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第10章 囁く影と噂の真実
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朝、台所に入った瞬間、空気がいつもと違うと気づきました。
わたしが姿を見せたとたん、会話の音がすうっと引いて、誰もが湯気立つ鍋に目を落とすのです。
「……おはようございます」
恐る恐る挨拶をすると、ぽつり、ぽつりと返ってきたのは、どこかぎこちない声ばかり。
まるでわたしが鍋の中に毒でも入れたかのような扱いで。
……ええ、そんなことはしません。料理の腕には自信がありませんが、食べ物に罪はないと信じております。
でも、この日を境に、わたしへの視線が変わりました。
「見た?あの女の腕、王都仕込みらしいわよ。毒のね」
「まさか本当に、王子様を……?」
「でも、罪に問われてないってことは、証拠がなかったのかも……?」
耳を澄まさずとも、囁きは風のように屋敷中を這い回っていました。
最初に声を失ったのは若い下女たち、次に厨房のマダムたち、そして村へ買い出しに行った後には、井戸端で目を合わせるのも避けられるようになっていて……。
「はあああ……」
何度目かのため息を吐いていたら、通りすがりの猫まで逃げていきました。
何をしたというのでしょう、わたし。
けれど一番こたえたのは、彼――レオニード様が、何もおっしゃらなかったことです。
わたしが朝の廊下ですれ違っても、「……」と目だけを伏せて、ただ通り過ぎるだけ。
……ええと。もしかして、これは、「気まずい」以外の言葉で形容できる何かでしょうか。
例えば、「もうお前は要らない」的な……。
どんどん暗くなる思考に押されるようにして、わたしは決心しました。
「書こう……誰かに手紙を、王都へ。わたしの無実を、証明しなきゃ……! でもどこに?」
誰にも頼らず、誰も疑わず、自分で動く。それが正しいはず。うん、そうに違いありません。
夜中、こっそりと書斎に忍び込んで、封筒に宛名を書き、インクが乾くのを待っていた、そのときでした。
「……それ、誰に出すつもりだ?」
背後から低い声が響いた瞬間、わたしはペンを飛ばしてしまいました。インクが紙にびしゃり。あああ、やり直し確定です。
「れ、レオニード様……っ!こ、これはその……あの、た、ただの……」
「手紙だな」
「…………はい」
観念してうなずくと、彼は深く息を吐きながら、机の反対側に座りました。
「王都に送って、何を証明するつもりだ?」
「わたしが、王子様に毒なんて盛っていないってことを……。わたし、もう誰にも信じてもらえないような気がして……。でも、本当のことを知ってもらえたら、きっと……」
しどろもどろの言い訳に、彼は静かに首を振りました。
「信じる者を試すな」
その一言が、まるで音もなく胸に刺さるようで、言葉を失いました。
「信じる者を、試すな?」
「俺は、お前をここに置いた。その意味がまだ分からないのか」
厳しい声ではありませんでした。
でも、それが逆に堪えて、わたしは顔を伏せました。
……信じる者を試す。
そう、わたしが今やろうとしたのは、それだったのかもしれません。
何も言わずに、何も求めずに、ただ信じてくれていた人を――。
「……すみませんでした」
気づくと、自然にそう口にしていました。
「ただ……やっぱり怖かったんです。信じてもらえなくなるのが」
「怖いのは当然だ。だが、人の口を封じる術など、俺にもない。お前にあるか?」
首を振ると、彼はふっと笑いました。
「ならば、やることは一つだ。お前自身が“ここで”何者かを示せ。それが、真実を証明する唯一の方法だ」
「……はい」
わたしは、頷きました。
彼の言葉は、遠回りなようで、たしかにわたしの内側に届いていたのです。
この場所で信頼を築くこと。この地で必要とされること。
きっと、それこそが、過去の噂に勝る“わたし”の証になる。
小さく深呼吸をして、そっとレターセットを片付けたとき、彼の手が、わたしの髪のひと房を優しく払いました。
「もう、こんな時間だ。……風邪をひくな」
そう言って、レオニード様は部屋を出ていかれました。
ひとり残された書斎で、わたしは胸に手を当てました。
――信じる者を、試さない。
それは簡単なようで、いちばん勇気がいることなのかもしれません。
でも。
それでも、わたしは信じてみようと思いました。
疑うよりも、傷つくよりも、ずっと強くてあたたかい選択を。
わたしが姿を見せたとたん、会話の音がすうっと引いて、誰もが湯気立つ鍋に目を落とすのです。
「……おはようございます」
恐る恐る挨拶をすると、ぽつり、ぽつりと返ってきたのは、どこかぎこちない声ばかり。
まるでわたしが鍋の中に毒でも入れたかのような扱いで。
……ええ、そんなことはしません。料理の腕には自信がありませんが、食べ物に罪はないと信じております。
でも、この日を境に、わたしへの視線が変わりました。
「見た?あの女の腕、王都仕込みらしいわよ。毒のね」
「まさか本当に、王子様を……?」
「でも、罪に問われてないってことは、証拠がなかったのかも……?」
耳を澄まさずとも、囁きは風のように屋敷中を這い回っていました。
最初に声を失ったのは若い下女たち、次に厨房のマダムたち、そして村へ買い出しに行った後には、井戸端で目を合わせるのも避けられるようになっていて……。
「はあああ……」
何度目かのため息を吐いていたら、通りすがりの猫まで逃げていきました。
何をしたというのでしょう、わたし。
けれど一番こたえたのは、彼――レオニード様が、何もおっしゃらなかったことです。
わたしが朝の廊下ですれ違っても、「……」と目だけを伏せて、ただ通り過ぎるだけ。
……ええと。もしかして、これは、「気まずい」以外の言葉で形容できる何かでしょうか。
例えば、「もうお前は要らない」的な……。
どんどん暗くなる思考に押されるようにして、わたしは決心しました。
「書こう……誰かに手紙を、王都へ。わたしの無実を、証明しなきゃ……! でもどこに?」
誰にも頼らず、誰も疑わず、自分で動く。それが正しいはず。うん、そうに違いありません。
夜中、こっそりと書斎に忍び込んで、封筒に宛名を書き、インクが乾くのを待っていた、そのときでした。
「……それ、誰に出すつもりだ?」
背後から低い声が響いた瞬間、わたしはペンを飛ばしてしまいました。インクが紙にびしゃり。あああ、やり直し確定です。
「れ、レオニード様……っ!こ、これはその……あの、た、ただの……」
「手紙だな」
「…………はい」
観念してうなずくと、彼は深く息を吐きながら、机の反対側に座りました。
「王都に送って、何を証明するつもりだ?」
「わたしが、王子様に毒なんて盛っていないってことを……。わたし、もう誰にも信じてもらえないような気がして……。でも、本当のことを知ってもらえたら、きっと……」
しどろもどろの言い訳に、彼は静かに首を振りました。
「信じる者を試すな」
その一言が、まるで音もなく胸に刺さるようで、言葉を失いました。
「信じる者を、試すな?」
「俺は、お前をここに置いた。その意味がまだ分からないのか」
厳しい声ではありませんでした。
でも、それが逆に堪えて、わたしは顔を伏せました。
……信じる者を試す。
そう、わたしが今やろうとしたのは、それだったのかもしれません。
何も言わずに、何も求めずに、ただ信じてくれていた人を――。
「……すみませんでした」
気づくと、自然にそう口にしていました。
「ただ……やっぱり怖かったんです。信じてもらえなくなるのが」
「怖いのは当然だ。だが、人の口を封じる術など、俺にもない。お前にあるか?」
首を振ると、彼はふっと笑いました。
「ならば、やることは一つだ。お前自身が“ここで”何者かを示せ。それが、真実を証明する唯一の方法だ」
「……はい」
わたしは、頷きました。
彼の言葉は、遠回りなようで、たしかにわたしの内側に届いていたのです。
この場所で信頼を築くこと。この地で必要とされること。
きっと、それこそが、過去の噂に勝る“わたし”の証になる。
小さく深呼吸をして、そっとレターセットを片付けたとき、彼の手が、わたしの髪のひと房を優しく払いました。
「もう、こんな時間だ。……風邪をひくな」
そう言って、レオニード様は部屋を出ていかれました。
ひとり残された書斎で、わたしは胸に手を当てました。
――信じる者を、試さない。
それは簡単なようで、いちばん勇気がいることなのかもしれません。
でも。
それでも、わたしは信じてみようと思いました。
疑うよりも、傷つくよりも、ずっと強くてあたたかい選択を。
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