死人殺しの優しい少女

ないむ

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死人殺しの優しい少女

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目の前にあるそれは、ひどく美しい赤にまみれて永遠の沈黙を守っていた。

さらにその向こう、月明かりを背に佇む彼女もまた、同じ色に染まりながら穏やかな微笑みを湛えてこちらをじっと見つめている。血濡れのナイフを手にしたその姿はまるで一つの芸術品の如く、こちらの視線を捕らえて離さない。

「貴方は、死んでないんだ?」

脳に直接染み入るようなその声がこちらに投げかけられた。独り言にも聞こえるその言葉に戸惑いつつも、僕はこくこくと首を縦に振る。反応しなければ殺されるのではないか、と思考が追い付くほうが遅かったのだが、その考えが追い付くころには次の思考をする時間がやってきていた。

「なら、貴方は誰かを殺してるんだね。」

微笑を崩さないまま、彼女は当たり前のように言った。
何を言っているのかわからず、一時停止する思考。この少女は何を言っているのだろう。僕には人を殺した記憶などない。何よりもまず、目の前のこの「人だったもの」を作り出したのは僕ではなく彼女自身だ。
そしてそんな言葉を言いながら、冷たく突き放すでもなくその手の凶器で襲い掛かってくるわけでもなく、ただ先ほどと何も変わらない静かで穏やかな笑顔を向けてくるその様子は、背筋に何か生暖かいものを感じるほどに不気味だった。

「……ねぇ。『死ぬ』の基準は、何だと思う?」
「っ、き、基準?」
「そう、基準。」

ただでさえ命の危険を感じているこの状況では、こんな簡単な質問にさえ返答するのにさえ躊躇ってしまう。かといって黙りこくったままでいるのも、あるいは彼女に背を向けて走り出すのも、全てが自分の死に直結しているような、そんな危機感を覚えていた。

「……、心臓が、止まってたら、死んでるだろ。」
「他には?」
「ほ、他?」

予期していなかった答えに再び頭を巡らせる。そういえば、以前どこかで耳にしたようなことがある。それを死と見なすか、あるいはまだ生きていると見なすのか、そんな討論があったとかなかったとか。
彼女はそれについて何か言及したいのだろうか。もしくは、それがこの殺人行為に何か関係したりでもしているのだろうか。

「ええと、えー……脳死、とか……」
「それだけ?」
「え、ええ、と……」

まだ何かを言わせたいらしい彼女だったが、僕の思考ではもうそれ以上の答えは出てこない。それでも答えなければ殺される。答えなければ、何かを見つけなければ。視線を足元へずらしそこにある『死』を目で探る。それが示しているかもしれない『死の基準』とやらを、彼女の求める答えを、どうにか見つけ出さなければ。
今もまだそれから流れ出す赤い液体が徐々に広がり、僕のほうへと迫りくる。砂時計の砂を見ているような気分になり、さらに焦る心の中。
しかしタイムリミットはそれより早く訪れた。微笑んでいた彼女が残念そうに息をつくのが聞こえれば、一瞬にして血の気が引き、全身の毛が逆立った。

「ま、待っ……!!」
「この人は、」

見下ろす彼女の眼は唐突に色を変えて。

「私が手を下す前から死んでたよ。」

先ほどまでの穏やかな微笑みとは違う、氷のような冷笑を浮かべて僕をしっかりと見つめていた。

「人の死って、何も体だけのものじゃないじゃない。……心が死んでも人は死ぬんだよ。心が死んで、それでも動き続ける人間なんて、みんな、みーんなゾンビみたいなものだよ。」
「……心が……」
「そして心は人の手によってだけ致命的なまでに殺される。つまりこの人の心が死んでたってことは、この人の心を殺した他の誰かがいるってこと。……それが君だとまでは言うつもりはないけどね。」
「だったら、なんで、なんで僕が、人を殺したなんて……」
「加害者は気づかない。」

僕の反論をねじ伏せるように、被せて彼女は言い放つ。それと同時に容赦なく、おそらく彼女の全体重をかけて踏み抜かれた僕の足はぼきりと嫌な音を立てた。

「っだ、ぁ……!!」
「自分が誰かを言葉の刃で切り刻んでいることも、そこに被害者がいるということにすらも。だから何にも気づかず、平気な顔して生きている。生きていられる。それがどれだけ被害者にとって残酷な、苦しいことかも知らないで。
 貴方が普通に生きてきて何の気なく放った言葉や行動が、たったの一回だって他の誰かを傷つけたことがないなんて誰が証明できる?この世にあふれかえっている自殺者の背中を押したことがないなんて言いきれる?貴方にとっては何でもない、地面に転がる石ころ程度の意味しか持たないことだって、他の誰かにとっては心臓を貫通させるのに十分な威力を持つ言葉であることだってあるのに。」

淡々とした口調で浴びせられる彼女の持論。
激痛と恐怖を感じながらも、逃げるという選択肢が奪われてしまった僕は必死の思いで反論を叫ぶ。その持論を壊すか、どこか少しでも崩させることができれば、もしくは。

「そ、そういうならっ!それはお前も同じことじゃないのかよ!?というか、それが悪いことだっていうならお前が実際に人を殺すことだって悪いことだろ!同じことを、むしろもっと酷いことをやってる奴にそんなこと指摘される筋合いねぇよ!!」
「……?」
「それに……それに!その、心を殺された奴だって、同じように人を殺してたかもしれないだろ!?お互い様じゃねぇか、なんで殺されなきゃいけないんだよ!!」
「……」

こちらを見つめたまま首をかしげる少女に少しばかりの期待を抱き、さらに頭を働かせてダメ押しで追加の弾丸を口から放ってやれば、彼女はそのまま沈黙した。そのまま何か考え始めた様子の彼女の様子を見て、消えかけていた命の灯が再び戻ってきたかのようなわずかな安堵を感じていた。

「……どうなんだよ、何か、言い返してみろよ。それができないなら、」
「ねぇ、何か勘違いしてない?」

自首でもしてこいよ、と続けようとした声を心底不思議そうな声で遮られた。
きょとん、という効果音がぴったりな顔をして、彼女は告げる。僕の言葉のそもそもの前提が大間違いであったということを。



「私、別に『悪いから』殺してるわけじゃないよ?」



「……は?」
「だから、悪い人だから殺してるんじゃないんだって。君の言う通り、誰だって誰かを殺してる。私も、君も、この子も、どんな人もそう。みんなみーんな人殺し。私はそれを当たり前だと思ってるし、どんなに醜くてもそれが人間の本質だから仕方ないって思ってる。仕方ないだけで、あまり好きなことじゃないのも確かだけど。
 ……ただね、心が死んだゾンビを見てると、すごくかわいそうな気がして、早く楽にしてあげようって思っちゃうんだ。この醜い世界の脱落者を。」

歌うように彼女は認め、そして僕の言葉をねじ伏せる。
いや、違う。僕の言葉の弾丸は、最初から彼女のほうに向かってすらいなかった。彼女は、明後日のほうに飛んでいく弾丸を『なんであんなところ狙ってるんだろう』と見つめていただけにすぎないのだ。

「だけど私がこうやってナイフで人を殺すのはダメなことなの。たとえゾンビが相手でも同じ。すっごく理不尽で納得いかないけど、でもそれも『当たり前』。私は、可能な限りはそれに適応しなきゃいけないの。郷に入っては郷に従えっていうでしょ?」

ああ、と僕は自嘲気味に笑った。
やっと理解した。説得も何も、全ては手遅れだったのだと。
彼女との邂逅の瞬間から今までの自分の行為が、無駄な足掻きでしかなかったのだと。
おびえてへたり込んでしまっていた時点で、既に決まってしまっていたのだと。
どうしようもない絶望に、身も心も冷えていくのを感じる。
僕の足を踏む死神の向こうにいる先駆者は、僕が殺したかもしれない誰かとやらは、この死体のような温度の絶望を長い間をかけて何度も何度も味わったのだろうか。

「ゾンビを楽にしてあげるのは我慢できないんだけど、せめてゾンビ殺しの殺人犯としてこの世でやらなきゃいけないことはちゃんとしなきゃ。例えば……目撃者の口封じ、とか。」

もうわかり切っていた答え合わせを耳にして、僕の双眸から涙があふれる。
恐怖にまみれた心の臓。
生きたまま死ねるというのは、まだ幸せなことなのだろうか。
死にたくないと思えることは、たとえこれから死ぬことが確定していても幸せなのだろうか。
逆に、心が息絶え何も感じず、あるいは死を願って死んでいける人間は幸せだったのだろうか。
まだ生きている僕には、わからない。
そしてきっと、何もわからないままに――

「大丈夫だよ。一瞬で終わるから。」

優しい笑顔を浮かべた少女の、ナイフを握った右手が空高く振り上げられた。
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