あの日、あの場所で

いまさら小次郎

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第六章 夢であり、幻であっても

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「…夢の中のサクラは…お前と…どんな風に会ってるの」

小声で呟く龍司の声に、
孝之は奥歯を噛みしめた。

「どんな…風…って」

ふと、龍司の口元に視線がいった。
鮮明に浮かび上がる、夢の記憶。
呼び覚まされる、あの、感触。
今全てを口にしてしまえば、全てが終わる。
もう二度と、ここには来られないかもしれない。

「……凄い汗…エアコン、つける?」
「いや…いや…」

孝之は龍司の口元から素早く目を逸らし、
何度も首を横に振った。
汗で湿った額を、右腕で拭う。
こういう日に限って、なぜハンカチを忘れてきてしまったんだろう。

龍司は抱きしめていたクッションをソファに置いて、
洗面所に向かった。
物音がしてしばらくすると、
ハンドタオルを持って戻ってきた。
無言で、孝之に手渡す。

孝之はありがとう、と言って
それを受け取った。

龍司はまた先ほどまで
座っていたソファに戻ると、
クッションを胸に抱きかかえ、
強く握りしめた。

「夢の中で…サクラと…何か話したり……するの」
「…話…話は…あまり…その…名前は、よく呼ばれる…けど…」
「名前……」

”リュウジ”

龍司もふと自分の夢のことを、思い出した。
何度も名前を呼ばれては、身体に、唇に、触れられる。
目の前にいる、この大柄の男に。
何度も、何度も。
鼓動が再び早くなる。
耐えられない。
この空気には。

「サクラが元気になったらまた……ゆっくり…話そう」

話を断ち切るように、龍司はソファから立ち上がった。
汗で湿る掌をクッションで拭い、
ソファに投げつける。
これ以上先の事を聞くのが、
ただただ恐ろしかった。
孝之も慌てて立ち上がり、玄関に向かった。

「…また…連絡する」
「……ああ、頼む」

孝之は玄関のドアノブに手をかけた。
扉の隙間から、冷たい風が部屋に入り込む。
風に煽られる前髪を、
首を振って払い退けながら
孝之が振り返った。

「龍司…」

龍司はぴくりと肩を動かし、俯いた。

「サクラは…お前の顔をしてるんだ」
「……知ってる。…前に、聞いた」
「……じゃあ、また」

玄関の扉が、スローモーションのように
重く閉ざされる。

「………知ってるよ」

閉じられた扉に額を擦り付け
龍司は小さく呟いた。
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