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第1章:等括地獄編

第六話:囚人騎士は神に嬲られ弄ばれる

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 奔流となって降り注ぐ不可視の礫は、空高く突き上げられた私が意識を明滅させている間に、不可逆的な破壊を地獄にもたらしていた。

 地獄の大地は100年の干ばつに苛まれたかのようにひび割れ、裂け目から煮えたぎる溶岩が血飛沫のように空へと吹き上がる。地獄に住む誰も経験したことのない大地震が地獄の地盤をゆさゆさと揺らす。土煙をあげながら山が崩れ去り、大波のように揺れ動く溶岩は、触れるものすべてを焼き尽くしていった。

 神が一度翼をはためかすと、山よりも大きな土塊達が雲海の上を漂った。雲を突き破った大地たちは、自分たちが今いる場所を認識しようとするが、そんなことを神が許すはずがない。神が視線を向けると同時に鉛筆の削り屑のように細かく破砕され、地獄の空を星のように流れていったのだった。

 押しつぶされそうな爆風に飲まれた剣樹たちは一度その幹を大きくしならせたと思うと、そのまま根元から叩き折れ、茜色の空へと躍り上がる岩盤たちと共にガラスの破片のように粉々になる。剣樹の破片は、神のつむじ風に導かれるままに地獄の生物たちの肉を薙ぎ、まだ見ぬ獲物を求めて地獄の果てへと旅立っていく。

 地獄に巣くう猛獣たちは、神の降臨という異常事態が発生すると同時に生存本能の赴くままに地平線の先へと逃避しようとしていたが、その翼が、足が地獄の地平線を踏みしめることは永遠になかった。彼らは私が一度瞬きをした時には、既に全身に穴を穿たれこと切れており、大地の爆発と同時に炭となって消し飛んていったたからである。

 神が何たるかをよく知る獄卒たちは、神が地獄の空を割って降臨すると同時に、武器を捨てて平伏し、恐怖にわななき、地面に頭をこすりつけながら、鮮烈な後光を発する神へ必死の祈りを捧げていた。胸が裂けるほどに叫び、命乞いをする彼らの醜態も、神の開眼と共に終わりを迎える。不可視の礫によって全身の肉を削ぎ落された彼らは、骨だけの姿で硬直し、地面が割れると同時に塵となって吹き飛ばされていったのだった。

 神が目を開けると同時に、神の背後で輝く光はいよいよその強さを増していく。太陽をも焦がす熱を帯びた神の光を浴びた地獄の大地は、見る見るうちに視界がふさがれるほどの水蒸気で覆いつくされ、不可視の礫を辛うじて防いだ猛者たちの肉を骨ごと焼いていった。

 地獄の大地を覆いつくした真っ白な水蒸気は、神の翼が生み出した幾百の竜巻の軌道を明瞭に映し出す。幾千の稲妻を轟かせ、地上を這う生物たちはおろか、土塊、溶岩すらも巻き上げる大竜巻たちは、大蛇のように大地を蠢き、地獄にさらなる破壊をもたらしていったのであった。

「あぁ……!! あぁああああ!!」

 すべては、私が絞り出すような悲鳴を口から吐き出す間に引き起こされていた。見知った等括地獄は既にここにはない。神が目を開け、翼を一度羽ばたかせただけで、100余年私を苦しめ続けたこの地獄は臨終の時を迎えようとしている。

「ひぃ!! いぃぃいいいい!!」

 上空遥か彼方で、山のように巨大な土塊と共にグルグルと回る私は、地面に深々と突き刺した肉断ち包丁の柄をあらん限りの力で握りしめ、何とかして振り払われないよう必死になっていた。

 恥も外聞も今の私にはなく、情けなく悲鳴をあげ、無様に泣きわめいて、己の痴態を思う存分に晒していった。地獄で生きた千秋の日々が、走馬灯のように頭の中を駆けまわり、地獄での死がもたらす恐怖を幾度も脳裏で反芻し、脂汗で全身を濡らしていく。

 全身全霊をかけて支える肉断ち包丁の刀身から断続的に響く音は、大粒の雹が屋根を叩いているかのようだ。不可視の礫を受け流す刀身からは無数の火花が散り、刃は見る見るうちに醜く刃こぼれしていった。

 柄を握り締めていた右手は既に、不可視の礫によって挽肉よりもひどい有様となっており、左手からはいつの間にか小指が失われていた。このままでは剣を握れなくなる、このままでは不可視の礫から身を守れなくなる。

 このままでは、このままでは……。

 剣を如何にして握り続けるかという矮小な考えに浸る暇も、神は与えてはくれなかった。巨大すぎて全体像が捉えきれない殺気を感じたと思うと、剣を突き刺していた大地がカッと煌めき、耳をつんざくような轟音を立てて砕け散る。金槌で叩き割られた氷のように幾万の破片となった土塊達は、私の右腕をもぎ取り、そのまま地平線の先まで飛んでいった。




 私は、身一つで大空に放り出されたのだ。




「ひぃいいいあああああああ!!」

 重力が私の体を掴んだ時、右腕を失った痛みなど吹き飛んだ。猛烈な風を全身に浴び、顔を醜く歪ませながら、私は竜巻が吹き荒れ、溶岩に沈んだ地獄の大地へと真っ逆さまに落ちていく。




 どうする!? 




 どうすればよい!! 




 頭の中でこの言葉がグルグルと回り続ける。焦りは呼吸すらも忘れさせ、頭は霞がかったかのように真っ白になっていき、剣の裏に隠れていない自分の体が、未だに不可視の礫に貫かれていない事実に気づけない。




 このままでは死! 




 避けがたい死がやってくる! 




 心臓がバクバクと警告を鳴らし、血走った目は首にかけられた死神の大鎌を幻視した。

 そんな中で、私は神の姿を目にした。雲海に紛れ、小さい点のようであった神の姿は、秒針が時計の盤面を回る中で見る見るうちに大きく底知れない物になっていく。

 地獄を破壊し、言葉に表しきれない苦痛を地獄の罪人たちにもたらしたというのに、神は何の呵責にも苛まれることなく空を飛び続け、その口元は相も変わらず微笑を蓄えている。

 神は眼前の光景に満足しているかのようだ。神の周りを取り巻く天使たちは、神の心情の変化を鋭く悟ったのか、先程まで中断してした讃美歌を再び奏で始めていく。

 既に、神と取り巻きの天使たちは、当然の如く与えられた勝利の美酒に酔っていたのである。




 その姿は、私の逆鱗に触れた。

 傲慢という言葉すらも生ぬるいこの邪神に、何が何でも剣を突き立てたい。

 否、突き立てねば気が済まない。

 理不尽という言葉をこれでもかと叩き込んできたこの醜悪な化け物を「美しい」と一度でも思ってしまった自分が不甲斐ない。己の首に幾度短剣を突き立てようと、この屈辱からは逃れられないだろう。この恥をそそぐ術は、地獄にふんぞり返る神に勝つ以外にない。




 だが、どうする!? どうすればこの化け物に勝てる!?




 ふつふつと沸き起こる怒りが、総毛だつような恐怖心を拭い去ったその時、靄がかかった頭が急速に回転を始め、虚飾のない現状を捉えていく。




 不可視の礫が私を貫いていない。すなわち、神の視界に私が入っていない。




 この事実に気づいた時、私は初めて神の命に届く勝ち筋を見出した。




 そして、その瞬間、久しく忘れていた「地獄の理」を思い出し、私は弾けるように笑ったのだった。



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