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第二章 「夫は愛人、妻は台所!?」
結婚してからの数日は、あまりにも静かで、あまりにも空虚でした。
……いえ、静かといっても、夫が毎晩のように愛人の屋敷へ出かけてしまうせいで、屋敷の中にわたし一人が取り残されている、という意味なのですけれど。
「旦那さまは……」
「ええ、今夜もお出かけになられました、奥さま」
執事のロベールに頭を下げられるたび、わたしの胸の奥で何かが、じん、と冷たく縮んでいくのを感じました。
(……妻なのに、置き去り。初夜もすっぽかされ、そのまま今日で三日目? こんなの、夫婦とは呼べないのでは……)
でも、泣き言ばかり言っていられません。
借金返済の条件と引き換えに嫁いできた以上、弱音を吐くわけにはいかないのです。
「仕方ありません。わたし、やるべきことをやるだけです」
そう心に決め、わたしは台所にこもるようになりました。
生まれ育った小侯爵家では、台所に立つなんて令嬢の仕事ではないと周囲に止められていましたが、家運再建のために必死で身に付けたのです。
冷蔵室に並んでいた高級食材の数々を前に、わたしはしばし言葉を失いました。
「ど、どれも高級すぎて……! これを毎日食べていたら、実家みたいに破産するかも……」
銀の皿に盛られたキャビアや、樽ごと届くワイン。
同じ貴族でも、わたしの実家とは生活水準がまるで違います。
わたしは震える手で帳簿を開いて計算を始めました。
「お肉は三日に一度でいいです! スープは節約して二番出汁で……パンの端もちゃんと乾かして保存して!」
そう指示を飛ばすと、使用人たちは戸惑った顔をしながらも、やがて興味深そうに微笑み出しました。
「へえ……奥さま、ずいぶん細かいところまで」
「お嬢様育ちと伺っていましたが、まるで主婦のように」
「節約は大事です!」とわたしが力説すると、使用人の間に小さな笑い声が広がります。
でも、不思議とその笑いはわたしを嘲るものではなく、むしろ親しみをこめたものに聞こえました。
***
そんなある日のこと。
わたしがキッチンでパンをこねていると、不意に背後から低い声が響きました。
「……おい。何をしている」
「――っ」
ふり返れば、そこには黒髪の美丈夫。わたしの夫、公爵リアン=ヴァルデンが立っていました。
漆黒の瞳に射抜かれた瞬間、わたしの心臓は大きく跳ね上がります。
「え、えっと……夕食の、準備を」
「は?」
彼は信じられないものでも見るように目を細めました。
「お前は公爵夫人だろう。なぜ台所に立つ」
「わたし、公爵夫人である前に、一人の妻です。家を切り盛りするのは当然のことではありませんか?」
そう答えた瞬間、彼の眉がわずかに動きました。
……きっと笑われると思ったのですが、なぜか沈黙のまま、じっと見つめられます。
(な、なんですかその目は……っ。こっちは真剣なんですけど!)
次の瞬間、彼はふっと鼻で笑い、例の艶やかな笑みを浮かべました。
「くだらん。台所遊びでもなんでも好きにしろ。ただし――俺の妻だと忘れるな」
その言葉の意味が掴めず、思わず固まってしまいました。
けれど彼の黒い視線は冷ややかに……どこか嫉妬めいた色を潜ませていたようにも思えます。
***
実際、その翌々日、事件が起きました。
庭先で犬の散歩をしていると、たまたま会った使用人の青年が声をかけてきたのです。
「奥様、パン、とても美味しかったです!」
「あら、それはよかったです」
にこやかに微笑んだその瞬間――背後から、ぐいっと腕を引かれました。
「……っ!?」
振り返ると、そこにいたのはやっぱり彼――リアン。
わたしの手首をかために掴んだまま、青年に冷ややかな眼差しを向けています。
「俺の妻に、軽々しく触れるな」
「は、はいっ! 失礼しました!」
青年はひぃっと声を上げ、裏庭の方へ逃げていきました。
わたしは慌てて夫を見上げます。
「ちょ、ちょっと! 乱暴しないでください!」
「乱暴だと?」
ぐっと睨み付けられた途端、胸の奥が妙に熱くなりました。
「……俺は別にお前に興味はない。だが、他の男に笑顔を見せるな」
「なっ……!」
あまりに理不尽で、呆れてしまいます。
愛人の元ばかり行くくせに、いざ自分以外の男の前で笑ったら怒るなんて――。
(なんて身勝手なの、この人は!)
怒りで震えたわたしは、思わず言葉をぶつけました。
「旦那さまこそ、毎晩他の女性のところへ通っているじゃありませんか! わたしはただ、感謝の気持ちを伝えただけです!」
ぷいっと顔を背けると、なぜか彼はしばらく唇を噛み、視線を落としていました。
そして――。
「……芋娘のくせに、随分と強気だな」
「だから芋娘って言わないでください!」
言い返したわたしの声が、庭いっぱいに響きました。
けれどその時。彼がふっと笑ったように見えたのです。
その笑みは、夜会で見せる仮面めいた艶笑とは違って――どこか本物の、素の彼に思えて。
(な……なに、それ。ずるいじゃない……)
胸の鼓動が収まらず、わたしは慌てて犬ミルの首輪をつかんで、その場を逃げるように立ち去ったのでした。
***
こうして夫との距離は相変わらず遠いままでした。
でも、ほんの一瞬。あの黒い瞳が、わたしだけに揺らいだ気がして。
それが胸にチクンと残り……少しだけ、次の日が怖くなくなるのです。
……もしかしたら。
この結婚生活は、ただ苦しいだけでは終わらないのかもしれません。
そんな予感を抱いたのは、この時が初めてでした。
……いえ、静かといっても、夫が毎晩のように愛人の屋敷へ出かけてしまうせいで、屋敷の中にわたし一人が取り残されている、という意味なのですけれど。
「旦那さまは……」
「ええ、今夜もお出かけになられました、奥さま」
執事のロベールに頭を下げられるたび、わたしの胸の奥で何かが、じん、と冷たく縮んでいくのを感じました。
(……妻なのに、置き去り。初夜もすっぽかされ、そのまま今日で三日目? こんなの、夫婦とは呼べないのでは……)
でも、泣き言ばかり言っていられません。
借金返済の条件と引き換えに嫁いできた以上、弱音を吐くわけにはいかないのです。
「仕方ありません。わたし、やるべきことをやるだけです」
そう心に決め、わたしは台所にこもるようになりました。
生まれ育った小侯爵家では、台所に立つなんて令嬢の仕事ではないと周囲に止められていましたが、家運再建のために必死で身に付けたのです。
冷蔵室に並んでいた高級食材の数々を前に、わたしはしばし言葉を失いました。
「ど、どれも高級すぎて……! これを毎日食べていたら、実家みたいに破産するかも……」
銀の皿に盛られたキャビアや、樽ごと届くワイン。
同じ貴族でも、わたしの実家とは生活水準がまるで違います。
わたしは震える手で帳簿を開いて計算を始めました。
「お肉は三日に一度でいいです! スープは節約して二番出汁で……パンの端もちゃんと乾かして保存して!」
そう指示を飛ばすと、使用人たちは戸惑った顔をしながらも、やがて興味深そうに微笑み出しました。
「へえ……奥さま、ずいぶん細かいところまで」
「お嬢様育ちと伺っていましたが、まるで主婦のように」
「節約は大事です!」とわたしが力説すると、使用人の間に小さな笑い声が広がります。
でも、不思議とその笑いはわたしを嘲るものではなく、むしろ親しみをこめたものに聞こえました。
***
そんなある日のこと。
わたしがキッチンでパンをこねていると、不意に背後から低い声が響きました。
「……おい。何をしている」
「――っ」
ふり返れば、そこには黒髪の美丈夫。わたしの夫、公爵リアン=ヴァルデンが立っていました。
漆黒の瞳に射抜かれた瞬間、わたしの心臓は大きく跳ね上がります。
「え、えっと……夕食の、準備を」
「は?」
彼は信じられないものでも見るように目を細めました。
「お前は公爵夫人だろう。なぜ台所に立つ」
「わたし、公爵夫人である前に、一人の妻です。家を切り盛りするのは当然のことではありませんか?」
そう答えた瞬間、彼の眉がわずかに動きました。
……きっと笑われると思ったのですが、なぜか沈黙のまま、じっと見つめられます。
(な、なんですかその目は……っ。こっちは真剣なんですけど!)
次の瞬間、彼はふっと鼻で笑い、例の艶やかな笑みを浮かべました。
「くだらん。台所遊びでもなんでも好きにしろ。ただし――俺の妻だと忘れるな」
その言葉の意味が掴めず、思わず固まってしまいました。
けれど彼の黒い視線は冷ややかに……どこか嫉妬めいた色を潜ませていたようにも思えます。
***
実際、その翌々日、事件が起きました。
庭先で犬の散歩をしていると、たまたま会った使用人の青年が声をかけてきたのです。
「奥様、パン、とても美味しかったです!」
「あら、それはよかったです」
にこやかに微笑んだその瞬間――背後から、ぐいっと腕を引かれました。
「……っ!?」
振り返ると、そこにいたのはやっぱり彼――リアン。
わたしの手首をかために掴んだまま、青年に冷ややかな眼差しを向けています。
「俺の妻に、軽々しく触れるな」
「は、はいっ! 失礼しました!」
青年はひぃっと声を上げ、裏庭の方へ逃げていきました。
わたしは慌てて夫を見上げます。
「ちょ、ちょっと! 乱暴しないでください!」
「乱暴だと?」
ぐっと睨み付けられた途端、胸の奥が妙に熱くなりました。
「……俺は別にお前に興味はない。だが、他の男に笑顔を見せるな」
「なっ……!」
あまりに理不尽で、呆れてしまいます。
愛人の元ばかり行くくせに、いざ自分以外の男の前で笑ったら怒るなんて――。
(なんて身勝手なの、この人は!)
怒りで震えたわたしは、思わず言葉をぶつけました。
「旦那さまこそ、毎晩他の女性のところへ通っているじゃありませんか! わたしはただ、感謝の気持ちを伝えただけです!」
ぷいっと顔を背けると、なぜか彼はしばらく唇を噛み、視線を落としていました。
そして――。
「……芋娘のくせに、随分と強気だな」
「だから芋娘って言わないでください!」
言い返したわたしの声が、庭いっぱいに響きました。
けれどその時。彼がふっと笑ったように見えたのです。
その笑みは、夜会で見せる仮面めいた艶笑とは違って――どこか本物の、素の彼に思えて。
(な……なに、それ。ずるいじゃない……)
胸の鼓動が収まらず、わたしは慌てて犬ミルの首輪をつかんで、その場を逃げるように立ち去ったのでした。
***
こうして夫との距離は相変わらず遠いままでした。
でも、ほんの一瞬。あの黒い瞳が、わたしだけに揺らいだ気がして。
それが胸にチクンと残り……少しだけ、次の日が怖くなくなるのです。
……もしかしたら。
この結婚生活は、ただ苦しいだけでは終わらないのかもしれません。
そんな予感を抱いたのは、この時が初めてでした。
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