【完結】神の花嫁はもう我慢しない~婚約破棄された令嬢、真実の愛と自由を手に入れるまで~

朝日みらい

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第2章:祝福を失った女、という噂

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王宮晩餐会の夜――

 楽団の奏でるハープの音色が、シャンデリアから吊るされたクリスタルに反射して、幾重にも光を織り交ぜながら、ゆるやかに響いておりました。

 金と銀の刺繍が煌めく天井、磨き上げられた黒大理石の床、そしてまばゆい光に照らされた宝石たちのきらめき。すべてが、幻想の中にいるかのような夜でした。

 そんな豪奢な空間の片隅で、わたしは“祝福花嫁”として、いつものように立っていたのです。

 背筋を伸ばして、笑顔を絶やさず、控えめで上品な仕草を心がけて――まるで絵画の中の人物のように、決して乱れてはならない花嫁の姿を、今日も演じていました。

「セシリア様、ワインがお冷えになってしまいますよ」

 そっと囁いたのは、いつもそばにいてくれる侍女のクラリス。手にしたグラスの脚に指先をかけ、わたしは微笑んで見せました。

「……あら、ごめんなさい。つい、考え事をしていたわ」

 グラスの中の赤ワインが、ゆっくりと揺れて、その色が灯の下で深いルビーのように輝くのを眺めながら、自然と視線は向こう側へと向かいました。

 ――ジークハルト殿下。

 殿下は、ミレーネ・ヴァレンシア嬢に微笑みを向けていました。

 その笑顔は、わたしが幼い頃に一度だけ見た、あの柔らかな面影とまったく同じもので。

 今でも覚えています。初めて手を取って舞踏会で踊ったあの夜の、夢みたいな時間。

(あの頃の殿下、わたしのこと……どう思っていたのかしら)

 記憶の中をたぐってみても、殿下の口から「好き」だなんて、そんな言葉を聞いた記憶はありませんでした。

 あれはただ、“義務”の微笑みだったのかもしれない。

 そんな思考を遮るように、近くの令嬢たちがひそひそとささやきを交わし始めました。

「最近、殿下ってミレーネ様とばかりじゃありません?」

「やっぱりセシリア様、“枯れちゃった”のね」

「ごきげんよう、“元”花嫁様♪」

 ――これが、王宮。栄華の裏に咲く、毒を含んだ花園です。

 美しい言葉の裏に、鋭利な棘が仕込まれている。

(……元、花嫁ですって? まだ婚約破棄されたわけじゃないのに)

 胸に刺さった棘の痛みを悟られぬよう、わたしはグラスを持つ手に少しだけ力をこめて、笑顔を保ちました。

 だけど、何も言い返すことはできません。

 わたしが感情的になって声を荒げたら、次に囁かれるのは――「品位を失った花嫁」でしょう。

「セシリア様、大丈夫ですか?」

 クラリスが、そっと心配そうにわたしの表情を覗き込みました。

 この宮殿で、わたしを“本当の意味で”案じてくれる人は、たぶん――彼女だけです。

「ありがとう、クラリス。……ちょっと、空気が薄いみたい」

「控えの間へ、ご案内します」

 晩餐会を途中で抜ける理由は、“花嫁の体調不良”という名目で十分。

 ――なんて便利な言い訳でしょう。

 でも、本当は。

(逃げたいだけなの、わたし……)

 

 控えの間は静かで、まるで時間が止まったような空間でした。

 大きな窓の向こうには、月明かりが柔らかく庭園を照らしていて、蝋燭の灯がわたしの影を長く床に落としていました。

 クラリスが、そっと毛布を肩にかけてくれます。

「セシリア様、ミューゼリアの温室、今朝少しだけ動きがありました」

「……動き?」

「つぼみのひとつが、ほんの少しだけ、揺れたそうです。庭師様が、“風が通った”と」

「風が……通った?」

 それは、ほんの些細な変化。けれど、その言葉のひとつひとつが、わたしの胸の奥に、静かに届いていきました。

 風が通る――閉ざされた世界に、新しい気配が入り込むということ。

「それって、祝福が……?」

「わかりません。でも、庭師様は確かに“奇跡かもしれません”って」

 胸の奥に、小さな、小さな風が吹いたような気がしました。

 目には見えなくても、音がしなくても――確かに、何かが動いた。

 祝福は、誰かの評価や噂だけで決まるものじゃない。

 もし、わたし自身が“まだここにある”と信じることができたなら――

(それで、いいのかもしれない)

 

 わたしは、静かに窓の外の月を見上げました。

 まるで、黙って見守ってくれているような、優しい光でした。

「……わたしは、まだ……咲けるのかしら」

 誰も答えてはくれません。

 でも、月は――変わらず、静かに、そこに在りました。

 

 そして翌朝。

 王宮の大理石の廊下を歩いていたとき、ミレーネ嬢がわたしのそばをすれ違いざまに通り過ぎながら、口元を隠して笑いました。

「まあセシリア様、今日のお召し物……少し地味ではなくて?」

 澄ました声音、そして仄かに漂う香水の香り。

「祝福の力が弱まると、お色も控えめになるのかしら」

 ええ、その通りです。

 これが、“マウント取り”という、王宮の社交における無言の戦。

 たとえそれがどんなに些細な嫌味であっても、この場所では“格付け”の材料になるのです。

 だけど、わたしは微笑んで返しました。

「それでも、こうして咲いていられるのは、女神のおかげですから」

 声色は柔らかく、けれど芯は通して。

 だけど、心の中では――

(……見ていなさい。枯れてなんか、いない。絶対に)

 

 そしてわたしは、誰にも告げずに温室へ足を運びました。

 王宮の片隅、誰もあまり立ち入らない、わたしのひそかな隠れ家。

 そこに咲かないままの白いミューゼリアの蕾が、静かにたたずんでいました。

 わたしはしゃがみ込み、その蕾にそっと手をかざします。

「あなたも……咲きたいのよね」

 静かな問いかけに、答えるかのように――ふっと風が吹いて、蕾がゆるやかに揺れました。

「……今、揺れた?」

 それはまるで、心の奥底にある何かが、ふわりと解けるような感覚でした。

 わたしの胸の奥に、確かな手応えがありました。

 あの日の出来事は、後に宮廷を揺るがす陰謀の火種となるのですが――

 この時のわたしには、まだ何も知る由もありません。

 けれど、ひとつだけ確かだったのは。

 

 あの瞬間――

 わたしは、もう“枯れた花嫁”なんかじゃなかったのです。

 

 ――祝福は、まだ、ここにある。
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