少子高齢化社会に絶望した若者達が現代日本に革命を起こす物語

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第三部 若者達の苦悩


第一章 瓦解

二〇二四年十月十五日
「M9.1 国内観測史上最大」
 十四日午後十一時二十五分ごろ、駿河湾から日向灘一帯を震源とする連動型の超大型地震が発生し、静岡県から宮崎県の沿岸各地で震度7を観測した。北海道から九州にかけての広い範囲で震度6強~1の揺れと、津波に見舞われ、死者・行方不明者は、現在わかっているところ、中部、近畿、四国地方を中心に一千人を超えている。地震の規模を示すマグニチュード(M)は9・1で、二〇一一年三月十一日発生の東日本大震災以降、国内で最大となった。【日本情報新聞 小岩 雄二】

二〇二五年五月十二日
「増大する復興費 逼迫する国民の生活」
 昨年十月十四日に発生した大地震は、国内各所に甚大な被害をもたらした。地震によって破壊されたインフラの整備や沿岸各地の津波による瓦礫撤去等で、かかる復興予算は百兆円にも登ると見積もられている。二〇一一年三月十一日の東日本大震災以降、企業は大災害にも対応しうるような事業継続計画を立てることが求められてきたが、それでも先の震災は多くの事業者に深刻なダメージを与えた。これにより、企業は人件費を大幅にカット。多くの非正規雇用者が契約を打ち切られ、正社員のリストラも後を絶たない。一方で、国民の支出は増大している。先述の復興費はもちろんのこと、団塊の世代 が後期高齢者となり始め、医療、介護、年金に対する労働者世代の負担額は増してゆくばかりである。増加してゆく支出と減少してゆく賃金。国民の生活は、今まさに圧迫されている真っ只中にある。【曙新聞 谷本 武尊】

二〇二五年九月二六日
「暴走する若者達」
立て続けに若者の暴走が起こっている。今月一七日に、中央線の最後尾車両で刃物を持った二六歳の男が暴れ回り、駅員が取り押さえるまでに逃げ場のなかった計二名が重傷、四名が軽傷を負うという事件が発生した。同様の出来事はここ数年で激増している。例えば、五ヶ月前の四月九日には、大阪梅田の繁華街で、軽トラックに乗った二十八歳の男が車を暴走させ、一名が死亡、七名が重軽傷を負うという悲惨な事態となった。また、昨年には、蒼山学院大学の講義室において、同大学の女子学生が無断で立ち入った二十二歳の男にナイフで刺殺されるという事件が起こった(容疑者の男はその後、持っていたナイフでその場で自決)。こうした若者の無謀的犯行は、近年、件数を増している事件形態であり、これが震災以降抱える現代の社会不安と因果関係があることは否定できない。
いや、時代を遡れば、バブル崩壊後より我が国は少しずつ蝕まれてきたのである。多くの日本人はそれに気付いていながらも、その事実から目を背けてきた。「失われた十年」を経て、国民は日本という国に対する希望よりも、むしろ不安を抱えて生きるようになった。その雰囲気は子供世代にも受け継がれた。彼らが生まれた時から国は借金を抱えており、国の将来について後ろ向きな報道が多くされてきた。そのため、若者世代は夢を持つことよりも将来の安定を求めるようになった。事実、文部科学省の調査において、先の未来に希望が持てないと答えた中高生の数は全体の六割強にも及んだ。それもそのはずで、子育て支援に乏しい日本では子供を産むことはリスクと捉えられ、今後ますます少子高齢化は進み、労働人口は減少していくことが見込まれる。しかし、それに反して年金受給者は増していくため、その負担は働く世代に重くのしかかる。したがって、手取り賃金は下がる一方である。企業は内部留保 を溜め込み、安い賃金で雇える労働力を欲する。すなわち、外国人労働者や派遣労働者を雇い、必要でなくなったら切り捨てる。一方で、正社員はというと、働き方改革が進んだとは言え、未だブラック企業と言われる会社は蔓延している。若者達は、日々、低賃金、長時間の労働に追われ、将来への不安から結婚し子供を作ることもできず、何のために生きているのかわからず、自暴自棄になり、中には先に挙げたような無謀的犯罪を起こすものが出てくる。おそらく、このような事件は今後さらに増加していくだろう(もちろんそうあってほしくないと筆者は切に願っているが)。追い詰められた若者達の救済が今求められている。【週刊未来 大木 見誤】

二〇二四年十月十四日、西日本を震源とする大地震が起こった。巨大な揺れは建物や各種インフラを破壊し、街では火災が起こり、沿岸部の一部地域は津波により消失した。過酷な避難生活などによる震災関連死も含めると、最終的な死者数は十万人以上にも上る。また、震災の余震は、日々、日本全土を揺らし、その度に人々の心に地震の恐怖を蘇らせた。不幸中の幸いは、原発関連の事故が発生しなかったことか。地震による停電直後、即座に非常電源が起動し、メルトダウン は回避された。また、東日本大震災以降高く設置された堤防は、原発設置地域の津波による浸水を防いだ。
しかし、それでも、震災による経済損失は深刻だった。日本の主要産業である製造業は原材料、部品、部材調達の滞りにより大打撃を受けた。製造業の停滞は各産業にも影響し、景気の悪化を後押しした。業績不振による倒産、リストラは中小企業を中心に件数を増した。また、大企業においても、新規採用数は激減し、派遣切りを行ったり、早期退職を奨励したりするような会社が増えた。就職難民は数を増した。 
加えて、物資不足による物価上昇や重い社会保障負担が、賃金の低下する国民をさらに苦しめた。人々は生活に余裕がなくなった。特に、十分な財産のない若者達はその影響を大きく受けた。生活が圧迫されたことにより、すり、万引きなどの軽犯罪は多発し、強盗や無差別刺傷事件など、凶悪犯罪のニュースも度々目にするようになった。また、金を欲した若者達が特殊詐欺 の末端を担がされ、検挙されるような事例は枚挙にいとまがなかった。日本の治安は確実に悪化していた。
能力のある若者は、以前にも増して海外志向が強くなった。この先、優秀な人間は、海外に移住したり留学したりして、じきに人材の流出は歯止めが効かなくなるだろう。だが、日本脱出を達成できる人間は、一部の能力のある者か資産のある者のどちらかである。残された者達は、国内政治の在り方を憂い、時代は救世主的な強いリーダーを求めるようになっていた。

第二章 集会

多摩市、愛宕(あたご)に今はもう廃校となった小学校の跡地があった。かつて、愛宕団地に住む子供達が通っていた学校だ。多摩ニュータウンの開発と共に活気付いたこの地も、団地の老朽化と共に働き盛りの若者達が離れてゆき、街は高齢化、過疎化が進んだ。団地から少し離れた場所には、公に開かれたコミュニティセンターがある。ここには、目的に応じた多種多様の集会所があり、申請すれば誰でもその集会所を利用することができる。今、その集会所の一つから、一人の青年の勇ましい声が聞こえてきている。
「もはや、俺達若者に未来はない! 震災の影響で追い詰められた企業は人件費を削減し、可能性のある若者よりも、安い賃金で働かせられる外国人労働者や即戦力となる人材を必要としている。今まで、学校教育において専門教育を受けてきていない若者達は、この国難の状況に伴い政府からも企業からも見放されている。その結果、今や若年者の大半が貧困に陥っている状況だ。それでもなお、政治家は自分達の立場を守るため、人口のボリューム層である高齢者を優遇する政策を推し進めている。もはや、国なんて信用してはいけない! 俺達若者は自分達の手でこの国の未来を掴み取るしかない! 少子高齢化の波は止まらず、労働人口は減少し、社会保障の負担額は増え続けている。このままでは、俺達若者は、老人共を養うために自らの心身を削りながら働き、しまいには見返りを得ることもなく死んでゆくばかりだ。それどころか、自ら命を絶つものも大勢出るだろう。日本の若者の自殺率は世界でも有数だ。これが、俺達が生きていく日本の姿か? こんな世の中を今から変えるためには、もはや常識の枠を飛び超えた発想で現状を変えていくしかない! この一年半、CRYを創って以来、俺は来る革命のためにずっと準備してきた。初めはみんな、俺達が何を訴えてもまるで相手にしていなかった。しかし、あの震災以降、若者の生活は本格的に苦しくなり、今、時代は俺達を求めている。今こそ、俺達がこの日本を救うべきなんだ!」
 青年は白のインナーに紺のジャケット、下は黒のスキニージーンズを履き、清潔感のある格好をしている。皆に演説したこの男の名は東條聡。現在、東大大学院に在籍し休学中の二十三歳である。今日の集会には、ざっと七十名ほどの人間が集まった。だが、この集会はミーティングアプリでリモート中継されており、ネットでの参加者を含めると、その数は実に二百人にも及ぶ。その多くは大学生やフリーターといった若者で構成されているが、中には、三十代半ばのサラリーマン、高校生、それに専業主婦までいる。一見、統一性のある集団とは見えないが、彼らには、今一人演説を行っている東條を崇拝しているという共通項がある。この一年半、CRYを結成して以来、東條は地道に呼びかけや広報活動を行い、組織は着々と成長してきた。会合に参加するメンバーは増え、東條はそのカリスマ性で彼らの信頼を得た。会員は皆、東條のことを、震災による社会不安や生活苦から救う日本の救世主とみなしていた。
「そうだ! クーデターしかない! こんな世の中を変えるためには腐った政府を打倒するしかない! 化学兵器でも作って国会議事堂前にばら撒くか。それとも核を作るか。俺が先陣を切って官邸に自爆テロを起こしてもいい」
 いつものように威勢よく息巻いたのは相馬波留という二十一歳の男だった。東條の演説が終われば相馬が勢いよく同調するのは毎度決まった流れだった。
「波留、前から言っているだろう。軍事訓練も受けていないただの小集団が国を相手に武力闘争を仕掛けたところで、すぐに弾圧されて終わりだよ。核や化学兵器の作製も非現実的だし、そもそも人道に反する。それと、君の自爆テロはもっての外だ」
 東條が相馬を諫めた。相馬は少ししゅんとした。この集会において相馬を黙らせることができるのは東條ただ一人だった。
「なら、どうするんですか?」他の参加者が少し抑え気味の声で言った。
「それは今、準備していることがある。詳しくはまだ言えないが、近いうちに公表するつもりだ。これが進めば俺達の目的に一気に近づく。あなた達にやって欲しいのは、引き続き、ネットを使っての広報活動、それに仲間集めだ。この会合に参加しているのは大学生が多い。君達は社会人の会員と比べたら、比較的自由に動ける立場にある。手の空いた時間はぜひ、これらの活動を進めて欲しい。無理を言って申し訳ないが……」
 すると、眼鏡をかけた小太りの大学生が立ち上がって喋り出した。
「俺達は他の思考停止している大学生とは違う。あいつらは、政府の言っていることが正しいとして、まるで自分の頭で考えようとしない。まさしく、戦争から八十年が経ち、平和ボケした日本人の典型だ。あいつらは、飲み会だの、合コンだの、そういったことにうつつを抜かし、現状の問題から目を逸らし続ける。そして、いよいよ自分の身に問題が降り注いだ時、初めて事の重大性に気付いて騒ぎ始めるんだ!」
 集会所にいた他の女性会員も立ち上がって同調した。
「そうです! 今、最も重要なことは、大学に行って何の役にも立たない講義を聞くことよりも、この組織の活動を広めていくことだと思うんです。私達の未来はもう誰も救ってはくれない。なら、自分達で未来を幸せに生きる権利を勝ち取るしかない。私はCRYに入って、東條さんの話を聞いていて、この組織がまさにそういう考えを持つ人々の最前線にいるということを確信しました。私は、東條さんと共に新しい日本を創っていきたいです!」
 集会の参加者達はしきりに頷き、彼女の言葉に賛同の意を表した。この集会における東條という存在の絶対性は火を見るよりも明らかだった。
 
第三章 利用

 会合は終わり、会員はそのまま出口に向かう者、仲間同士で今日の集会の内容について議論を交わす者、東條に直接意見を申し出に行く者に分かれた。サラリーマンの松山誠心(まつやま せいしん)はこの集会の常連参加者だった。松山は、立川市の中堅建設会社に勤める営業マンだ。彼がこの集会に参加し始めた理由は、ここにいる多くの人間のように今の日本社会に疑問を持っていたからではなかった。松山が初めてこの集会に参加したのは半年ほど前になる。きっかけは、お得意様の会社の部長からよからぬ噂を耳にしたことだった。なんでも、大学生の娘が最近、CRYという妙な集会の話をしきりにするとのことである。その部長は胡散臭いと思い、妙な活動に参加するのはやめるように言ったところ、その日から娘は口をきかなくなったとのことである。自分で行ってその集会を確かめたいが、娘に見つかるとさらなる反発を受けてしまう可能性がある。そこで、偶然その話をした松山に、よければ集会の詳細を確かめてきてほしいと依頼してきた。人のいい松山はこの申し出を断ることができなかった。
松山もこの部長と同じく、初めて集会の話を耳にした時は、何だかきな臭い集団だなと思った。若い内は何者かになりたがる。世の中の全ての大人を敵とみなし、自分達はそれに立ち向かう正義の集団だと位置付ければ、それは大変気持ちの良いものである。そういった反体制的な雰囲気を持った集まりは、松山が大学生の頃にも周りに存在していたので(もっとも、松山自身はそういった集まりとは無縁であったが)、彼は前もって「そういう属性」の集会なんだろうなというイメージをしていた。しかし、その日、初めて集会に参加してみて、松山は二十そこそこの東條という青年に一種の尊敬を抱いた。彼とて、もう二十年以上も社会人をやってきており、世の中の大概の種類の人間は見てきた。故に、一見、魅力的に見える人間も、嘘や偽善といった何かしらの仮面を被り生きていることを彼は経験から知っていた。そのため、ここ数年はそういう人間に出会っても、感嘆を覚えることなどなく、その人物は自分の中にデータベース化された何らかのカテゴリーの人間に分類されるだけだった。だが、この東條という男はどうだ。雄弁な語り口、全てを信頼できるようなその雰囲気は、確かに演技の上手いしたたかな政治家に似通った部分はあるのだが、東條をもってすれば、それは本物の「正義」に思えるのだった。それが、精悍な態度に不釣り合いな若さから来るものなのか、それとも、彼が何か松山の知らない特性を持つからなのかはわからなかったが、長い社会人生活で多くの人間に出会ってきた松山も全く感じたことのない印象を東條は放っていた。何はともあれ、この集会は松山にとって、若者の本音を聞くことのできる良い環境であるように感じ、土日に会合があれば出席するようになっていた。そして、気付いたらCRYへ正式に入会していた。

 この日の集会が終わると、松山は立川にある行きつけの居酒屋へ向かった。いつもは仕事帰りに一人晩酌をするために訪れるこの店だが、今日は人と会う約束をしていた。居酒屋に入ると、松山は店員に予約していることを告げ、奥の方の個室に誘導してもらった。松山が予約席に着くと、待ち合わせの人物は既に座席に座っていた。
「佐々木さん。お待たせしてすみません」松山は、佐々木と呼んだ男に対面して腰掛けた。
「いえいえ、私も今着いたところですから」
松山が佐々木と知り合ったのは、三か月ほど前である。出会った場所もこの居酒屋だった。松山はその時、酔っ払いの客に悪口を言ったとかで因縁をつけられ、絡まれていた。この居酒屋はオフィス街の付近にあり、客層は良い店だったので、そんなことは松山にとって初めての経験で動揺した。そこを仲裁に入って、場を収めたのが佐々木だった。松山は佐々木に感謝した。その数日後、同じ居酒屋で二人はばったり再会した。聞けば、佐々木は松山と同じく営業の仕事をしており、この辺りにお得意の取引先があるのだという。佐々木は太めの体格に猫背で、垂れ下がった細い目は柔和な印象を与え、ぱっと見、冴えない風貌に見えたが、その所作や話し方にどこか教養と品を感じさせる男だった。二人は仕事や家族への不満などで意気投合し、二軒目はバー、三軒目にカラオケのあるスナックに行き、その日は大いに盛り上がった。その後も、松山と佐々木は互いに連絡を取り合い、たまに飲みに出かけるような仲になった。松山にとっても、若い時に比べて最近はそういった友達がめっきりいなくなっていたため、佐々木の存在はありがたかった。
松山は佐々木に会う度に、普段溜め込んでいる多くのことを打ち明けた。家族の中で誰にも相手にされず、金を運んでくる男としか見られていないこと。会社でも、大人しく真面目な松山に多くの仕事がのしかかってくること。係長という役職柄、若い社員と気軽にコミュニケーションを取ることができず、彼らが何を考えているかわからないこと。悩みの種は、実に多種多様だった。佐々木はそういった話の全てに、実体験を交え共感してくれたので、松山にとってはとても心地が良かった。松山は佐々木の聡明さや品性を感じる佇まいに信頼しきって、家庭、会社、果てはあの集会のことまで、酔うとつい何でも話してしまっていた。
「今日も行ってきたんですけどもね。ええ、例の集会です。いやぁ、若者のエネルギーは凄いです。最近の若者はけしからん、なんてよく言いますけども、僕らが見習うべきことはたくさんありますよね」
 松山はビールジョッキを片手に、顔を赤くしながら興奮気味に話した。
「ええ、全くですね。もう何度目でしたか? 例の集会は」
「もう七回ぐらいになるでしょうか。知り合いから聞いたのがきっかけでしたが、今ではどっぷりとハマってしまいまして」
「そうなんですか。ベテランですね」
「ええ、哲也さんも今度一緒にどうですか? ためになるようなことは結構ありますよ」
 佐々木は持っていたビールを飲んで、「興味がありますね」と軽く微笑んだ。「ところで、松さん。最近はお仕事の方、どうですか? 相変わらず大変にしているんでしょう?」
「ええ、大変なんてもんじゃありません。超、大変ですよ」松山は大げさに笑った。既に少し酒が回ってきている。
「どうかされたんですか?」
「いや、ちょっとトラブってましてね。まあ、大したことではないんですが」
「というと?」佐々木は松山の話を促した。
「いやね、来年から建設開始する超大型の老人ホームをうちも手がけることになっているんですが、周辺に厄介なのがいましてね。まあ、端的に申し上げると、建設予定のその土地が、ヤクザがみかじめ料 を徴収している地域なんですが、うちの上のゼネコンの役員がそのヤクザと癒着があるらしく、下請けのうちにもヤクザへの上納金を上乗せした額を請求しているみたいなんです」
松山はため息をついた。佐々木は彼の話を聞いて腕を組んだ。松山は続ける。
「会社としてもそれはわかっていますが、うちのような下請け会社は、ゼネコンの言うことは結局従わなければならないのが現状です。ただ、こうも彼らの言いなりにばかりなっていてはねえ。うちもいずれは、いいように利用された挙句潰されかねないですよ」
「そんなことが……。建設業界も難儀なことはつきものなんですね」
「ええ、すみませんね。こんな話をしてしまって。今のはオフレコでお願いしますね」松山は人差し指を口で立てた。
佐々木は何やら考え込んでいた。しかし、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「松さん、その問題、何とかできるかもしれません。そのゼネコンの社名など、もう少し詳しく情報を教えていただけますか?」
「え? 本当ですか? いや、しかし全く無関係のあなたが一体どうやって?」松山は問い返した。
 佐々木はそれまで頬杖をついてビールを飲んでいたが、姿勢を正し、松山に向き直った。
「松山さん、私は本当は警察官なんです」
ここは個室になっており、かつ周囲のテーブルにはまだ客はいない。だが、佐々木はより一層声を抑えて、確実に松山にだけ聞こえるようにそう言った。佐々木の突然の告白に松山は動揺を隠せなかった。
「え? なんで? 嘘?」
 松山はアルコールで顔を赤くしたままだったが、その顔からは酔いの表情は消えていた。
「気を張られるのが嫌だったんです。警察官ということを明かせば、大抵の人間は何かしら警戒心を抱くものですから。私だって、警察バッジを取って制服を脱げば、このように普通の人間なのですが。ともあれ、今まで嘘をついていて本当にすみませんでした。しかし、松さんが困っている現状を知ったからにはそれを見過ごすことなんてできません」
「哲也さん……」松山は頭を下げる佐々木を見つめていた。

 それからというもの、松山の元には佐々木からの連絡は一切なかった。もしかしたら、佐々木は自分を騙すために警察官だと嘘をつき、汚職の情報を何かしら利用しようとしているのかもしれない。そんな疑念も松山の頭には少しだけよぎった。しかし、それからさらに二週間が経ったある日のことだった。松山がふとテレビを見ていると、あのゼネコンの役員が恐喝罪に、そしてそれに関与していた組長も組織犯罪処罰法違反に問われたというニュースが流れてきた。ゼネコンの経営陣は、会社として下請け業者を含めたステークホルダー などに謝罪しつつも、今回の件はその役員の独断によって行われたものであるとの見解を述べ、大型老人ホームは予定通り着工すると表明した。松山は、一連の出来事は間違いなく佐々木の仕業であると思った。松山は、到底力の及ばないことだと感じていた問題が、こうもあっさりと解決されたことに驚きを隠せなかった。彼はすぐに佐々木に電話を掛けて事実確認を行った。佐々木の返答は一言、「一度お会いしましょう」だった。
 その週末、松山と佐々木は西麻布にある個人経営のバーで待ち合わせた。場所は佐々木の指定だった。約束の時間は十七時。店内に入ると、バーにしては時間が早すぎるためか、客は誰一人おらず、カウンターに五十代くらいの髪をオールバックに固めたマスターが一人いるだけだった。マスターは松山を、カウンターから離れた個室に案内した。そこに佐々木の姿があった。
「驚きました。まさか、本当にあの問題を解決していただけるなんて。何とお礼を言ったらよいのか」松山は佐々木に恐縮した。
「とんでもない。犯罪を知ってしまったからには、それを摘発するのが警察官の役目ですから。私は少しでも松さんのお役に立てたことが嬉しいんです」
 佐々木はいつも通り、謙虚で品のある話しぶりで返した。
「いつもいつも私ばかりお世話になって。飲みに行っても私の愚痴ばかり聞いてもらっているような気がしますし。何か哲也さんが困っていることがあれば力になりたいのですが……」
「困っていることですか……」
「あるのですか?」
 佐々木は言うべきか悩んでいるような顔をした。
「哲也さん、自分は他言はしないと約束しますよ。営業の仕事も信頼関係が大事でね。私にできることであれば何でも言ってください」
 松山は嬉々として答えた。佐々木はなおも考え込む姿勢を継続した。佐々木の手元の、まだ一口も口をつけられていないジン・バックのグラスが氷の音を立てる。数十秒の沈黙の後、佐々木は意を決したように口を開いた。
「松さん、実は私は……ただの警察官ではないんです。公安警察なんです」
 松山の顔が固まった。佐々木は続ける。
「松さんに近付いたのは全て計画です。ゼネコン汚職の件も、松さんを調査する段階で、松さんよりも早くに知っていました。それだけじゃない。松さんの家庭環境、職場での状況、その他全て調べたあげた上で、あの居酒屋で松さんに接触しました。私達が友人になったのは偶然ではない」佐々木は真剣な顔で松山に話した。
「何のために……」松山が問うた。
「少し長くなってしまいますが、どうか聞いてください」
佐々木は毅然とした態度で続けた。
「私はこの国の国民を、危険をもたらす可能性のあるあらゆる反乱分子から守るために行動しています。私は松さんが現在参加しているあの集会のことを、実に三年前の今の前身組織の時から把握していました。最初の集まりは、政治に関して勉強する小さなセミナーでした。あの段階では、あの集会は全く問題のある集まりではありませんでした。リーダーの彼も、全く危険な存在ではなかった。ただ、その後もマークは続けていました。そこに参加していた相馬という高校生ですが、私は東條というよりも、彼、相馬の動きをずっと監視していたんです。なぜなら、相馬は中学三年の時に、一度威力業務妨害の疑いで逮捕されているんです。理由は、原発を爆破するという内容を電力会社や役所のホームページに書き込んだことでした。彼曰く、あのような爆破予告を出してそれが話題になれば、皆、原発の恐ろしさを再認識して再稼働させたくないと思うだろうと考えたからだそうです。動機としては、正義感が行き過ぎた、まだ分別のつかない中学生のものとして理解できなくもありません。しかし問題は、彼が本当に、自部屋で爆弾を作ろうとしていたことなんです。今の時代、ネットを検索していけば、曲がりなりにもそういった情報は手に入ります。相馬は、爆弾の作製に必要な薬品を学校の化学室に忍び込むなどして収集していたんです。もちろん、それでも中学生のやることです。集めた薬品で爆弾が完成するとは到底言えませんでしたがね。彼の家宅捜索の際にそれが判明して、それらは全て没収されました。結局、相馬は保護観察処分となりました。しかし、私はこの時から、相馬を危険思想の人物としてマークすることを上から命じられたんです。一般市民の松さんからすれば、たかだか中学生のマークに一人の公安警察があたるということは理解し難いかもしれません。しかし、彼の中には、幼少期に経験したある体験が影響して、日本政治に対して激しい憎悪が存在しているのです。彼は頭が良く、また勤勉であるがために、その憎しみを増幅させながら成長すれば、我々にとって厄介な人物になる危険性があった」
「相馬は大学入学後、政治活動を始めました。彼は仲間を募り小さなデモを行いました。東條も活動に少し参加はしていたようですが、その時、全体的な指揮は相馬が執っていました。この時も、熱心な学生の政治ごっこという感じで、正直全く脅威ではなかった。しかし、一年半ほど前から東條が統率を取り出して以降、彼らは明らかに変わりました。彼らは震災による社会不安の高まりと共に力を増し、徐々にその危険な思想をあらわにし始めました。彼らが若者のために動く理念は、今の閉塞した社会情勢を鑑みると確かに納得する部分もあります。しかし、やり方が問題なのです。東條と相馬は、若者への所得分配をするために、この国の高齢者層を切り捨てようとしています。そして奇しくも、東條には皆を先導するための、ある種カリスマ的な能力がある。それは松さんがよくわかっているところでしょう。若者の有り余るエネルギーは、時に良からぬ方向に突き進んでしまう可能性があります。もし、彼らが今よりもさらに力をつけ、多くの若者を先導するようになれば、その動きは暴走し、国民の生活を危険に晒す可能性があります。私はそれを危惧しているのです」
 今度は松山が考え込む番だった。松山は複雑な表情をして佐々木を見ていた。 
「松さん、私はこの立場にあるため、全てをあなたに話すことはできませんし、私の発する言葉は常に思惑をはらんでいるように思えるかもしれない。そして、それは事実です。しかしそれでも、私を信じて、私に協力してくれませんか? あの組織が暴走しないか監視するために、集会の内部にいて情報を流してくれる協力者が私には必要なのです」
 松山は数秒考える仕草をしていたが、答えは既に決まっていた。
「わかりました。哲也さんを信じて協力しましょう。あなたがどんな立場であろうと、私を救ってくれた恩人であることに変わりはない。あなたの目的のために私の存在が有用だというならば、どこまでも私を利用してください。私は少しでもあなたの力になれればいい」
 松山は決然とした表情で佐々木の目を見てそう言った。
「松さん、ありがとうございます」佐々木は松山に深々と頭を下げた。 

「最近、土日に出かけてることが多いわね」
 普段自分に無関心な妻が話しかけてくるのは珍しいなと松山は思った。
「ああ、ゴルフの練習でね。接待が多いんだ」
 松山は、何か都合の悪いことを聞かれた時のために予め用意しておいた台詞を吐いた。営業マンはとりあえず接待を理由にすれば大概のことはごまかせる。
「そう。ところでね、お父さん。魁斗のことだけど。中学からは私立に行かせた方がいいと思うのよ」
松山の妻、玲子は夫の回答は特に気に留めることもなく、すぐに自分の本題を切り出した。どうやらさっきの松山に対する質問は、自分の主張をする前のジャブ程度の意味合いだったらしい。言われなくても松山は、玲子が息子の私立中学受験を前々から検討しているのは知っていた。なにせ、近所の奥さんからもその話をされたぐらいだ。玲子もそのことは知っている。とすれば、珍しく話しかけてきたその意図は、息子の中学受験の決意表明ではなく別にあると松山は考えた。
「魁斗はもっといい塾に行かせるべきだと思うのよ。今の塾は先生の質が悪いってみんな噂してるわ。公立の学校でもちゃんと勉強はできるし、学校の課題をきちんと頑張っておけばいいっていうスタンスなのよ。要は受験に対する意識がお粗末で指導も甘いの。友達の西川くんの塾は先生が有能で、みっちり受験のための指導をしてくれるらしいのよ。お金はかかるけど、でも私達が切り詰めれば何とかなると思うの」
 玲子は一気に自分の考えを述べた。要は、息子の塾の費用がかさむからあなたの小遣いを減らすけど問題ないわよね、ということだ。家計の管理は妻に一任されていたため、実際にどういったお金の動きがあるかは松山は知らない。しかし、彼は、息子の成績が私立中学受験のためには奮っていないことは知っていたが、それは塾のせいというよりも息子自身のやる気が問題ではないかと思っていた。松山は、妻が買い物に行った途端、勉強机から離れゲームを始める息子の姿をよく知っていたし、それについて特に息子に怒ることもなかった。なぜなら、松山が何か子供に注意をしようものなら、それがだいぶ捻じ曲げられた情報で玲子に伝わり、余計なことはするなと激怒されることになるからである。松山はそれを学習して、子供のことについてはもう何年も口を出す事はなかった。いつしか、松山は二人の子供について関心がなくなっていき、彼らと会話をすることもほとんどなくなっていた。
「ああ、それなら仕方ないな」
「ありがとう。いつも頑張ってくれてありがとうね」
 玲子は機嫌良くそう言った。彼女が夫にお礼を言うのはこういう時だけだった。

 夕飯どきになって、松山の高校生の娘である由梨恵が二階の自分の部屋から降りてきた。彼女は食卓の料理に驚いて声を上げた。
「今日、晩御飯すごくない? どうしたの? これ」
「お父さんが毎日お仕事頑張ってくれてるからこんなご飯が食べれられるのよ。ほら、みんな、お父さんを応援しないと。フレーフレーおとーさん! フレーフレーおとーさん! わー!」
「ママ、恥ずかしい」
 由梨恵は笑いながらそう言った。松山の息子の魁斗は、何も言わずテレビに目線がありつつも微笑していた。息子は先程、玲子から塾の変更についての話を聞いた。松山は、この三人と自分の間には、見えはしないが分厚いガラスの壁があるように感じた。
「あ、CRY」
 ふと由梨恵が口にした。松山は突然のその言葉に一瞬ビクッとした。食卓のテレビにはCRYが路上でデモを行う映像が映し出されていた。
「最近よく見るわね。この人達」
 玲子は一瞬テレビに目を向けたが、またすぐに食卓に視線を戻した。
「イケてない? だって岡田健斗も推してるんだよ」
 由梨恵は岡田健斗という俳優の大ファンだった。松山は、よく妻と娘がその俳優について話しているのを知っていた。
「そう。でも、なんだか怖いわ。あの集団」
「若者のための活動だよ。汚いおっさんに偉そうにされるよりよっぽどいいわ」
由梨恵は松山の方をチラッと見ながらそう言った。娘はその組織の暴走を阻止するために動こうとしている人間が、今、目の前にいるとは夢にも思わないだろう。松山の箸を握る指先の力がほんの少しだけ強くなった。

第四章 展開

東條が提唱したのは、年金給付額の削減、給付年齢の引き上げ、高齢者の医療自己負担額の増加、さらには議員歳費 の減少だった。そして、削減した歳出を使って教育改革に力を入れる。東條は、大学、大学院まで全ての教育課程における学費を無償化し、小学校の段階からICT教育 が受けられ、かつ、IT、投資、経営などといった専門スキルを習得できるような環境を整備すべきだと提案した。また、子育て支援策として、各種補助金の拡充を主張した。こういった意見は、若者世代、労働者世代には大層ウケが良かったが、一方で、高齢者切り捨てだという批判や、東條の倫理性を追及する声も多く上がった。確かに、これらの政策を進めることにより、生活の苦しくなった高齢者達は働き口を探し始めるだろう。しかし、このご時世、彼らはまともな労働環境にありつけず、生活が困窮し、高齢者層の孤独死や自殺は件数を増す可能性もある。しかし、東條はそういった周囲の声をものともせず、積極的に彼のビジョンを発信していくのだった。
CRYは、インターネットやSNSを多分に利用した現代版の革命組織だった。かつて多くのテロ組織や革命集団が試みた武装蜂起は、まだ政情が不安定な発展途上国ならともかく、これだけ国家体制が固められた現代の日本においては成功するはずもない。事件を起こせば、恐らくセンセーショナルな話題をかっさらうことはできるだろうが、それでもその効果は一時的なものである。そこで、東條が提示したのが、ネットの活用だった。組織のウェブサイト作成をはじめ、ツイッター、インスタグラム、ユーチューブ、ティックトックなど、使えるものはなんでも使い、まずCRYの認知度を上げることを試みた。注力したのはデザイン性の追求であった。目の肥えた現代人にとって、パッとわかるかっこよさやおしゃれさというのはフォロワーを増やすために最も重要なことである。そこには特に力を入れた。様々なインフルエンサー を真似したり、時にはそういう人々にダイレクトメッセージ を送ってアドバイスを請うた。CRYのプロモーションビデオを作成する際は、有名ユーチューバーやテレビ番組の演出も研究し、魅力的に見える動画づくりに力を入れた。そして、これらのSNSの更新も毎日欠かさなかった。キーワードは、「いかに若者ウケするか」だった。東條は組織結成当初、会員にそういったことを徹底的に研究させた。会員には元々、SNSや編集、情報収集といったことに長けている者もいればそうでない者もいた。しかし、前者は自分の才能が発揮できる機会が得られたことを喜んでいたし、後者も新鮮味を感じて積極的に活動に参加していった。初めは少なかったフォロワー数、視聴回数も、社会の不安定化と共に徐々にではあるが増えていき、それぞれの媒体で十万人を超えるフォロワーを得ることができた。これにより、CRYは広告収入や若者向けの企業案件といった資金基盤も手にすることとなった(それまでは、会員費や、少しのクラウドファンディング 資金ぐらいしか金を集める方法がなかった)。
しかし、ある決定的な出来事が起こるまでは、CRYの知名度は、ネットをよく利用する人で知っている人は知っているという程度だったのも事実だ。その出来事は、つい最近起こった。それは、人気俳優、岡田健斗のフォローだった。岡田はそのルックスや演技力で、現代の芸能界で最も売れている俳優の一人である。他方で、岡田は二十七歳という年齢でありながら、歯に衣着せぬ物言いが度々話題になる男でもあった。昨年、自身が主演した戦争映画の記者会見で、戦勝国の歴史観を非難するような発言をしたのは記憶に新しい。この発言は一時、国際問題にまで発展し、日本の外務大臣が公の場で釈明するまでの大騒動となった。岡田の発言に対しては、日本国内でも批判的意見が多かったのは確かであったが、一方で、内心では岡田に賛同していた人が多く存在したのもまた事実である。こうした、建前ではなく、自分達の本心や現実と向き合おうというのが岡田という俳優のスタンスであり、その姿勢は一種のカリスマ性を人々に感じさせた。そんな彼がCRYをフォローし、こうツイートした。
「CRY最近知ってからずっと追ってる。なんかさ、もう綺麗事じゃ収まりつかねえ気がすんだよこの世の中は。俺は一時期悪者にみたいになってすげえ叩かれたけど、でも都合のいい物や綺麗な物ばっか見てねえで現実に向き合えって。この人たちはそれをやってんだよ。リーダーの彼、俺より年下か…すごいな」
岡田のこのツイートはネットニュースとなり、組織の知名度は瞬く間に跳ね上がった。それから僅か二週間足らずで、CRYのプロモーション動画は一千万回も再生されるほどとなった。それに伴い、情報番組やワイドショーを通して、CRYの活動やリーダーである東條のことが取り上げられるようにもなった。入る金や社会的影響力は増し、結果として、東條のメディア戦略は大成功を収めたのである。
 
「俺達の知名度もだいぶ上がった。ようやく第二段階に移行できる」
「第二段階?」
 この日、会合に参加したCRYのメンバー達は顔を見合わせた。東條は続けた。
「フォロワーに働いてもらうんだ。働いた人間に報酬が入るシステムを作る。現状、俺達のユーチューブやSNSを見ている人間は、所詮ただの視聴者だ。俺達の本当の同士ではない。彼らが自分の時間や労力を無駄にしてまで俺達に協力することはないだろう。だからこそ、CRYの活動を利用することで得られる、わかりやすいメリットを提供することが必要なんだ。そのために、新しく会員制のオンラインサロンを立ち上げる。そこにミッションを割り振る。ミッションに成功した人間には、その達成度に応じて成功報酬を与える。目的は、老人寄りの政策を行う政治家の撲滅だ」
「撲滅って、一体どうするんです? まさか殺人を命じるわけじゃないでしょう?」会員の一人が声を上げた。
「いや、徹底的な監視社会を作る。なにせ、今はみんなスマホという武器を揃えてくれているからな」
 東條と一部のプログラミングに長けたメンバーは、CRY結成当初からこのサロンの開設を計画してその作成にあたっていた。東條はまず、CRYの現会員、約五百人にサロンのログインIDを割り振った。そして、各種SNSを通じて「スマホ一つで稼げるバイト」を銘打って、一般市民に対してもオンラインサロンの周知を行った。その日、組織の現会員を含め、サロンには七百人を超える人が入会した。早速東條は、そのサロンの会員に対し、CRYの活動に批判的なコメンテーター達十数名を監視しスキャルダルを掴むというミッションを出した。すると、早くも翌朝、サロンの運営にミッションを達成したという旨のメッセージが一件入った。さすがの東條もこの早さには情報の正確性を疑っていたが、添付されたファイルを見ると、そこには、対象のコメンテーターが不倫相手らしき相手と麻布十番の街を歩き、タクシーに乗り込む様子が撮影された動画が入っていた。このコメンテーターは、都内の大学に勤める経済学者であり、今回ターゲットにした十数名の中でもとりわけ強くCRYを批判していた男だった。特に東條に対しては、勉強不足であると小馬鹿にしたようなツイートをしたり、ほとんど東條がテロリストであるかのような論調で痛烈に批判したりしていた。故に、保守寄りのテレビ局はこのコメンテーターを重用していた。つまり、このコメンテーターはCRYを批判する一方で、彼らが話題を集めれば集めるほど儲けることができたのである。東條はこの不倫動画の評価を、その真実性や証拠の十分性などの観点から十段階中の七点であると位置づけ、目撃者に二十万円を振り込み、得た動画と提供者に出した報酬内容を各種SNSにて公表した。人間、他人の醜聞というものは何よりの好物で、その情報はCRY支持層の若者のみならず、大いに人から人へと拡散され、同時にそれがCRYのオンラインサロンの仕業であるとの噂も広まっていった。ワイドショーでもそのスキャンダルは取り上げられ、そのコメンテーターはその後、出演予定の番組を取り下げ、瞬く間に失脚していった。そして、CRYのサロンには入会希望者が激増した。
そこで、東條は入会金や月額の登録料の面で会員を十段階にランク分けした。すなわち、より成功報酬が高く難度の高いミッションが閲覧できるランクほど、会員料が多くかかるようにしたのである。例えば、ランク5の会員はレベル5のミッションしか見ることができず、その上のミッションにも下のミッションにも関わることができない。そして、このランクは会員一人につき、十段階あるうちの三つまでしか登録できないこととされた。これが重要なポイントであった。もし、一人の登録者が全てのランクのターゲットを閲覧することができたならば、サロンのターゲットになり得る人間は、全てのランクに登録すれば自分が標的になっているかどうかを確認できる。しかし、CRYの全ターゲットを知っているのはサロンの運営だけという構図を作れば、コメンテーターや政治家は今、自分がターゲットになっているかどうかわからず、無言の圧力を受けることとなる。
サロンの会員になるには、CRYの入会時同様、最初に身分証明などの厳しい審査が必要であった。それを通過すれば、入会希望者はCRY専用のVPN に入れるという流れになっていた。組織はセキュリティ対策として、主に高性能なVPNを利用して、情報の秘匿性を保っていた。
 特定の人間をターゲットにしたスキャンダルは、そう頻繁に取れるものではもちろんなかったが、それでも、週に数件はミッション達成を知らせるメッセージが運営のもとに届いた。現代において、有名人はホームページやSNSなどでスケジュールや近況を報告していることが多く、たとえ一般人であっても彼らの生活パターンや、よく行く場所などの傾向を掴むことができた。そういったことは、ミッションに臨むサロン会員達の大きな手助けとなった。著名人達は、今、自分がターゲットになっているのかを知りたがったが、全てのターゲット情報を知っているのは、先述の通りCRYの運営の、それもごく一部だけだったため、それは不可能なことであった。また、サロンの会員も、自分が達成できるかもしれないミッションの情報をあえて外に出して著名人を警戒させるようなことはしなかったため、情報が表に出ることはほぼなかった。
やがて、著名人達はいつ自分が標的にされるか、もしくはもうされているのではないかと恐れ始めた。すると、CRYに対する忖度が起き始めた。ある政治家は、これまでそんな見解など全く示さなかったのに、突然、若者に配慮した政策を言葉にするようになった。報道番組やワイドショーに出演するコメンテーター達も同じだった。なにせ、顔と名前を晒して公共の電波で自分の意見を述べるのだ。あるコメンテーターは、CRYを近年稀に見る向上心と意欲の塊であると褒め称え、まさに現代日本に現れた明治維新であるとまで称した。以前は、CRYのポピュリズム 性を批判する意見の多かったことだが、ここ最近はそういった声は滅法減って、むしろ彼らを称賛するコメントが多く見られた。こうして、組織の作ったサロンは世の中の大人達にプレッシャーを与え続けた。世論を味方につける。これが、サロン開設における東條の最大の狙いだった。
「これが現実だ。本当に国民のことを考えて仕事をする奴がいたならば、こんな自らの立場を危うくする障害があったとしても主張を変えることはなかっただろう。これは結局、政治家やコメンテーターは自分の保身のみを考えていることの証拠だ。奴らはこれまで、日本において多数派である老人の機嫌をとることに終始してきた。だが、こうして若者の力が強くなれば、掌を返し、そこに群がろうとする。厚顔無恥とはこのことだ。だが、これだけでは終わらない。近く大規模なデモをやる。今度は本気のデモだ」東條は会合で皆に語った。
「今度はどこでやるんですか?」
「国会議事堂前だ。CRYの現会員はもちろんのこと、全国にいるサロンメンバー、それから一般の人間にもSNSで呼びかける。これだけ注目の集まっている今なら、大多数の人間をそこに召集することができる。今、このタイミングでデモを行うことによって、日本国民全員に、俺達の主張を知らしめることができるんだ」
 これまでもCRYは、新宿や池袋などの駅前で小規模なデモをしたことはあった。しかし、東條は、今度のデモは政府と戦う本気のデモであると位置付けた。

第五章 覚醒

 季節は、風薫る五月の下旬だった。この日は通常国会が開かれていた。計画通り、CRYは事前に各種メディア媒体で国会前でのデモを呼びかけた。デモ開始の予定時刻は午後一時だったが、事前の呼びかけの甲斐あって国会前には朝早くから人が集まっていき、十二時になる頃には、正門前のT字交差点は縦にも横にも若者を中心とした群衆で埋め尽くされた。その数およそ三万人。群衆はプラカードや拡声器を掲げ、「若者のための政治」「未来ある国家運営」をしきりに訴えた。
正門前には数十台の警備車が横に並べられ、群衆と対面する形で多数の警察官達が出動した。彼らは、不満の蓄積した若者達による容赦ない罵声を真正面から受けることとなった。
「お前らは国家の犬だ!」
「恥ずかしくないのか! あの老人共の言いなりになって」
「お前らは思考停止のクズだ!」
「あんな政権のどこがいいんだ!」
 出動された警察官達は、それらの挑発にも黙ったままだった。彼らも、集まった群衆と同じくらいの年代の者が多かった。警察官達はどれだけ罵声を浴びようとも、自分達の職務を全うした。
東條らCRYのメンバーは群衆を先導し、警官隊と向き合う形で群衆の最前線に立った。CRYはこの日のために、若者の代表としてスピーチを行う者をSNS上で募集していた。選ばれた者達は、CRYが用意した檀上に上がり、マイクを持って次々と自分達の窮状を訴えていった。
二十代後半の女性。「私は現在、看護士として病院に勤めています。今、医療の現場は、高齢者を中心とした患者数に対して、看護士の人手が圧倒的に足りておらず、毎日毎日、戦場にいるかのような日々を送っています。それなのに、度重なる残業や業務のストレスから、職場を去っていく人は後を絶ちません。私自身も、心身共に既に限界を迎えていますが、それでも残される同僚達のことを考えると簡単には辞められないのが実情です。それに加えて、私の父は認知症を患っています。母は私が小さい頃に亡くなり、以来父と同居のため、私は病院での仕事から帰れば、今度は父の介護に追われています。私の毎日の睡眠時間はせいぜい三時間といったところです。介護施設に入れることも検討しましたが、父は施設に入ることには激しく抵抗するのです。私はもう、この先、どうして生きていけば良いのかわかりません」
十七歳の女子高生。「私の家は昔から貧乏です。小さい頃から、服はいつもどこかで拾ってきたようなものだったし、お腹いっぱいになるまで食べたこともありません。塾などの習い事にも行ったことがありません。でも、私はそんなハンデに負けるもんかと思って、これまで必死に勉強してきました。親は高校を卒業したら就職して、家にお金を入れるようにと言ってきます。でも、私には、将来医者になって病気や怪我で苦しんでいる人を助けてあげたいという夢があるんです。そのために、私は大学に行ってもっと勉強しなければいけないんです。それなのに、家が貧乏だという理由のために、私は高校卒業後、就職という選択肢を選ぶことしかできません。こんなことを言うと、奨学金を借りればいいじゃないかということを言われるかもしれません。ですが、日本の奨学金とは、言い換えれば、返さなければならない借金です。奨学金という借金をしてでないと教育を受けられないこの国は異常です。高齢者層に回すお金があるならば、そのお金をもっと、未来のある若者の教育費に使ってもらいたいと思います!」
二十代前半の男。スマホに用意してきたメモを読み上げる。彼は日本人ではなかった。「わたしは、ヴェトナム人の技能実習生 です。わたしは、ヴェトナムにいる家族のために、お金たくさん稼ぐつもりで日本にやってきました。わたしは、今、缶詰を作る工場で働いています。わたしは、一日中、缶詰を作っています。わたしの、上司はひどい人です。わたしは、何回もあの人に暴力受けました。一日に十五時間も働いて、お金は四千円しかもらえません。休みもありません。このまえ、わたしと一緒に働き始めたタンという男の子が死にました。理由は、工場の機械に頭はさまれたことでした。タンは、十分説明をされず、その機械の仕事しました。わたしは、とても悲しかったです。わたしは、日本に来る前、アニメが原因で、日本のこと大好きでした。でも、今は日本のこと大きらいです。わたしは、あなたたちの奴隷じゃない」
 一人、また一人と檀上へ上がりマイクを持つ。
「税金や社会保険が高すぎるんです。それなのに給料はこれっぽっちも上がりません。これじゃ、結婚して子供を持つなんてとても考えられません。それどころか、自分が生活していくことすらままなりません」
「就職活動をしても、まともな正社員の口は全部経験者に取られて、自分は非正規で働くしか選択肢がありません。資格やスキルを得ようにも、お金も時間もなく、自己投資をすることもできません。この先の人生、自分はどうしていけば良いのでしょうか?」
演説が終わる度に、集まった若者達は共感の声を上げ拍手を送った。今、十五人目の二十八歳のフリーター男性が演説を終えたところだ。次の演説者が壇上に上がると、周囲は少しどよめいた。壇上に上がりマイクを持ったのは東條だった。
「私の名前は、東條聡です。私がCRYのリーダーで、今日のデモを呼びかけました」東條は静かな口調で聴衆に語り掛けた。
群衆はざわついた。「あれが東條か」「初めて生で見た」そんな声が聞こえてくる。群衆は、東條の演説が始まるのを今か今かと待った。ところが、東條は最初に聴衆に語り掛けた以降、黙ったままでいる。群衆の戸惑いを含んだざわつきが、さざなみのように後ろの端まで広がっていった。そのまま三分、四分と時間が過ぎた。しかし、東條は一向に話し始めようとしない。そのうち、群衆の中にいた人間は、自然と自身の発する声を抑え始めた。その空気は、周りの人間にも伝染していった。騒然としていた場は徐々に静まっていき、しまいには、ほとんど話声が聞こえなくなった。そこでようやく、東條はポツリ、ポツリと静かな声で語り始めた。
「今から八十一年前、日本は長きに渡る悲惨な戦争を終えました。戦後の日本は、空襲や原爆で街は焼き払われ、多くの人間が命を落とし、何もかもを奪い去られた状態でした。しかし、その後、この国は目覚ましいまでの経済成長を果たし、世界でもトップレベルの先進国となっていきました。それに比例して、国民の生活も豊かになりました。しかし、かつての繁栄は、既に私達の世代にとっては歴史の教科書で習うこと。バブル崩壊、失われた十年以降、少子化は進み、その影響は徐々に大きな膿となって私達世代に降りかかりました。今、我々若者世代は、震災の影響も相まって、この弊害を最も受けている世代と言えます。これは、時代の流れとして避けられなかったことでしょうか……? 私は違うと思います。今のこの現状を作ったのは誰でしょうか……? そう、今の高齢者の世代です。散々、目先の金や快楽を求め、彼らは将来への投資と配慮を怠りました。企業を見てください。投資を促しても、企業の役員は内部留保を溜め込み、保身に走ります。その上、彼らは将来世代のことをろくに考えず、地球環境をことごとく破壊し続けました。そのツケは、私達やまだ見ぬ子供達の世代が払うこととなっています。国を見てください。イノベーションが必要にも関わらず、若者の教育や、大学などの機関の基礎研究へ金をかけません。政治家を見てください。度重なる不祥事、賄賂、利権との癒着。そして、若者寄りの政策、中長期的政策は人々の支持を得にくいと考え、目先の有権者の機嫌を取ることばかり考える。自分が選挙に当選したいから、自分の代だけ会社が儲かれば、保育所よりも老人ホーム、教育費よりも医療介護費……。もうたくさんです! 今の高齢者世代は繁栄した時代を生き、それでもなお、自分達の豊かな老後を守るために権利を主張する。そして、政治家達は若者達の暮らしを切り捨て、これらの後押しをする。ですが、これからの日本を担い動かしていくのは、高齢者ではなく、私達、若い人間の力です。この未曾有の大災害の後にあって、どちらかを切り捨てなければならないとしたら、それはむしろ高齢者の側なのです。私の主張が過激だという声がたくさんあるのはわかっています。しかし、日本はいつか、選択しなければならなかった。高齢者と若者のどちらに、より価値があるかということを。極論だと思うでしょうか? しかし、この少子高齢化による問題を、これまで誰が解決できたでしょうか? 今まで日本人は、自分達はベストを尽くしたと言い訳をし、将来の世代に問題を先送りしていたのです。しかし、その歪みはいずれ巨大な膿となって国民に降り注ぎます。このまま、この国があの政治家達に動かされてゆけば、未来には必ず、より大きな負担が私達や私達の子供世代にのしかかっているはずです。日本は、いつかはリセットしなければならなかった。私はそこに向き合ったのです! 今、この時代に生きている人間は、私達の子孫のためにより良い未来を作る。そういった善意とともに連なっていく社会こそ私の理想です。今、この瞬間から、そういう未来を創るための第一歩を踏み出そうではありませんか! この国を正常な状態で私達の次の世代に繋げるため、今、既得権にしがみつき、日本に住み着く癌を取り除こうではありませんか! 私達日本人は、再三に渡り震災の挑戦を受け、愛する者や生まれ育った故郷を奪われ、その身に深い悲しみを負いました。この先、何を希望にして生きていけば良いのか。職を失わずにいられるか。家庭を持つことができるのか。誰かを愛しても、また奪われるのではないか。心に抱える懸念たるや計り知れないものがあるでしょう。しかし、聞いてください! 私達は、かつてあの絶望を経験し、それでもただひたすらに未来の希望を信じて前を向き、今日まで立ち直ってきました。今度だって必ずそうなります! 今、この苦難を乗り越えて、私達の輝く未来のために、愛する者のために、そして、まだ見ぬ私達の子供達のために、私を信じて、私と共に、新しい国を創っていきましょう!」
割れんばかりの拍手喝采が国会前に響き渡っている。今、この国でたった一人主人公を挙げろというならば、間違いなく、今この瞬間においては、東條聡以外には考えられまい。東條は演説を終えると、マイクを下ろし肩で息をした。額に汗が滲み、体はまだ熱を帯びている。まるで、何かが自分に憑りついていたようだと彼は思う。聴衆の心情を真に理解し、それに寄り添い、爆発的な熱量をもって彼らの求める姿を演じ切る。それが東條聡の真骨頂だった。誰に教わったわけでもない。彼は自分から目立ちにいくようなタイプではなかったため、これまでの半生で、その才能が注目されたことはほとんどない。しかし、彼は間違いなく、演説の天才であった。東條自身、大勢の聴衆に注目し耳を傾けられ、初めてそういう自分に気付いた。
東條の渾身の演説に、群衆の中には涙するものまでいた。各テレビ局のカメラは、こぞって演説を行う東條の姿を捉えていた。未だ、現場は興奮が冷めやらない。群衆は、持っていたタオルなど、ありとあらゆる物を投げ、叫び続けた。日頃の鬱憤と社会に対する不満、そしてそんな状況下でもなお、希望を持ち前を見据える若きリーダーの姿に、若者達は今、虜となっていた。

第六章 本質

官房長官 の乃木は、国会議事堂内部より、外の荒れた光景を見ていた。乃木は御歳八十二歳の老練した政治家であり、政治世界の酸いも甘いも熟知した人物だった。乃木は現在の中澤政権発足時より官房長官として務めており、首相の意思決定に都度、重要な助言をしてきたとされている。彼の一存で物事が決まることも多く、周囲への影響力の高さから、政治関係者の間では「影の総理」と呼ばれていた。
乃木は国会前のこの混乱を鎮めるため、デモの首謀者とされる東條との対談の場を秘密裏に設けるよう取り計らった。現職の閣僚が一政治団体のリーダーと一対一で会談を行うというのは異例中の異例である。そこには、デモの混乱を収めるという名目もあったが、一番にあったのは乃木自身の要望であった。乃木は以前から、CRYを率いる東條という男にいささか興味を抱いていた。乃木の申し出は、彼の秘書を通じて密かにデモ隊の中にいた東條に伝えられ、彼もこれを承諾した。こうして、このデモのさなか、急遽、乃木と東條の一対一の会談が設けられた。東條は乃木の秘書に付いて行く形で、この群衆の中をこっそりと抜け出した。厳重なセキュリティチェックを済ませ、案内に従い、東條は国会内部の会議室へと向かった。

乃木は自らの招待客を待つまでの間、一人、思考に耽っていた。
(確かに、デモなんて企てる気持ちもわからないではない。彼らが主張するように、既にこの日本は「詰み」の段階にあることは間違いない。少子化の波は抑えられず、労働人口は減少し、革新的イノベーションが起きる期待も薄い。このまま国力が下がり続ければ、ひょっとすると、近い将来、中国などの国に取って食われるようなこともあるかもしれない。
震災は各地に大打撃を与えた。その経済損失は計り知れない。これから国民の暮らしが、より一層厳しいものになっていくことは紛れもない事実だ。そんなこと、政治家達は皆わかっている。だが、だからといって、もうこの波を変えることなんて誰にもできない。そうなれば、政治家はいくつかのパターンに分かれる。こんな状況でもなお、自身の身を削ってでも各種手当の拡充や種々の改革に励み、少しでも国民の生活をより良いものにしようとする者。彼らは、たとえ議員としての年収が三百万ほどになろうとも政治家であり続けるはずだ。客観的に見れば、最もまともで「政治家」と名乗っても良い部類である。これは全体の二割といったところか。だが、大概の国会議員達が考えていることは、自らの利益も顧みず既得権者との闘争を繰り広げることではなく、むしろそういった者達との交友に精を出すことである。そして、自身の選挙区では、自分は国政でこれだけの活躍をしているのだと惜しみなく披露し、次の選挙に備える。彼らが望むことは、現状の議員制度のまま、国会議員としての甘い汁を吸い続け、粛々と自らの資産を蓄えておくことである。正直、こんな連中に一国の権利の一部が握られ、その一挙手一投足で国の方針が決まるのだから、日本国民というのは本当に哀れに思う。
だが、お前達若者は、我々過去の人間と比べ、本当に不幸なのか? 確かに、生活に困窮する若者は増えた。しかし、今当たり前にあるサービスなど、戦後の日本には元よりなかった。いや、そもそも、これだけ高水準のものが当たり前に手に入る時代が歴史上あっただろうか? 蛇口を捻ればいつでも飲める水が出てくる。コンビニやスーパーでは、数百円出せばとりあえず食べられるものは手に入る。街中を歩いていて突然襲われるようなこともほとんどない。仕事だって、アルバイトをしていれば、贅沢と言わずともなんとか生活できるレベルには稼げる。明日の命さえ保証されなかった先人達の努力が、そんな世の中を作ったんだ。幸福追求権は憲法上保障されている原則だ。だが、そういった基本的人権さえ、人類史を振り返れば、むしろ保持されていない方が当たり前なのだ。我々人間は、元を辿れば野生の動物達となんら変わらない。明日生きていられるように、今日命懸けで獲物を捕らえ、毎日、他の生物との生存競争に晒される。人間だって、その生存競争が知能競争になっているに過ぎない。何も、それだけ原初に立ち返り、人類の獲得してきた基本的人権を否定しているわけでは毛頭ない。ただ一つ、あの若者の群衆を見ていると、人間もえらく図々しくなったものだな、とそう思うのだ。大体、あの群衆の中に、本当に今の世の中を変えたいと思ってデモに参加している人間がどれだけいるか。そもそも、どれだけの人間が現状の日本が抱える問題点を正しく説明できるだろうか。おそらく、大概の連中は、誰か強いものの意見に便乗し、自分が正義の何者かになったつもりで動いている。人間は自分自身を肯定するために、誰かを否定したがる生き物だ。
 この国において、若者の死因として自殺の割合が高いのはなぜか。若者が貧困に追いやられているからか。それも一つの要因としてはあるだろう。だが、本当の理由は別にあるのだ。それは、他の死因で死ぬことがほとんどないからだ。公衆衛生、インフラが十分すぎるほどに整ったこの国で、事故や感染症で若者が命を落とすことなどほとんどない。たとえ病気になっても、病院に行けば保険が適用され、誰もが治療を受けられる。それによって命を落とすことは滅多にない。それほどまでに日本という国は、この震災後にあっても、世界の大多数の国と比較すると異常なほど恵まれている。だからこそ、若者達は、自分の生活が他の若者と比べてどれだけ幸せかということに意識を向ける。彼らが追い詰められる本当の原因は、社会が閉塞しているからではない。彼らは、自分の置かれた既に恵まれた環境を周りの人間と比較し、順番をつけ、自身の惨めさに絶望し、そして悲観するのだ)
コンコンと部屋の扉をノックする音がした。乃木が呼応すると東條は入室した。乃木は、初めて対面する東條の顔立ちに精悍な印象を感じた。乃木も、東條のことは、ネットでの活動を見たり、官僚から伝えられる情報を聞いたりしていたことで、事前にある程度は知っていた。その時点で、若いのにえらく頭がキレ、弁が立つ人物であるという印象は持っていた。だが本当の力量は、直接対面して話さなければわからないことがある。
「CRYのリーダーの東條君だね?」乃木は東條に語りかけた。 
「はい、東條聡といいます。こうして私達若者のために会談の場を設けていただいたこと、心より感謝いたします」
 東條はわざとらしさなど微塵も感じさせない丁寧な振る舞いを見せた。なるほど、と乃木は思った。東條の中には、若者に特有の自我や驕りの色が全く見えなかった。たったこれだけの短かなやり取りをしただけでも、乃木は東條が若者の救世主として皆に崇められている所以が少しわかったような気がした。
「座りなさい。その方が落ち着いて話せる」
東條は言われた通り、目の前の椅子に腰掛けた。
「君が望むことを教えてくれるかな? 報道などで伝え聞いてはいるが、対面して君の口から直接聞きたいんだ」
 乃木の態度は、媚びるでもなく、かといって高圧的に振る舞うでもない平静なものだった。
「日本の政治が変わることです。あの震災以降、いや、それ以前から日本は徐々に国としての力を失ってきました。その皺寄せは今、若者世代に来ている。現状、この国全体が苦しい状況であるのは私とてわかっています。しかし、そうした中で、力のあるものは自らの既得権をより強固に守ろうとする。私の見方では、政治家などの権力者達、それにこの国の高齢者層は、若者の将来を切り捨てることで、束の間の安定を得ようとしているように思えるのです。私は日本の政治家達にもっと先を見据えて動いてほしいのです。自分達の利権や保身といったことに捉われずに、本当に未来の国と国民のことを考えて」
東條の言っていることはもっともであると乃木は思った。乃木とて、この先を見据えて、このままでは本当にこの国に未来はないことなど十分にわかっていた。
「未来の国と国民のことか。確かに、現状、若者に金が流れていないことを今さら君に弁解するつもりはない。そしてそれが、この国の政治家達の立場を守るためになされているという君の主張も、紛れもなく事実であろう。要するに、君の言い分は、利権や保身に捉われず、国民に尽くすという政治家としてあるべき姿を持って、改革を進めてくれということだろう?」
東條は頷いた。「その通りです。私がCRYで高齢者寄りの政策を掲げる議員を批判するのは、彼らの目線が国民生活の安定と繁栄ではなく、自分達の生活に向けられていると感じるからです。同様に、この国にはいくつもの癒着や腐敗が存在しています。そういったことが、効率性や大多数の国民の安定的生活を脅かしているのは事実でしょう? 私が真に訴えてかけているのは、国を動かす者達自身の革命なのです」
乃木は東條の話を真剣な顔で聞き、腕を組み納得しているようだった。「なるほどな。そういう意味では、君達が国会前でデモを行うのは至極、的を射た行動と言える。なぜなら、国会議員は、国民の信託を受けているが故、ロビイスト 達の一番の標的なのだからな。私自身、そういった利権的誘惑を受け、心を動かされたことも幾度となくある。君の発言はまこと正しく、まさに現代の腐敗した政治に一石を投じる鋭いものだ」乃木は少し間をおいてまた喋り出した。「いや、君の弾けんばかりのみずみずしさに当てられると、老衰した私の心まで若返りそうになる……。だが、そんな無駄に歳を重ねた老人が人生を歩んできて得た教訓がある。物事を大きく動かすのは理想や大義ではない。人間の醜き欲望だ。しかし、それが大きな力となるのだ。政治の本質は、政治家自身の高潔さや国民に尽くそうとする熱情の中にはない。それは、力のある人間の欲望をコントロールし、いかに汚い金を動かすか、ということの中にあるのだ」
それは事実ではあるが、乃木自身が持つ真の見解ではなかった。乃木にはまだ、この東條という男の本質を様々な角度から見極める必要があった。
東條は乃木の言葉に眉をひそめた。「世の中を動かすのは結局、金と権力ということが言いたいんですか?」
「その通りだ。それは人間にとって、他者を慮るよりも、自分の私利私欲を満たし、その利権を保持することの方が大きなエネルギーが働くからだ。そうやって世の中は動いていく。君とて、何やら怪しげなサロンを作り、議員やコメンテーターの醜聞を集めていたじゃないか? そして、彼らを間接的に言論封殺した。あれはまさに私の言ったことそのものだ。彼らは自分達の利益を守るために言葉を失ったのだ。だが、私に言わせれば、あんなもの程度では世論は動かない。なぜなら、本当に力を持っている人間は、そもそも君ら一般人の目に触れないところで悪事を働くからだ。それに、あれは言わせてもらえば、下手な週刊誌のパパラッチが数を増しただけのようなものだ。今は話題性があるが、じきに皆、うまく出し抜く方法を考える。いずれにしても、君達がいくら尽力したとしても、日本の政治はこのまま変わらない」 
東條は乃木の言葉に苛立ちをあらわにした。「本気で言っているんですか? なら、あなたは、この国はこのまま、変わらなくていいと言うんですか? 利権を持った者に抗うことはできないから、現状維持のままこの国の衰退を目の当たりにしていくしかないと?」
「そういうことではない。私達とて、現状できる限りの手は日々尽くしている。大きく変わることはなくとも地道に一歩ずつな。だが、日本の政治が抱える闇はあまりにも根深い。利権は強固に固められ、もはやそれを動かすことなどできないのだ。君達CRYはおろか、官房長官である私や、総理ですらな。それでもし、この国が君の言うように衰退の一途を辿っていくとしても、それは定められた運命なのだ。人の人生に波があるように、国にも繁栄すべき時と衰退すべき時がある。日本はおそらく、歴史的に見てそういう時機に来ているのだろう」
東條は唖然とした。「国を動かす最前線にいる人間がこうだとは思わなかった。あなたは、もう既に変わることすらも諦めているんですか? 政治が変わらないというならば自分が変えます! 現政府に変わることを要求するんじゃない。自分達が政権を乗っ取るまでです! そして、私達が若者や弱者のための政治が行われる国を作ります!」東條はこれまで保ってきた礼節を捨て、両手で机を叩き熱く語った。
しかし、乃木は冷笑した。「若者のための政治か。本当にそれが価値あることならばいいがね。そもそも、君達はそれに値するのか? なぜ人は動く? なぜ君は動く? なぜあの群衆はあの場に集まっている? 彼らが本当に君の崇高な理念を理解していると思うか? 違うだろう。あの群衆を目を凝らしてよく見るといい。あの中の何人が君の同志だ? 彼らの大半は、生活苦や不満足、あるいは退屈の捌け口を探し、浅ましい興味からあの場に集まってきただけだ。彼らはこの一連の行動の先に何を見ている? ただ、社会の不条理に不満をぶつけているだけかもしれない。それとも、ただのファッションか。大義なき革命に未来はないぞ。君達が本当に政権を奪ったならば、それこそ彼らがこれまで享受してきたサービスは無に帰すわけだ。まさか本当に、君達だけで政治が行えると思っているのではなかろうな? 若者よ、冷静になれ。君達が活躍するのはまだ数十年先のことだ。私とて、この国を悪い方向に持っていこうなどとは微塵も思っていない。ただ、この政治世界の現実と人間の本質を君に説いているだけだ」
本来、乃木は若い官僚や政治家の拙い考えの中にも、必ずどこかに迎合すべき点を見出そうとする人物であった。彼の言葉は、勢いのある若者に対する嫉妬や、自分達の利権を守ろうとするためのものではなく、ただ経験に基づく事実として述べたものだった。乃木は今、その現実を東條の前に提示し、彼がどのような反応を見せるのか見極めようとしていた。要するに、乃木は今、東條という男を試しているのだ。あの群衆の動機がどうであれ、これだけの若者の支持を受け、それを扇動できるのは、東條の只者ではなさを物語っている。その能力は、正しき心を持って国の未来を見据える政治家と結託すれば、この国に新たな可能性をもたらすことができるかもしれないと乃木は考えていた。
東條は乃木の言葉に対し、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「未来は誰にもわからない。現状を維持しようとも、自分達が政権を奪っても、結果は誰にもわからない。しかし、確率の問題ではないんです! 未来に何が起こるかわからないからこそ、この国は未来を本当に案じているものが動かすんです!」
 未来を本当に案じているもの、か。乃木は表情一つ崩さずとも、内心は、今しがた目の前の青年が発した言葉に歓喜し震えていた。
(そうだ。未来は我々経験を積んだ者達にもわからない。我々政治家や官僚組織は、経験則によるどっちの確率が高いだの低いだの、そういったことを日々議論することしかできない。我々とて、何が正解で何が間違っているかなんて、本当のところはわからないのだ。
そんな混沌とした世の中を動かさねばならぬ中、私が望んでいたのは、まさにこういう人間の姿だったのかもしれない。かつて私自身も、公平で正義の保たれた日本を作りたいと思い、官僚を志した。それは、私が中学卒業後、集団就職 によって上京してきた時のことだ。私は大学に行くため、昼間は鉄鋼工場の作業員として働き、夜は定時制高校に通った。高校卒業後も、なけなしの給料で参考書を買い、仕事後にひたすら受験勉強に取り組んだ。しかし、なかなか上手くはいかず、やっとの思いで大学に入った時には既に二十二歳となっていた。官僚になるための国家公務員試験も何度も落ちた。それでも、会社で働きながら勉強を続け、年齢制限ギリギリでようやく厚生省 が自分を拾ってくれた。そして、官僚組織の腐敗を間近で見て、公正な社会への想いは萎えるどころか一層増した。私は七年間、霞ヶ関 で勤めた後、政治家を志した。私には、大した経歴やコネも、世襲議員のようなアドバンテージもなかった。だが、それを逆に武器にして、平民政治家として地元住民からの支持を得て、辛くも国会議員に初当選を果たした。
政治家になってからは、官僚時代にも増して社会悪や利権の根深さを実感するばかりだった。私は巨大な壁に全身全霊で立ち向かってゆく度に、私の中にある最も大切なものを少しずつ負傷し、歳を重ねる度にその傷は癒えることがなくなっていき、いつしか「折り合い」をつけるということをするようになった。皮肉なことに、その頃から、私の政界での立ち位置はみるみる上がっていった。私自身、変わってしまった自分には気付いていたし嫌悪もしていた。今だってそうだ。私は今でも、かつて思い描いたあの公正で平等な社会を夢見ているのだ)
「要求はわかった。この辺りでいいだろう」乃木はふうと息をついた。「今までの発言は、君を試すために行ったものだ。君がどれほどの覚悟を持ってあの集団の上に立ち、国や政治に働きかけているのかということをな。だが、君の覚悟はもう十分伝わった。確かに、若者の活力を取り戻さねば、国の底力が回復することはあり得ない。それに、国内に横たわる様々な利権が、国民の平等で安定的な生活を阻害しているのも全く疑いようのない事実だ。さっきも言ったが、これらの解決は前途多難であることは間違いない。だが、私も君と同じく、この国の存続と繁栄のために尽くそうと考えていることは信じてほしい。それに今日、君と話したこと、それとあのデモ隊を見たこと、それが私の政治家信条と今後の動き方に影響を与えたこともまた信じてほしい。すぐにとは言えないが、三か月以内に必ず、君達CRYと私を含めた政府関係者で、正式に会談の場を設けることを約束しよう。日程や方法の調整などは、君と私の直通で行う。その時までに、君達の主張をまとめてくるといい。しかし、今日はもう帰りなさい。デモだってずっと続けるわけにはいかないだろう。あの群衆の中にも、既に食欲に負けそうになっている者がいるはずだ。それに、君の目的はもう果たされたんだろう?」
 乃木は表情を変えずに東條を見据えた。乃木は、東條がこのデモはあくまで話題性作りを目的としていたことに気付いていた。国会前で数万の若者を集め、大々的にデモを行えば、その様子は必ず全国に中継され、国民のほとんどがCRYを認知することとなる。ネットの広報活動やオンラインサロンで支持者が急増した今このタイミングが、この国会前デモの最適な時機だと東條は考えたのだ。東條は、乃木に全てを見透かされているような感覚に陥った。
「わかりました。デモはこれで終わりにしましょう。その会談の場で再びお話しできることを楽しみにしています」東條は先ほどまでの態度を改め、再び礼節のある態度を取った。
それから乃木は、スーツの胸ポケットからメモ帳を取り出し、一枚ページを破った。そして、その紙に自身の個人メールアドレスを書いて、それを東條に渡した。東條は紙を受け取り、短く礼をして部屋を後にしようとした。
「最後に一つだけ聞かせてくれ。君が、守ろうとしているものは何か?」乃木はふと、扉に向かっていく東條に問うた。東條は振り返った。
「私は……この国の人々を守ります」
「さっきも言ったが、君が思っているほど人間は高尚なものではないぞ。人間の本質はそう変わらない」
 東條は口を開いて何かを言いかけたが、思い直し、また向き直って歩き始めた。

 時刻は十八時を超えた。デモ隊の中にはどこか気味の悪い結束感が生まれていた。このまま朝までいよう、どこまでも政府と戦うぞ、そんな空気が群衆の中には広がっていた。しかし、東條はCRYのメンバーに、デモの終了を呼びかけるよう指示を出した。それにより、デモに参加した者達は次第に退却に向かっていった。群衆の中には不満を垂れるものもいたが、他ならぬ東條の指示とあっては、皆、異を唱えようとはしなかった。CRYを全国的知名度までのし上げるという当初の目的は、既に十分すぎるほど達成された。警官隊との多少の小競り合いはあったものの、結果として、このデモによって血を流した者はおらず、デモは民主政治のあるべき姿を保った。

この国会議事堂前でのデモの後、CRYの影響力は著しく増した。もはや、国民の中でCRYを知らない人間を見つけることの方が難しかった。ネットの掲示板やツイッターなどには、彼らを称賛するコメントが多数書き込まれた。若者達はしきりにCRYの主張に賛同の意を表した。
「マジで老害は全員滅びればいい。今の日本をダメにしてる元凶を根絶やしにしろ」
「老人を排除して若者のための新しい国を作ろう」
「東條聡を日本の総理大臣へ!」

街では女子高生までもがこんな話をしていた。
「ねぇこれCRYのマークでしょ? 待ち受けにしてんのウケる」
「そう、かっこよくない?」
「政治とか全然興味なかったけどさぁ、あれは応援できるよね」
「そう、本当にさ、ウチらのこと考えてやってくれてる感あるよね」
「リーダーの人イケメンだし」
「しかも、東大のエリートなんでしょ?」
「それな。結婚したい」
「今の政治家は自分のお金が大切だから、ジジイババアの機嫌とるしかないんだって」
「みんな自分のことしか考えてないよね」 

 ある討論番組での評論家のコメントである。
「ええ、しかし、このCRYと名乗る若者の集団、そしてそれを率いる東條というリーダーの出現は、時代の潮流として自然発生的なものであるのかもしれません。かつて、この国には鎖国体制を固持していた時代がありました。一歩外を見てみれば、国際的に非常に遅れていて、実に危険な状態でした。しかし、先見の明のあった幕末の志士達の熱意と働きによって、日本はようやく近代化へと歩み出すこととなりました。あの時、彼らがいなければ今頃この国はどうなっていたことでしょう……。しかし一方で、私はこうも思うのです。偉大な人物は、その時代の抱える問題がいよいよ立ち行かなくなった時に、現れるべくして現れるのではないかと。私は、あの東條という人間は、今この時代に求められ、必然的に出てきた存在に思えてならないのです」

 ある日の飲み屋街での話である。CRYの話をしていたサラリーマンの若者グループに、酔っぱらいの老人がつっかかった。
「お前らは騙されとる。あれはただのテロリスト集団や。いつの時代もそうや。お前らみたいな脳なしがああいうしょうもない奴らを持て囃すから戦争が起きるんや。お前らは昔の日本人が耐え抜いて作ったこの国を何だと思っとんじゃ」
しかしこの発言は、その若者グループの反感を買うこととなった。
「うざっ。社会のお荷物の老害はマジで早く死ねよ。お前らこそ日本の害悪だろ。バブルだかなんだか知らねえが、散々、裕福な時代を生きて、今も俺達の納めた年金を食い潰してるくせに」
 若者グループの一人が老人を突き飛ばした。集団はよってたかって老人を痛めつけ始めた。それはリンチ以外の何物でもなかった。「俺達が正義だ。わかったか、老害」リーダー格の一人はそう言い捨てた。
 同様の出来事は日本中で起きていた。その一部始終が動画に収められ、ツイッターなどで拡散されるようなこともしばしばあった。その度に、ネット上では論争が繰り広げられた。

若者の大半はCRYを支持していた。三十代、四十代の労働者世代に関しても、多くの者がCRYの主張に賛同した。一方で、高齢者によらずとも、CRYのやり方に疑問を呈す層も存在していた。ネット上を見ると、確かにCRYの支持者は多かったが、三割ほどの割合で反対意見を投げかける書き込みがあったのも事実だ。こうして、CRYが火付け役となって、世論は、高齢者を守ろうとする層と若者の未来を守ろうとする層に分かれ、国内は分断された。

第七章 昂りと落胆

 東條聡は、かつてないほどの心の昂りを感じていた。今、この国は変革の時を迎えようとしている。まさしく後世において、歴史の一ページになるであろう重要な瞬間だ。低迷し、先行きが危ぶまれる国。それを再生させるべく立ち上がった若者達。そして、その中心にいるのは紛れもなくこの自分である。皆に求められ、皆の期待を一身に背負う若き救世主。彼がこれから行う一挙手一投足に、この国の運命が委ねられていると言っても過言ではなかった。東條は既に、現代日本の若者の象徴として、人生を歩まなければならない立場にあった。
ほんの数年前までの彼は、焦燥感と劣等感ばかり心に増幅させながらも、結局は何者にもなることのできないただの学生だった。今となっては、その頃の自分が遥か遠い昔の姿であるかのように感じる。だが、東條は思う。おそらく、自分はこの道に進むことが運命付けられていたのだと。あの頃、周囲の人間に比べ、自分は何に対しても情熱を抱くことができなかった。周りの学生の描く夢や目標は、自分にとっては全くつまらないものように感じた。今だからわかる。それは、自分の器が、彼らの志よりも遥かに大きなものであったからだろうと。
東條は今になって気付く。これは、生まれながらにして自分に与えられた使命であると。振り返ってみれば、自分は幼い頃から特別だった。何が特別だったか。それは、彼の中にある「道徳」だった。東條はこの二年間、CRYを率いていく中で、人間のあらゆる類の醜さや欺瞞を目の当たりにしてきた。権力を持つ自分に擦り寄ってくる者。自分の利益だけは確保しようと奔走する者。CRYが市民権を得たとたんに、それまで色物扱いしていたのを改め、掌を返そうとする者。それらを目にする度に東條は、彼自身の特別性を認識するのだった。東條は、CRYの活動を通して金をどれだけ集めようと、それを私利私欲のために使ったことは一度もない。どれだけ組織内で権力を持とうが、自分の好き嫌いでメンバーを差別したり、ましてや女に手を付けたりしたこともない。自分の行動原理は全て、若者のための社会を作るというただ一点に存在している。東條はある時から「大きな力」を手にした。その力を上手に、かつ理性と良識を持って扱うことができるのは、おそらくこの世には自分しかいないと彼は思う。

 国会前での演説以降、東條の生活様式は大きく変わった。なにせ、国民の大半が東條の顔を認知したのだ。のうのうと街中を出歩くわけにはいかない。私用での外出はなるべく控え、どうしても外に出なければならない時はマスクや帽子で顔を隠した。それでも、CRYの活動はパソコンとスマホ、ネットがあれば大抵問題はなかった。東條は、一日の多くの時間をCRYのメンバーとのリモート会議に充て、CRYやサロンの運営、会員に対する政治知識の共有、さらなる広報活動などを行った。
 また、東條の元には情報番組や討論番組を中心に、多数のテレビ出演依頼が来た。東條は時間の許す限りそれらを受け、自身やCRYの思想を公共の電波で広めていった。東條は、若い年齢でありながら明快で的を射た喋りをこなすため、各テレビ局や視聴者の間での彼の評価は非常に高いものだった。また、東大生であるという肩書きと、比較的端正な顔立ちをしていたことも合いまって、彼は瞬く間にお茶の間の人気者となっていった。

 そんな日々をひと月ほど過ごしていたある日のことだった。東條のスマホに一通の通知が入った。その送信主の名を目にした時、彼の心臓は一瞬止まった。それは、朝比奈結からのメッセージだった。そこには、「聞きたいことがあるからちょっと会ってくれない?」と書かれている。彼女とのチャットの履歴は、五年前に自分が送ったメッセージで止まっていた。五年もの間、最後のメッセージは既読すら付かない状態で放置されていた。彼女から突如送られてきたたった一文のメッセージを見た時、東條の中には実に様々な感情が込み上げてきた。驚き、喜び、怒り、優越、疑い。たった二行の、何を意図しているかもわからない一文に、東條は実に様々な想像を駆り立てられ、彼の感情は複雑に掻き乱された。半日ほど悩んだ。それから、どういった要件かと返した。
 朝比奈からの返信は、それまでの五年間の未読が嘘のように即座に返ってきた。「要件は直接会ってからでないと話せない」とのことだった。東條は、それまでの五年の放置に全く触れず、粗雑に話を進めようとする朝比奈に少し苛立った。しかし、彼女の目的は、どうやら実際に会って話を聞いてみなければわからないらしい。彼は、「了解」と返した。
東條は待ち合わせ場所として、ある公園を指定した。時間は夜の十時以降ならいつでも構わないと伝えた。そうゆう手筈にしたのは、なるべく人目を避けるためだった。すると朝比奈は、今日は大丈夫かと返信してきた。東條は少し驚きつつも了承した。

東條が約束の場所に着くと、朝比奈は既に到着していた。久しぶりに会った朝比奈は髪が伸びていた。以前は大体、肩甲骨辺りまでのセミロングだったが、今は腰ぐらいまでの長さがある。服はシックな紺のワンピースに真珠のネックレスを合わせている。思えば、大学の卒業式で袴を着て友人と談笑していた姿が、最後に見た彼女の姿だった。  
「久しぶり」
 朝比奈は歩いてきた東條に気付いた。笑みはなく、どこか表情は固かった。「ああ」とだけ東條は返した。 
「随分変わったね。見た目がじゃなくて、状況が、ね」
 朝比奈は何やら意味ありげに言った。彼女が何を意図して自分を呼んだのか、東條にはまだわからなかった。
「ああ、そうだね」
「ニュース見たよ。この間、国会前で話してた」
「ああ、知ってるんだ?」
 東條は何でもないことのように振る舞った。しかし、内心、心がおどった。彼女は自分の演説を見ていた。既に東條の演説のシーンは全国ニュースやワイドショーで繰り返し放映されていたため、当然と言えば当然のことではあるが。朝比奈は、あの頃から変わった自分を見てどう思うだろうか。だが、仮に彼女が有名になった自分に擦り寄ってきたというならば、それを簡単に受けるつもりは東條にはなかった。
「あんなことになってたなんて、正直驚いた」
「あんなことって?」
「CRY? 若者のために世の中を変えたいって、そんなこと、一年の時言ってたっけ?」
「いや」東條は間を置いた。「いや、でも……誰かがこの社会を変えないといけないとは思ってた。誰かがそれに向き合わなければ、俺達も、俺達の未来の世代も今後さらに苦しんでいくことになる」
「誰かが、ね。あなたはそれが自分だと思っているのね」
東條は朝比奈の言い方が少し気に掛かった。「……ああ、そうだ。幸いにも今、多くの人々がCRYの活動に賛同し、期待してくれている。だからこそ、俺は自分の命に代えてでも、その責任を果たさなければならないと思ってるよ」東條は決意のこもった声で言った。
しかし、朝比奈はそっけなく「そう」と相槌を打っただけだった。彼女はそのまま横を向いて公園にある大きな池の方に目をやった。沈黙が流れた。
「聞きたいことって?」朝比奈が本題を切りだそうとしないのを見て、東條は自分から問うた。彼女の連絡を受けてから、それが何なのかずっと考えていたのだ。
朝比奈は数秒、池の方を見ているままだったが、やがて東條の方に向き直り、「……そのCRYのことだけど。私の友達が、あの集会の人から組織にしつこく勧誘されてるっていうの。あなた、あれのリーダーなのよね?」と言った。
 東條は朝比奈の言葉を聞いて、肩ががくっと落ちるのを感じた。
「しばらく見ない間に何してるのよ。あなたの組織が私の友達を苦しめてるの。あなたのことはどうでもいいんだけど、私の周りの人に迷惑をかけるのはやめてくれる?」朝比奈は東條を非難するように言った。
「迷惑? 俺はこの日本社会のために動いているだけだ。君の言っているようなことは、一部の非常識な会員がやっただけのことだ。俺の指示なんかじゃない」東條は彼女の言葉に対する苛立ちを隠せなかった。
「あなた、若者の救世主とか持ち上げられて、本当にその気になってるんじゃないの? 妙なカルト宗教のようなもの作って、権力を握って、何をいい気になってるの? たかだか二十そこそこのガキに一体何ができるって言うのよ」
 東條の眉間には深い皺が寄った。
「俺がやっていることは意味のあることだ。それに俺は、権力を自分の私利私欲のためなんかに使ってない。俺達が活動をし始めてから、この国は確実に若者が生きやすい社会に向かっている。若者は政治に関心を持ち、自分達の意思で変わろうとしている。俺が立ち上がらなければ、彼らは毎日の生活に苦しみ続けるだけだった。他の誰が同じことをやろうとした? みんな不満ばかり言って、実際には何一つ動こうとしない。教えてくれ。他の誰に同じことができたんだ?」東條は声を荒げた。彼が冷静さを失うことは珍しかった。東條は、なぜか自分の目頭が熱くなっているのを感じた。
「でも、それで犠牲になっている人が大勢いるじゃない。あなたが扇動した若者達が今、あちこちで暴走して高齢者達を痛めつけているって話をよく目にするわ。あなたにとっての理想の社会っていうのは、高齢者が見捨てられる社会なの? あなたがやっていることは救済なんかじゃないわ。ただの詐欺師まがいの独裁よ」
「俺は高齢者に暴力を振るうように扇動なんかしていない! あれは、CRYの理念を理解していない短絡的で馬鹿な奴らの仕業だ。それに、みんなが揃って幸せになるなんて、そんなお花畑な世界があるわけないだろう。君にはわからないんだ。これから社会が良くなっていくとしても、過渡期ってものがあるんだ。まずは、この国の若者の活力を取り戻さないといけない。高齢者層の救済はその次だ。女はわかりやすい目先の結果ばかり見て、ろくに過程を見ようとしない。今、世の中から称賛されているものは持ち上げて、それ以外のものは見下す。そして、それが逆になればすぐに掌を返す。そういう人間ばかりだから、世の中はどんどん悪い方向に向かっていくんじゃないか!」
「世の中から称賛されるって、あなたが? 私、あなたがどれだけ世の中から称賛されようが、掌を返したりしないわ。現に今だってそうよ。だって、あなたのやっていることは間違っているもの」
「俺が、間違ってる?」東條は呆れた表情をした。
「そうよ。あなたは間違ってるわ」
 東條はもう限界だった。それだけ言うのなら自分だって言ってやる。
「君だって。噂で聞いたんだが、君は男を騙して大金を稼いでいるんだろう? 男を利用して私腹を肥やして、その服もアクセサリーも全部、男に貢がせたものだろう? 君、一年の時言ってたよな? 将来国際貢献がしたいって。貧困にあえぐ人々に分け隔てなく食糧や教育を与えたいって。それなのに、今は男に媚びを売って、そのはした金で贅沢しているのか。堕ちたもんだよな。それに比べれば、俺は多くの人間を救ってるんだから、君のやってることなんかよりよっぽど価値がある」
 これは効いた、と東條は思った。それと同時に言い過ぎたことを後悔した。朝比奈は俯き、黙った。こんなつもりでここに来たわけではなかった。東條の中には、今日の日をきっかけに、朝比奈との関係を修復できるのではないかという淡い期待感があったことは紛れもない事実だ。
「あなたと私を一緒にしないでほしいわ。私は少なくとも、自分が悪いってことは自覚してる」
朝比奈はそう言い捨てると、さっと向き直り、足早に去ろうとした。一瞬、彼女の目は潤んでいるように見えた。東條は焦った。「待って。どういうことかちゃんと説明してくれ。君は本当にそれだけを言いに来たのか? 君のことは昔から、何一つわからないんだ」
 朝比奈はチラッと東條の方を振り返ったが、再び向き直って、東條の元から足早に去っていった。暗闇のせいで、東條には朝比奈がどんな表情をしているのか確認することができなかった。
 
東條は真っ暗な公園で一人、突っ立ったままでいた。五年前、東條は朝比奈に一方的に振られた。その痛みからは今もなお立ち直れていない。東條はこの五年、彼女に追いつく方法を必死に模索してきた。その後、東條はCRYを立ち上げ、日本全土に影響力を及ぼす存在となった。しかし、彼女はそれでも彼を認めなかった。それどころか、彼のやっていることは間違っているのだと言った。
いや、違う。東條は考えた。(これはきっと、自分がまだ中途半端だからだ。彼女の言うように、CRYの活動には悪い側面も確かに存在している。しかし、これはまだ過渡期だからだ。よりCRYの理念を若者に浸透させれば、今起きている高齢者に対する短絡的な暴力はなくなっていくだろう。それに、もっと大きな力を持てば、その分やれることも増える。そうなれば、最終的には高齢者層さえも救い出すことができ、本当の意味での平等で理想的な社会が出来上がる。その先にきっと、朝比奈結はいる)東條は再び、自身の顔を上げた。


第四部 天国と地獄


第一章 自省

「これ、この前言ってたバッグだ」
 男は高級ブランドのバッグを差し出した。朝比奈はそれを受け取るのをためらった。
「なんだ? 要らないのか? せっかく海外のサイトまで見て買ってきたのに。ほら」
 この男は、日本でも有数の広告代理店の役員だ。朝比奈は勤めているデリヘル店でこの男と出会い、三度ほど店を通して呼ばれた後、店の外でも会うようになった。朝比奈が現在住む六本木のタワーマンションは、この男の名義で契約されている。家賃も彼が持っているが、その代わり朝比奈は男に呼ばれる時は例外なく彼の元に出向いた。と言っても、この男は学校や仕事を抜け出すようにとか、無茶な要求をすることはなく、また、見た目も身綺麗なおじさんという感じで、朝比奈にとっては非常に都合の良い存在だった。  
「ありがとうございます」朝比奈はそう言ってバッグを受け取った。
「なんだ? あんまり嬉しそうに見えないな」
「そんなことないですよ。一生大切にします」朝比奈は笑顔を作った。
 確かに、このバッグは海外のモデルのインスタグラムを見てからずっと気になっていたものではある。だが、なぜ、自分はそれを手にした今、このバッグから目を逸らしたくなるのだろうか。以前までなら、そんなことはなかったはずだ。彼女は疑問に思った。
「仕事はどうだ? 結」男は朝比奈に尋ねた。この男はもう、彼女の本名も、香川にある実家の住所も、何もかも知っていた。
「まあ、ぼちぼちって感じです。事務員なので、取り立てておもしろいってわけでもないですが」
「しかしお前なら、アナウンサーとかになるかと思ってたんだがな。普通にOLになったのは意外だったよ」
「私には、そんな人前に出るような仕事、元から向いてないんですよ。本質的には、私は根暗ですから」
「そうか? まあ、今の仕事が嫌になったらいつでも言ってこい。うちの会社で良ければどの部署にでも入れてやる。なんなら俺の秘書でもいいがな」男はネクタイを締めながらそう言った。
「じゃあ俺は、これからアメリカ行きだからそろそろ行くな。ここには泊まっていっていいぞ。どうせ経費だ。遠慮は要らない。帰国したらまた連絡するからな」
 男は身支度をして部屋から出ていった。

 朝比奈は泊まっていいと言われた横浜にあるホテルを早々に出て、タクシーを拾った。首都高を走るタクシーの後部座席で、朝比奈は窓ガラスの縁に頬杖を突き、夜の東京の街を眺めていた。五年前、大学受験のために初めて東京に来た時、その高層ビル群の数々に圧倒された記憶がある。試験後、母親は「これまで頑張ったご褒美」と言って、六本木でも有数の高層ビルにあるレストランに彼女を連れて行った。レストランの窓から見える一対の電極のような高層マンションを見て、セーラー服姿の朝比奈は、「東京はすごいな。一体、どこの大富豪があんなところに住んだり、こんなところで毎日食事してるんだろうね」と母親に言った。五年が経った今となってはもう、それらは朝比奈にとって日常だった。巨大な電極は自宅で、華々しく輝くレストランやホテルは彼女の仕事場だった。
あの時、なぜあんなことしか言えなかったのだろうと彼女は思う。一か月ほど前、朝比奈は国会議事堂前で演説をする東條の姿をテレビ越しに見た。彼がCRYという組織を立ち上げ、若者のための社会を作ろうと奮闘していたことは大学時代から既に知っていた。CRYがネットの広報やデモで知名度を高め、徐々に大きくなってゆく過程も、気になってほとんどずっと見ていた。そして、国会前に大勢の人間を集め、国家権力を相手に迫真の演説をする彼はとてもかっこよく見えた。そこには、かつて彼が持っていた甘さや頼りなさというものは一切感じられなかった。CRYは結成当初、誰からも相手にされていなかった。それでも彼は自分の信念を貫き、遂にはあそこまでたどり着いた。裏に相当な忍耐と努力があったことは想像に難くない。
そんな彼に、再び会って話をしたい気持ちが朝比奈の中には芽生えた。彼女は、彼に会ってほしい旨の連絡をした。五年前に自分から彼を遠ざけたにもかかわらず。会うための理由は濁した。朝比奈には、たとえ理由が不明瞭であっても、自分が会うことを求めれば彼もそれを許容するだろうという目算があった。
久々に彼に会うと、朝比奈は思いの外、緊張し普段の彼女ではなくなった。それは、久しく忘れていた感覚だった。そして、久々に会った彼は顔つきが以前と変わっていた。そこには、厳しい社会情勢に一身を捧げて立ち向かっていこうとする姿があった。朝比奈はそれを感じ取り、その瞬間、その場で彼と向き合っているのが居心地悪くなった。彼女は彼に何を言うべきか見失った。そして、あらかじめ用意していた方便を述べた。CRYの一部会員によって被害を被った友人がいると。その話は嘘ではない。だが、その「友人」とは、実際は噂で聞いた「他人」であった。そもそも、そんな要件なら、チャットや電話で事を済ませれば良いだけのことだ。そして朝比奈は、彼やCRYの活動を言葉の思いつく限り否定した。彼女自身、自分が何をしたかったのかはわからなかった。だが、その時の朝比奈は、そうしなければ、とてもじゃないが彼と面と向かって向きあってはいられなかった。

朝比奈は自宅のマンションの前でタクシーを降りた。部屋に着くと、明かりを点けないまま、リビングのカーテンを開けた。オレンジ色に染まった東京タワーが見える。
(目先の結果ばかり見てろくに過程を見ようとしない……か。そう、彼の言う通りだ。私は大学一年の時、彼の優しさを内心では馬鹿にして、自分はそれに染まりたくないと思い、彼を一方的に遠ざけた。そして、彼が力を持ったら、今度はある種のときめきを覚え、卑しくも近付こうとした。やっぱり私は、そうやって誰かのことを損得勘定で区別して尻尾を振りまく汚い人間なんだ。なぜ、私は、彼のことを間違ってるだなんて言えたものだろう。彼は今、困窮している若者の救済のために本当に頑張っている。自分の顔を公衆に晒して、自らの危険も顧みずに世間と戦っている。
 それに比べて、私は全然だめだ。高校生の頃に思い描いていた夢などとっくに消え、大学生活はひたすらに私腹を肥やし、女であることの優越を味わった。高名な政治家も、愛妻家で知られるタレントも、気難しそうな学者も、私があの空間でちょっと笑顔を向けてやれば、それだけで彼らは歯の浮くようなセリフを吐き、私に尽くした。銀座の高級レストランなんて何度も行った。有名なホテルのスイートに泊まったこともある。海外旅行にだって連れて行ってもらった。私が欲しいと呟けば、次に会う時には、彼らはブランドのバッグや高級化粧品をどこからか探し出して買ってきた。その上、彼らは私に多くのお金をくれた。その費やされた額が私自身の価値だと思った。
四年になって、大学卒業後に就職しないのも体裁が悪いから、一応就活はやった。何社かエントリーし、それほど一生懸命やらなくてもほとんどの会社が内定をくれた。それらは全て、日本を代表する一流企業だった。その中から残業が少なく福利厚生の手厚い会社を選び、私の就活は終わった。その年の十月、震災が起こった。風俗店勤務は大学卒業と共にやめるつもりだった。新規顧客を獲得しなくとも、もう十分、自分に貢ぐ男は確保していた。だが、私の入社予定の会社は震災の影響を大きく受けた。私は念のため、今の風俗店に籍を残し、都合がつけば週末に出勤した。
私はいつまで、こんなことを続けるのかと思う。男の下心を弄び、承認欲求と快楽を満たす生活をいつまで……。だが、それもいずれ終わりが来る。女の価値は年齢と共に失われていく。それは、風俗業界で働く自分が一番よくわかっているこの世の現実だ。私が若さを失えば、男達は新たな若い女を求めていく。どれだけ強く抱きしめ合っても、身の震えるような言葉をささやき合っても、男女の間に永遠の絆など存在しない。私はこれから一日ずつ、終わりに近付いていく……。
私はきっと、劣等感を抱いた自分を認めたくなくて彼を否定した。彼の前に広がっている未来と自分のそれとを比較して、彼に嫉妬した。彼はもう、昔のままの彼ではなかった。彼はもう、この国の未来にとって、なくてはならない存在になっていた。今の彼は、日陰の場にいる私にとって眩しすぎたんだ……。
私は、彼のことが本当に好きなのかはわからない。私は今まで、数えきれないほどの男達と出会ってきた。しかし、日常生活を送っていて、その男達のことが頭に浮かぶことはほとんどない。だが、彼のことだけは、一年の頃からどうしても気に掛かってしまう。彼が今、どういうことをしようとしているのか、そしてその結果がどうなるのか、それをどうしても確かめたくなる。私は自分から遠ざかったにも関わらず、なぜ、彼のことをいつまでも気にしているのか。彼という存在が私にとって何を示すのか、私にはわからない。
だが、彼と会ったことで、今、一つの決心がついた。私はもう、風俗業界からは足を洗おうと思う。今、会っている男達とも関係を終わらせていこうと思う。そして彼のように、自分の信念を懸けられる仕事をしようと思う。そう、高校時代のまだ純粋な私が思い描いていたように。正社員の仕事を辞め、一から英語や国際協力の勉強をするのも悪くないかもしれない。留学もしようか。幸い、蓄えはたくさんあるのだから。そして、私はもう一度、胸を張って生きられるようにしよう。彼の……いや、東條君のように)

第二章 暴走

 フジヤ電器と看板を掲げた小さな家電量販店には、街頭に面して42型のテレビが二台置かれている。フジヤ電器は横断歩道の手前に店舗を構えているため、通行人達は信号機を待つ間、しばしばこのテレビの流す映像に目をやった。今、放映されていたのは、若者の集団が国会前でデモをしている映像だった。
小林は、近頃世間を騒がせているこのCRYという組織が、かつて新宿や池袋の駅前で見かけたことのある集団だとわかっていた。あの時、十数名の人数でデモ活動を行っていた彼らが、今では数万の若者を引き連れ、国を相手取ってデモを起こしている。彼らは相変わらず、若者のための政治を訴えているらしい。あの集団を初めて見たのはもう二年も前のことだ。あの日は、新宿の汚いマンホール現場を回った後、西口に連れられ居酒屋に行った日だ。そして、酒に酔った自分はあろうことか、風俗を経験することとなった。つまり、あの日が彼女との出会いの日でもあった。あれから約二年、小林は彼女への恋心は変わらず、金の工面をしてなんとか、ひと月かふた月に一度は彼女に会っていた。彼女は時を経ても変わらず優しく、小林は出会った頃よりは、幾分も緊張せず彼女と接することができるようになっていた。
彼女は昨年、大学を卒業して社会人になったそうだ。本当は、大学卒業と共に店を辞めるつもりでいたそうだが、震災後の不況による今後の不安もあり、今は、平日はOLとして、休日に風俗の仕事に出勤する生活をしているらしい。彼女の人気は相変わらずで、出勤日数が減ったことも相まって、彼女とタイミングが合う時は少なくなっていた。一方の小林はと言うと、あの警備会社の正社員としてまだ勤務していた(しかし、震災の数か月後、同僚だった西口は人知れず退職しており、それ以来、小林は姿を見ていない)。
そして、教団へも通っていた。教団は震災以降、新たな試みを始めた。それは、神父の教えを記した本の出版や、それを使った積極的な布教活動だった。また、信者は、神父のお布施や儀式を受ける度に、それに応じた額の献金が必要となった。最近の神父は、教会や講堂に顔を見せる機会が少なくなっており、正式に行われる集まりを除いては、ほとんど会話を交わすことができなくなっていた。
小林としては、たとえ献金額が上がろうとも、それらの集まりに多く参加して、神父に様々なことを相談したかった。しかし、最近の彼は、ギャンブルで負けが続いており、貯金はほぼゼロ、いやむしろ借金があった。最初は軽い気持ちだったのだ。借りた金も、すぐにギャンブルで取り返せると思った。しかし、負けが続くと次第に焦りが生じ、判断に狂いが出る。加えて、以前より情報収集に精を出さなくなったことも負けの一因だった。小林は、ギャンブルでの浪費により貸金業者の借入限度額に限界が来ると、もう二社から新たに借り入れを行った。次第に借金の総額は膨れ上がってゆく。それでも小林は、いずれまたギャンブルで大勝ちすれば、こんな借金いつでも返済できると思った。いや、そもそも彼には借金をしているという感覚はなかった。彼はいつしか、消費者金融の借入限度額を自分の貯金だと思ってしまっていた。気付いた時には、彼の借金残高は実に百万円を超えていた。
テレビの画面には、東條と呼ばれるリーダーの演説シーンが流れている。「私を信じて、私と共に、新しい国を創っていきましょう!」画面の中の東條は拳を振り上げてそう締めくくった。新しい国。それは本当に良いものなのだろうか。彼らのような、いかにも恵まれた人間達に一体、自分の何が理解できているのだろう。小林は、東條やその取り巻きの顔とか身なりを見ていると、どうしても、彼らが自分とは全く別の次元で生きている存在に思えてならなかった。
最寄りの上尾駅に着くと、小林は満員電車に乗り込み職場へ向かった。朝の埼京線は、他の時間と違い少し陰鬱な空気が漂っているのがわかる。今日は雷雨のため、車内に充満した湿気も相まって、なおさらそれを感じる。小林が車内の人混みを掻き分け、座席の前に立つと、前に座る二人組のOLの会話が聞こえてきた。
「昨日も行ってきたんですよ」
「どうだったの?」
「夜まで飲んで、カラオケ行って、結局それで別れたんですけど」
「え~、何もなかったの?」
「もうちょっと積極的に来たらいいんですけどね~。まあ、顔がそこまで好みじゃないし、お金もなさそうってわかったし、次はないかな」
 女の会話というものは、なぜこんなに鬱陶しく、それでいて耳にはしっかり届くのだろう。自分とは全く無関係の話のはずなのに、小林は前に座っている二人組の女に、なぜか激しく腹が立った。
 赤羽駅で降り、十分ほど歩いた。職場に着くと、小林はいつも通り警備服に着替えるため更衣室に向かった。更衣室と言っても、そこは人が同時に二人着替えるのが限界の、狭く暗い物置のような場所である。隅には蜘蛛の巣が張っており、エアコンも付いていないため、夏はむせ返るように暑く、冬は凍てつくように寒い。ロッカーはなく、従業員はバッグに持参した警備服を取り出し、その場で着替える。着替え終えると、小林は今日自分が向かう現場を確認するため、事務員の女のもとに向かった。しかし、事務員の女は、ただ社長室に行くようにとだけ小林に伝えた。女は無表情だった。
小林は訝しげに事務所を出て、社長室に向かった。小林は、社長の姿自体は事務所で何度も見ていたが、面と向かって会話したことは今までなかった。ましてや、社長室に呼ばれることなど、面接や入社の時ですらなかった。
 小林は社長室の前に着いた。コンコンとノックをして中に入る。社長室には、ドアに対面する形で奥の方にデスクと椅子が置かれていた。社長は座席に座り、小林が来るのを待っていた。この社長は、五十代半ばぐらいの男で、フサフサの黒髪をしている。この警備会社にいる人間は多かれ少なかれ、皆、清潔感という言葉とは縁遠いような風貌をしているが、この社長に限ってはそういう感じは一切なく、綺麗な紺のスーツを着こなし、およそ、この小汚い事務所には不釣り合いな雰囲気を漂わせている。この男は、この警備会社以外にも複数の会社の経営に携わっているらしい。小林がドアを閉めるや否や、社長は無表情で彼を見て言い放った。「解雇」
「……カイコ?」小林は社長に問い直す。
「そうだ、解雇だ」社長はその言葉を今一度強調して言った。「まあ、君も勤務態度がそれほど良かったわけでもないし、震災によるこの不景気だ。うちも会社を存続させていくには人員整理するしかないのでね。君は免許はあるようだが、正社員なのに自分の車を持っていない。こちらとしては扱いづらいんだよ。今、君以外の社員の方達には、一日の中でも臨機応変に複数現場をこなすため、車で各地を飛び回ってもらってる状況だ。それでもこの会社の経営はギリギリだがね。うちとしては、この苦しい状況を少数精鋭で乗り切りたいというわけだよ。まあそれでも、君に将来性を感じれば残したんだが、君は取らなければならない資格もまだ一向に合格できてないよな。はっきり言って、君にはやる気が感じられないんだ。まあ、そういうことだから、この会社には君は必要ないという結論になりました。健闘を祈る」
 社長はこれだけのことを一気に言い終えると、あとは厄介者であるかのように小林から視線を外して、再び机上の書類の処理に取り掛かった。小林は何一つこの男に言い返すこともできないまま、ただ突然の通告を受け入れることしかできなかった。
 小林が事務所を横切り更衣室に戻ろうとすると、先ほどの事務員の女が、「小林さん、聞きましたよね? 警備服はクリーニングに出してこちらに送ってください。それから書いてもらわないといけない書類もありますので……」などと言って、小林に書類を手渡した。女は色々説明していたが、小林は何一つ聞いていなかった。その後、更衣室に行き、警備服から再び私服に着替え、会社を出た。少し歩いて小林は公園のベンチに座った。社長室を出てから今まで放心状態でいたが、ようやく彼の頭が、埃をかぶった機械のようにゆっくりと動き始めた。とどのつまり、自分は仕事をクビになったのである。それは揺るがすことのできない厳然たる事実だった。小林は時間が経てば経つほど、あの社長の、人を馬鹿にしたような態度を思い出し、腹が立ってきた。なぜ自分はあの時、あの男に言い返さなかったのだろう。あるいはなぜ、殴りかからなかったのだろう。小林は激しく後悔した。
 しかし、何はともあれ、真っ先に考えるべきは生活のことである。仕事をクビになったということは収入がなくなったということだ。自分はこの先、どうやって生計を立てていけば良いか。最近はギャンブルも負け続け、借金すらある状況なのに。小林は何としても次の職を見つける必要があった。それもバイトではなく正社員だ。今まで正社員としてある程度の収入を貰えていただけに、今さらバイトの待遇に戻ることは彼にとって考えられなかった。それに、彼は正社員であるにも関わらず解雇されたのだ。ということは、非正規なら、それはより高い可能性で起こり得ることになる。
しかし、その後の転職活動は困難を極めた。高校卒業後、三度の短期離職をしてしまったこともその一因としてあったが、単純に、震災以降、日本全体で求人倍率は大幅に下がっていた。ハローワークにも足を運んだが、そこで紹介される求人は、その応募内容を見ただけでブラックな臭いがプンプンした。こうして小林は転職活動に行き詰り、そのモヤモヤを解消すべく金がないにも関わらず、神父に会おうとした。

火曜日の昼間はいつも仕事に行っているため、その日に教会を訪れたことは今までなかった。だが、小林は以前桐子から、神父は火曜の昼に池袋の教会に来て一人お祈りをするのだと聞いたことがあった。小林はその言葉に期待を抱いた。教会に着くと、小林は少しだけ開いている扉の隙間から中の様子を伺った。教会は閑散としていた。しかし、中には二人の人影がある。それは神父と桐子だった。小林は、桐子の言う通り、神父が教会にいたことに喜び、中に入ろうと扉に手をかけた。
「小林君、最近どんな感じ?」小林は歩み出していた足を止めた。
「もう限界だと思います。元々、竜の稼ぎじゃ生活するだけでいっぱいいっぱいなんですから。みんな噂してますよ。竜があんなに多くのお金を献金できるわけがないって。絶対、あのお金は借金して得たものだって」
「そこまでするかねえ。たかが献金に」神父は呆れ笑うような口調で言った。小林は、神父の口調や態度がいつもとは全く別物であるように感じた。神父はいつも、軽く微笑んだような表情で穏やかに語り掛けるように話す。しかし、今、桐子と話している神父は、冷笑的でドライな印象を受ける。
「バカですからね。あの子は。ギャンブルなんかにもハマってて、よく何万勝ったとか自慢してくるんですが、それがうざいのなんのって。でも、最近はそういう話をしてこないからたぶん稼げてないんだと思いますよ」桐子は小林を嘲る。「借金できる額にも限度がありますし、もう彼は借りられないんじゃないですかね。あんな何にも続かないダメ人間、この先お金なんて稼げるわけもないし、今ある借金も返せずに人生終えるんでしょうね」桐子は鼻で笑いながらそう言った。
「彼確か、実家暮らしで母親も働いてらっしゃるでしょ。家族からどれだけ取れるかは一度確認しておく必要があるねえ」
「家族からですか。わかりました。今度そういう風に話を誘導してみます」
「彼のような純粋な子を主は気にいるだろうねえ。俗人の私としては、そういった存在に感謝の意でいっぱいだよ」  
 神父の言葉には明らかに嘲笑の念が含まれていた。ふと、小林の背後からサッサッと箒を掃く音がして、彼はその音の主を確かめることもなく慌ててその場を離れた。
 
小林は動悸を感じていた。額には冷たい汗が流れ出している。全身を虫が這いつくばっているような嫌な感じがした。小林の中に神父に対する疑念が生まれた。いや、先ほどの神父と桐子の会話は、既に疑念を抱くまでもない事実を彼に対して突き付けていた。しかし、それでも小林は神父のことを信頼したかった。何かの間違いであってほしかった。  
翌朝八時、小林は起床して、居ても立っても居られなくなり、意を決して再び教会に向かうことにした。この日、神父は不在だった。礼拝堂には、腰の曲がった老人が一人だけいた。この男は、よく教会の周辺や中の掃除をしている信者の一人だった。小林はその男と今まで一言も会話したことはなかった。思えば、昨日教会の外を掃除していたのはこの男かもしれないと小林は思った。
「すみません。ちょっと」小林はこの老人に声をかけた。この男はよく神父と会話している。故に、神父について詳しく知っているのではないかと考えた。
「はい?」老人は箒を掃く手を止めて小林の方を向いた。
「聞きたいことがあるんですが、ちょっといいですか?」
「あなたは……。確か、桐子ちゃんとよく一緒にいる……」
老人は小林のことを認知していた。彼は教団の信者になってから久しく、桐子のことも彼女の幼少期から知っていた。小林は神父の人となりについて老人に尋ねた。老人は、多くの信者がそうであるように、神父は聖人であると述べた。だが、小林は、質問に答える老人の顔が少しだけ曇るのを見逃さなかった。そこで小林は、昨日聞いた神父と桐子の会話について、老人に打ち明けた。そして、神父は本当に聖人であるのか、老人に強く問い詰めた。老人はおそらく、この教団という閉鎖的な環境の中で、それを言うべき時と相手をずっと探していたのだろう。彼は、自分が神父の下で長年仕えてきたことを明かした上で、教団と神父に近しい存在だったからこそ知り得た事実を小林に話した。
「あの震災が起きてからなのです。神父様が変わり始めたのは。それまでは、あなたもご存知の通り、神父様はとても人格の優れた方でした。教団は震災前、十分の一献金 で信者から働いて得た収入の十分の一を徴収していました(これに関しては小林も了承していたが、彼は若いため、納める献金額を少し融通してもらっていた)。しかし、あの震災以降、献金を負担に感じたり、信仰活動に励む余裕がなくなったりといった理由で信者の脱会が相次ぎ、今いる信者が納める献金額も少なくなっていきました。それに加え、地震の揺れにより、教団の所有する建物なども損害を受け、修繕費等もかさみ始めました。これでは、教団の運営維持が成り立ちません。神父様はそうゆう状況を考慮して、献金をより多く納めさせる方法を考え始めました。すなわち、月定献金の他に、お布施や儀式の度に献金を徴収するようなことです。そして、それらにのめり込むうち、徐々に人が変わっていきました。これは噂で聞いた話ですが、神父様は、告解 で聞いた話を種に信者を揺すり、多額の献金を納めさせるようなこともやっているらしいのです」
 小林は頭がくらくらした。
「桐子は? あいつはどうなんです? あいつは神父とどうゆう関係なんです?」
「あの子は父親がおらず、母親は古くから真愛教の信者です。私はよく覚えています。当時小学生のあの子が母親に連れられ、初めて教会に来た時のことを。神父様はその頃から、あの子の実の父親代わりでした。そうして、あの子は神父様に対して一種の崇拝を抱くようになったのです。中学生になる頃には、あの子は神父様の言うことなら、なんでも従うようになっていました」
 自分は騙されていた。小林はそう思った。いや、あの二人の会話を聞いた時には既にわかっていた。しかし、そんな疑念には向き合いたくなかった。彼は信じたかった。自分を真に愛してくれる人間の存在を。だが、本当の意味で小林に向き合ってくれている人間は最初からいなかった。彼はただ、搾取の対象として見られていただけなのだ。小林に残ったのは、信頼していた人間に対する失望と、どこにもぶつけることのできない怒り、それに百万円を超える何の意味もない借金だけだった。
「ただ、あなたにお伝えしたいのは、神父様は決して悪の権化などではないということです。全ては、地震という災厄のせい。どうかそこはご理解いただきたいのです」老人は最後に小林にそう言った。

干し草に包まれているような感覚だった。外傷はないが、心を無数に切りつけられているような感じがした。実の父親のように信頼していた神父は、自分を搾取の対象としか見ていなかった。親友のように思っていた桐子は、ただ自分を見下していただけだった。その現実を知り、小林の心は絶望のあまり折れかけてしまっていた。彼は、この感情を一刻も早く誰かに鎮めてほしかった。誰かが愛を与えてくれれば、自分はまだやり直せると思った。そしてその相手は、彼女しか考えられなかった。
小林は彼女と会う準備をした。持っている中で一番上質なスラックスとジャケットを着た。それらに身を包んだ姿を鏡で見ると、我ながらスマートさを感じ、少しばかり元気と勇気が出た。そして、ジャケットの内ポケットには、言葉でうまく伝えられなかった時のために用意した手紙をしまい込んだ。小林には、きっと彼女も自分のことを気に入ってくれているだろうという、願望にも似た思いがあった。
小林は、いつものように池袋のラブホテルに入り、彼女が来るのを待った。彼女と会う前はいつも緊張するが、今日はとりわけそれを感じた。部屋に入って三十分ほど待ち、インターホンが鳴った。
「こんにちは」ドアを開けて小林は挨拶した。
「こんにちは」朝比奈は微かに微笑む。「入っていいですか?」
 朝比奈はそう言うと、自分の靴を脱ぎ、部屋に入った。小林は、彼女がどこか元気がない様子なのが気になった。朝比奈はドアを開けてからこれまで、小林の目を一切見ていなかった。部屋に入ると、朝比奈はソファに荷物を置き、スマホを取り出した。「六十分ですよね? 連絡していいですか?」
「あ、はい」
 朝比奈はスマホで店に電話をかけ、スタートの報告と受領金額の確認を行った。電話を終えると、彼女は小林から金を受領し、それを丁寧にポーチに入れ、そのポーチをバッグにしまった。その淡々とした様子を見て、小林は我慢できずに切り出した。「あの、何かあったんですか?」
「え?」朝比奈はびっくりした様子で反応し、この時初めて小林の顔を見た。
「いや、いつもとなんか違うから。元気がなさそうで……」
「そんなことないですよ。また会えて嬉しいです。お仕事大変ですか?」朝比奈は社交辞令のような感じで小林に返した。
「ああ……はい、まあ」
 彼女は笑っていたが、やはりその笑顔は無理して作っているもののように小林は思えるのだった。
「シャワー、行きますか?」
 朝比奈はブラウスのボタンを外し始めた。そこで小林は意を決した。
「あの。薫さん……僕と、僕と付き合ってくれませんか? 本当に好きなんです。薫さんのことが」
 小林にとって、人生で初めての告白だった。この時までに、頭の中で何度シミュレーションしたかわからないセリフだった。小林の心臓は今にも破裂しそうだった。しかし、小林の言葉を聞くと、朝比奈はぱっと、それまで穏やかだった表情を固くした。
「すみません。そうゆうのは禁止なので」
 彼女が言ったのは、たったそれだけだった。部屋の時が止まったようだった。二人はそのまま動かず、立ったままでいる。小林は何かを言おうと魚のように口をパクパク動かしたが、出そうとした言葉は喉元で突っかかり、それが声になることはなかった。
「シャワー、行きましょうか?」
 場の雰囲気に気まずさを感じたのか、朝比奈は無理やり笑顔を作り、いつもの空気を取り戻そうとした。しかし、小林はそれには応じなかった。
「……僕のことが嫌いですか? ちゃんと説明してください」小林は、ぼそりと言った。
朝比奈は、はぁとため息をついた。「時間になっちゃいますよ?」
「いいです。ちゃんと説明してくれないんだったら、僕はもう、あなたを指名することはありません」
 小林の言葉を聞くと、朝比奈は脱ぎかかったブラウスのボタンを再び留めていった。そして、上まで留め終えると、真顔になって小林に向き直った。
「嫌いとかじゃありません。ただ、私とあなたは、風俗嬢と客という関係。たったそれだけです」
朝比奈の口調は、これまでのような芝居がかったものではなく、ただ事実を淡々と述べる無機質なものだった。
「……今までのことは全部嘘だったですか? あなたは僕に愛してると言ってくれた。僕もあなたのことを愛していて、二年間も高いお金を使ってあなたに会ってきた。それなのに、それなのにあなたは、それがなんでもなかったことのように言う」小林は目に涙を浮かべていた。
そんな取り乱した小林に対しても、朝比奈はいたって冷静だった。「はい。今までありがとうございます。でも言わせてもらえば、私にはそういうお客さんが他にもたくさんいます。それに、あなたに使ってもらったお金は、その中では全く大した額ではないです。私はやろうと思えば、よりお金を使ってくれるお客さんを選ぶことだってできます。あなたと過ごす時間で、もっと多くのお金を貰うことだってできるんです」
「罪悪感はないんですか? たくさんの男を騙して、お金を稼いで」小林は鼻をすすった。
朝比奈は再びため息をついてベッドに腰掛けた。彼女は先ほどまでの改まった口調をやめた。「言いたいことはわかるわ。こうやって本音を言えば、私がすごく嫌な女みたいに聞こえるでしょう? でも、私は限られた時間の中で、普段、お客さんが満たすことのできない感情を満たしてあげてるのよ。それが風俗ってものでしょう? 風俗嬢はね、体は売っても心は売ってないの」
以前までの朝比奈だったら、もう少しオブラートかつ相手に期待を持たせるような断り方をしていた。だが、彼女はもう、客に対して取り繕った顔を見せることはできなかった。二週間前、朝比奈は店と話し合い、今月いっぱいで退店することを取り決めた(本当はすぐに辞めるつもりだったが、店からの強い要望があり一か月延長した)。それからは、客に会っても以前のような愛想のいい振る舞いはできなくなり、むしろこれまで溜まっていた客に対する様々なストレスが態度に出てしまうようになっていた。自分で選んで続けていたとは言え、風俗嬢としての仕事は決して楽で美味しいものではないのだ。人間の欲望や醜さと正面から向き合い、どんなに汚い相手でも、どんなに嫌な要求をされても、彼女はこれまで自分を殺して笑顔を作ってきた。彼女にとってはそこが、自分が輝ける場所だったから……。
「プレイ、どうしますか?」朝比奈は、俯いてしゃくり上げる小林に無機質に尋ねる。
小林が黙ったままでいると、彼女はベッドから立ち上がって、無表情でシャワーの準備を始めた。それを見て小林は、「もういいです。終わりでいいです」と彼女に言った。
「そうですか? じゃあお店に連絡しますね」
 朝比奈は動じることなく、そう返した。彼女は店への連絡を済ませると、片付けをしたり浴室に忘れ物を確認しに行ったりした。そして準備を終え、もう部屋を出るだけという状態になって、朝比奈はベッドに座り込んで俯いている小林の方を向いた。
「竜さん。さっき私が言ったことは紛れもなく私の本心ですし、それを今更取り繕うつもりもありません。ですが、それだけじゃありません。さっき私は、客を選ぼうと思ったら選べるんだと言いました。私が竜さんの下心のない優しさを魅力的に思っていたのは事実です。もう、あなたは私の顔を見たくもないかもしれませんが、私はまた、待ってますから」
 朝比奈はそれだけ言うと玄関の方へ向かった。彼女のその言葉は、傷心の小林の心に届くことはなかったが……。

小林はホテルを出た。行く先があるわけでもなく、ただ電車の線路沿いに歩いていた。やがて、北大塚と書かれた標識が目に入った。どうやら山手線沿いに歩いていたらしい。直射日光が容赦なく小林の肌を焼き尽くした。地面に滴り落ちるほど汗をかいていることに気付く。喉も酷く乾いている。住宅街が果てしなく続いていた。ここには、コインパーキングは見当たらない。小林はアパート裏の日陰に倒れるように座り込み、目を閉じた。(自分はもう、このまま立ち上がれないかもしれない……)

小林は目を開けた。眠ってしまっていたようだ。全身から汗をびっしょりかいている。夢を見ていた。過去の夢だ。小林は高校生だった。彼は学校の体育祭でリレー走者として走っている。このクラスは、体育祭などの学校行事に熱心ではなく、本来、リレー走者などに選ばれるはずもなかったのに、彼は強引にその役目を押し付けられた。小林はそれでもベストを尽くすべく懸命に走る。しかし、小林の脇から次々と他のクラスの走者が現れ、彼を颯爽と抜いていく。小林の耳には、歓声とため息が両方聞こえてくる。そして、嘲りの色を含んだ声が、遠くからではあるがはっきりと聞こえてくる。前方を見ると、女子二人と、男子四人が団体で座っていた。男が小林を指さし笑う。女達もそれに合わせ、手を叩いて笑う。その中の一人は彼が恋焦がれた女子生徒だった。その女子生徒は、笑みを保ったままで、顔を背けるようにして一人の男の膝に倒れかかった。集団はいつまでも彼を笑っていた。
(なんでこんな夢を見たんだろう……。きっと、この時の感情に似ていたからだ。女というのは無慈悲な生き物だ。表面的にはまともに見えても、利害に敏感で、自分の損になるようなことは絶対にしない。彼女は女神様でも何でもなく、やはり自分が昔から嫌悪していた女だった。自分の利益のために平気で嘘をつき、強いものに媚び、弱いものは見下す薄汚い女。自分のことは棚に上げて、他人の悪口はとことん言う女。桐子だって同じだ。女はみんな害悪だ。もう……限界だ)

 また、眠りに落ちていた。目を覚ますと、そこは眩いばかりの白い光の世界だった。小林はそこが天国だと思った。あの絶望に同情した神様が、救いの手を差し伸べて自分を天国まで連れてきてくれたのか。ふと、小林の前に真っ白な上下一体の服を着た人間が現れた。小林はそれを神だと思った。それの顔をよく見ると小林自身だった。神・小林は人間・小林に語りかけた。
「君の辛さは僕が一番わかっているよ。君のことをわかってやれるのは僕だけだ。僕のことだけは信頼してほしい」
 人間・小林は神・小林に語り始めた。
「家族には生まれた時から愛されず、信頼した人には騙され、生きる希望を見出してくれた女は俺のことなんか眼中にもなかった。俺は誰にも愛されていない。世の中に必要とされていない。俺はただ、この世の中の弱者として金持ちの奴隷として働き、搾取されて死んでいく。俺の存在価値なんて、たったそれだけだ。俺は全ての人間にとって、見下すことで安心を得るための存在。そんな星の下にきっと生まれたんだ。成功している奴らの話は聞くだけで吐き気がする。あいつらの努力が報われているのは、恵まれた環境や生まれ持っての才能があるからだ。あいつらは知らないだろう。何を頑張ろうとしても否定されて、足を引っ張ろうとしてくる奴らばかりの環境を。あいつらは知らないだろう。たとえ、どれだけ努力をしても、何一つ成果が出ず、努力なんか一切しないようなニヤけた奴らに敗北する屈辱を。クソだ。本当にクソだ。この世の中は。もう消えてなくなりたい。なんで生まれてくる権利も死ぬ権利もないんだ。俺は自分で望んだわけではないのに。なんで楽に死なせてくれないんだ」
 神・小林は人間・小林の言葉を受け入れるように頷く。
「楽に死ぬ、か。確かに生きていくことは苦しいことだね。だけど、君の人生はこれから素晴らしいものになるかもしれない。君がこれまで我慢してきたことは、全てこれからの人生のためなのかもしれない。誰よりも苦しみを味わった君だからこそ、君にはこれから誰よりも幸せになる権利がある。僕が保証する。君にはこれから、生きてて良かったと思える瞬間が必ず来る。誰かを愛し、愛され、分かち合うことは、いかに美しいものかということを実感することになる。だからこそ、君はここで死んではならない。どれだけ今が苦しかろうとも、生きていかなければならない。その先に必ず、明るい未来がある。なぜなら、この世は皆に平等にできているのだから」
「平等か」人間・小林は神・小林の言葉にしばらく考え込んだ。
「本当に平等か? この世界は。俺はこれまでの人生を生きてきて、そんなこと、これっぽっちも感じたことがない。この世界が平等だと言うならば、一つ例を出してやる。人間の死に方で最も苦しいのは焼け死ぬことらしい。全身の細胞が一つ一つ燃え尽きるまで苦痛を味わうことになるから、長い間地獄のような苦しみを味わうことになるらしい。その死因の多くは、苦しみから早く解放されようとして舌を噛み切ることによるものらしい。そんな苦しみを、ある日突然、自暴自棄になった見ず知らずの他人の放火によって与えられる可能性がある。放火した奴はその場から逃げて、たとえ捕まって死刑になったとしても、最も楽な首吊りで死ぬことになる。これが平等と言えるか? でも、それが世の中ってもんだ。人間が欲をぶつけ合って生きている以上、必ずそうゆうことは起こる。そうならば、お前の言う世の中とは、本当は理不尽で救いのないものなんじゃないのか? 例えば、末期癌の患者がいる。薬物を投与しても、もう死んだ方がマシなぐらいの苦痛を味わい続けている。それに耐えて生きることにしがみついた結果、待っているのは結局のところただの死だ。そいつは身体の苦痛と、それを見て苦しむ家族の姿も目の当たりにしないといけない。そこで安楽死を求めることは罪なのか? その患者は最後の最後まで苦しみ抜いてからでないとお前は死なせてくれないのか? これまでの話を聞いてもなお、お前はこの世界が美しく明るいものだと言うのか? 本当に努力が報われ、頑張って生きていく価値があるものだと言うのか? 人間って何だ? 俺達は何のためにこの世の中に生きている? お前が神だというならば、どうしてこんなクソみたいな世界を創った?」
 神・小林は黙っていた。人間・小林はまた語り始めた。
「お前が悪いんだ。俺達はみんな、お前の被害者だ。生まれてきた人間には痛み、苦しみを味わう機能が備わっている。そして、それは理不尽にも俺達に襲い掛かる。でも、お前はただ眺めているだけだ。お前が創った世界の仕組みがどう変わっていくのかをただ観察しているだけだ。俺は下りるぞ。こんなクソみたいな世界になんて最初から生まれない方がいい。この世に生まれてこないことこそが一番の救済だ。でも、俺達は生まれてきてしまった。お前の創ったこんな世の中に。だからこそ、俺達は人間の誕生を止めるべきだ。俺達が繁殖しないこと、これがお前に対抗する唯一の策なんじゃないのか? 無責任にこのクソみたいな世の中に子供を産み落とす奴は悪だ。子供を作るのは結局のところ親の自己満足に過ぎない。俺はこの世界を終わらせてやる」
 神・小林はなお黙ったままだった。

再び眠りに落ちていた。次に目を覚ますと、何やら奇妙な光景が小林の目に映った。月面を思わせる灰色の地表に、見上げると黒褐色の空が広がっていた。小林の二十メートル程先には教会にあるような四角い祭壇があった。両脇には松明が灯っている。祭壇上には、人の高さほどの黒く大きな鍋が乗っていた。中では、何やら赤黒い液体が沸騰している。祭壇の右手で螺旋状の模様の覆面をした全身黒タイツの男三人が奇妙なダンスを踊りながら回っている。鍋の左手には、ボロボロの布切れ一枚を身に纏い、生気のない表情をした男が立っている。男の顔をよく見ると、それは小林自身であった。
「お前は何をしに来た?」覆面の男の一人が踊りながら問いかけた。
「人を殺しに来た」小林は迷わず答えた。
別の覆面がそれに返答する。「誰を?」
「俺だ」小林は言った。「俺は俺自身を殺して生きてきた。殺さざるを得なかった。俺が俺であることを世の中が許しはしなかった。俺を殺さなければ、世間は俺の存在を認めなかった。俺はこの世に生まれた時から死んでいる」
「そうだ。お前が生きているからお前はお前に殺されるのだ。お前が世に生まれたからお前は殺されるのだ。殺した後に残るのは何だ。無だ。お前の存在、憎しみ、怒り、恨み、それら全て跡形もなく消え去るのだ」問いかけた覆面は小林にそう返した。
 空には黒く分厚い雲が全面にかかっていた。大鍋の沸騰が強くなった。遠くから見てもはっきりわかるほどしぶきがあがっている。また小林が語り始める。
「俺は生まれてから全てが敵だった。あからさまに蔑む奴、俺を利用しようとする奴、俺に優しくふるまって自己満足する奴。もううんざりだ。こんな奴らに囲まれて生きるのは」
「ならば、奴らも殺すのか?」三人目の覆面が問いかけた。
小林がそれに応じる。「殺す。笑ってやがる。あいつらを殺す」
「ならば、殺せ」
 これまで黙っていた大鍋の左手にいる小林は覆面を被った。 

小林は目を開いた。三度目の目覚めは意識がはっきりしていた。腕に何かが蠢く感じがした。彼は仰天して立ち上がり、腕を這っていた親指くらいのサイズのゴキブリを払いのけた。地面に打ち付けられたゴキブリは仰向けの状態で起き上がれないでいる。小林は、そのゴキブリを思い切り踏みつけた。ゴキブリの手足の動きはゆっくりになっていき、その内、動かなくなった。小林はアパート裏の日陰から、夕焼けに照らされている道路を見た。
(俺には味方がいない。俺は他人に見下され、利用されるために生まれてきたんだ。どうせこのまま生きていたって、いいことなんて何もないだろう。誰かを信じたとしても必ず裏切られる。もうそんな思いをするのは嫌だ。俺の憎い人間を皆殺しにして、俺も死んでやる。もう、何もかもどうでもいい。こんな世の中でこれ以上生きたくない。誰も味方のいないこんな世の中で……。みんな、いなくなればいい)

 一週間後の日曜日、国道122号線上りの車列には、息を切らした男の運転する軽自動車の姿があった。男は小林である。小林の運転する車は今、荒川を通り過ぎ、池袋へ向かっていた。彼の目的地は真愛教の本部ビルである。地上五階建てのこの建物には、教団の事務所や講堂、食堂が入っており、この日も瞑想修行のため、多くの信者が集まっていた。小林は池袋に着き、車を近くのコインパーキングに駐めると、あらかじめ給油しておいたガソリン10Lが入った携行缶と、新聞、着火ライター をゴム手袋を履いた手に持った。このビルは、一階がエレベーターホールになっており、教団の受付は二階にある。特に、朝のこの時間帯は、修行に来た信者達が講堂に入ってしまえば、それ以降は一階の人の出入りはほとんどなくなる。
小林は裏口からビルに入り、一階に人がいないのを確かめた後、裏口ドアのそばに置いてあったガソリンの携行缶を手に取り、ビル内にある非常階段を汗だくになりながら駆け上った。そして、五階の非常階段から降りながらガソリンを撒いた。一階まで降りきると、今度はフロアのエレベーターから床まで素早くガソリンを撒き散らした。そして、再び裏口ドアの前まで戻り、用意していた着火ライターに火を点け、それを丸めた新聞紙に移した。その新聞紙を即座にガソリンを撒いた床に放り投げ、小林はすぐにドアを閉めた。このビルは、すぐに火で覆いつくされる。神父も桐子も教団の人間も、ここにいる人間は全員死ぬだろう。しかし、小林にはそれを見届ける余裕はない。彼はすぐに次の目的地に行かなければならない。小林はビルを一度も振り返ることなく息を切らして走った。最後の目的地は池袋のラブホテルだった。小林は事前に女をこのホテルに呼び出していた。
部屋に入った。一時間ほど待って、部屋に取り付けられたチャイムの音がした。その音は小林にとって、自分を死へ誘う合図でもあった。彼は深く深呼吸をした後、扉を開けた。そして、彼女を殺した。

第三章 事実

 警視庁、刑事課の会議室には重苦しい雰囲気が流れていた。彼らは、小林竜の起こした前代未聞の無差別殺人事件のために捜査チームとして集められていた。
「現在わかっている時点での事実をまとめるぞ」管理官は当該事件の概要をまとめた資料を読み上げた。「被疑者は本日明け方、母親が所有する自家用車に乗車して、まず春日部にあるセルフガソリンスタンドに向かった。そのガソリンスタンドは元々客数が少ないため、深夜から朝にかけての夜勤にはアルバイトが一人だけということが常態化していた。被疑者はガソリンスタンドに着くと、給油に手間取っているふりをして、呼び出しボタンで中にいた被害者男性Aを呼びつけた。被疑者は給油ができないことを伝え、被害者Aが給油機を点検している隙に腰のベルトに挟んでいたナイフを取り出し、被害者Aを首元から切りつけた。被害者Aは重傷を負い、その三十分後に発見されて病院に運ばれたが、出血多量により死亡した。被疑者は被害者Aが倒れている間に、トランクに用意していた10リットルの携行缶にガソリンを注入し、それを車に積んでガソリンスタンドを後にした。ここまでの一部始終は、そのガソリンスタンドの監視カメラにばっちり映っていた。次に被疑者が車に乗って向かったのは、池袋の繁華街にある五階建てのビルだった。そのビルは真愛教と呼ばれる新興宗教によって借り上げられ、活動の拠点となっていた。被疑者はその宗教団体の信者だったという。午前八時半頃、被疑者はそのビルの裏口から侵入。ビルの一階はエレベーターホールになっており、事件が起きた時間は人の出入りが少ない時だった。被疑者はまず、ほとんど使用されることのなかったという非常階段を使って五階まで上り、階段を降りながら携行缶に入れていたガソリンを撒いた。一階まで降りると、今度は床やエレベーターにガソリンを撒き散らし、裏口ドアまで戻った。そして、持っていた新聞紙に点火棒で火を点け、それをガソリンが撒かれた床に投げるやいなや、ビルの裏口から逃げ出した。ビルは即座に炎に包まれ、大規模な火災となった。事件当時、二階にいた人々は、窓から飛び降りるなどして怪我を負いながら逃げ切れた者もいたが、火災と煙の進行は早く、ビルはほぼ全焼。中にいた人間の四十二名が負傷、七十四名が死亡した。この宗教団体では、毎週土日の朝に定例で『修行』が行われており、事件が起こった日曜日の朝も、教団の信者は五階にある講堂に多く集まっていたという。被疑者は意図的にその日時を狙ったと見られる。被疑者はその後、少しの火傷を負いながらも、その足で池袋にあるラブホテルへ向かった。午前十時、被疑者が待つラブホテルの一室に被害者女性Bが入る。被害者女性Bは事件当時二十三歳、都内でOLとして働きつつ、副業として派遣型の風俗店に勤務していた。被疑者は二年ほど前から被害者Bの常連客だったという。被疑者は、客として被害者Bをラブホテルに呼び、被害者Bが入室したところ、持っていたナイフで執拗に被害者Bを切り付け、殺害した。その後、被疑者はそのラブホテルの窓から飛び降りて自殺した」
 会議室は静まり返った。
「たった一日でこれだけのことを……。罪のない人間をこれだけ殺したなんて。こんなことがあっていいんですか? しかも、とうの犯人はもうこの世にいないなんて……。遺族の気持ちを考えるとやむにやまれません」
「被疑者は初めから、自分が最後に自殺することを計画して犯行に及んだのだろう。彼には、監視カメラに映ってそれが後の証拠となることも、残虐な手法を選択して量刑が重くなることも全く恐れるべきところではなかった。言わば無敵状態だ。そのような状況下で、最後に多くの人間を殺害して、自己実現を図った。何の罪もない人間のことは一切顧みずな」
「被害者女性Bを殺害した動機は何だと見られているのでしょうか?」
「今のところ、個人的な恨みだと見られている」
「可哀想に。まだ若くてかわいい子なのに無惨にも殺されちゃって」
「あんな清楚な見た目して、裏では売り女か。女って奴は本当にわかったもんじゃねえよな」
「おい、不謹慎だぞ」
「すみません」
「とにかくだ。これから現場検証に当たっていく。心してかかるように」

激しい雨が窓を打ち付けていた。雷が鳴っている。東條は、読んでいた小説のページにしおりを挟み、本を閉じた。今日は珍しく時間ができたので、久々に読書に没頭していた。椅子から立ち上がってカーテンを閉め、テーブルに置いてあったリモコンを手に取り、テレビを点けた。若い女性のアナウンサーが今日あったニュースを読み上げている。彼女の年齢は東條と同い年ぐらいだ。アナウンサーとしてデビューしてからまだ月日が経っていないのだろう。どことなくぎこちない喋り方や仕草から、彼女の焦りや動揺は視聴者にも十分に伝わってくる。それでも、彼女の一生懸命に話す姿を揶揄する者はそう多くはいないはずだ。
彼女は一つ、また一つとニュースを読み上げてゆく。アメリカでプレーする日本人メジャーリーガーの活躍。今日は四打数三安打、二ホームランの大活躍だったそうだ。次は、舞台公演開幕のニュース。先に海外で公開された舞台が今度は日本でも上演される。その出演キャストが紹介されていた。主演は、二十一歳の若手俳優だった。
以前までの東條なら、同世代の活躍するニュースを見て、そこに出てくるのは主に焦燥感とため息だけだった。しかし、今は違っていた。不思議なことに、東條はテレビに映る彼らを見ていると、それが自分自身のエネルギーになって、気力が湧いてきた。彼らが観客とか、世間とか、マスコミとかと日々戦っているように、東條も今、そうゆうものと毎日戦っていた。東條はリモコンを持った。テレビを消し、今夜の打ち合わせの準備をしようとした。その時、速報を知らせる短いアラーム音と共に、画面の上部にテロップが映し出された。「ビル放火の容疑者は、池袋内のホテルで女性を刺殺した者と同一であることが判明。」「容疑者の男は本日朝、池袋内のビルにおいて放火。ビルは全焼。死者74名、負傷者42名。」
東條はテレビを消そうとしていた手を止めた。どうやら今日、池袋で放火事件が発生していたらしい。ここ最近の日本は数年前と比べて本当に治安が悪くなった。強盗のニュースは毎日のように流れているし、物騒な殺人事件も頻繁に起こる。とはいえ、この事件は少し破天荒の度合いが違う。犯人は一日にどれだけの人間を殺したのか。
若い女性アナウンサーは速報の処理に狼狽している。それまでにも増して視聴者には彼女の動揺が読み取れた。やがて、事件の詳細が一から伝えられてゆく。池袋で起こった放火事件の詳細。火災現場や被害者の状況、春日部のガソリンスタンドと池袋のホテルでの刺殺について。その流れてゆく情報の中で、東條はたった一つの単語を聞き逃さないわけにはいかなかった。
「被害者の『朝比奈結』さんは二十三歳の都内に勤める会社員で……」
東條は耳を疑った。「あさひな……ゆい?」アナウンサーは彼の動揺などお構いなしに、淡々と容疑者の名前や年齢、犯行の動機は個人的な恨みと見られることなど、様々な情報を伝えていった。

第四章 回想

「愛の夢」
「え?」
「流れてる曲よ。リストの」
「ああ」
東條はレストランに心地良いクラシック音楽が流れていたことに、今気が付いた。リストの「愛の夢」は東條もよく知っていたし、たぶんピアノで演奏することもできる。しかし、それが流れていたことにすら気付かないほどに、東條は朝比奈との初めてのデートに緊張していたようだ。
「音楽好きなの?」東條は朝比奈に問いかけた。
「ピアノやってたの。クラシックは時間があったら聞いてるよ」
「そうなんだ」
「この曲、詩人の詩が元になってるから歌詞があるんだよ。内容は、『愛しうる限り愛せ。あなたの愛する人を。あなたがその人の墓の前で嘆き悲しむ時は必ずやってくるのだから』だったかな?」
「よく知ってるね。そこまでは知らなかったよ」 
「私の一番好きな曲なの。その人と一緒にいられる時間は有限だからこそ、今この時に、最大限その相手を愛しなさい。もし、人生でそんな相手に巡り会えたなら、すごく素敵なことだと思わない?」
「そういう人、今までにできたことがあるの?」
「異性っていう意味ではないわ。でも、家族に対してはそうね。人間、どうやったっていつかは死が訪れるものだから、私をここまで育ててくれた両親には、できる限りの親孝行をしたいと思っているわ」

 ディナーを食べ終えると、二人はレストランを出て井の頭公園へ向かった。途中、コンビニに立ち寄り、彼女の好きなバニラのアイスを買った。夜の井の頭公園では、暗闇の中の蛍のように照明がぽつぽつと光り、それが静寂の木々と池を照らして幻想的な雰囲気を醸し出していた。二人は池の周りをしばらく歩いた後、ベンチに座り、買ったアイスを食べた。東京は連日、熱帯夜が続いていたが、この日は久しぶりに涼しく、心地良い風の吹いている夜だった。
「東條君はさ。将来の夢とかあるの?」ベンチに腰掛けると朝比奈は出し抜けに聞いた。
「……朝比奈さんは?」東條は回答に困ったので質問で返した。
「私は将来、国際協力がしたい。国連とかNGOとかに入って、貧困国の支援がしたいと思ってるの。世界には、今この瞬間にも、戦争や飢餓に苦しんでいる人々が大勢いる。そうゆう人達のために、持てる全ての時間とエネルギーを注ぎ込みたい。それを私のライフワークにしたいの」朝比奈は決然とした顔でそう言った。
「そっか。すごいな、朝比奈さんは。一年生なのにそれだけしっかりした将来のビジョンを持ってて。俺なんか全然ダメだよ。自分が何をやりたいのか、入学して三か月になろうとしてるのにこれっぽっちもわからないんだ。サークルだって、人の役に立てば少しは有意義かなと思って入っただけだし。それに比べて、朝比奈さんは考え方が立派で尊敬するよ」
朝比奈は首を振った。「こんな偉そうなこと言ってるけど、私だって将来、本当にそうなれるかはわからないのよ。そうゆう職業に就くのはすごく難しいの。英語は大前提としてできないといけないし、それに高い専門知識や経験も問われるみたい。だから、今は留学生と話に行ったり、図書館にこもったりして、必死に英語や国際問題の勉強をしてる。努力は必ず報われると信じてね」朝比奈は少しだけ誇らしげだった。
「東條君は、そうねえ、作家とかになってくれたらおもしろいかも」朝比奈は少し笑って言った。
「作家? なんで?」東條は驚いた。
「いつも本を読んでるし、東條君って人とちょっと感性が違うもの」朝比奈はくすくす笑った。「それに私、東條君の書く文章、実は好きなのよ。ほら、前に刑法のレポートを見せてくれたことがあったでしょ。罪刑法定主義について論じるやつ。あんなの、普通、論理性が重視されて無味乾燥な文章になるものなのに、東條君のレポートにはどこか物語性を感じたのよね。比喩表現とか表現方法もちょっと小説チックだなって思ったし」
「そんなこと、全く意識せずに書いたんだけど」東條は笑った。「作家か……。考えたこともなかったけど、自分の考えや人生の捉え方をそうやって形にできたらおもしろいかもね」
「うん、東條君ならなれるよ。作家向いてると思う」
「ちょっと待って。やるの前提?」東條はまた笑った。
「そうよ。私、東條君の書いた小説が読んでみたいわ」朝比奈も笑った。
 ウグイスの高い鳴き声が静かな夜の公園に染みいっている。あまり人気のない静かな夜だ。
「……でも、やるからには、ちゃんと答えを出してくれるような小説を書いてね」朝比奈は静寂を破るように言った。
「……どういうこと?」
「私も本が好きだけど、問題に対してちゃんと向き合わずに、綺麗事を並び立てて結論付けるような作品は、どうしても好きになれないのよ」
「それはそれで、作品の一つの形なんじゃないかと思うけど」
「まあそうなんだけど。私はどうしても、人間ってそんなに美しいものじゃないでしょ、もっと本心に向き合えよ、とかって思っちゃうのよね」
東條は少し考えてから返した。「君は、人間の負の側面にもちゃんと向き合いたいんだね。そうゆうことを、なんとなくごまかされるのが嫌いなんだ?」
「そう。よくわかってるね」彼女はふふっと笑ってそう返した。
朝比奈の髪が夜風になびく。彼女はとても美しい。夜の井の頭公園の池を背景に、ライトに顔を照らされた朝比奈の姿は、まるでドラマの一場面を切り取っているかのようだった。
「朝比奈さんは好きな作家とかいるの?」
「ドストエフスキー。ベタだけど『カラマーゾフの兄弟』は秀逸よ。高校生の頃に何度も読んだわ」
「『神がいなければ、すべてが許される』だっけ」
「そう。『大審問官 』ね。東條君も読んだの?」
「ああ、俺もあの作品は好きだ。朝比奈さんはどう思う? 神が本当にいるかどうか」
「……東條君は?」
「俺は……」

ピカっと窓の外が光り、その数秒後、雷鳴が轟いた。東條ははっと我に返った。今まで、過去を回想していた。テレビはとっくに次のニュースを伝えていた。(俺はあの後、なんと言ったのだったか?)
雷が、昔の人間が想像したような天の怒りではなく大気中にある静電気の集まりであり、音が光よりも遅れて伝わってくるのと同じように、自分は今、世の中の摂理を聞いたのだろう。彼女は多くの男を騙し、金を貰い、自らの欲を満たしてきた。そして今日、おそらくは関わりのあった男のうちの一人の恨みを買い、殺された。因果応報、自業自得、この状況を表す言葉はたくさんある。
(それでも……それでも俺は、彼女のことを一日たりとも想わなかったことはない。俺はやはり、彼女のことが大好きだったんだ)
外から部屋の窓を揺らすほどの強風が吹いた。東條はガクッと床にひざまづいた。そしてそのまま、立ち上がることができなかった。


第五部 真相


第一章 本音

国会議事堂前でのデモから二か月が経とうとしていた。あのデモ以来、CRYやサロンの会員になろうとする者は急増した。それだけでなく、CRYの思想にならった組織が次々と立ち上げられ、国内には多くの分派が現れた。その中には、過激な思想を持つものも少なからずあった。ETE(エテ)と呼ばれる一派は、CRY関連の組織で最も過激な集団だった。ETEとは、老人排除(Elimination of the elderly)の略である。彼らは、諸悪の根源は、現状の増えすぎた高齢者達であると説いた。そして、日本は既に一からリセットしなければならない段階にあり、そのリセットの方法が高齢者層の抹殺であるという主張をした。
ETEは、御影(みかげ)という四十歳の資産家の男が、CRYを率いる東條の姿に感銘を受け、東京を活動拠点として立ち上げた組織である。御影は、CRYの過激版組織を銘打って、ネット掲示板を使い人員を募った。一週間ほどで五十名ほどの応募があり、その多くは、ネットカフェで寝泊まりするような貧困層や、犯罪歴のある者、はたまた元暴力団といった、いわゆる社会のはみ出し者達で構成された。すなわち、彼らは、貧困、前科、経歴といった理由から、自分の名義で賃貸契約できない者達だった。御影は、ETEに入会し反政府運動に協力するならば、自身が買い上げた山奥の空き家や廃校舎で、彼らに生活環境を提供すると約束したのだ。
ETEがCRYと異なる点は、その暴力性だった。ETEは、老人ホームなどの高齢者施設や高齢者の営む店舗、さらには政治家の選挙事務所などをターゲットにして、人目のない時を見計らい、爆発物を投げ込んだり、器物損壊したりした。また、鉄パイプや火炎瓶などの武器を持参した過激デモも行い、その度に機動隊と衝突した。しかし、彼らは住む場所にも困るような連中だったため、もはや失うものなど何もなかった。ETEの行動はCRY派の人間に影響を与え、ETEにならう過激な組織も徐々に現れるようになった。
そこで、総理大臣記者会見において、現職の総理、中澤は過激派に対処するための声明を出した。
「一連のCRYと名乗る集団に影響を受けた人間達の犯罪行動は、目に余る由々しき事態となっています。彼らは、無差別に高齢者や政治家の拠点を狙い暴虐を繰り返しています。武力により政治的圧力を加えようとするこれらの行動は、民主主義への挑戦であり、断固として許容できるものではありません。またこれにより、国民の生活は脅かされており、たとえ一般人でも日常生活において命の危険に晒されています。これらの状況に対処すべく、今後、市街地を中心に常時、警察の警備を配置することを決定しました」
この首相の宣言の翌日より、警察官達は、過激派の攻撃対象となっている場所の周辺を中心に、警備にあてられた。それでも、CRYに賛同する過激派達の行動は止まらなかった。彼らは引き続き、警察のいない場所で犯罪を起こし続けた。

そして、政府のこのような対応とは裏腹に、それに反発してCRY派に加担しようとする人間は増えた。驚くべきことは、昨今、自衛隊の中でもCRY派に賛同し、自ら制服を脱ぐ者が現れ始めていたことだ。それは、一人の若い自衛隊員のユーチューブ投稿に端を発した。そのビデオは、男が国会議事堂付近の物陰で迷彩服を着て立っている場面から始まった。動画が始まるやいなや、男は自身の着ていた迷彩服を脱いで、タンクトップと下着姿になった。そして、画面に向かって喋り出した。
「俺は陸上自衛隊一尉 の山岡だ。だが、今日をもって、この肩書きはなくなる。俺は今日をもって自衛隊員を辞める。なぜ辞めるかって、お前達は思うだろう。根性がないからじゃないかって。だが、そうじゃない。俺は、次の戦いに向けて、これまで培った力を注ぐために自衛官を辞めるんだ」山岡は突如、振り返って国会議事堂の方を指差した。「お前達に問う。この国に本当に未来はあるのか? 俺達は何のために訓練して戦っているんだ。俺達自衛隊員は、選挙で選ばれただけの、ろくに訓練をしたこともないような奴らの一存で、手駒のように地獄に向かわないといけない。とうのあいつらは、自分達の金のことしか考えていない。一方で、CRYの東條聡という男を見ろ。彼は自分の命を懸けて国を変えようとしている。自分の命を懸けて、俺達若者の未来を守ろうとしている。俺達が本当に従うべきなのは、ああいう人間なんじゃないのか? 俺はこの六年間、自衛官として過ごした日々に誇りを感じている。だが、俺は今日の日をもって、この制服を脱ぎ、CRYの一員となる。彼らのために、俺は今まで自衛隊員として訓練してきた力を最大限尽くすつもりだ。この動画は、俺の決意の証として、そして洗脳されたお前達への訓戒として撮ったものだ。お前達も考えた方がいい。この先、誰に忠誠を尽くすのが正解かをな」
動画は僅か五分ほどの短いものだった。タイトルは「迷える全自衛官に告ぐ」である。この投稿は、ツイッターなどで拡散され、その日中にユーチューブのトレンドに上がり、大きな反響があった。その後、山岡にならい、ツイッターやユーチューブを使って、CRYやその分派に加担することを表明する自衛官達が現れ始めた。この動きはネットを通じて伝播し、自衛隊の中で制服を脱ぐ者が一人また一人と増えていった。彼らは、国家に尽くすという責務の一方で、心の奥底ではCRYや東條の存在を望んでいたのである。

 場面は移り、東京都港区西麻布。近頃の国内の動乱が嘘のように、この個人経営のバーには、洒落たジャズの音楽が、会話を妨げないぐらいの心地良い音量で流れ続けている。店内には、ピアノやギター、往年のレコードなどが置かれており、音楽好きのマスターの意向が所々に散りばめられている。このマスターは、佐々木と長く付き合いがあり、彼の公安としての顔を知る数少ない人間の一人だった。故に、このバーは佐々木と松山がCRYの情報共有をする上での決まった待ち合わせ場所となった。彼らは大体、日曜日の夕方にこのバーの個室に入り、話をした。
「今回の内容はそんな感じです」
「毎度毎度、本当にありがとうございます。助かります。これ、受け取って下さい」佐々木はスーツの内ポケットから金一封を取り出し、松山に差し出した。
「哲也さん、何度も言っているでしょう? 私は哲也さんのお仕事に協力することで報酬を貰うつもりはないと」
「松さん、いつも言っていますが、あなたがこの金に後ろめたさを感じる必要はありません。もし、あなたが私のような者と通じて組織の情報を流していると知れたならば、あなたは彼らからどんな制裁を受けるかわからないのです。極端な話、命が危ぶまれる事態になることだってあるかもしれません。そんなことになれば、私はあなたのご家族に何と説明できるでしょう」
松山は佐々木の言葉に首を振った。「後ろめたさではありません。私にとって、哲也さんに協力することは義務的なことではないのです。私は哲也さんに会うまではずっと孤独でした。しかし、そんな私をあなたは救ってくれた。だから私も、哲也さんの役に立ちたいのです。それに、私一人の犠牲で多くの国民が救われるのなら、それはむしろ本望です。たとえ、このことがバレて殺されるようなことがあったとしても、私にはもはや未練などありません」
 佐々木は言葉が出なかった。
「哲也さん、あなたが言ったことは本当だった。CRYはやはり危険な組織だった。彼らに扇動された人間達が今、多くの国民を危険に晒している。あなたは公安警察です。国を守るという大きな役目のために手段を選ぶべきではない。あなたはこの私を、CRYから国民を守るために利用すべきなのです」
「松さん……」
佐々木は、松山の言葉が本心からのものであるとわかっていた。今の松山にとって、自分に協力することは、おそらく彼の何よりの生きがいとなっている。松山は、日常の中にそういうものをずっと求めてきたのだ。
松山の家庭では、もう長らく専業主婦の妻と二人の子供がメインであり、夫は金を稼ぐ道具のようにしか思われていなかった。妻の玲子は、家計のためと松山の小遣いを減らしつつも、その分を自身の財形貯蓄にあて、平日の昼間はヨガ教室で知り合ったインストラクターと隠れて不倫をしていた。そして、松山自身も、もはやそんな家族のことを愛してはいなかった。佐々木はそういった松山の状況を、彼と知り合う前から把握していた。そもそも、佐々木が松山を協力者候補に選んだのは、そういった背景が主な要因としてあった。家庭に居場所がなければ、外部でできた信頼できる相手に依存しやすく、そこに生きがいを求めるものである。松山は、実の家族よりも自分のことをこの上なく信頼している。それは佐々木にとって、非常に都合の良いことだった。佐々木は、自分が頼めば、松山は東條を暗殺することさえ敢行してしまうかもしれないと思う。
一方で、佐々木はそういう風に、松山を利用の対象として見ていることに心地の悪さも感じていた。佐々木は松山を協力者として獲得する前、彼のことを入念に調査した。しかし、実際に接してみて、松山は佐々木が当初想定していた以上に懐の深い人間だった。公安をやっていれば、人を完全に信じきるということはしなくなる。たとえ自分が協力者に選定した人間でも、必ずどこかに警戒心を持って接する。しかし、佐々木自身、松山と接していると、彼のことだけは、そういった警戒心を抜きにして心から信頼しても良いのではないかと思えてきた。根っからの善人はこの世に実在するのだと、松山誠心を見ているとそう感じた。
時折、佐々木は松山に対して、もっと別の方法で巡り会えれば良かったと思うことがある。そして、仕事のことやCRYのことなど何も気に掛けず、ただ友人として共に酒を酌み交わしてみたいとも感じる。松山が孤独を感じて生きているように、佐々木自身もまた、誰に対しても心を開けず、孤独であるのだ。自分が松山を利用しさえしなければ、彼の身に危険が及ぶこともなく、真に心を通わせる友人として接することもできるかもしれない……。
だがしかし、公安警察として、関係を持った人間に本当の情を抱くことはあってはならない。それによって、来るべき判断を曇らせてはならない。故に、佐々木は自身の心を再び冷徹なものにした。
「これはここに置いておきます。それでは次回もよろしくお願いします」佐々木はいつものように金一封をテーブルに置き、固い表情でそう締めくくった。
松山は諦めたように笑った。「本当に頑なな方ですね。そういった性格が信頼できる理由でもありますが。わかりました。こちらこそ、よろしくお願いします」

第二章 先の未来

 若手警察官の水崎は、公安で同じくCRYのマークに当たっているベテラン上司の山井と会話していた。
「あのデモからもう二か月ですか。あの一件によって、国民は完全に東條に心を奪われてしまった。いよいよ、彼らの一挙手一投足により今後の政権運営が左右されるような状況になってきました」水崎は山井に話した。 
「ああ、人心掌握と組織運営が実に巧みだ。若者に敵対的な著名人の醜聞を集めさせ世論を味方につけたこと然り、あのデモでの立ち回り然り、一体どうやって策を考えているのか。あの東條という男、これまでずっとマークしてきたが、正直、あそこまでの男だったとは思わなかった」山井はため息をついた。
「私は最近、本当にわからなくなってきました。何が正解で何が間違っているのか。つまり、現政府を信じるべきなのか否か。もちろん、公安警察としては、国家のために尽力するのが正解であることに間違いはないでしょう。しかし一方で、心のどこかでは、CRYのなすことに期待を抱いているのも事実なんです。彼らの主張は、同じ世代に属する自分としても納得せざるを得ない部分があります。山井さん。仮に、ですよ? 彼らが政党を作り、選挙で勝利してこの国の政権を握るようなことがあった場合、それは日本にとって悪いことなのでしょうか? 政治には経験が必要と言われますが、しかし、これだけ情報のあふれた社会。今の若者は、必要だと思われている知識や経験をそれらによって補うことができるかもしれません。それならば、むしろエネルギーのある若者が権力を握る方が良いのではないかとも思うんです」
山井は水崎の言葉に少し考え込んだ。「……だが、仮に彼らが政権を奪取したとすると、今度は外国からの脅威が浮かんでくるだろう。各国は今、日本で起きているCRYの運動の影響が自国にも及ばないか恐れているからな。特に、先進国はどこでも少子高齢化の問題を課題としている。もしCRYが政権を握ったとして、それにならって活動する若者が自国内に増えれば、各国政府にとって好ましい状況ではない。それに、指導者連中が青二才とは言え、日本という大国が持つ武器はおもちゃじゃない。ならば、得体の知れない若者集団が権力を握る国を他国が脅威とみなさないわけがない。故に、CRYが政権を奪取すれば、何らかの形で外国からの干渉に遭うだろう。やはり、若者による政変など失敗に終わるという印象を付けておきたいからな」
 山井の話に、水崎はなるほどといった表情を見せた。「たとえ内乱が去ったとしても、今度は外国との戦争ですか……。万が一にでも彼らが政権を奪うようなことがあれば、この国の未来は大丈夫でしょうか?」
「水崎。てっきり私は、お前が既に東條やCRYに心酔しているのかと思ったが?」山井は水崎の方を見て探るように言った。
「私は……」 
水崎が言葉を言いかけた時、ピーンポーンと部屋にインターホンの音が鳴った。二人は一瞬ビクッとして会話を止めた。水崎は音を立てないよう注意を払いながら玄関の方へ向かい、のぞき穴から訪問者を確認した。ドアの前に立っている男の顔を見て、水崎は警戒心を解いた。彼はドアを開け、男を中に引き入れた。「佐々木さん」
二人の前に姿を現したのは、彼らと同じく公安警察としてCRYのマークに当たっている佐々木だった。佐々木はこの三人の中のリーダーである。新宿の裏通りにあるこのマンションの一室は、言わばCRYの情報共有をするための三人のアジトだった。
「遅かったですね」水崎は少し責めるように佐々木に言った。「ああ、すまない」と佐々木は靴を脱ぎながら返す。彼は息が乱れていた。ここに来るまでかなり走っていたようだ。額には汗が噴き出している。
「ようやく、突き止めたぞ」
 佐々木は玄関に立っている水崎を置いて、ドタドタと部屋の中に入った。この部屋は1LDKで、壁は厚い鉄筋コンクリートで作られている。佐々木、山井、水崎はCRYの情報共有をしたり、監視の作戦を議論したりするためにここを借りた。この部屋の両隣にも、上にも下にも住人はいない。そういうことも全て調べた上で、彼らはこの部屋を選んだ。 
「突き止めたって……一体何を突き止めたんです?」水崎は佐々木に問いかけた。佐々木は一拍置いた。「東條の……真実についてだ」
「真実?」水崎と山井は顔を見合わせた。
「ああ、そうだ。東條の真実。すなわち、CRYの真実だ」
 佐々木は言うのをもったいぶっていた。まるで、自分が今から語ることで世界が一変するとでも言わんばかりだった。
「何なんです? 早く話してくださいよ。佐々木さん」水崎は佐々木を促した。
「まあ待て。水を一杯くれないか? 外は猛暑の上、興奮してここまで走って来たんでな」
 佐々木はステンレス製のダイニングテーブルに腰掛けた。山井は冷蔵庫から2Lのミネラルウォーターのペットボトルを出し、それをコップに注いで佐々木の前に置いた。
「ありがとう、山井」佐々木は山井に礼を言うと貰った水を一気に飲み干した。山井は佐々木が勢いよく置いたコップに再び水を注ぐ。
「上から、何か変わった指示はあったか?」佐々木は二人に聞いた。
「依然、変わりはありません。私達にできることは、引き続き彼らを監視し、異常があれば上に報告することだけです」水崎は少し不満そうに答える。
「ああ、だがそれが俺達の役目だ」山井は水崎に続けた。 
佐々木は山井の言葉に頷いた。「そう。慎重すぎるがまでに石橋を叩き、ターゲットをストーカーのように監視し、時に違法捜査も行う。それが我々の仕事だ」佐々木は言った。
「何が言いたいんです?」
 佐々木は水崎の問いかけには答えず、椅子にもたれかかった。それから、少しの間、天井を見上げ、その後姿勢を正し、彼の持ってきた情報を静かに語り始めた。
「私が東條を初めて見たのは、四年前のことだった。私の監視対象である相馬が、渋谷で開かれた政治セミナーに参加し、そこで当時大学二年生ながらに教壇に立ったのが東條だった。私は、高校教師をしている私の別の協力者に、そのセミナーに参加し様子をこっそり撮影してもらうよう依頼した。相馬がどういう集まりに参加したのか把握するためにな。そのセミナーは、東大生が政治を教えるということをコンセプトにした集まりだった。相馬はこのセミナーを通して、東條にえらく心酔したようだった。公安として、調査対象と密接になった人間のことは十分に知っておく必要がある。だから私は東條のことを調べた。生い立ち、家族構成、交友関係、どんな思想を持ち、どんな私生活を送っているか。その時点での私の評価として、東條は確かに能力は高かったが、自ら集団の前に立ち、皆を先導するような人間ではないというものだった」佐々木はコップに入った水をごくりと飲んだ。
「だが、ある時を境に、東條は考え方や行動が大きく変わった。あいつは官僚の息子ではあるが、元々そこまで自分の政治信条を持っていたわけではなかったはずだ。加えて、目的のために誰かを切り捨てるような選択ができる人間でもなかった。奴はなぜ、元来そこまで興味を抱いていなかった国や政治のことについて、ここまで積極的に関わるようになったのか。その変化のタイミングはおそらく、奴が大学四年の頃だ。その原因が何だったのか、私はどうしても知りたかった。そこで、公安の切り札の登場だ」
山井と水崎は顔を見合わせる。
「それさえ手に入れてしまえば、その人物の性格、思想、交友関係や行動パターンに至るまで、ありとあらゆることが把握できる物がある。何だかわかるか?」
「スマホ、ですね?」山井が答えた。
「その通りだ。対象の人間のスマホ一つ傍受でもしてしまえば、そいつの脳内は全てわかると言っても過言ではない。しかし、当然のことながら、それは違法捜査だ」
山井と水崎は佐々木を見つめた。 
「お前達の想像通りだ。私はこれまで、独自に、東條のスマホやネットワークに入り込もうと試みていた。だが、スマホのハッキングや通信傍受は公安と言えども容易ではない。東條は常にVPNで自分のスマホのセキュリティ対策をしていたしな。用心深い男だ。私には、CRYの使用するVPNの特性を掴んでその暗号を解読し、そこから奴のデバイスに侵入する必要があった。それを可能にしてくれたのは、私の協力者の松さんだった。松さんは私に集会の内容を伝えてくれただけでなく、CRYの使っているネットワークの情報なども提供してくれていた。私はその情報を元に、CRYのネットワークの脆弱性を探した。VPNはセキュリティ対策として便利な反面、広範に敷かれていることが諸刃の剣となることもあるんだ」
「なるほど。多くの会員がVPNを使っていれば、それだけ脆弱性を突けるポイントも増える。現に多くの企業がそれによってウイルスを仕込まれている事実がある。元々サイバー犯罪を専門としていた佐々木さんなら、そのポイントからCRYのネットワークを辿ることが可能だったというわけですね?」山井は口を挟んだ。
「ああ。もちろん、容易ではなかったがな。暗号の解読は地道で果てしなく骨の折れるものだ。それでも私は、考えられる限りの手段を使って辛抱強く作業を続け、昨日、遂に奴のネットワークに入り込むことに成功した。これで東條のスマホに入っているありとあらゆる情報を閲覧することができる。そこで私は、これまで知らなかった数々の事実を目の当たりにした。東條が乃木官房長官と通じて会談の調整をしていたことはその一つだ」
「官房長官と?」水崎は驚いた声を上げた。
「ああそうだ。だが、その事実すら、これから語ることの驚愕性には遠く及ばない」
 ここで佐々木はふう、と深呼吸した。興奮してはやる気持ちを自ら抑えようという感じだった。彼は一息ついて、また語り始めた。
「私を最も驚かせたのは、東條の行動を裏で操っていた存在がいたということだ。そいつは自身が運営するウェブサイトに東條を誘導し、日本を革命に導く方法を伝えていた。それだけじゃない。奴はチャットで東條と連絡をとり、助言を与えていた。そいつは、自分のことをユチと名乗っていた。全ての黒幕は、このユチという奴だ」
 テーブルに置かれたアナログ時計の秒針の乾いた音だけが、この空間に刻印するかのように鳴り続けている。佐々木の話に山井と水崎は唖然とし、しばらくの間、口を開くことができなかった。やがて、水崎が沈黙を破った。「そいつは……何者なんですか?」
「調査はしている。だが今のところ、皆目、見当がつかない。なにせ通信は海外のサーバーをいくつも経由しており、IPアドレス も特殊な暗号で保護されていて、個人を特定できないようになっている。しかし、何はともあれ、組織結成から現在に至るまで、東條の行動の裏には、常にこのユチというゴーストライターがいたということになる。全てはこいつのシナリオ通りに進んでいた。ユチは、この国で少子高齢化が進み、若者の不満が燻っている点に目を付け、世代間対立を煽り、日本社会を分断する計画を作り出した。東條はこの男の指示通りに動くただの手駒だったというわけだ。まあそれも、奴のカリスマ性と弁舌の上手さがなければ成立しえない物語ではあったがな」
「そのユチってやつの狙いは何なんですか? 佐々木さんはそいつのウェブサイトも、東條とのチャットも全て見たのでしょう?」山井は問うた。
「ユチの運営するサイトはまだ更新の途中だった。故に、そいつが最終的に何を目指しているのかは明言されていない。それに、ユチの使うチャットは独自に開発したもののようで、双方の画面からメッセージ履歴を消去できるような仕様になっていた。すなわち、私が読めたのは、昨日行われた、CRYの近況報告のやり取りだけだ。だが、私は膨大な量のあったサイトの記述に、ざっとではあるが一通り目を通した。その上での私個人の推測としては、ユチは最終的に、日本を戦争に巻き込みたいのではないかと思う」
 部屋に再び沈黙が流れる。佐々木は続けた。
「ユチの描いたシナリオは、驚くべき精度で今の日本の姿に合致していた。まるで実際に未来を見てきたかのようにな……。東日本大震災級の大地震は、三十年と言わず今後三年以内に確実に起こる。それにより、日本は数百兆円規模の経済損失を被り、国民の生活は急速に貧しくなる。そこに追い討ちをかけるように、二〇二五年を超えて以降、少子高齢化による弊害が顕在化し始める。生活に余裕のなくなった若者達は暴走を始め、国内の治安は悪化する。すると、社会不安は人々に強いリーダーを希求させる。そういう時代は、得てして人権や人道が軽視されやすくなる。そのリーダーは、高齢者をターゲットにして徹底的に叩くことによって、そこに若者や労働者世代の不満を集中させ、彼らの支持を集める。そして、しまいには、若者世代が大半を占める自衛隊までを味方につけ、現政府を制圧して政権を握る。言わば革命だ。革命を成立させた後は、この国の憲法を変える。その後、外国は革命でできた新政府を潰そうとする。日本はそれに対応できるよう、軍事力を高めてゆく。これまで言ったことは全て、ユチのサイトの冒頭に書かれてあったことだ」
山井はバンッと音を立てて両手でテーブルを叩いた。「そんなこと、実現するはずがない! この国に革命を起こし、憲法を変えるだなんて。しかもそれを若者の力でなんて。そいつはどれだけ国家を舐めているんだ!」山井は激しく糾弾するように言った。
「私もそう思うよ。確かにユチの描く未来予想図は、長らくこの国に勤めてきた私達からすれば夢物語に思える。だが、今の日本の状況を見ると、その未来が100%あり得ないと言い切れないのもまた事実だ。現に今、一部の自衛隊員はCRYに賛同し、その一員となっていっている状況があるのだから。それとな、山井。この計画が本当に実現するかどうかというのも大事な論点だが、最も見逃してはならないことは、それが東條自身の意思ではなく、どこの誰ともわからない奴の意思によって行われていたということだ。東條という人間の雰囲気、その経歴から、誰もがCRYの行動はあいつ自身の意思によって指揮されているものだと思っていた。東條がユチの実態をどこまで知っていたのかはわからないが、仮に東條自身もそれが不明瞭で、ただネットの知識人に心酔し言いなりになっていただけだとするならば、私達は国という単位で、顔も名前も不明な人間の意思によって翻弄されていたことになる」
 山井は神妙な顔を見せた。
「ユチは、この国を戦争に巻き込んで、何がしたいんでしょうか? ただ、この国が破滅していくのを見たいだけなんでしょうか?」水崎が問う。
「いや、おそらくそうじゃない。こいつは明確な目的意識のもとに綿密に計画を立てている。こいつにとっては、この国を戦争に向かわることがメリットになるってことだ。それは、この国の軍国主義を復活させようとしていること、日本を戦争の悪役に仕立て上げようとしていること、はたまた、大国同士を戦争に巻き込んで疲弊させ漁夫の利を得ようとしている第三国がいることなど、実に様々な動機の可能性が考えられる。これだけの情報では、あくまで憶測の域を出ないがな。ユチの正体か誰で、真の目的が何なのかは、未だ闇の中だ」
 山井と水崎は考え込んだ。しばし時がたった。
「東條の扱いはどうなるのでしょうか? 佐々木さんのおっしゃることが本当なら、共謀罪 や内乱陰謀罪 などの適用もあるのではないでしょうか?」水崎が問うた。
「立件はできない。そもそもこれは違法収集証拠だ。それに、ユチは具体的にテロの方法などを記しているわけではない。あくまでこれは、一般人がインターネット上に書き込んだ空想の物語。そして、ETEなどの分派はともかく、現時点において、東條やCRYはあくまで民主的な方法に則って活動している。我々にできることは、今後さらに東條やCRY、そしてユチの様子を監視していくことだけだ。しかし、奴らがこの国に何らかの攻撃的アクションを起こそうとするならば、その時には、どんな手段を使ってでも東條の身柄を拘束しなければならない」
「……東條はなぜ、得体の知れないそんな奴の言うことを、そこまで信じたんでしょうか?」山井は佐々木に問いかけた。
佐々木は持っていた煙草に火を点けた。それを一服して天井を見つめた。
「さあな。だが、東條はある意味、現代の若者を象徴しているように思う。ネットの普及は、思考の多様性よりもむしろ画一化をもたらした。彼らは、本質的には自分の頭で考えていないんだ。誰か声の大きい者の意見に乗っかり、さも自分が何者かになったように威勢よく振る舞う。デモやサロンに参加していた多くの若者がまさにそうだ。なぜなら、彼らはもう、それについて知っていると思うからだ。だが、最短ルートだけを追い求める彼らは知らないんだ。険しい道を自らの足で踏みしめてゆく中で見つかる、その人間にしかわからない辛酸、挫折、そしてそれらを乗り越えた先にある自分だけの答えを。そういう人間が増えることで何が起きるか。意思のない人間が集まった国は、他国に利用され尽くした末に、崩壊する」
佐々木の言葉は部屋の空気をより一層重くした。 
「……これから、国はどうなっていくのでしょう?」水崎が重い口を開いた。
佐々木は黙ったままでいる。
「佐々木さん、あなたはこの国がどうなってほしいと考えますか?」
「水崎、お前はどうなんだ?」
「正直、私にはわからないんです。私達の仕事は、CRYから国家を守るためにマークすることです。しかし、正直なところ、今の私は、この国や政治家のことを信じて動くことに疑念を抱いているんです。かと言って、その対抗馬として存在するCRYの偽りも今知ってしまった。私はこの先、何を信じ、何に身を委ねたら良いのか……。佐々木さん、国を心の底から信じていない私は、公安警察として間違っているでしょうか?」
佐々木は再び煙草を吸い、煙を吐いた。「いや、私も同じだ。国を守る。それを私の使命だと信じ、あらゆる犠牲もその代償と捉え、国のために動いてきた。この国の安寧と秩序を守ることこそが私の使命だと思ってきた。だから、それを脅かすものはどんな汚い手段を使ってでも排除してきた。しかし、本当は、それが真に正解かなんてわからないんだ。だがな、この先の未来がどうなるにしても、自分の頭で考えることなく、他人に意思を預けることだけは絶対に間違っていると私は思う。私は、今後起こるあらゆる物事に対して、その度にそれに正面から向き合い、自分の意思で行動していくつもりだ。水崎、こんなことを言うのは同じ公安に所属する上司として適切ではないだろうがな。それでもあえて言うぞ。お前が今後、何を信じ、何のために動くのかは、国家でもなく、俺や山井の言葉でもなく、他の何にも捉われずに、お前自身の意思で決めろ」
 佐々木はそれっきり黙りこくった。

第三章 告白

 愛宕の集会所では、久々にCRYのメンバーが集まって会合が開かれていた。CRYが世の中に広く認知されるようになってからは、できる限りトラブルを避けるという東條の意向により、会合はもっぱらリモートで行われるのが主だった。今日、この愛宕の地に皆を召集したのは、東條ではなく相馬である。CRYの会員数が激増して以来、東條や相馬などの主要メンバーは、会合の秘匿レベルに応じて参加者を信頼度などで選別した。故に、今日、この対面での会合に参加できたのは、震災以前からCRYのメンバーとして活動していた三十名ほどだった。
国会議事堂前でのデモ以降、東條の求心力は高まり、CRYの影響力も格段に上がった。今、彼らの士気は絶頂を迎えている。CRYの中では、分派が暴走するこの混乱に乗じて、いよいよ本格的に政府に対して圧力をかけるべきだという声が出てきていた。この日の会合では相馬が中心に会を進めた。
「いよいよ日本政府との全面戦争だ。俺達は折に触れてデモを起こし国に訴えてきた。俺達の苦しみを。怒りを。だが、奴らはそれを聞き入れなかった。奴らは結局、何も変わろうとはしなかった。この先、奴らに任せていても俺達の未来は不幸を増していくだけだ。CRYやサロンの会員も着々と増え、俺達にならう分派も多く発生している。俺達はこれから、国に対してより強いアプローチをかけていくべきだ!」
 相馬が語り終えた。いくらかのメンバーは、声高らかに相馬に同意した。
「その通りだ! 今こそ日本政府を乗っ取るべきだ! 本気でクーデターを起こして勝ち取ろうじゃないか。俺達の本当の未来を!」
「クーデター? 計画はどうするんだ?」
「例えば、俺達の分派を含め、全国にいる仲間を集めて一斉に政府を叩くとか。東條さんなら、今ある分派を一つにまとめて動かすなんてたやすいはずだ」
「そうだ! 俺達は集団になって大規模な革命を仕掛ける。そうすれば巨大な力になる。全ての国会議員を消し去って俺達が権力を握るんだ!」相馬の声が部屋中をこだました。

この日の会合後は、いつにも増してメンバー達は興奮していた。
「本当にクーデーターを起こすのか?」
「死んじゃわないかな? 大丈夫かな?」
「そこまでする必要はないんじゃないか? これまで通り、デモ活動をしていくだけでも十分だろ」
「いや、ついにこの時が来たんだ。俺達の力で国を変えるんだ」
「もし、それが成功したら東條さんが新しい総理になるのか?」
「馬鹿。そもそも国自体を変えるんだぞ。総理じゃなくて皇帝だよ」
「そうなれば、俺達も、もしかしたら国の幹部になるのか? サロンのメンバーと違って、ずっと東條さんのそばでCRYを支えてきたんだから」
「お前、もう革命後のこと考えてるのか?」
「考えるだろ、そりゃ」
 突然話に割り込んできたのは佐伯というヒョロリとした体型の大学生だった。彼は冷めた口調で続けた。
「革命なんて興味ないよ。俺は勝ち馬に乗りたいだけさ。CRYは今、大勢の人間の支持を集めている。そうゆう団体には、金や権力のような美味しい話が自然と舞い込んでくるものさ。俺達初期メンバーは、他の数多くいる会員に比べて、知っていること、やれることが多いから、その恩恵を特に受けるだろう。そして、万が一にでもこの組織が政権を奪うようなことがあれば、俺達は日本政府の幹部だ。手厚い接待が待ってるんだろうな」
「お前、そんな目的で参加してたのか?」集団にいた一人が声をあげる。
「ああ。人間そんなものさ。若者のため? 未来のため? 違うだろ。自分のためさ。俺は元々、政治にすらこれっぽっちも興味はなかった。ここに入ったのは、周りの平凡な学生に比べて、反政府的なノリがイカしてると思ったからさ。就活の時期になれば、俺はこんな所さっさと辞めるつもりだった。だが、あの震災が起きて以降、確実にこの国は変わった。それを見て俺は、ここに居続けたら、後々メリットになることがあると思ったのさ。お前達も先のことはよく考えておいた方がいいぞ。今から上手く立ち回っておかないと。若い人間がこれだけ集まっていれば、じきに内輪揉めするものさ。そしたら今度は、内紛勃発を防ぐために、中にいる人間を殺し始めるかもしれない。そうだ、あの相馬ならやりかねないな。東條はまだ物分かりが良さそうだけどな」
 佐伯は人に合わせていい顔をするのが上手かったが、裏では陰口の絶えない男であった。誰かがいなければその人物の悪い噂を流し、それを繰り返す。そうやって集団の中でポジションを取ってきたずる賢い人間だ。東條は戸の向こうの物陰から彼らの会話を黙って聞いていた。

 この日、相馬は東條に、皆が愛宕の集会所を去った後に二人だけで話すことを持ちかけていた。組織内では、いよいよ本気で、国を相手取り反乱を起こす準備を進めるべきだという声が上がっている。東條がそれを扇動しさえすれば、その機運は一気に高まるだろう。しかし、東條はそこに対して、何の意思も表明することはなかった。相馬はそんな東條の様子を不審に思っていた。
「どうしたんですか? 東條さん。今日の集会、終始黙ったままでしたが。最近、CRYの活動もあまり精力的に見えないし、テレビの方も断っているらしいですね。今、日本政府は僕達を過激な組織とみなして潰しにかかってるんですよ? 現に、それでやられた分派もいる。このまま黙っていたら、組織の力としては失われていく一方ですよ。しまいには、僕達、中枢組織が何かしら理由をつけて弾圧され、一気に革命の気運は下がります。行動を起こすのは今しかないんですよ。若者を中心に、国民の東條さんに対する支持は急速に高まっています。今や東條さんのゴーサインひとつで、現政権に不満を溜め込んでいる人々は団結して戦い始めるでしょう。それなのになぜ、浮かない顔をしてずっと考え込んでいるんですか?」
 東條は小林の言葉を聞いてもなお、黙ったままでいた。しかし、しばらくして深いため息をついて話し始めた。
「なあ、本当に成功すると思うか? そんなこと。そして、万が一俺達が政権を握ったとして、今の日本よりいい国になると思うか? 俺達は政治運営に関してど素人ばかりだぞ」
「何を……今さら。そんなこと、最初からわかりきっていたことでしょう。でも、現状の政府に任していては未来がない。だから僕達が立ち上がったんでしょうが。細かな運営とかそういうことは後から考えながら成長していけばいいんですよ。まさか東條さん、この期に及んで、革命後の世界を想像してみたら、とてもじゃないけどやっていけないと思ったから、やめたくなったなんて言わないでしょうね?」
 相馬は冗談を言っているような顔を向けて東條に言った。しかし、東條は少しも笑みを見せず真顔のままだった。そして、相馬に言った。「要するに……そういうことだ。もう十分組織の考えは広まっただろう。ここでやめても、その影響が失われることはないさ」
 相馬は唖然として東條を見た。
「本気で言ってるんですか?」
「波留は、本気で国を変えるつもりだったんだな」東條が呟いた。
辛い沈黙が流れた。東條は顔を上げることができなかった。上げたらそこにはきっと、失望、落胆、呆れ、怒り、様々な感情を含んだ相馬の顔があるはずだったからだ。
「本気じゃなかったってことか? おい。今の今まで本気じゃなかったのか? あれだけ威勢よく政府を批判して俺達を先導してきたのは、全部虚構だったって言うのか?」
 相馬は見たこともないような怒りの表情を浮かべていた。眉間を寄せ、こめかみには、見てはっきりわかるほどに血管が浮き出て、顔は真っ赤だった。
「あなたを信じていたのに……。本当の英雄だと。救世主だと」
「英雄なんて、そんなもの人間ごときに求めるべきじゃない。どんなに魅力的な奴であろうと所詮は人間だ。お前は俺を妄信していたんだ。この俺を、自分にとっての理想の救世主だと思って。だが、そんな幻想はいつかは裏切られるものだ」東條は俯いたままで言った。
「本当に世の中のことを、これからの若者のことを考えていると思っていた。常に自分を犠牲にして、世のため人のために動く人だと。あなたは、ただ周りから崇められたり尊敬されたりしたかっただけだったのか?」
「全くその通りだよ」東條は毅然と言い放った。
「あなたは……お前は、自分のことしか考えていないじゃないか! お前がさんざん批判してきた日本の既得権益そのものじゃないか!」
 相馬は東條の胸ぐらを勢いよく掴んだ。東條はそれに抵抗しなかった。そして静かに語り始めた。
「俺にとって、とてつもなくみっともなく、情けない話をさせてくれないか。あれは、六年前、波留に出会う前のことだ……」東條は遠い過去を回想するように、集会所の窓から見える愛宕山の方に目をやった。「俺は大学入学当初、ボランティアサークルに所属していた。週に二度ほど集まって、地域の奉仕活動を行ったり、駅前で恵まれない国に対する募金を呼びかけたりする団体だ。大学に入って間もない当時の俺は、さしてやりたいことも見つからず、半ば適当にそのサークルに入った。だが、俺はそこで一人の女と出会った。彼女の名前は朝比奈結。後にその容姿によって学内で有名になる彼女だったが、当時はまだ田舎から出てきたばかりの素朴な女という印象だった。サークルの活動を通して、俺は彼女と仲良くなった。彼女はどちらかというと大人しい性格で、俺とは好きな本や音楽の話なんかで趣味も合った。彼女は容姿端麗なだけでなく聡明で、それでいてそれを鼻に掛けることもなく、常に上品だった。将来は国際機関に入って途上国支援をしたいとも語っていた。俺はそんな彼女のことを尊敬していたし、女として好きだった。彼女とは何度かデートをした。正式に付き合っているわけではなかったが、俺はそれに近い関係であると思っていたし、彼女も同じ気持ちを抱いているだろうと思っていた」
「ちょっと待て。そんなお前の色恋沙汰が一体、革命の話と何の関係があるんだ?」相馬は我慢できないと言わんばかりに話を遮った。
「関係あるんだ。頼むから、最後まで聞いてくれないか?」東條は少しだけ声を荒げた。「そう、俺は彼女と仲良くなった。だが、彼女はいつからか変わり始めた。俺が送ったメッセージに対しても、日を置いてそっけない返信が返ってくるだけということが多くなった。デートに誘っても曖昧に濁されるだけだった。結局、そのまま一年の夏休みの中盤を境に彼女とは疎遠になった。彼女はその頃からサークルにも顔を出さなくなり、気付いた時には人知れず退会していた。その後も、俺は彼女の姿自体は学内でよく見かけた。彼女は見る度に垢抜けていき、ブランドの服やアクセサリーを身にまとい、元々美しかった容姿はさらに洗練されていった。学内で彼女が噂されているのを耳にすることも多くなった。中には、芸能人のパーティーに顔を出しているとか、政治家だか医者から援助してもらっているだとか、そういう真実かわからない内容の噂もよく聞いた」
「一方で、どんどん先へ進んでいく彼女に対して、俺は何一つ変わっていなかった。俺は相変わらず、人生に対する明確な目標もなく、ただ日々を諦観と共に過ごしていた。俺は彼女と対等に、もっと言えば、より特別な何かになって彼女を見返したかった。だが、それを願う度、俺の中に作られてしまった枷が俺のことを押しとどめた。『お前はその器ではない』と」
「大学に入ってから、俺は世の中のあるゆるものが空虚に感じた。周りを見渡せば、どこを見ても俺より優れたやつばかりだ。高校生の頃まではどこへ行ってもヒーローだった俺だが、大学入学後、初めて挫折を味わい、同時に才能の限界というものを知った。それを知ると、急に何かが俺に、大人になれと催促しているような気がした。そして、その時初めて意識した才能の壁は、その後も俺に影響し続けた。俺は何をやろうにも、自分より優れた人間は、大学にも、その外にも腐るほどいるだろうと考えるようになった。今の世の中、なぜ、若者が夢や目標を持ちづらくなっていると思う? 俺達が散々訴えてきた日本社会の閉塞感。それも確かにあるだろう。だが、本当の理由は、広い世界を昔より知りやすくなってしまったからだと俺は思う。何かやってみようと思っても、世界には自分よりすごい人間は腐るほどいる。これだけ情報が溢れた社会だからこそ、それは如実に感じられるんだ。俺はどう考えても特別なんかじゃない。何かを始めようとする度に、それを実感した。それでも俺は、その現実から逃れようと、自分にしかできないことを必死に探した。だが結局、その感覚を打破する何かはなく、二十歳を迎える頃には、俺は自分の先というものがはっきり見えてしまった。きっとこのまま、何の特別な才能も発揮せず、大学というモラトリアムが過ぎれば、社会の歯車として労働をし、年老いて、疎ましがられながら死んでいく。何の意味もない人生だ。皆がやっているその当たり前の人生を受け入れることは、俺にとって耐え難いことだった。自分は何か特別でありたい。このつまらない世の中で、クソみたいにつまらない普通の生き方なんてしたくない。そういう想いを内心に抱えつつも、四年になって進路を決めなければならない時期になり、俺は結局、大学院に進学することとなった」
「そんな時だった。この俺の人生を180度変える出来事が起こったのは。あれは、大学四年の春のことだ。俺はいつものように、自宅で院試に向けて勉強していた。ところが、俺がスマホで調べものをしている最中、突如、俺のスマホは急に画面が動かなくなった。スマホのフリーズなんてよくあることだし、その時の俺は特に気にすることもなく、スマホを再起動した。再び電源が入ると、俺のスマホは問題なく動いた。だが、調べ物をしていたページに戻ろうとブラウザを立ち上げた時、俺の身に覚えのないウェブサイトの画面が映った。俺は、スマホの誤作動か、もしくは再起動する間に、自分がどこか変なリンクを押してしまったのだと思った。すぐにページを離れればそれで済む話だったが、俺はどうもそのサイトが気になった。そのサイトはいろいろな面で異質だったからだ。サイトの画面は、白の背景に、ログのように日本語の赤文字が羅列していた。しかも、その文字は逆向きの横書きで書かれていた。それは、ユチと自分を称する管理人によるウェブサイトだった。そこには、現状の日本が抱える問題、将来起こりうる危機、それを解決するための計画について詳細に書かれていた。最初は胡散臭いサイトだと思った。だが、その胡散臭さが、退屈で刺激を求めていた俺の興味をそそった。俺は逆向きに書かれたログのような文章を読んでいった。それを読み進めていくうち、俺はユチが、ただの自己陶酔したネットユーザーでないことに徐々に気付き始めた。ユチの知識量と読みの深さ、それと革命手法の発想力は、およそ一般人が書いたものとは思えないほどのクオリティがあったからだ。俺は夢中になり、院試の勉強も忘れ、膨大な量のあるその思想や計画を一晩中読み耽った。そして、俺がページを閲覧していると、ふとそのサイト上がチャットの画面に切り替わった。俺は驚いた。チャットの相手は、例によって逆向きの横文字で『私はユチである』と送ってきた。俺は何の返信もしなかった。するとユチはチャットを続けた。ユチは、このウェブサイトに俺を誘導したのは自分であること、ここを訪れたのは俺が初めてだということ、俺以外にはまだこの計画を明かしていないということを語った。そして、自分は表だって動くことができないために、誰か自分の体となって行動してくれる人間が必要であるとも語った。この時、俺は自分の中で、人生で一番と言っていいほどの強烈なエネルギーが湧き出てくるのを感じた。後にも先にも、あれほど興奮したことはない。その時、俺はユチと共に、日本の変革物語の主人公になることを決めた。CRYを結成するよう波留に呼びかけたのは、ユチと出会って一か月ほど経ってからのことだ。俺はその時から今に至るまで、事あるごとにユチと連絡を取り合っていた。高齢者を貶し若者を先導したのも、サロンを作り俺達に批判的な人物を排除したのも、国会議事堂前での演説に踏み切ったのも、全てはユチの考えだ。それだけじゃない。CRYの運営の仕方、ウェブサイト、ネットワーク、SNS活用のノウハウ、フォロワーへの訴え方、そういったことまで、俺は常にユチの助言のもとに行っていた。俺はこれまで、ユチに従い皆を導いていたんだ」
 相馬は終始、唖然と口を開けたままにしていた。これまで自分が慕い従ってきた人間が、実際は誰かに操られていただけのマリオネットだったと語っている。
「何だよ……それ。ユチって何だ。そいつは一体何者なんだ?」
「わからない。それは現政府に不満を持った学者か。いや、今冷静になって考えてみれば、それは外国の人間かもしれない。もしくは人ではなく、AIか何かなのかもしれない。ユチの情報量と最適な解決策を選定する力は、およそ人間業とは思えなかった」
「おい、お前……今までそんな奴の言いなりになっていたのか? 真意のわからないどこの誰とも知らない奴の言うことを間に受けて、あれだけ威勢よく演説してたっていうのか?」
「弁解の余地もないな」東條は悲しげに笑った。「お前の言う通りだ。俺はユチの虜になっていたのかもしれない。ユチは俺が今まで会った人間の中でも比類なく賢く優秀な奴だった。ユチの発想に、俺は何度度肝を抜かれたかわからない。だが、それ以上に、ユチという絶対的なバックボーンがあったからこそ、俺はCRYの東條聡になれたんだ。俺はユチさえ味方にいれば何だってできる気がした。そして、いつしかユチの考えは俺自身の考えだと錯覚するようになっていた。失望しただろう。言うならば、俺はただの操り人形だ」
 二人の間に沈黙が流れる。
「だが、いよいよCRYの活動が国政に影響を及ぼすようになった頃、俺は朝比奈結が死んだというニュースを聞くこととなった」
「死んだ?」相馬は驚いた声を上げる。
「二週間前、池袋のオフィスビルが放火された事件を覚えているか? 犯人は二十三歳の男だった。あの後、犯人は一人、放火現場から立ち去り、池袋のホテルに向かった。そこへ呼びつけた風俗嬢を殺して、自らも五階の部屋の窓から投身した。その被害女性こそが、朝比奈結だった。彼女は大学卒業後、都内のOLとして働く一方で、週末は風俗店に勤務していたそうだ。犯人の男は彼女の常連客で、ある日彼女は男の恨みを買い、それが犯行の動機となったらしい」
「あの事件が……」
「彼女の死後、俺はしばらく放心した。その時の俺は、若者のこと、CRYのことなどまるで頭になかった。俺は大学一年のあの頃から今に至るまで、彼女のことを想い続けていた。そして、俺は彼女の死をきっかけに自分自身の正体に気付くこととなった。俺は……本当は……革命など望んではいなかった。ただ、自己顕示欲や承認欲求のために人々を導いていた。俺は若者の未来のために行動していたんじゃない。俺は、あの頃からずっと、朝比奈結に憧れ、彼女を見返したかったんだ。そしてもう一つ、何も特筆すべきものがなかった過去の俺は、大勢の人間に認められ、尊敬されたかったんだ。俺は本当は、日本社会のことや若者のことなんてどうでも良かった。ただ、自分の欲望を原動力として動いていた。それがわかってから、俺は若者のことも、CRYのことも全てがどうでもよく思えた」
 相馬は衝撃を受けた顔をしている。
「俺達は……共に若者のための未来を創ると誓ったんじゃないのか? あれは全部、嘘だったのか? 俺はあんたの言葉を信じてこれまで過ごしてきた。あんたがいたから、俺は希望を捨てずに頑張ってこれたのに……」
「嘘ではないんだ。ユチに触発されたことがきっかけではあるが、自分の意思として若者のための国づくりに情熱を傾けていたのは事実だ。国会前で演説をした時、俺こそがそれをなすべき人間だと本気で思った。ただ、人間は他人のためには命を懸けて動くことはできない。大きな力を発揮する時、そこには必ず、自分を満たすものが原動力としてある。俺にとって、それは承認欲求であり、自尊心であり、そして退屈凌ぎだった。俺は自分の中にあるそれらの潜在的欲求に気付かずにここまで来てしまったんだ。ユチに出会った時思った。国と大多数の若者を背中に負えば、これで俺はこの世界を人間らしく生きていけると。なにせそれまでは、廃人同然だったからな。事実、CRYを率いていくのは楽しかったよ。日常では味わうことのできない経験もたくさん味わったさ。一方で、その先に待ち受けているものから、俺はずっと目を逸らし続けていた。ユチの計画通りにいけば、次の段階では俺達は武装化を進め、国を相手取りクーデターを仕掛けて政権を掌握することになっている。そして、その後、革命政権を打倒したい他国の脅威に立ち向かうため、革命政府は軍事力を高めていく。今ならはっきりと言える。そんなことは俺の望むべきことでは全くなかったと。だが俺は、自分が若者の救世主的な立場に立ち、皆から注目されるという目先の誘惑に抗えなかった。本当はわかっていた。いつかユチの過激な構想に向き合わなければならない日が来ることを。だが、俺はこの非日常的な刺激を否定したくはなかった。また、心のどこかでは、この道を進んだ先に、ユチの考えとは違う道や、新しい自分が待っていることを望んでいた。だが、ここまで来ても、そんなものは見つからなかった。見つかったのは、俺自身の愚かさと醜さだけだ」
 相馬は歯を食いしばり泣いていた。
「波留には本当に申し訳ないことをしたと思っている。だが、俺はもうCRYを率いていくことなんてできない。俺は自分に酔っていたんだ。勢いに身を任せ、これが自分に定められた運命だと信じ込み、それを成すための日々に心酔していた。だが、朝比奈結の死をきっかけに、俺はその酔いが覚めてしまった。今となっては、CRYを率いていたことが、遠い過去の自分のことのように思える」 
「お前は……」相馬は涙を拭い顔を上げた。彼は顔をしわくちゃにしながら東條を糾弾し始めた。「お前は、意思のないゾンビだ! お前には何も成し遂げることなんてできない。俺はお前とは違う。ちゃんと明確な意思を持っている。そもそも、お前みたいなお坊ちゃんにはわかるはずがなかったんだ。お前なんて、実際のところは親が官僚で、恵まれた家庭に育った特権階級じゃないか! だからお前はいつも改革に穏健的だった。本当の意味で困ってはないから。革命ごっこをしていれば、お前はそれで満足だった。お前にはわからないだろう。俺のような本当に助けが必要な人間の気持ちが。俺は本当の苦しみを知っている。家族を流された無念も! ある日突然、故郷を奪われ、この先も永久に帰ることのできない無情さも! お前のように自己実現のために政治ごっこをしている奴と俺は違う! 俺は国に対して戦争を仕掛けるぞ! 穏健派のお前と違って、俺は最初からそうすべきなんじゃないかと思っていた。俺は、全国にいる俺達の同士を集めて日本政府を叩く。俺にはその決定権がある。元はと言えば、この組織はお前のものじゃない! 俺から始まったものだ! 何がユチだ。自分の意思で動けよ。たとえその先の道が間違っていたとしても、お前はお前自身の革命を起こせよ。全てに恵まれ、何不自由なく過ごしてきたお前の自己実現的革命にはもう懲り懲りだ。これからCRYは、俺が仕切る!」
相馬はこれだけ言い切ると、東條に背を向け走り出した。
「革命、か」遠ざかってゆく相馬の後ろ姿を目で追いながら、東條は呟いた。


第六部 善と欲望


 東條聡はかつて、欲望を悪と捉えていた。欲があるから争いが起きるのだ。世界中の皆が自制し合えば、平和で理想的な社会になると考えていた。彼は口数の多い人間ではなかった。身に起こったことは誰のせいにするでもなく、ただ自分の中に受け止め、内省する性分だった。自分が犠牲になって誰かを救うことができるならば、本望であるとも思っていた。それが具体的な行動として表れることも多々あった。彼が小学三年生の頃、同級生から些細ないたずらを受けた。小学生というのは物の程度がわかっていないもので、結果として、彼は頬によく目立つ切り傷を受けた。担任の教師はそれを発見すると、すぐさま相手の生徒と彼とで事実確認を行った。教師の立場は、ほとんどその友人を責めるような格好であった。友人は泣きじゃくりながら、故意にやったのではなく、彫刻刀を持った手が滑り、前に突然現れた彼に当たったのだと弁解した。そんな場面でさえ、彼は相手の男の子が教師に責められる様子を見ていて可哀想に思い、助けてあげたくなるのだった。彼は、自分がいたずらに脅かそうと前に現れたところ、驚いた友人が手を滑らせたのだと主張した。
 彼は自分自身の人格について、正しいと思っていたし、正義の行いをする度に誇らしさも感じていた。しかし、そんな彼の価値観を翻弄するような出来事が起こる。
十歳の頃、彼はふと肉を食べることに疑問を抱いた。人間が毎日当たり前に食べているこの肉は、自分達と同じように生きている豚や牛などの命を殺めて作られたものだ。その事実が当たり前であることの恐ろしさに、彼は十歳になって初めて気付いた。その後、彼は自宅のパソコンで食肉処理について調べ、その映像も見た。
生き物が実に効率的に、かつ流れ作業的に殺されていく姿は、ある種の芸術性さえ感じさせた。それは、人間の賢い頭で編み出した合理性の姿を見ているようだった。あの屠られている豚は、例えば、そこで働く彼らの子供達を食い殺したのか。ならば、今目の前で起こっている現実は、「因果応報」の四文字で片付けることができる。だが、それは違うとわかっていた。あの豚達は人間が食し欲を満たすためだけに生まれてきて、今、無残にも殺されているのである。
もちろん、今となっては、多くの国が動物と畜に対し十分な配慮をしており、肉を食すことが人間が生きていく上で必要なことであると彼は理解している。ただ、当時は幼かっただけに、映像の衝撃だけが頭に残り、それは彼にとって、とても受け入れ難いものだった。その時から、彼は人間が肉を食べている様子を見て気持ち悪さを感じるようになった。以来、肉食をやめた。食事は徹底して米と野菜のみを口にするようにした。
一週間もして、彼は自分の身体に全く活力が湧いてこないことを感じた。それでも頑なに肉を食べないでいた彼は、ある日、体育の授業中に倒れて救急搬送された。気付いた時には病院のベッドの上にいた。倒れた原因は貧血だった。そこで、拒む彼に反して強制的に豚のしょうが焼きが食べさせられた。忌み嫌う行為とは裏腹に、彼の身体は心底喜びの反応を見せた。その時、自分自身も、結局は欲望に飲み込まれる人間に過ぎないのだと彼は初めて学んだ。自分達は生存という籠に入れられ、欲望という呪いにかけられているのだと、彼は初めて知った。お腹を満たした彼は、いつしかベッドの上で眠りに落ちていた。

彼が初めて交際した女性は、パッとしない地味な容姿の女の子だった。それは、中学二年生の頃で、きっかけは彼女が描いていた絵だった。彼女は美術部に所属しており、その日は教室から見える金木犀の木を描こうと、放課後、担任の許可を得て一人教室で作品に没頭していた。そこへ、忘れ物をとりに来た彼がガラッと勢いよく戸を開けて教室に入った。彼はポツンと一人絵を描いているクラスメイトを特に気にすることもなく、自席に向かった。机の中の忘れ物を取って再び戸に向かおうと振り返った時、彼は初めて動揺した。彼女は俯き、おそらくは泣いていた。彼女は突然の入室者に驚き、筆を滑らせてしまったのだ。床には絵の具が点々と飛び散っていた。彼は、自分の突然の登場によってそれが起こったのだろうと悟った。しかし、彼は女子と話すことが気恥ずかしく、ただ一言の謝罪の言葉を発することができなかった。そして数秒固まった挙句、教室を出ようと歩みだした時、彼女は突然、顔を上げ、彼を激しく糾弾し始めた。彼は彼女の気の強い言い振りに驚いた。そして素直に謝った。しかし、彼女の怒りは収まらなかった。彼はうろたえながら彼女に近づき、自分が台無しにしたらしい絵を見た。しかし、彼にはその絵のダメになった部分が全くわからなかった。それどころか、その絵の持つ多彩な色合い、躍動感といったものに心底感動してしまった。正直に言って、彼はその女子生徒を、クラスであまり目立たない子としか認識していなかった。しかし、彼女の絵を見て、初めて彼女の本当の人間性に触れることができたと感じた。彼はその感想をそのまま彼女に言った。彼女は少し頬を染めたが、それでも彼を責め続けた。彼は誠意を持って謝罪し続けた。その絵の失敗は、彼にとっては本当に意識してみないとわからない差だったが、自分にとっては些細な違いでも、他人にとってそうでないことは世の中にたくさんあるのだ。彼女は不平を言いながらも、最終的には彼を許した。
それから彼女は、学校でもよく彼に話しかけるようになった。彼女はそれまでクラスメイトとはあまり関わってこなかったので、話し相手ができたことが内心嬉しそうだった。気が付くと、二人は週に一度、部活後の時間の合う日に一緒に帰る仲となっていた。彼らは自然と、周囲に交際していると認識されていた。しかも、その噂は彼女の告白により本当のこととなった。
彼女は彼に実によく尽くした。連絡は毎日だったし、弁当も頻繁に作ってきた。交際が始まって二か月ほどしたある日、彼は彼女に誘われて彼女の家に行った。そして、彼女の部屋で学校のこと、友達のことなどを二時間近く喋ったのち、彼は自分の家に帰った。その数日後、彼は彼女に別れを切り出した。他に好きな人ができたとか、彼女のことが嫌いになったなどの理由ではない。おそらく、彼の中で、彼女と向き合うための気力がなかったのだ。

彼は大学に入った。そこで一人の女の子と出会った。彼女は言うまでもなく異様に美しく魅力的な女だった。握り拳ほどの小さな顔、大きくて黒い瞳、陶器のように白く綺麗な肌。その整った顔立ちの中にある愛らしさは、見る者全ての心を奪ってしまうほどだった。彼は彼女の顔を見る度に、彼女への想いが増していった。彼女とは毎日チャットでやり取りをした。連絡不精な彼は、そんなこと今まで誰ともなかった。彼は毎日彼女と繋がっていられることが幸せで、講義中でも風呂に入っている時も携帯は片時も離さず気にしていた。彼女からのメッセージはいつも自然なもので、気を張ることなく心地良い会話が続いた。もはや、彼女は生活の中で、なくてはならないものになっていた。彼女は彼にとって、まさに太陽だったのだ。だが、ある時より彼女からの返事は徐々に遅くなり、次第に彼のメッセージに対する応答はなくなっていった。はっきりと、もう関わらないでくれと言われたわけではない。しかし、彼女との関係は事実上、終わっていた。その頃彼女は、その美貌により、学内で有名になり将来が嘱望されていた。彼はそんな彼女と対等に釣り合えないことに、強烈なコンプレックスを抱いた。

それから三年が経とうとしていた頃、彼はユチとの邂逅をきっかけとしてCRYを結成することとなった。CRYは震災や国会前でのデモを経て絶大な支持を獲得し、いよいよ国に対して革命を起こすかいうところまで来た。しかし、そんなさなか、彼は彼女がこの世を去ったことを伝え聞いた。彼女を失った後、彼は大きな喪失感に苛まれた。彼女という存在は自分にとって、一連の行動をしていく上での精神的支柱であったことを彼は痛感した。彼はCRYを創り、貧困にあえぐ若者の救済という主張を掲げて活動してきた。彼自身もそれが自分の本心だと思っていたが、実際のところ、それは彼女に対するコンプレックスや、周りと比較して何者にもなれない劣等感から来るものだった。彼は気付いたのだ。自分が抱いてきた理想も信念も、全ては自分自身のためのものであったと。そして、自分の欲望を、他人への奉仕という大義名分に置き換えて動いていたと。
 それから彼は、自らの人生を振り返った。彼は昔から、自分の身に起こったことを深く内省する性分だった。彼は昔、欲望、あるいは自分の願望のために動くことを悪としていた。食べること、着飾ること、そういった人間としての欲を貪ることは、彼にとって醜いと思えることだった。すなわち、生きていること、それ自体が恥ずかしく思えていたのだ。なぜなら、人間にしろ、何にしろ、この世に存在すれば、それだけでその他のものを不幸にするからだ。ましてや、贅沢なんてすれば、その影響はより多くのものに及ぶだろう。誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。それは事実なのだ。私達は普段そういった場面を直接目の当たりにすることはないために、それを意識することはないが……。それ故、あの病棟で肉の美味さに身体が歓喜の叫びを挙げた時、彼は心底、自分に嫌気が差した。また、誠意を持って自分に向き合った中学時代の恋人に対し、本心では彼女に対する情欲の欠乏を背景に関係を終わらせた。それからしばらくして当時を振り返るごとに、彼は自己嫌悪と彼女への申し訳なさでやりきれない気持ちになった。彼は、欲を憎む一方で、自分自身もまた欲深き存在であるという事実が許せなかった。彼は、そうした現実とどう向き合うかという問題といつも葛藤していた。欲を抑えること。それが、人としてあるべき理想の姿だと思っていた。
だが、成長するにつれ、彼の周囲には欲深き者が増えていった。それは伝染していくのだ。世の中は決して、正義が報われるようにはできていない。むしろ、欲望を前面に出し、自らの権益を保持しようとする人間の方が得をするのが、この世の中というものだ。神が機能していないからこそ、多くの人間はいつか、それが正義であると気付く。彼自身の中でも、そういった欲望は強まっていき、それに抵抗する難しさも次第に理解できるようになった。いつしか、彼の中で、昔の自分が抱いていた理想を厳密に固持しようとする気持ちは薄らいでいたのだ。
彼はこの時、初めて朝比奈結の気持ちが本当の意味で理解できた気がした。彼女が嘘や建前を嫌い、本音にこだわった理由。それは、人間の本質が欲深く醜いものであると理解しており、それを綺麗な言葉や態度でごまかそうとする他人の姿が許せなかったからだ。彼女は元々、心優しく、常に周りを気遣っているような子だった。恵まれた環境にいる自分を嫌い、そうでない人達のために尽くしたいと語っていたことも、嘘ではなかったはずだ。その一方で、彼女は、自分を抑えて生きてきた反動と周囲の放置のために、もっと自分に注目してほしいという欲求も潜在的に抱えていた。そして、自分がかつて抱いた理想よりも、彼女自身を満たそうとする欲が強まっていった。彼女は醜さを自覚しつつも、自分の欲に従う方を選んだ。
彼女は最後に言った。「あなたと私を一緒にしないでほしい」と。その言葉の意味も彼はこの時、初めてわかった。彼女は少なくとも自分が悪だと自覚していた。彼女はきっと、「あなたは自分の欲望を自覚せずに他人に奉仕しているつもりでいる」と言いたかったのだ。彼もまた、彼女と同じように善にはなれなかった。

東條聡はかつて、欲望を悪と捉えていた。欲があるから争いが起きるのだ。世界中の皆が自制し合えば、平和で理想的な社会になると考えていた。だが、二十四年の人生を経て、彼の結論は変わった。それは彼にとっての革命であった。
(生きていること自体に意味などない。この世は無情と退屈に満ちている。だが、この世界に生まれ落ちてしまった以上、人間は現状の不満足を変えるために動く。言わば、革命のために生きるんだ。だが、その革命には常に代償が伴う。人間は自分の革命のために動き、それによって他人から何かを奪う。それなら、革命を起こすことは悪なのか? かつてはそう思っていた。自分自身の欲求や願望を抑えることが、何よりの正義だと考えていた。一方で、内心では、どうしても自分を捨て切ることができなかった。俺はその矛盾といつも葛藤していた。しかし、結局のところ、人間は欲望から逃れることはできない。人間はどこまで行っても、自分だけを愛している。世界は元々、そういう風にできている。
俺はCRYを率いて高齢者層やそれを優遇する政治家達を標的にした。彼らが利権を貪っているのだと主張し、命の選別を行った。だが、若者も高齢者も、生まれた時代が違うだけだ。人は皆、自分達の利益や立場を守るために動く。それは人間として当たり前のことだ。要は、論理的な正当性ではなく、どちらの側に自分がいるか、ということだ。誰が悪いのか? いや、誰も悪くない。強いて言うならば、悪いのはこの世の中だ。
この先、波留がCRYを動かすことによって国がどうなってゆくかはわからない。波留は、自分は世の中の犠牲者だからこそ、本当に弱者のことを考えて動けると語った。だが、彼が実際にそうなのかは、正直、俺にはわからない。俺がそうであったように、人間の心の内は、本人でさえ自覚できるものではない……。
それでも俺はCRYの全てを投げ出した。俺は結局、生まれた時から、どこまでも自分勝手な人間だった。俺は、自分のエゴや欲に動かされてきたクズ野郎だった。それが俺の本質だった。だが、それも仕方のないことだ。自分の願望を満たすために傲慢に生きる。それが人間の本質なのだから)


終 若き意思


 八月のこの時季は天候が変わりやすい。今のところ、燦々と輝く太陽が夏の青空を照らしているが、既に遠く西の方には発達した入道雲を確認できる。あの雲は対流に流され、もう少しすればこちらに来て嵐をもたらすだろう。
二〇二六年八月十五日、相馬波留はCRYのメンバーに召集をかけた。相馬は、今日この日を新たなスタートの日と位置付け、厳然たる意思を持って集会に臨んでいた。CRYのメンバー達はいつもの集会所にぞろぞろと集まってきた。
やがて、時計の針は十八時を指した。集会の開始予定時刻だ。しかし、その輪の中心に皆が待ち構える革命の象徴の姿はなかった。前をしっかりと見据え、一歩一歩、自身の意思を確かめるように場の中心に歩いてきたのは、相馬波留であった。相馬は皆の方を向き直り、一度深く深呼吸をした。そして、メンバー全員に目線をやった後、喋り出した。
「東條聡はもう、CRYのメンバーではない。彼は責任に耐えかねて、自ら今の立場を降りると決めた。彼は真のリーダーではなかった」
場は騒然となった。口々にどういうことか相馬に説明を求める声が上がる。「東條を出せ」「東條をどこにやった」そんな声が聞こえてくる。
「これは東條自身が決めたことだ。俺は彼を脅迫していないし、弱みを握っているわけでもない。東條はこれから、普通の一般人として社会に戻る。その上で、今後はこの俺がCRYを率いていくこととなった。疑わしいのなら本人に直接確認してみるといい」相馬は少し声を荒げた。
 騒々しかった場は静かになった。相馬はふうとため息をつき、少し床へ視線を落とした。そして、また顔を上げて皆を見渡し、声を一層張り上げて語り始めた。
「今、政府による弾圧により、俺達の同士は日に日にやられていっている現状がある。このままでは、CRYの影響力は落ちていく一方だ。俺達はこれを止めなければならない。そこで、これから本格的に武装闘争の準備を始める。俺は全国の分派に協力を求める。そして、十分な戦力を整えた後、一致団結して国に対して戦いを挑む。無論、多くの犠牲者も出るだろう。しかし、そうまでしなければ、現在、そして未来には、この国はもっと悲惨な事態に直面するに違いない。もはや、俺達に残された選択肢としては、力づくで政権を奪うこと。それしかないんだ! 今、まさに、俺達の底力が試される時が来ている。共に、理想の国を創っていこう!」
多数の驚きの声の中に歓喜の声も聞こえる。相馬は真っ直ぐに前を見据えていた。この目は、相馬自身のものだ。
愛宕の地にカラスが一羽、降り立った。発達した入道雲は夕焼けで赤く照らされていた。


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