妃は、盤上から静かに消えます。

朝日みらい

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第7章 盤面の歪みと、騎士の覚悟

 私が「実務のボイコット」を宣言してから三日。王宮は、まるで見えない蟻地獄に足を取られたかのように、音を立てて機能不全に陥っていきました。

 朝食の献立に始まり、外交官の席次、北方連合への関税調整、果ては庭園の芝生を刈るタイミングまで。これまでアメリア様の名で行われていた「完璧な采配」の正体が、すべて私の指先一つで操られていたことが白日の下に晒されたのです。

 カイル殿下は連日、私の離宮を訪れては扉を叩きましたが、その都度、リオネル様が「側妃殿下は静養中です」と大剣の鞘でその行く手を遮りました。

「……リオネル様、本当に良いのですか? 王太子の行く手を阻むなど、本来なら反逆罪ですわ」
 窓際の長椅子で、私はリオネル様に淹れてもらった(少々苦すぎる)ハーブティーを口にしながら尋ねました。

 彼は窓辺に背を向けて立ち、鋭い視線を廊下の気配へと向けています。
「反逆か。戦場で俺を見捨てようとした奴らに言われる筋合いはないな。……それに、あんたの父上が動いた。今さら殿下が騒いだところで、もう遅いですよ」

 リオネル様の言葉通り、事態は王宮内だけに留まりませんでした。
 娘の惨状――毒を煽り、政務を押し付けられ、挙げ句に責任転嫁されそうになった事実を知った我が父、アルヴェイン伯爵が、ついに中立派を率いて沈黙を破ったのです。

 「薬草の供給を一時停止する」という一報が届いた瞬間、王宮の医療局と軍部はパニックに陥りました。
「……お父様らしいやり方ですわ。情ではなく、実益を断つことで相手を屈服させる」
「ああ。だがあんたの父親も、あんたを道具だと思っていることには変わりない。……俺は、それが気に食わないんです」

 リオネル様が不意にこちらを向き、私の隣に腰を下ろしました。
 彼の大きな手が、私のお茶を置いた方の手をそっと包み込みます。
 戦いで傷だらけになった彼の指先が、私の白く、けれどインクで汚れた中指をなぞりました。
「セレフィナさん。北方連合との再緊張、その原因を作ったのは妃殿下だが、火を消しに行かされるのは俺だ」

「……えっ? リオネル様、戦地へ行かれるのですか?」
 心臓がドクリと跳ねました。
 彼は頷き、私の手を自分の頬に押し当てました。ざらりとした無精髭の感触。けれど、その奥にある肌の熱さが、私の指先を通じて直接脳に響きます。

「王家直轄派は、この失策を『騎士団の不備』にすり替えようとしている。……俺が最前線で功績を上げ、北方の族長どもを黙らせるしかないんです。そうすれば、あんたを侮る奴らを、実力で黙らせることができる」
「そんな……危険すぎますわ! 今の北方連合は、以前の戦争とは比べものにならないほど武装を整えていると、昨夜の資料にも……」
 焦って身を乗り出した私の肩を、彼は力強く抱き寄せました。

 そのまま、逃がさないというように強く、けれど壊れ物を扱うように優しく、私を彼の胸板へと閉じ込めます。
「あんたは、本当に俺のことを心配してくれるんだな。……契約なんかじゃなく、一人の男として」

 耳元で囁かれる低く甘い声。
 彼の唇が、私の耳たぶに掠めるように触れました。熱い吐息が首筋に当たり、全身に鳥肌が立ちます。
「リオネル、様……。私は……」
「俺が戦場を片付ける。あんたは、その間に一番美しいドレスを選んでおけ。……一年契約が終わる時、あんたを盤上から奪い去るのは、王家でも伯爵家でもない。この俺だ」
 彼は私の顎をそっと持ち上げ、真っ直ぐに瞳を見つめてきました。

 抗えない、深い灰色の渦。
 私は誘われるように目を閉じました。唇に触れるか触れないかの距離で、彼は誓うように呟きます。
「……行ってくる。俺の勝利を、あんたのその聡明な頭脳で、最高の『清算』に変えてくれ」
 唇に、一度だけ、羽が触れるような柔らかな、けれど確かな熱が刻まれました。

 翌朝。
 リオネル様は、私に一言の別れも告げず、騎士団を率いて王都を発ちました。
 
 残された私は、空っぽになった離宮の部屋で、一人鏡の前に立っていました。
 私の首元には、彼が残していったグレーのスカーフ。

 鏡の中の私は、もう「強い仮面」を被っただけの少女ではありません。
「……わかりましたわ、リオネル様。あなたが戦場で勝利を掴むのなら、私はこの王宮という盤上で、チェックメイトをかけて差し上げます」
 私はインクを新調し、最高級の羊皮紙を広げました。
 書き記すのは、アメリア様の依存の記録、カイル殿下の判断ミス、そして中立派を動かすための「真実の弾丸」。

 しかし、その時。
 部屋の扉をノックもせずに入ってきた者がいました。
「セレフィナ! 助けてくれ! 北方の族長たちが、リオネルの軍を包囲したという報告が……! どうすればいい、君なら何か策があるだろう!?」
 カイル殿下が、なりふり構わず叫びながら駆け込んできました。
 私は冷ややかに殿下を見つめました。

「殿下。……ご相談なら、あちらの席へ。ただし、これより先は『無償』ではございませんわよ?」
 私の瞳に宿る冷徹な光に、殿下は初めて、自分が何を手放そうとしているのかを悟り、その場で凍りついたのでした。
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