えんま様の質問

杉本けんいちろう

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えんま様の質問

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私は、まだ二十九歳。何の取り柄もないフツーの会社員。そして、独身。
そんな私に、あまりにも早い、その瞬間は訪れた。私は、ただ青信号のもとに横断歩道を渡っていただけだった。でも、そこへ一台のバイクが、まるで私を狙っていたかの様に猛スピードで突っ込んで来たのです。

一瞬でした。まさに一瞬でした。私は何の痛みも衝撃も感じないまま、次に気付いた時は、病院の真っ白なベッドの上で、家族に囲まれながら目を瞑っている私を、その上から見下ろしていました。
最初は正直、何事かと混乱しましたが、自分でも驚く程に直ぐに冷静さを取り戻し、この状況を理解しました。

そう、私は死んだのです。

ハッキリ言って何も無かった二十九年の幕閉めですら、この呆気なさ。それこそ一体何の為の生涯だったのか…。怒りにも似た、この感覚が更に虚しさに拍車をかける。ただ、こんな感情を余所に、切なくも胸を打つのは家族みんなの涙。お母さんもお姉ちゃんも、普段、泣き顔なんて絶対見せないお父さんまでもが、人目を憚らずに泣いている…。

『春菜!何でだ!何で春菜が、こんな目に…!』

お父さん…。みんな、ごめんね。最期まで不甲斐ない娘で…。

私は、何も無い空の上で自分の情けなさを恥じた。そして、冷たくなった両手で顔を覆った。指の隙間から零れ落ちる涙は、大きな灰色の雲を抜けると私が生まれ育った街を冷たい雨となって悲しく濡らしていた。

『さぁ、行きましょう。』

『え?』

突然、背後から聞こえてきた女の人の優しい声。振り向くと、そこには若くて髪の短い綺麗な人が…。

『さぁ、こちらです。』

その人は、名も名乗らず、私の手を取り、高い、高い光の中へ導いて行きました。
強い光を抜けるとそこには、一つの長い行列がありました。その人は、私をその行列の最後尾に連れて行くと、不敵な笑みを浮かべて、何処へともなく飛んで行ってしまいました。私は、思わず目の前に並んでいた男性に尋ねました。

『あ、あの、これは何の行列なんですか?』

『ああ、僕も今さっき並んだばっかだから戸惑ってるんだけど、たぶん、えんま様がいる、いわゆる審判の門へと通じる行列なんだと思いますよ。』

『え、えんま様…!えんま様って、あの、えんま様ですか?』

『うーん、たぶん、その、えんま様だと思いますよ。』

『うわー、マンガと一緒なんだ。』

私は、直ぐにに察知しました。この先に見える、あの大きな赤い門の向こうには、えんま様が居て天国行きか、地獄行きか決められるんだ。
だけど私は思った。正直、どっちでも良い。どうせ何も無かった人生だったし、地獄にでも行った方が刺激があって面白いかもしれないしね。
私には人生において特別、悔いる様な大きな出来事も無い。フツーに高校出て、フツーに大学出て、フツーに就職した。恋愛だって、フツーに経験して来たつもり。ただ、結婚は出来なかったけどね…。犯罪も犯してないし、親を泣かす様な事もしてない。そんな私に一体、えんま様は、どんな審判を下すんだろう。

そんな事をあれこれ考えていると、あれだけあった行列が、あっという間に気が付けば次は、私の番。

『さぁ、どうぞ。お入り下さい。』

さっきの女の人とは、また違う、今度は少しお歳を召された方からの案内で私は、赤い大きな門をくぐると、そこには大きな赤い部屋があり、その真ん中に置かれた、不釣り合いな程に小さな机に向かって腰掛ける、私とほとんど背丈が同じくらいの、髪の長い若い女の人がポツンといたのです。

『え?あ、あなたが、えんま様ですか?』

私は、思わず口を開いてしまいました。でも、その人は全てを見透かした様に不敵に笑みを浮かべて答えました。

『そうですよ。』

私は、驚きました。あまりにもイメージとかけ離れた、えんま様の姿に…。
私が呆気に取られていると、えんま様が颯爽と口を開きました。

『皆さんそうですが、此処へ来る方は何か感違いをされているようです。此処は、皆さんの行き場を振り分ける所ではありません。』

『え?じゃ、じゃあ何をする所なんですか?』

『此処は、あなた方一人一人に、最後の質問をする所です。』

『最後の質問?』

『そう、たった一つの質問をする所です。』

『一つの質問…。な、何ですか?その質問て…。』

『良いでしょう。では、聞きます。あなたは、現世の人生をもう一度、続けますか?それとも、来世に生まれ変わりますか?ただ、それだけです。』

『え…?』

『実は、あなたはまだ、完全に死んでいないのです。本体は、臨死状態にあります。人は皆、一度死に直面した時、完全に死する前に最後の決断を迫られるのです。もし、現世に未練が断ち切れない様であれば、勿論、その続きからですが、もう一度だけ、現世を生きられるチャンスが与えられます。その逆に、もう何の未練も無ければ、晴れて完全な死を齎らし、来世に生まれ変わって頂きます。此処は、それを決断して頂く所です。』

『今をもう一度、生きるか、来世でやり直すか…。』

『参考までに。皆さん、意外にも大きく悩まずに割りと直ぐに決断なさいますよ。』

『え?』

『九割九分の方が、来世に生まれ変わられます。皆さん、現世には何の未練も無いみたいですね…。』

『え、そうなんですか…?』

『さぁ、どうしますか?』

『え、そんな直ぐには、私は決められません。』

『…分かりました。ならば、少し時間を差し上げます。そちらの壁際にある椅子に座ってよく考えると良いでしょう。』

『あ、ありがとうございます…。』

『では、次の方を呼んで下さい。』

私は、その言葉を背に、壁際にある椅子へゆっくりと腰を下ろした。

どうしよう…。

悩む私を尻目に、間髪入れず次の人が連れてこられた。しかし、次に入って来た人は明らかに子供だった。まだまだ体の小さい、左目の下にある泣きぼくろが印象的な男の子だった。此処は、大人、子供関係ないんだ。それが誰であろうと同じ質問をし、決断させるんだ。でも、こんな小さい子供が果たして自分で決断など出来るのだろうか。自分の事は、さて置き心配になった。

『…さぁ、どうしますか?』

『うーん…。』

『あなたは、まだ七歳です。難しい決断です。少し考えますか?』

『いや、大丈夫!もう決めたよ!僕は来世に生まれ変わってやり直す!』

『そうですか。それで良いのですね?』

『うん!だって僕は、大きな病気だったし、お父さんやお母さんに会えなくなるのは寂しいけど、僕がいなくなれば毎日、毎日、僕の看病で大変だったお父さんやお母さんが楽になるはずだもん。僕もう、あんな辛そうな顔を見たくないんだ。だから僕は、このまま来世に行くよ!良いでしょ?』

『分かりました。では、そうしましょう。そのまま真っ直ぐ、あちらの扉を開けて進んで下さい。』

『うん!ありがとう!えんま様!』

私は、驚きと共に、自分の小ささに恥ずかしさでいっぱいになった。私は、一体この二十九年、何をしていたんだろう。たった七歳の男の子が、こんなにも立派な決断を下す傍らで、余りにもしょうも無い自分の人生を蔑んだ。

情けない…。

私の頭の中は、その言葉が駆け回っていた。この二十九年、ハッキリ言ってつまらなくて、ずっと退屈だった。伏し目がちだった中学生の時は、高校へ行けば何か変わるだろう。目標が無かった高校生の時は、大学へ行けば何か変わるだろう。結局、夢も見つからなかった大学生の時は、子供みたいな恋愛ごっこも社会へ出れば何か変わるだろう。そう思っていた。でも、その答えは二十九歳になっても、三十過ぎればきっと…。
自分から何かを追い求め、理想を現実にする為の努力など、お世辞にもして来たとは言えない私の人生において、"きっと変わるだろう"なんて大それた欲求は叶うはずもない。犯罪も犯してないし、親にも迷惑かけた事ないって、私は、まるで善い事をしてきたかの様に捉えていたけど、もしかしたら、それこそ中身のない空っぽな人生を象徴している様な気がして来てならない。
多少、犯罪に触れるくらいの方が、親に迷惑かけるくらいの生き方をした方が、よっぽど刺激的で感情豊かに毎日を過ごせたのかもしれない。そう思うと私は、今の人生に後悔しかない。結婚だってしたかったし、子供だって欲しかった。だったら、私は今の人生を、小川春菜としての人生をもう一度、生きるべきかもしれない…。

私は、決断した。

『あの!すいません!えんま様!私、決めました!』

ーーー。

『は、春菜!春菜!春菜ぁ!』

『先生!春菜が!』

『まさか、こんな事が!春菜さん!分かりますか!?春菜さん!?』

『お、お母さん。お、お父さん。私、今度は、ちゃんと生きるから。』

『春菜…。』

私は、医者も驚くほどのスピードで回復し、リハビリも順調に進んだ。私は、このリハビリ生活が正直、今までで一番の生き甲斐を感じていた。まず、立ち上がる事から始まり、毎日一歩ずつ歩を進める訓練が生まれ変わった私には、ピッタリのスタートラインだったのだ。

『春菜、あなた今まで生きて来た中で今が一番良い顔してるわね。』

お母さんからの核心を突くセリフに、私は胸を躍らせた。

『そうでしょう。だって今、凄い楽しいもん!』

『春菜…。』

そして、心境の変化は数奇な運命をも齎らした。

『小川春菜さんですよね?』

『え?は、はい。そうですけど…。』

その人は、私を確認するなり、いきなり土下座をし深々と頭を下げ始めた。

『僕は、あの時あなたを轢いてしまったバイクの運転手です!本当に申し訳ありませんでした!』

『え?え?』

そう言えば、そうだった。私は、バイクに轢かれて生死を彷徨っていたんだ。でも今となっては別に恨む所か、むしろ人生を好転させてくれた出来事だから、感謝しなきゃいけないのかも…。

『ああ、いや、もう大丈夫ですから。頭を上げて下さい。』

その人は、そう言われると徐に頭を上げた。そして、私は目を疑った。

『あれ?あなたは、えんま様の所の行列でお会いした方じゃ…。』

『え?ほ、本当だ!まさか、小川さんだったとは!すいません!私も一緒に生死を彷徨っていたもので、小川さんの顔は分かっていませんでした。』

『…んー、でもここに、こうしているっていう事は、あなたも現世を選んだって事ですよね?』

『はい。僕には小川さんを轢いてしまった事の償いがありますから。即決で現世を選びました。来世に逃げ出してる場合なんかじゃないと…。あ、あの、ホントに何でも言って下さい。小川さんの為に助けになる事は何でもしますんで!』

『…じゃあ先ず、あなたのお名前を教えて下さい。それと、私と結婚して下さい。』

『え!?』

『嫌ですか?』

『い、いえ!とんでもないです!沖田広樹、喜んで結婚します!』

運命は心の持ちようで、いくらでも変えられる。今の私には、そんな気がしてならない。これからは広樹さんと一緒に、これまでの蔑んだ二十九年を全力で取り返すわ!


ー一年後。ー

『おめでとうございます!立派な男の子ですよ!』

『ありがとう!春菜、良く頑張ったな!』

『広樹さん…。』

『それにしても、生まれつき、こんなハッキリとした泣きぼくろがある子は珍しいですね。』
 
                                    ー完ー
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