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第2章:頞部陀地獄編

第十話:囚人騎士は地獄の底で夢を見た

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 歴史が炎に炙られる音が、私の耳を満たしていた。幾百年の栄光を享受した王城は、貪欲に薪を求める炎に飲まれ、幾万の人々を道ずれに3文の価値もない炭へとその姿を変えられていく。

 あらゆるものを腹の中に飲み込んだ炎は、より大きく、禍々しく燃え広がり、青白い炎で王城を包み込んでいく。王城から、悲鳴は最早聞こえてこない。殆ど皆、焼かれてしまったからだ。

 不滅、不変と思われた王城の景色は、いざ蓋を開けてみると想像以上に脆いものだった。

 炎に焼かれ、自重に耐えられなくなった構造物が耳を聾する音を立てて崩れ落ちる。

 熱に浮かれ、荒れ狂う空気の乱流に、王城の壁を彩るステンドグラスは耐えられず、次々と割れていく。

 深紅の生地に、金糸で彫られた王家の紋章は、炎に巻かれバタバタとはためき、灰へと変わり果てていった。

 私は、そんな中で、一切の迷いなく足を進めていく。カツン、カツンと私の足が石床を叩き、右手に握られた身の丈を超す大剣は、その刀身で石畳をガリ、ガリと削っていく。刀身は幾百人の血肉で汚れ、刃先からは赤く濁った血が床へと滴り、一本の線を描いていた。

 感情の高ぶりは感じられない。私の体は規則正しく、淡々と足を前へと運んでいる。

 血の涙が頬を伝い、鉄を噛み切れるほどに歯を食いしばっているというのに、私の内心は不思議と穏やかだった。

 己の間合いに、彼女を収めるまで、私の足が止まることはない。点々と続く血痕を頼りに、私は迷宮のように広い、燃え盛る王城の中を進んでいく。

「……」

 私は、血の海に倒れる一人の女性を前にして、その足取りを止めた。私は、生糸で織られたドレスを纏い、右手でかろうじて上半身を支えている彼女の姿を、まじまじと見つめる。

 自分自身の体から流れ出た血と、灰で汚れたドレスをくしゃくしゃに乱し、剣に貫かれた右肩を抑え、ぜぇぜぇと荒く息をする彼女の、苦痛に歪んだ眼を前にして、私は剣を両手で握り、振り上げる。

 全身を覆う板金鎧が、「ガチャン」と鳴り響き、剣の切っ先がこれから描く円弧の内側に彼女の首がおさめられた。

「……」

 私が振り上げた剣の切っ先を目で追っていた彼女は、数秒先の未来を悟ったようである。

 ため息をつくかのように視線を下げた彼女は、目をつむり、唇をわなわなと震わせる。全身を小刻みに震わせ、顔を青ざめさせた彼女は、不意に頭を二度横に振った。
 
 肩まで伸びる黒い髪が彼女の行動に合わせて揺れ動き、目じりから溢れる涙は、炭粉に汚れた彼女の頬に、一筋の跡を残していく。

 やがて、彼女は恐怖を押し殺し、顔を強張らせ、バッと私へとその視線を向けた。両手を横一杯に広げ、キッと刺すような眼差しで私を睨みつける。

 痛みと恐怖で大げさなほどに大きくなった呼吸は、彼女の胸を激しく上下させ、石畳に広がる血の海に、幾十もの波紋を生み出していた。



 
これは……記憶か?





彼女は……だれだ……?




「……」

 目の前に鮮明に映し出されていた炎に巻かれる王城の景色が、嘘のようにかき消された。

 私の目は今、ほんの僅かな輪郭すらも捉えられない、白の世界を映し出している。

 目の前に広がる情景の、あまりにも大きな変化に私は最初、目をしばたたかせたが、その直後に全身を突き刺した、言葉に出来ない程に激しい痛みによって、私はようやく「自分が今地獄にいる」ことを思い出した。

 そして、それと同時に、体面を保てなくなるほどの恐怖心も私に襲いかかってきた。

「はあっ! ……あぁぁ!! はぁあっ!! ……あぁ……」

 鮮明に浮かび上がる、孤独の記憶。

 己自身の肉体が牢獄となって、魂を永遠にとらえ続ける、あのどうしようもない閉塞感。

 体中からぶわっと汗があふれ出した私は、体を流れる血液が氷点下を下回ったかのような寒気を前に、思わず両腕を組んで、ガタガタと体を震わせる。

 二の腕に突き立てられた指は血を噴き上げながら肉へとめり込んでいき、歯はガチガチと小刻みに鳴り、目じりが裂けそうな程に目はまん丸に見開かれた。

「ひぃっ! ひぃい!」

 恐怖。逃れようのない恐怖。

 私の意識は、悪霊のように憑りついたこの感情から逃れること以外に考えられない。

 両手が妙にさみしい。それは私の大剣が……等括地獄で常に私の傍らにあったあの肉断ち包丁が握られていないからだ。

 私は矮小で虚弱な小鬼のように素早く周囲を見渡し、最愛の獲物がないかを必死になって探し続ける。

 視界に私の大剣が映らないことは、これほどまでに寂しいものだったのか。

 むき出しになった岩肌に立てかけられていた剣を見つけるや否や、猿のように飛び上がり、ひったくるようにして大剣の柄を握った私は、獣のような喘ぎ声をあげて刀身に頬ずりしながら、そのことを実感していた。

「……ん……? まてよ?」

 自分が今置かれている状況と自分自身の行動に違和感を覚えたのは、漸くこの時になってからだった。

「ぷっ……。ちょっと、なに? 何やってるの?」




 自分の目と鼻の先に、人がいることに気づいたのも、ようやくこの時になってからのことであった。



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