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第2章:頞部陀地獄編

第十三話:囚人騎士は女武者の下僕となる

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 植生一つない、天に届かんばかりに大きな岩を背にして、一枚の結界が張られている。結界の外では、相も変わらず耳を聾するような音を立てて吹雪が吹き荒れていた。
 
 雪の塊は空で踊り狂い、目につくもの全てを白で覆い隠していく。雪に支配されたこの白い世界では、選ばれた者にならない限り、音ですらも吹雪からは逃げられない。
 
 私が今、この世界で動くことが出来る理由は二つ。
 
 地獄を行脚し、罪人に救いを授ける即身仏の結界内にいることと……女武者の下僕になったからに他ならない。
 
「なぁ、下僕。あたしが何で手前の不忠を赦してやったかわかるか?」
 
 秒針が刻む一秒一秒が、私の神経を逆なでる。慣れない土下座は、私の心と体を痛めつけ、目頭から吹き出る血の涙が私の頬を赤く濡らしていた。
 
 この極寒の地獄で氷漬けとなる未来を避ける……そのためにこの女に頭を垂れなければならない。この屈辱は、筆舌に尽くしがたいものがあった。私の肉体が、屈辱に堪えきれずにむせび泣いている。
 
 眼前でふんぞり返る女のおかげで、寒さだけは感じなくなっていたが、体の震えが収まる事はなかった。
 
「おぃ。何か喋れよ? 何のために動けるようにしてやったと思っている?」
 
 額に地面を付ける私の頭上を、彼女の足が踏んづける。ガンッという音と共にじんわりとした衝撃が私の脳髄を回り、口からは血反吐が吐き出される。
 
 踵でぐりぐりと私の頭を嬲るその行動に、生産的な理由は何もない。強いて言うならば、私に心を乱されたことへの憂さ晴らしがしたいのだろう。
 
「へ……へへ……わかり……ませんねぇ……どうか……おしえて……いただけませんか……?」
 
 ほんの短い言葉であっても、それを喉から絞り出すために、私は多大な努力をそそがなければならなかった。ふと気を抜いてしまうと、私の顔は悪魔すらたじろぐほどの形相となってしまう。
 
 にへらにへらと作り笑いを浮かべ、上目遣いで相手を見上げる私は、その実、指先が手の甲を貫いてしまう程に強く両手を握り締めており、笑顔の仮面の下では赤く赤熱する怒りが溶岩のように渦巻いていた。
 
 あえて、あえて私は小物を演じ続けている。心の底までこの女に屈したということは断じてない。深謀遠慮たる私は今、諸般の事情を鑑み、あえてプライドをかなぐり捨て、媚びへつらう小男を演じ続けているだけなのである。
 
 これは今の苦境を脱するための致し方ない、戦略的な行動であり、私という人間の品位がこの行動によって損なわれることは断じてない。
 
 寄せては返す大波のような怒りを前に、我を忘れそうになるたびに、私は幾度も己自身にそう言い聞かせた。
 
「はっ! まぁ、元から期待なんてしていないよ。自分の立場も解らずあたしに喧嘩を挑んで、無様にっ! 土下座するようなっ! あんたにっ! 私の考えがわかるはずっ! ないものなぁ!?」
 
 女は勝ち誇り、口角を目じりの横まで釣り上げて、私の頭を幾度も幾度もガンッ! ガンッ! と蹴りつける。「自分が上である」ことを教え込もうとする女は、その薄汚い口から言葉を紡ぐたびに、暴力がもたらす甘美な興奮に酩酊していく。
 
 二度、三度と私を蹴りつける中で、彼女の足にはどんどんと力が込められていき、彼女が言い終わる頃になると、私は土下座の姿勢を保つことができずに蹴り飛ばされていた。

 地面に肉体をこすりつけながら転がる私は、即身仏に体をぶつけることで、漸く立ち止まる。
 
 ミイラのように体を萎ませ、骨と皮ばかりの肉体となった即身仏は、私とぶつかった衝撃で、ブルリとその体を一瞬震わせる。水気が飛んで萎んだその唇から、ほんの数刻、念仏が途切れたが、数泊の呼吸を置いたのちに、再びその口は歌のような抑揚を持つ念仏を唱え始めるのであった。
 
「へ……へへ……へへぇ……」
 
 頭に血が上って、私の顔は真っ赤に染まっていたことだろう。頭の血管という血管がブチブチと千切れて、血がダクダクとあふれ出ていたことだろう。
 
 鬼すらたじろぐような罵声が喉奥にまでせり上がり、ブルブルと震える唇は、呪詛の言葉を吐きたいと強く私に訴えかけてくる。
 
 屈辱と己の無様に対する怒りで歪んだ私の視線は、上下関係を刻み込んだことに満足した女の血走った目と紅潮した頬、そして獣のように鋭い牙で彩られた、三日月のように笑う女の口元を映し出していた。
 
 しかし、私は猫のように背を曲げ、プルプルと体を震わせ、上目遣いで煮え切らぬ言葉を漏らすだけに留めていた。復讐の誓いを幾度繰り返そうと、この世界で体を動かせなければ意味がない。この女なしでは、私はあの氷の牢獄に永遠に囚われることになる。
 
 私の冷静極まりない理性が、そう囁きかけてくれたおかげで、私はこの恥辱にまみれた仕草をすることが出来ていた。
 
 今は、時機ではないのである。時機が来るまで、私は待つべきなのである。
 
「あたしはなぁ……神を殺したいんだ。この地獄でふんぞり返って、あたしたちを塵芥みたいに嬲る、あの憎たらしい神の顔面に鉄砲を撃ち込まないと、気が済まないんだよ」
 
 ひとしきり暴れ切った女は、肩で息する自身の体を落ち着かせた後、背後にあった岩へとドカリと座り込み、とうとうと話し始める。
 
 上下関係を完全に刻み込んだ、私の演技を見破る知能も持たない、マウンティングを取る事だけで満足してしまったこの女は、「私が屈服した」と物の見事に信じ込んでしまっている。
 
 なんと愚か、なんと滑稽なことよ。私の演技もはかどるというものだ。
 
「冬神『マルヌ・マチルダ』……このいけ好かない殺風景な地獄を統べる、神の名だよ。素直に天界に帰ればいいものを、罪人をいたぶりたいがために何百年とこの地獄に住み着いた……そんなロクデナシだよ」
 
 女は上機嫌であった。酒に酔ったかのように興奮している彼女は、この後、堰を切ったかのようにこの神に関する情報をしゃべり続けた。
 
 曰く、この神は冬を支配すると。
 
 曰く、この神は一振りで万物を切り裂く神剣を持ち歩いていると。
 
 曰く、この神は戦神「トール・パレイド」に勝るとも劣らぬ剣技を持つと。
 
 曰く、この神は氷の宮殿に居を構え、この地獄から抜け出すために戦いを挑む罪人たちと剣を交え、彼らをいたぶり、蹂躙している……と。
 
「下僕ぅ……。あたしがお前の不忠を寛大な心で赦してやったのはなぁ……神殺しの頭数にお前を加えたいからなんだよ。……喜べよぉ。あたしは、その神殺しに、お前を参加させてやるんだ。この地獄から抜け出す権利を、くれてやろうっていうんだ」
 
「へへぇ……それはそれは……ありがたい話で……」
 
 この地獄から抜け出せる……それは、今の私にとっては何よりも有難い言葉であった。私は両手でゴマをすり、得意げに語る女の機嫌を取りながら、希望に胸を躍らせていた。
 
 そして同時に、この女の思慮の浅さを前に、私は笑いを必死になって我慢していたのであった。
 
 私が今、恥を忍んでこの女の下僕となっているのは、この氷と雪にまみれた地獄にいるからに他ならない。
 
 その冬神とやらを倒し……他の地獄に飛ばされるのであれば、私がこの女の下僕となる理由は何一つとしてなくなるのである。
 
 この女は、どうもそのことに気づいていないようである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 別の地獄に飛ぶことが出来たのなら、次はどうしようか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ……この女を肉塊にするだけでは、全く足りない……。
 
 私を虚仮にしてきた罪過……それがいったい、どれ程までに重いものであるのか、この女に強く教育しなければならない……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 あぁ……楽しみだ……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 グツグツと沸き立つ復讐心に心を躍らせながら、私はこの女の提案を、受け入れることにしたのであった。
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